温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2021年03月04日

温泉考座 (71) 「半地下構造の浴場」


 大正11年(1922)年10月、歌人の若山牧水は、老神温泉 (沼田市) から金精峠を越えて日光へ向かう途中で、白根温泉 (片品村) に投宿しています。
 この晩のことを著書 『みなかみ紀行』 (大正13年) の中で、こう記しています。

 <湧き溢れた湯槽(ゆぶね)には壁の破れから射す月の光が落ちていた。湯から出て、真赤な炭火の山盛りになった囲炉裏端に坐りながら、何はともあれ、酒を注文した。>

 ところが宿に酒はなく、牧水は12歳と8歳の宿の子ども (兄妹) を遠くの店まで買いに走らせます。
 その後、天候は一変して雨となり、ずぶ濡れになった兄妹が大きな酒ビンを持って帰ってきます。
 生涯、旅と酒をこよなく愛した牧水ならではの、なんとも我がままなエピソードであります。


 当時、数軒あったという宿屋は、今はもうありません。
 昭和5年(1930)年創業の 「加羅倉館(からくらかん)」 ただ一軒が、湯を守り継いでいます。
 不思議な言葉の響きを持つ宿名ですが、栃木県境にある日光白根山の加羅倉尾根に由来するとのこと。
 渓流と国道をはさんで建つ別館には、昭和27(1952)年に皇太子時代の天皇陛下が御来遊した際に泊まられた部屋が、今もそのまま残されています。

 別館の並びに半分地下に埋まった一風変わった建物があります。
 これが浴場です。
 管理人によれば、半地下構造になっているのは 「かつて宿のオーナーが所有していた競走馬の温泉治療場に使っていた頃の名残」 とのことですが、理由は、それだけではありません。


 浴槽は約8畳分もあり、熱めの湯が惜しみなく、かけ流されています。
 しかし源泉が注ぎ込む湯口は、天窓の下に突き出た筒から勢いよく落下する打たせ湯のようなものしかありません。
 そして、その位置は、ちょうど源泉が湧出するあたり。
 自噴する源泉を一切の動力を使わずに、高低差だけを利用して浴槽に流し入れているのでした。

 毎分約600リットル、約60度という湯量豊富で高温の温泉が湧く宿だから可能な、自然の理にかなった浴場です。


 <2014年11月26日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:59Comments(0)温泉考座

2021年02月24日

温泉考座 (70) 「江戸より伝わる洗眼処」


 このカテゴリーでは、ブログ開設10周年 (2020年2月) を記念した特別企画として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
 (一部、加筆訂正をしています)


 霧島温泉 (鹿児島県)、姥子温泉 (神奈川県)、浅間温泉 (長野県)、貝掛温泉 (新潟県) など、全国には眼病に効くといわれる温泉があります。
 泉質は、それぞれ異なりますが、殺菌作用のあるホウ酸やミョウバンが含まれている場合が多いようです。

 群馬県内では浅間隠(あさまかくし)温泉郷の温川(ぬるがわ)温泉 (東吾妻町) が、昔から 「目の湯」 といわれ湯治場として親しまれてきました。
 湯の歴史は古く、江戸中期、安永 (1772~1781) の頃に発見されたと伝わります。


 ある時、村人が家路を急ごうと近道をした草むらで、偶然に湯だまりにカエルの群れを見つけたのが最初といわれています。
 囲炉裏や炊事の煙に悩まされていた村の女たちが、この湯で丹念に目を洗ったところ、たちまち治り、村から村へとその効能が伝わり、「目の湯」 と呼ばれるようになったといいます。

 明治23(1890)年、浅間隠山の大洪水によって一瞬にして埋没してしまいましたが、73年後の昭和38(1963)年に再掘され、幻の薬湯がよみがえりました。


 泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉。
 1㎏中のメタホウ酸の含有量が78.4㎎と多いのが特徴です。
 ホウ酸は目薬の成分としても知られ、結膜炎やトラホームなど感染症が多かった時代は、洗眼薬としても治療に用いられていました。

 宿から露天風呂へ向かう温川沿いに、源泉を引いた 「洗眼処」 があります。
 医学が進み、抗生物質などの治療薬が普及した現代でも、洗眼のために湯をペットボトルにくんで持ち帰る客が後を絶ちません。


 湯は、ややぬるめで、しばらく浸かっていると、体中に小さな泡の粒が付き出します。
 昔から “病を教える湯” といわれ、体の悪い所には泡が付かないといいます。
 また泡の出る温泉は、骨の髄まで温まるといわれ、湯冷めをしない温泉としても珍重されてきました。

 ※現在、一軒宿は廃業し、露天風呂も閉鎖されています。


 <2014年11月19日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:31Comments(0)温泉考座

2021年02月18日

温泉考座 (69) 「美人の湯めぐり」


 以前、「日本三美人湯」 と呼ばれる温泉があることを書きました。
 ※(2020年8月6日、温泉考座16 「4つある三美人湯」 参照)

 龍神温泉 (和歌山県)、湯の川温泉 (島根県)、そして群馬県の川中温泉 (東吾妻町) です。
 3つの温泉の泉質は異なりますが、共通する美肌作用の条件は、弱アルカリ性でナトリウムイオン、カルシウムイオンを含んでいること。
 とりわけ川中温泉はカルシウムイオンが多く、湯上りはベビーパウダーを塗ったようなスベスベ感があると評判です。


 これとは別に 「三大美人温泉」 といわれる泉質の湯があります。
 古い角質をやわらかくする炭酸水素塩泉、高い保湿効果を持つ硫酸塩泉、紫外線から肌を守る作用のある硫黄泉です。
 また水素イオン濃度 (pH) の高いアルカリ性単純温泉は、トロンとしたローションのような浴感があることから 「美人の湯」 と呼ばれ、女性に人気の温泉です。

 ちなみにpH6以上7.5未満を中性泉、それ未満を酸性泉。
 7.5以上8.5未満を弱アルカリ性泉、それ以上をアルカリ性泉といいます。


 群馬県北部、利根川上流に位置するみなかみ町には、なぜか、このアルカリ性泉単純温泉が多く点在しています。
 上の原(うえのはら)温泉はpH9.1という強アルカリ性で、湯上りの肌がツルツル、スベスベになることから 「美肌の湯」 とも 「ツルスベの湯」 とも呼ばれています。

 向山(むこうやま)温泉はpH9.2、保湿効果があり、肌にうるおいを与えることから 「若返りの湯」。
 真沢(さなざわ)温泉は驚異のpH9.6を誇り、化粧品の成分として使用されているメタけい酸を多く含んでいるため、地元では 「美人の湯」 の愛称で親しまれています。

 また 「三大美人温泉」 の1つ、硫酸塩泉が湧く上牧(かみもく)温泉も昔から 「化粧の湯」 と呼ばれてきました。


 みなかみ町に限らず、県内には 「仕上げ湯」 や 「なおし湯」 といわれてきた、肌にやさしい、やわらかい泉質の温泉がたくさんあります。
 寒さが増し、ますます温泉が恋しくなる季節です。
 美肌効果を求めて、“美人の湯めぐり” を楽しんでみてはいかがですか。


 <2014年11月12日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 17:22Comments(0)温泉考座

2021年02月13日

温泉考座 (68) 「医王仏が見守る薬湯」


 何百年と歴史のある古い温泉には、必ず 「お薬師さま」 が祀られています。

 観音山丘陵の山里に約300年前から湧き続けている坂口温泉 (高崎市) も、そんな西上州を代表する薬湯の一つ。
 重曹を含む弱アルカリ性の食塩泉は、特に皮膚病に効くといわれ、今もなお、遠方より多くの湯治客が訪れています。

 一軒宿の 「小三荘(こさんそう)」 は、昭和25(1950)年創業。
 しかし、戦前から湯屋があり、4代目主人、山崎孝さんの伯父が立ち寄り湯として営業していました。
 東京で暮らしていた山崎さん一家は、空襲で焼け出され、父親の実家がある旧吉井町にもどり、戦後になって湯守(ゆもり)の仕事を継ぎました。


 「終戦直後の娯楽のない時代のこと。私はまだ小さかったのですが、来る日も来る日も入浴客でにぎわっていたことを覚えています。あせもやオムツかぶれを治しに、赤ちゃんを抱えた女性が多くやって来ていました」

 古くは 「たまご湯」、明治時代は 「塩ノ入鉱泉」 と呼ばれていました。
 塩気があり、玉子の白身のようにトロンと肌にまとわりつくことから、そう名付けられたようです。
 その浴感は、まるでローションを体に塗っているようなツルツル感があり、かすかに硫黄の香りもします。


 浴室から見える裏庭に、いくつもの小さな石仏が並んでいます。
 その数、30体あまり。
 これは開湯以来 「薬師の湯」 として、人々の病を癒やしてきた祈願と感謝の名残だといいます。
 地元では親しみを込めて 「お薬師さま」 と呼ばれていますが、別名 「医王仏」 とも言われる祈願仏です。

 現代のように医学が発達していなかった時代のこと。
 先人たちにとって 「薬師の湯」 は、願いをかなえてくれる、よりどころだったに違いありません。
 病気やケガを治してもらったお礼に奉納された小さな石仏群は、代々の湯守たちによって、大切に守られてきました。

 石仏群の中には、真新しいものが何体か見られます。
 平成の世になっても奉納する人がいるようです。

 ※(「小三荘」 は2015年に閉館しました)


 <2014年11月5日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:01Comments(0)温泉考座

2021年02月08日

温泉考座 (67) 「にごり湯いろいろ」


 成分の濃い 「にごり湯」 は、それ自体が全国でも約10%しかなく希少ですが、色や匂い、味、肌触りなど五感で楽しめるところが人気の秘密のようです。
 温泉をにごらせる成分は様々で、代表的なものに硫黄分、鉄分、モール質があります。

 温泉に含まれる主な硫黄分、硫化水素イオンと遊離硫化水素のうち、遊離硫化水素が乳白色に色づくといわれています。
 湧出時は無色透明で、空気に触れて酸化すると硫黄の微粒子ができ、にごり出します。
 群馬県内では草津温泉 (草津町) や万座温泉 (嬬恋村) が有名ですが、みなかみ町の高原千葉村温泉も乳白色ににごる硫黄泉としてマニアに知られています。
 ただ、草津や万座の湯が酸性なのに対し、高原千葉村の湯はアルカリ性で、硫化水素イオンを含むため、季節や天候、光の加減によっては緑色に見えることもあります。

 鉄分を含む温泉は濃度が低いと緑色、高いと黄土色や茶褐色、さらに高濃度になると赤褐色になります。
 県内では伊香保温泉 (渋川市) や赤城温泉 (前橋市)、梨木温泉 (桐生市) などが代表的ですが、私の記憶の限りでは相間川温泉 (高崎市) の湯が一番濃いレンガ色でした。
 また相間川の湯は高濃度の塩分を含むため、湯舟で体が不安定に浮き上がり、難儀をするほどでした。

 3つ目のモール質は県内では見かけない温泉です。
 他のにごり湯は湧出後に色づきますが、モール質の温泉は地層の中の腐植質が温泉水に混ざった状態で湧出します。
 ですから湯口から注がれる時、すでに色が付いています。
 ほうじ茶色、紅茶色、コーヒー色、真っ黒と色は様々です。

 モール質ではありませんが、県内には黒く湯がにごる温泉があります。
 応徳温泉 (中之条町) や奥嬬恋温泉 (嬬恋村) の湯は、煤(すす)のような湯の花が沈殿します。
 この湯の花が入浴すると舞い上がり、湯が墨のように黒くにごることがあります。


 モール質などの例外を除き、湧き立ての新鮮な温泉は無色透明です。
 にごり湯とは、湯が空気に触れて酸化したために起こる劣化現象です。
 新鮮なのが一番ですが、湯の色や匂いを楽しむのも温泉の魅力といえます。


 <2014年10月29日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 16:51Comments(0)温泉考座

2021年02月03日

温泉考座 (66) 「災い封じる天狗面」


 沢渡温泉 (中之条町) は、建久2(1191)年に開湯したとされ、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、浅間山麓でイノシシ狩りをした際に発見したという言い伝えがあります。

 「一浴玉の肌」 と呼ばれるアルカリ性のやさしい湯が、酸性度の強い草津のゆただれを癒やす 「なおし湯」 として、明治時代までは草津帰りの浴客でにぎわっていました。
 しかし、昭和10(1935)年に水害による山津波が襲い、同20年には山火事から温泉街が全焼するという度重なる災厄に見舞われ、壊滅的な打撃を受けました。


 「昔から地元には守り神として天狗の面が祀られていたのですが、子どもがいたずらをして天狗の鼻を折ってしまったらしいんです。だから2度も災いが起きたのではないかと、父は裏山に天狗堂を建てて、また平穏に暮らせるようにと願いを込めて、新たな天狗面を奉納しました」。
 そう言って、老舗旅館 「龍鳴館」 の3代目女将、隅谷映子さんが、お堂へと案内してくれました。

 隅谷さんの父、都筑重雄さん (故人) は、海軍の航空母艦の乗組員でした。
 終戦後は町工場に勤めていたそうですが、ある日、「お天狗様」 と呼ばれる地元の占い師から、「北北西の沢渡へ行け」 と告げられ、昭和24(1949)年に親戚が営んでいた龍鳴館の2代目を継いだといいます。
 前身は 「正永(しょうえい)館」 といい、大正時代に歌人の若山牧水が立ち寄っています。


 山道を登ること約5分。
 温泉街を見下ろす高台に、小さなお堂が建っていました。
 昭和56(1981)年に建立して以来、毎年、大火があった4月16日に僧侶を招いて、お天狗様の祭りを行っています。

 「温泉と天狗堂を守ることが、私が父から受け継いだ湯守(ゆもり)の仕事です」。
 女将は、お堂の中から木彫りの面を取り出しました。
 ところが、その天狗の鼻は、途中から白く変色していました。

 不思議なことに、いつからか古い面の折れた鼻と同じ所から、色が変わってしまったとのことです。


 <2014年10月22日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:41Comments(0)温泉考座

2021年01月30日

温泉考座 (65) 「“塩” の字が付く温泉」


 八塩(やしお)温泉 (藤岡市)、塩ノ沢温泉 (上野村) など、群馬県内には 「塩」 の字が付く温泉地名が、いくつかあります。
 また、現在の温泉地名には塩の字が付いていなくても、かつて小野上温泉 (渋川市) は塩川鉱泉、坂口温泉 (高崎市) は塩ノ入鉱泉、磯部温泉 (安中市) は塩ノ窪鉱泉と呼ばれていました。
 これらの温泉に共通していることは、文字通り塩分を多く含んだ塩辛い温泉であることです。

 塩分を含んでいる温泉は、殺菌力があり、昔から切り傷や皮膚病に効果があるといわれています。
 また皮膚に付着した塩分が毛穴をふさぎ、入浴後も汗の蒸発を防いでくれるため、湯冷めしにくいのが特徴です。
 保温効果があることから別名 「熱の湯」 とも呼ばれています。


 なかでも八塩温泉は、物資不足の戦時中に源泉から食塩を精製していたほどの高濃度の塩化物泉です。

 天然記念物の三波石(さんばせき) を産出することで知られる神流(かんな)川の支流、南沢の渓谷沿いには古くから八つの塩泉が湧いていたことから 「塩の湯口八ツ所」 と呼ばれ、これが八塩の地名の由来だといわれています。
 現在は5つの源泉が川沿いに湧き、3軒の温泉宿があります。
 どの宿も浴室には三波石がふんだんに使われていて、野趣あふれる豪快な入浴が楽しめます。


 明治18(1885)年創業の老舗旅館 「八塩館」 に残る古文書には、<本泉は食塩、亜爾加里(あるかり)性ラジウム炭酸泉なり。固形薬分の多きこと全國無比の鑛泉なり> と記されています。
 温泉の成分がチェコのカルルスバード温泉に似ているといわれ、昔から調査研究がされてきた名湯です。

 源泉は約14~15度の冷鉱泉。
 200万年以上前の新生代第三紀に地中に閉じ込められた海水が、現在も自噴しているといわれています。
 塩分が濃いため最初はピリピリ、チクチクと肌を刺すような刺激がありますが、やがて全身がカーッと熱くほてり出すのが分かります。

 旅館によっては加温していない源泉風呂があり、温浴と冷浴を交互に繰り返す昔ながらの入浴法を体験することができます。


 <2014年10月15日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 17:35Comments(0)温泉考座

2021年01月26日

温泉考座 (64) 「熱くてもクールな浴感」


 川全体が野天風呂になっていることで有名な尻焼(しりやき)温泉 (中之条町)。
 源泉の噴き出し口が長笹沢川の川床にあり、人が入れるだけの穴を掘り、裸になって座ると尻が焼けるように熱くなることから 「尻焼」 の名が付いたといわれています。
 昔から痔(ぢ)の治療に効果があるとされてきました。

 かつては 「尻焼」 の文字を嫌って、温泉名を 「尻明(しりあけ)」 「白砂(しらす)」 「新花敷(しんはなしき)」 などと呼んだ時代もありました。


 この温泉の発見は古く、嘉永7(1854)年の古地図に温泉地として記されています。
 村人たちが利用していたようですが、旅館が建ったのは昭和になってからのこと。
 下流にある花敷温泉の旅館が、別館を建てて開業したのが始まりでした。

 花敷温泉が古くから開けていたのに比べ、尻焼温泉の開発が遅れた理由は、道が急峻だったことと、温泉周辺におびただしい数のヘビが生息していて、人々を寄せ付けなかったからだといわれています。


 現在、3軒の温泉宿があり、すべて異なる源泉を使用しています。
 その中で唯一、自家源泉を所有する 「ホテル光山荘」 の湯は、不思議な浴感があることで知られています。

 泉温は約54度。
 加水をしていないので、浴槽の湯は、かなり熱めです。
 すぐに体を沈めることはできません。
 そこで役に立つのが、浴室に備えてある大きな 「湯かき棒」 です。
 これでジャバジャバと豪快に湯をもんでやります。
 すると今度は抵抗なく、スーッと体が湯の中へ入って行くのです。

 もちろん、それでも熱いのですが、不思議とクールな浴感であることに気づきます。
 まるでミントの入浴剤を入れた湯の中に入っているような清涼感があるのです。

 その感覚は、湯から上がってからも変わりません。
 あれほど熱い湯に入ったにもかかわらず、体がほてることなく、まったく汗が噴き出しません。
 なんとも涼しい湯です。


 私が訪ねたのは真夏でしたが、その晩は爽快な気分で床に就きました。


 <2014年10月1日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:24Comments(0)温泉考座

2021年01月23日

温泉考座 (63) 「鎮魂の湯舟」


 群馬県沼田市とみなかみ町の境にある三峰山(みつみねやま)の中腹。
 関越自動車道をまたぎ、宿と向かい合う丘に、高さ約20メートルの白い塔が立っています。
 月夜野(つきよの)温泉の一軒宿 「みねの湯 つきよの館」 の女将、都筑理恵子さんの父、理(おさむ)さんが平成元(1089)年に、異国の地に果てた戦友をしのんで建立した 「鎮魂之碑」 です。


 旧オランダ領東インド (現インドネシア) のジャワ島で軍務についていた理さんは、終戦直後、旧日本軍の残留兵とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐって衝突した 「スマラン事件」 によって、多くの戦友を失いました。

 「父は 『これは生き残った者の使命だ』 と言っていました。その父も5年前、86歳で戦友たちの元へ旅立ちました」
 と女将は、塔を見上げながら話してくれました。

 「鎮魂之碑」 建立の翌年、理さんは遠方から供養に訪れる遺族や関係者のためにと温泉を掘削し、旅館の営業を始めました。
 生前、著書 『嗚呼スマランの灯は消えて』(広報社) の中で、<慰霊の園にふさわしい、自然の地形を生かした場所> と記しています。


 ここは全国でも美しい地名で知られる 「月夜野」。
 平安の昔、京の歌人、源順(みなもとのしたごう)が東国巡礼の途中に通り、三峰山から昇る月を見て 「よき月よのかな」 と深く感銘し、歌を詠んだことが地名の由来と伝わります。

 その月夜野盆地を見渡す湯舟からは、左手に子持山から続く峰々を望み、正面に大峰山、吾妻耶山(あづまやさん)といった群馬の名峰が連なり、眼下には棚田が広がり、こんもりとした鎮守の森が、のどかな山里の風景を描いています。


 極めつきは夕景の妙!

 稜線をシルエットにして、鮮やかな緋色に燃え上がる夕焼けは、息をのむほどに美しい。
 やがて、帳(とばり)が下りて、天空の主役が月に替わると、まさに温泉地名にふさわしい “月光の湯” を満喫することができます。


 なぜ、ここに鎮魂之碑を建てたのか?
 なぜ、ここに温泉宿を造ったのか?

 答えは、この絶景にありました。
 塔も宿も浴室も、すべて南方のジャワ島を向いて建てられています。


 <2014年9月17日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:59Comments(2)温泉考座

2021年01月20日

温泉考座 (62) 「銭湯なのに温泉」


 平成26(2014)年6月、「富岡製糸場と絹産業遺産群」 が世界遺産に登録され、群馬県内の観光は活気づいています。
 大きな温泉地では県外からの誘客戦略として、富岡製糸場と温泉地をつなぐ観光バスの運行を始めたところもあります。
 群馬の温泉が全国に知られる絶好のチャンスです。
 これを機に、周辺の小さな温泉地や秘湯の一軒宿にも目を向けていただきたいと思います。


 ところで、富岡製糸場から一番近い温泉地 (宿泊施設のある温泉) は、どこかご存じですか?

 それは富岡市内にある 「大島鉱泉」 です。
 鏑川(かぶらがわ)の支流、野上川沿いの山里にひっそりたたずむ一軒宿で、煙突から立ちのぼるけむりが秘湯情緒をかもし出しています。
 地元では 「榊(さかき)の湯」 と呼ばれ親しまれています。


 大正初期のこと。
 村人たちが共同で井戸を掘ったところ、ゆで卵のようなにおいのする水が湧き出しました。
 温めて浴すると腫れ物が治り、飲めば胃腸病に効くといわれ、長い間、地元の人たちに利用されていました。

 戦後になり、先代が公衆浴場の許可を申請し、この井戸水を利用した銭湯を始めました。
 昭和42(1967)年に現主人が旅館を併設して、3代目を継ぎました。

 銭湯と旅館の玄関は分かれていますが、2棟は渡り廊下で続いています。
 浴室の入り口にはのれんが掛かり、番台こそないものの雰囲気は銭湯そのもの。
 総タイル張りの浴室には定番の富士山が描かれていて、桶もカランも町の銭湯と変わりありません。

 でも、ここが他の銭湯と違うのは、湯が天然温泉であること。
 県内で唯一、温泉を利用した銭湯として、全国から温泉ファンのみならず、銭湯マニアたちも訪れています。

 湯は無色透明ですが、ほんのりと硫黄 (硫化水素) の香りがします。
 アルカリ度を示す水素イオン濃度はpH9.2と高く、ツルッとした感触で肌にまとわりつきます。


 現在の温泉法では、25度未満の冷鉱泉でも含有成分を満たしていれば “温泉” と表記できます。
 なのに、あえて “鉱泉” と名乗っているところに、大正、昭和、平成と守り継いできた主人たちの湯守(ゆもり)としてのこだわりを感じます。


 <2014年9月10日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:21Comments(0)温泉考座

2021年01月15日

温泉考座 (61) 「ダムに沈んだ温泉地」


 八ッ場(やんば)ダムの計画が浮上したのは昭和27(1952)年。
 以来、住民たちの生活は翻弄され続けてきました。
 ダム湖に水没する川原湯温泉 (長野原町) にとっては、温泉の存続を賭けた闘いの半世紀でした。
 しかし、長い苦悩の日々も、終わりを迎えようとしています。
 今秋にはダム本体工事が始まります。
 すでに数軒の旅館は高台の代替地へと移転して、新たな温泉地の歴史を歩み出しました。
 ※(八ッ場ダムは2020年3月に完成しました)


 群馬県内には、同じくダム湖に沈み、移転地で再開した温泉地があります。
 昭和33(1958)年、赤谷川を堰き止めた相俣ダム (旧新治村) の建設で、人造湖の赤谷湖が誕生しました。
 これにより 「湯島」 「笹の湯」 という2つの温泉地が水没。
 4軒あった旅館は代替地へ移転し、新たな源泉を掘削して猿ヶ京温泉 (みなかみ町) として生まれ変わりました。

 翌年、国道17号の三国トンネルが開通。
 その2年後には苗場国際スキー場 (新潟県) がオープンし、大勢のスキー客が押し寄せるようになりました。
 旅館も増え、農家はこぞって民宿経営に乗り出しました。
 スキーブーム、マイカーブームも追い風となり、湖を見下ろす高台の温泉地は、群馬を代表する温泉地へと発展しました。


 「猿ヶ京」 という地名の由来には、こんな伝説があります。
 永禄3(1560)年、上杉謙信が越後から三国峠を越えて関東に出陣の折、現在の猿ヶ京である宮野の城に泊まり、不思議な夢を見ました。
 宴席で膳に向かうと箸が1本しかなく、ごちそうを食べようとするとポロポロと歯が8本抜け落ちました。
 嫌な夢を見たと思い、このことを家臣に告げると、「これは関八州 (関東一円) を片端 (片箸) から手に入れる夢なり」 と答えたので、謙信は大いに喜び 「今年は庚申(かのえさる)の年で、今日も庚申の日。出陣の前祝いに、宮野を 『申が今日』 と名付ける」 と申し渡したといいます。


 移転した4軒のうち2軒は廃業しましたが、旧湯島温泉の長生館と桑原館 (現・猿ヶ京ホテル) が歴史を守り継いでいます。
 水没から半世紀以上経った今でも、渇水時には湖底から湧出する温泉の湯けむりを見ることができるといいます。


 <2014年9月3日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:53Comments(0)温泉考座

2021年01月12日

温泉考座 (60) 「忘れたころに猛威をふるう」


  このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
 (一部、加筆訂正をしています)


 平成26(2014)年6月、埼玉県内の日帰り温泉施設に入浴した60~80代の客3人がレジオネラ菌に感染し、うち同県在住の60代の男性が死亡しました。
 男性は同施設に複数回入浴し、発熱の症状を訴え、レジオネラ肺炎と診断されていました。

 その3年前にも群馬県北部の温泉旅館で、同様の死亡事故が起きています。
 いったい、いつになったら現代人は、レジオネラ菌から身を守ることができるのでしょうか?


 レジオネラ菌は、自然界の土中や河川に生息している菌です。
 従来のような放流式 (かけ流し) の浴槽では、たとえ菌が入っても繁殖する前に流されてしまいました。
 ところが、循環式の浴槽の登場により、菌が爆発的に繁殖するようになりました。

 レジオネラ菌の繁殖を防ぐには、2つの方法があります。

 1つは、浴槽の湯を換水して、徹底した清掃をすること。
 もう1つは、浴槽内の湯を殺菌消毒することです。

 湯量が豊富な放流式の場合は、前者で繁殖を防ぐことができます。
 しかし、湯量が少ない場合は、循環式の浴槽に頼るしかありません。
 この場合、清掃もさることながら、後者の殺菌消毒が不可欠となります。


 では、なぜ同じような死亡事故が起きてしまうのでしょうか?

 都会の日帰り温泉施設ですから、循環式風呂であったはずです。
 だとすれば、必ず消毒剤を投入しています。
 清掃も保健所の指示により適切に行われていたことでしょう。
 事実、毎月行っている水質検査では異常がなかったといいます。

 ただ、最近は消毒剤の臭いを嫌う客が増えているといいます。
 「塩素臭い」 「プールのような臭いがする」 などの苦情が寄せられるため、消毒剤の投入を控える施設もあるようです。
 その結果、浴槽内の塩素濃度の管理が不十分となり、殺菌力が低下する可能性があります。


 かけ流し風呂にせよ、循環式風呂にせよ、消毒剤だけに頼るのではなく、徹底した清掃を心がけてほしいものです。
 レジオネラ菌は、忘れたころに猛威をふるいます。


 <2014年8月13日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:25Comments(0)温泉考座

2021年01月09日

温泉考座 (59) 「入れ替わった神様」


 毎年5月9~10日の両日、沼田市の老神(おいがみ)温泉で開かれる赤城神社の例大祭 「大蛇まつり」。
 「セイヤー、セイヤー」 と威勢の良いかけ声とともに、巨大なヘビが夜の温泉街を練り歩く勇壮な祭りです。


 その昔、赤城山の神 (ヘビ) と日光男体山の神 (ムカデ) が戦った折、傷ついた赤城の神が矢を地面に突き立てると、湯が湧き出しました。
 その湯につかり傷を癒やした赤城の神は陣を立て直し、日光の神を追い返したことから 「追神」、それが転じて 「老神」 と呼ぶようになったといいます。

 しかし、一般に伝わる伝説は、日光の神がヘビで、赤城の神はムカデです。
 例外もあるかと調べてみましたが、アニメ 『まんが日本昔ばなし』 をはじめ、すべて日光がヘビ、赤城がムカデでした。
 日光側に残る伝説も同様で、ムカデを1匹殺すと男体山登拝と同じ御利益があるとまで言われています。

 赤城山東南麓から平野部にかけての一帯では、昔からムカデは赤城神社の使いといわれ、殺すとたたりがあるとされています。
 旧新里村 (桐生市) には、赤城山を御神体しと、ムカデの彫刻を施した 「百足鳥居(むかでとりい)」 が立っています。


 「私のおばあちゃんは、昔は赤城様の祭りでヘビのみこしなんて担がなかったと言っています」
 と、温泉街で働く20代の女性。
 また、「祭りにヘビが登場したのは、昭和30年代になってからでは」 と教えてくれた初老の男性は、「どこでヘビとムカデが入れ替わっちゃったんかねぇ」 と言って笑いました。

 昔、老神温泉では旧暦の4月8日は赤城の神が入浴して傷を癒やした日として、湯壺 (ゆつぼ) の周りにしめ縄を張って、一般の入浴を禁じていました。
 また、大きなワラ人形を作り、「オタスケ!」 と叫びながら村人が、竹槍 (たけやり) で突いたともいいます。

 そのワラ人形が日光の神で、赤城の神への助勢だとしたら……。
 いつしか突いていた日光の神を担ぐようになったと考えられなくもありません。


 赤城の神はヘビなのか? ムカデなのか?
 今となっては、神のみぞ知ることです。


 <2014年8月6日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:29Comments(0)温泉考座

2021年01月05日

温泉考座 (58) 「タダほど良い湯はない」


 「料金の高い宿は、お湯も良いのですか?」
 よく聞かれる質問です。
 高級な料亭や寿司屋が値段の高いぶん、それだけ新鮮で良いネタを使っているように、温泉宿の湯の質も料金に比例すると思われているようです。

 もちろん、高級旅館や高価な入浴施設で、湯の素晴らしいところはあります。
 ただ私の経験からすると、反対に料金の安いところに良い温泉が多いことに気づきます。


 そもそも温泉とは、地中から自然に湧き出してくるものです。
 ですから 「自然湧出」 「自然流下」 「完全放流(かけ流し)」 の温泉ならば、コストはさほどかかりません。

 しかし、これが地中を掘削して、動力により汲み上げ、タンクに貯湯し、加水や加温をしながら循環ろ過装置を使って、温度を一定に保ちながら消毒をしていれば、設備費や光熱費、人件費がかかってきます。
 当然ですが、その経費は宿泊料金や入浴料金に上乗せされます。

 またサウナやジェットバスなどの諸施設、エステやアロマなどの入浴後のサービスを充実させていることが、料金にはね返っている場合もあります。

 逆に料金が安いということは、人の手が加わらない自然に近い温泉に出合える確率が高くなります。
 「外湯」 と呼ばれる共同湯のある温泉地へ行けば、一目瞭然です。
 湯量が豊富だからこそ、無料の入浴施設があるのです。
 ほとんどの場合が無人で、地元や湯治客が自由に利用しています。
 そして浴槽には、「自然湧出」 「自然流下」 「完全放流」 による極上の湯が満たされています。
 タダほど新鮮で良い湯はありません。


 温泉旅館や入浴施設に求めるものは、人それぞれだと思います。
 便利な施設や豪華な料理、徹底したサービスを楽しみにしている人も多いことでしょう。
 でも、それらの付加価値は、わざわざ温泉地まで行かなくても、都会でも十分体験することができます。

 そこが温泉地である以上、料金に関係なく、第一に求めるものは、“温泉” であってほしいものです。


 <2014年7月30日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:58Comments(0)温泉考座

2020年12月28日

温泉考座 (57) 「牧水と温泉宿(下)」


 <沼田町に着いたのは七時半であった。指さきなど、痛むまでに寒かった。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受け取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊まるかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出して、その旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。宿屋の名は鳴滝と云った。>
 (『みなかみ紀行』より)


 大正11(1922)年10月21日。
 歌人の若山牧水は、四万温泉の宿を出て、中之条から電車に乗り、午後、渋川に着きます。
 駅前の小料理屋で食事をとった後、ふたたび電車に乗り、沼田まで足を延ばします。
 その晩に沼田で泊まった宿が、「鳴滝(なるたき)」 でした。

 「鳴滝」 は沼田城下の庄屋屋敷で、大正時代に旅館となりました。
 昭和初期に廃業しましたが、その後、元水上町長の高橋三郎氏が建物を購入して、水上温泉郷の一つ、うのせ温泉(みなかみ町) に移築し、「旅館 鳴滝」 として営業を再開しました。

 昭和40年代には一時、農協の研修施設として使用されたこともありましたが、同57年に現在のオーナーが買収して、ふたたび旅館として営業を再開。
 少しずつ増改築を施しながら、平成14(2002)年に、現在の 「旅館みやま」 がリニューアルオープンしました。

 外観はすっかり変わってしまいましたが、それでも本館のそこかしこに当時の面影が残されています。
 黒光りした太い梁や大黒柱、時を刻んだ調度品が、歴史の証人のように昔と変わらぬ姿でたたずんでいます。
 これらの資材を当時、沼田から馬で運んで来たというのですから、その桁外れの財力と労力に、ただただ感心させられます。


 高台に建つ露天風呂からは、かつて 「鳴滝」 があった沼田方面が見渡せます。
 もし牧水が生きていて、あのときの沼田で泊まった旅館が、今は温泉宿になっていることを知ったなら……。

 温泉好きの牧水のことです。
 さぞかし大喜びで、訪ねて来たことでしょう。


 <2014年7月9日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:19Comments(0)温泉考座

2020年12月24日

温泉考座 (56) 「牧水と温泉宿(上)」


 <湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年に別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
 (『みなかみ紀行』より)


 大正11(1922)年10月23日。
 歌人の若山牧水は、法師温泉の帰り道に湯宿(ゆじゅく)温泉 (みなかみ町) に投宿しています。
 著書 『みなかみ紀行』(大正13年) に屋号は記されていませんが、このときの宿屋が明治元(1868)年創業の老舗旅館 「ゆじゅく金田屋」 でした。

 「時代でいえば2代目と3代目の頃です。私の曽祖父と祖父が、もてなしたと聞いています。牧水さんが泊まられた部屋は、こちらです」
 そう言って5代目主人の岡田洋一さんが、現在は本館から一続きになっている土蔵へ案内してくれました。

 上がり框(かまち)の暖簾(のれん)をくぐり、ひんやりとした空気と重厚な白壁に囲まれた急な階段を上がると、床の間の横に座卓が置かれた蔵座敷 「牧水の間」 が残されています。


 <一人になると、一層疲労が出て来た。で、一浴後直ちに床を延べて寝てしまった。一時間も眠ったと思う頃、女中が来てあなたは若山という人ではないかと訊く。不思議に思いながらそうだと答えると一枚の名刺を出してこういう人が逢いたいと下に来ているという。>


 当時は、まだ宿に内湯のない時代です。
 当然、牧水は外湯 (共同湯) へ湯を浴(あ)みに行ったことでしょう。
 その後、旅の疲れから早々に床に就きますが、すぐに来客があり起こされます。
 宿には、こんなエピソードが残っています。

 「その晩は、釣り名人と言われた祖父が釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ったと聞いています。牧水さんはアユがお好きなようで、ペロリと2匹を平らげたそうです」
 と、主人が焼きたてのアユを出してくれました。

 この料理は 「牧水焼き」 と名付けられ、宿の名物になっています。
 香ばしいみそのにおいが食欲をそそる一品です。
 さぞかし歌人も、酒がすすんだことでしょう。


 <2014年7月2日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:28Comments(0)温泉考座

2020年12月20日

温泉考座 (55) 「温泉は生きている」


 私は 「一軒宿」 と呼ばれる小さな温泉地に魅せられ、群馬県内の取材を続けてきました。
 そこには大きな温泉地のように、歓楽施設やみやげ物屋はありません。
 山の中や渓谷のほとりに、一軒の宿がポツンとたたずんでいます。

 一軒宿のほとんどは、自家源泉を保有しています。
 そして何十年、何百年と湧き続ける源泉を守り継いでいる 「湯守(ゆもり)」 がいます。
 たった一軒で湯と歴史と温泉名を守っている姿に、私は本来の温泉地の有り様を見いだしています。

 しかし 「一軒宿」 ならではの問題も抱えています。
 何軒も宿のある温泉地ならば、一軒が廃業しても温泉地自体が無くなることはありません。
 ところが一軒宿の温泉地は、その宿が廃業してしまうと、温泉地までもが地図から消えてしまうことになります。
 一軒宿の温泉地は、絶滅の危機に瀕しているといえます。


 私は2009年に 『ぐんまの源泉一軒宿』(上毛新聞社) という本を出版しました。
 取材し、掲載した宿は50軒。
 数軒に取材を断られたものの、県内の一軒宿をほぼ網羅しています。

 その5年後のこと。
 たかが5年の間に、4軒の宿が廃業していることに気づきました。
 経営不振、後継者不在など理由は様々ですが、年々、一軒宿の温泉地が減っているのは確かです。


 明治25(1892)年に発行された群馬の温泉分析書 「上野鉱泉誌」 には、74ヶ所の温泉地が掲載されています。
 この中で現存する温泉地は、わずか30ヶ所。
 120年の間に40ヶ所以上の温泉地が消えたことになります。

 当時は、まだ現代のように地中深く機械で掘削して温泉をくみ上げる技術のなかった時代です。
 となれば消えた温泉は、すべて自噴泉だったことになります。


 2014年4月、私は再度、県内の一軒宿を取材して 『新ぐんまの源泉一軒宿』(同) を出版しました。
 消えた温泉がある一方で、後継者が現れて営業を再開した宿もありました。
 また掘削技術の進歩により、新たに誕生した温泉宿もあります。

 消える温泉、生まれる温泉。
 そして、ふたたび息を吹き返す温泉。

 「温泉は生きている」 と、つくづく感じます。


 <2014年6月25日付>
    


Posted by 小暮 淳 at 12:08Comments(0)温泉考座

2020年12月16日

温泉考座 (54) 「名は半出来、湯は上出来」


 全国には約3,000もの温泉地があります。
 秋田県の乳頭(にゅうとう)温泉や強首(こわくび)温泉、長野県の白骨(しらほね)温泉、岐阜県の下呂(げろ)温泉など、ユニークな名前の温泉は数ありますが、群馬県の半出来(はんでき)温泉 (嬬恋村) も、珍名温泉の上位にランキングされることでしょう。

 JR吾妻線の無人駅、袋倉駅のホームに降り立つと、正面に <半出来温泉 徒歩8分> の看板があります。
 坂道を下り、高架橋をくぐり抜けると、また小さな看板が立っています。
 矢印と <足元にお気をつけください> の文字。
 雑木林の中を吾妻川の河岸へと下りて行きます。
 最後に、ゆら~り、ゆら~りと揺れる細くて長い吊り橋を渡れば、そこが半出来温泉の一軒宿 「登喜和荘」 です。


 開湯は昭和48(1973)年。
 地熱が高く、冬でも雪解けの早い場所があり、養鶏業を営んでいた先代が掘削したところ、温泉が湧き出したといいます。

 「半出来」 とは、源泉が湧く土地の小字名。
 由来には、作物が半分しか収穫できない荒れた土地だからという説がありますが、2代目主人の深井克輝さんは異を唱えます。

 「“半” の字は 『ナカラ』 とも読みます。群馬の方言にも、“なかなか” とか “かなり” という意味を表す 『ナカラ』 という言葉があります。私は、かなり出来の良い土地のことだと解釈しています」


 その出来の良い土地に湧いた湯は、地元の人たちに神経痛や腰痛に効く温泉として愛されてきました。
 源泉の温度は約42度。
 ややぬるめですが、そのぶん長湯をすることができます。

 泉質は、ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉。
 マグネシウムやカリウム、鉄分などのミネラルが豊富で、飲むと胃液の分泌を促す作用があることから 「胃腸の湯」 ともいわれています。
 源泉の注ぎ口にコップが置いてあり、口に含むと塩味のきいた中華スープのような味がします。

 炭酸を含んでいるため、湯の中でジッとしていると、体に小さな泡の粒が付き出します。
 昔から泡の出る温泉は、骨の髄まで温まるといわれ珍重されてきました。

 名前は半出来ですが、湯はかなり上出来な温泉です。


 <2014年6月18日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 12:37Comments(0)温泉考座

2020年12月13日

温泉考座 (53) 「妊婦でも入浴OK!」


 平成26(2014)年4月、環境省の有識者委員会で、入浴時の注意事項を定めた温泉法の基準見直し案が了承されれました。
 これにより、温泉の入浴を避けるべき病気や症状を記載した 「禁忌症」 から “妊娠中” の文言が削除されました。

 昭和57(1982)年に定められた、それまでの 「禁忌症」 には、次のような症状が記載されていました。
 <急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、肝不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般的に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)>

 挙げられている項目は、妊娠中を除けば一般に風呂に入るときに注意を要する病気の症状です。
 なにも温泉に限ったことではありません。
 ではなぜ、妊娠中のみが病気でもないのに記載されていたのでしょうか?

 これが見直しの争点でした。
 「根拠が不明」 との意見があり、専門家が改めて調査したところ、「温泉浴が流産や早産を招くといった医学論文や研究はなかった」 とのことでした。
 私も以前から 「禁忌症」 の項目を見るたびに疑問に思っていました。

 全国には妊婦の入浴や赤ちゃんの産湯に温泉を利用しているクリニックがあります。
 我が家でも、妻が臨月の時に温泉へ連れて行きましたが、3人の子が自然分娩で生まれています。
 禁忌症から “妊娠中” の文言が消えることで、妊婦も安心して温泉に行けるようになれば、温泉地にとっても朗報です。

 見直しでは、「適応症」 にも新たな項目が追加されました。
 適応症とは、効能があるといわれる病状のことで、一般には神経痛や筋肉痛、関節痛、五十肩、冷え性などの慢性病の類いが記載されています。
 禁忌症同様、温泉の成分による効用というより、体を温めることによる “温浴効果” がほとんどです。

 新たに加わったのは、睡眠障害、うつ症状、自律神経不安定性などです。
 ストレスの多い現代社会を反映しています。


 <2014年6月11日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:14Comments(0)温泉考座

2020年12月07日

温泉考座 (52) 「発見伝説➂ 源頼朝」


 群馬の温泉発見人 「御三家」 、残る一人は鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝です。
 全国の温泉地に発見伝説がありますが、なんといっても県内では草津温泉が有名です。

 建久4(1193)年、鎌倉幕府が開かれた翌年のこと。
 幕府の力を知らしめるために東国各地で狩りを行った頼朝は、浅間山麓での狩りの途中に、草津温泉の入り口にある白根大明神まで馬を乗り入れました。
 この時、谷底に白煙が立ち昇っているのを発見したと伝わります。
 これが 「白旗の湯」 です。

 草津温泉へ行ったことのある人でも、白旗源泉の湧出地に気づく人は少ないようです。
 草津のシンボル 「湯畑」 の西側に、もう一つ小さな湯畑があります。
 木の囲いに覆われているので見過ごしがちですが、毎分約1,500リットルの湧出量を誇る草津を代表する源泉の一つです。
 囲いの中には小さな石祠があり、頼朝公が祀られています。
 ちなみに 「白旗」 とは、源氏を象徴する白い旗から名付けられました。

 同時期に頼朝は、中之条町の沢渡温泉にも訪れていると伝わっています。
 伝説によれば、酸性度の強い草津の湯で湯ただれをおこした頼朝が、沢渡の湯に入ると荒れた肌がきれいになったことから、草津の 「なおし湯」 とも 「ながし湯」 とも呼ばれるようになったといいます。
 弱アルカリ性のやわらかい湯は 「一浴玉の肌」 といわれ、群馬を代表する “美人の湯” として親しまれています。

 温泉街の中心、共同浴場に隣接する老舗旅館 「龍鳴館」 の浴室には、頼朝が入浴の際に腰掛けたといわれる 「源頼朝公の腰掛け石」 が残されています。
 一見、何の変哲もない普通の石に見えますが、所々に傷があります。
 これは昭和10(1935)年の水害による山津波と、同20年の山火事から温泉街を全焼した大火の被害を受けた跡だといいます。

 信じるか信じないかは別として、800年以上も湧き続ける湯につかりながら石を眺めていると、いやが応でも壮大な歴史のロマンに思いがはせるというものです。


 <2014年6月4日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:23Comments(0)温泉考座