温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2021年09月24日

湯守の女房 (31) 「何度も泊まりに来てくれる方が増えました」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 北軽井沢温泉 「御宿 地蔵川」 (長野原町)


 生誕100年を迎える木下恵介監督による日本初の長編カラー映画 『カルメン故郷に帰る』(1951) が8月31日 (日本時間9月1日)、イタリアのベネチア国際映画祭のクラシック部門で上映された。

 高峰秀子が主役のストリッパーを演じたコメディー映画。
 そのロケ地の一つが、旧草軽電気鉄道の北軽井沢駅だった。
 新軽井沢~草津温泉間の55.5キロを結んでいたが、昭和37(1962)年に全面廃止。
 旧駅舎は、平成18年(2006)年に国の登録有形文化財になった。
 「御宿(おやど) 地蔵川」 の近くに残っている。


 木下監督ら映画のロケ隊が宿泊したのは、昭和17(1942)年に創業した前身の 「地蔵川旅館」。
 2代目当主の土屋勝英さんの母が、材木業を営んでいた夫を早く亡くし、5人の子どもを育てるために営み始めたという。
 「地蔵川」 は北軽井沢の旧地名だ。

 長野県生まれの大女将の民子さんが勝英さんと結婚したのは、草軽電鉄廃止の2年後のこと。
 それでも高度経済成長期のレジャーブームに乗り、60~80年代はマイカーで訪れる観光客でにぎわった。
 「とくに夏は、目が回るほどの忙しさでした。避暑を求める観光客をはじめ、テニスやゼミ合宿などに来る学生らでいっぱいでした」。
 宿名も 「地蔵川ホテル」 に改名した。


 転機は平成5(1993)年。
 敷地内の井戸水に析出物が見られることから 「もしかしたら温泉かもしれない」 と検査したところ、天然温泉の成分があると判明。
 許可を取って温泉のあるホテルとし、日帰り入浴客も受け入れた。


 女将の幸恵さんは岐阜県生まれ。
 3代目の基樹さんと8年前に結婚した。
 当時、別荘やキャンプ場からの日帰り入浴客が急増し、ホテルではなく、日帰り入浴施設と間違われることもあった。
 2人は 「このままだと宿泊客がお湯にゆっくり浸かれない」 と考え、5年前、和風旅館に改装し、宿名を 「御宿 地蔵川」 に変えた。

 「宿泊のお客さまのことを第一に考え、思い切って改装して良かった。何度も泊りに来てくれる方が増えましたから」
 と女将の幸恵さん。

 大女将の民子さんは、
 「夫は 『先の見えない時代で、宿の経営は大変だから自分の代で終わってもかまわない』 と話していました。それでも2人が立派に継いでくれました」
 と笑顔で返す。
 そして、
 「一度言い出したら頑固な息子ですけど、幸恵さん、どうかついて行ってあげてね」
 と付け加えた。


 <2012年9月19日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 09:59Comments(0)湯守の女房

2021年09月16日

湯守の女房 (30) 「これからは、また本来の温泉地の姿に戻るだけです」


 水上温泉 「ひがきホテル」 (みなかみ町)


 夏の水上温泉周辺は、ラフティングやキャニオニング、バンジージャンプなどのアウトドアスポーツを楽しもうと、都会から車で駆けつける若者たちでにぎわう。
 その中にあって、温泉街は昔ながらの落ち着いた湯の町風情が、あちこちに残っている。
 なんと言っても草津、伊香保、四万と並ぶ群馬の “四大温泉地” の1つなのだ。

 「ひがきホテル」 は射的、スマートボールなどの遊戯場やみやげ物屋が点在する目抜き通りの一角に建っている。

 「ホテルも私も昭和27(1952)年の生まれ。ともに還暦になります」
 と、ほほ笑む3代目女将の日垣由美さんは富山県生まれ。
 父親は旧国鉄マンだ。
 大学卒業後、郷里で英語塾を開いていた。
 26歳の春、高崎市の叔父に連れられてホテルを訪ね、3代目主人の博史さんと出会った。
 遠距離恋愛の末、1年後に結婚した。

 「私はよそから来た、まったくの素人だったので、旅館業というものが分かりませんでした。だから、すべて自分流なんです。妻として、母として、何役もこなしたい。女将も自分の顔の1つだと思っています。」

 由美さんの名刺には、ひらがなで 「おかみ」 と書いてある。
 「“女の大将” なんて、なんだか偉そうで」


 宿は、魚の行商で兵庫から群馬に来た博史さんの祖父、浅次郎さんが、世話人から水上温泉を紹介され、「ひがき旅館」 を開業したことに始まる。
 交通の便が良く、経済が右肩上がりの高度成長期、バブル経済期には企業や団体の慰安旅行客でにぎわい、温泉地は隆盛の一途をたどった。

 しかしバブル崩壊後、様相は一変した。
 水上温泉だけでなく、全国の大温泉地が今、あり方を模索している。

 「男性客中心の温泉場遊びの時代は、とうの昔に終わりました。これからは、また本来の温泉地の姿に戻るだけです。いつの時代でも変わらないもの、決して変わってはいけないことがあります。日本の料理、調度、もてなしの良さを伝えることが、旅館の役目と思っています」


 7年前、東京でサラリーマンをしていた息子の雄亮さんが会社を辞めて、ホテルに入った。
 4代目の社長となり、若女将の沙織さんとともに、次世代の水上温泉を見すえている。

 「これから、温泉地は絶対に変わります。20年後の水上温泉と息子夫婦のゆくえが楽しみですね」
 そう言って、4代目にエールを送った。


 <2012年9月5日付>

 ※ 「ひがきホテル」 は廃業しました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:04Comments(0)湯守の女房

2021年09月08日

湯守の女房 (29) 「温泉水で顔を洗うだけ。化粧水も乳液も付けたことはありません」


 老神温泉 「牧水苑」 沼田市


 「牧水苑(ぼくすいえん)」 の名は、旅を愛し、各地で歌を残した歌人の若山牧水 (1885~1928) からとった。
 牧水の著書 『みなかみ紀行』 などによると、牧水は大正11(1922)年10月、老神(おいがみ)温泉を訪れ、1泊している。

 「この時、牧水さんを案内したのが、旅館を経営していた私の曽祖父でした」
 と、女将の桑原球(たまき)さんは話す。
 当時、3軒の宿があったが、内湯はなく、湯治客は片品川の河原の野天風呂に入ったという。

 球さんの父母は、「あわしま荘」(現・吟松亭あわしま) を創業し、次女の球さんは高校卒業後、母のもとで若女将として修業した。
 ご主人の朝吉さんは20代の頃、森林組合担当の県職員で、球さんの父が村の森林組合長をしていたため、仕事でよく 「あわしま荘」 に泊まった。
 その縁でお見合いをし、昭和50(1975)年に結婚した。
 朝吉さんは県を退職し、同57年に球さんと 「牧水苑」 を立ち上げた。


 老神温泉は 「脚気(かっけ)川場に瘡(かさ)老神」 と言われ、皮膚病に効くとされる。
 「アトピー性皮膚炎に効果があるともいわれます」
 肌の美容にもいいようで、
 「毎晩、化粧を落とした後は、温泉水で顔を洗うだけ。化粧水も乳液も付けたことはありません。私の肌が証明しています」
 と笑った。

 伝承にもお湯の効果がうたわれる。
 昔、赤城山の神 (ヘビ) と日光男体山の神 (ムカデ) が戦い、追われた赤城山の神が、体に受けた矢をこの地に突き刺すと、お湯が湧いた。
 その湯に体を浸すと傷はたちまち治り、男体山の神を日光に追い返した。
 このため、この地を 「追い神」 と呼ぶようになり、「老神」 になったといわれる。


 泉質は弱アルカリ性の単純温泉。
 女将13人でつくる 「老神温泉女将の会」 は、温泉水を配合したクレンジングウォーターやスキンローションの企画開発も手がける。
 会は平成14(2002)年に 「女将と踊る盆踊りで温泉街を盛り上げよう」 と発足した。
 「盆踊りは観光客との交流の場なんです」


 牧水苑のロビーでは牧水の掛け軸や写真、関連書籍などを展示している。
 「何年か前に、東京在住の牧水さんのお孫さんが訪ねて来られました。思いがけなく祖父の足跡をたどることができたと言って、涙をこぼされていたのが印象的でした」

 ファンならずとも、群馬を愛し、上州路を歩きつづけた歌人の足跡に触れると、改めてその偉業に魅せられる。


 <2012年7月25日付>

 ※「牧水苑」 は2020年5月に廃業しました。
   


Posted by 小暮 淳 at 13:04Comments(0)湯守の女房

2021年09月02日

湯守の女房 (28) 「よその温泉に入ると、水っぽくて物足りないと感じてしまいます」


 新鹿沢温泉 「鹿の湯 つちや」 嬬恋村


 「気が付いたら姉も妹も家を出てしまっていて、結局、私が旅館を継ぐことになっちゃいました」
 5代目女将の土屋実千子さんは、屈託のない笑顔を見せる。

 4人姉妹の三女として、新鹿沢(しんかざわ)に生まれ育った。
 主人の實さんは、長野県の生まれ。
 旧本州四国連絡橋公団や名古屋市役所の職員をしていたが、親戚の紹介で女将と知り合い、30年前に結婚して旅館に入った。


 私が女将に会うのは2年ぶりになる。
 以前にも感じたが、色白で肌に張りがあり、年齢よりも、だいぶ若々しく見える。

 「産湯から温泉につかっていますからね。やっぱり源泉がいいんですよ。よその温泉に入ると、水っぽくて物足りないと感じてしまいますもの」


 新鹿沢温泉のルーツは、鹿沢温泉にある。
 大正7(1918)年に大火が温泉街を襲い、全戸が焼失してしまった。
 多くの旅館は再建をあきらめたが、「つちや」 と他2軒が4キロ下がった現在地へ移転し、源泉を引き湯しながら新鹿沢温泉として営業を再開した。
 湯元の 「紅葉館」 だけが鹿沢温泉に残った。


 鹿沢温泉の発見には、こんな伝説がある。
 今から1300年以上も前のこと。
 白雉(はくち)元(650)年、猟師が山中で全身白色のシカと出あった。
 追いかけると突然姿が消え、熱湯が湧き出した。
 そして、湯煙の中に金色の薬師如来が現れて、
 「この地に湯を与え、多くの人々の病苦を救い、長寿に効く霊場にしたい」
 と告げたという。
 これが 「鹿の湯」 の由来となった。

 その効能は多岐にわたり、飲泉すれば胃腸病や貧血にも特効がある、といわれている。
 マグネシウムやナトリウムを多く含む炭酸水素塩温泉は、皮膚の角質 (表層) をやわらかくし、肌をスベスベにする効果があるため、「美人の湯」 とも呼ばれる。


 「冬はスキー、夏は登山。ここは昔から、鹿沢の自然が好きな人たちに愛されてきた静かな山の温泉地です。これからも庶民的な温泉旅館でありたい」


 以前、長年子どもができなかった夫婦が住み込みで働きに来たところ、すぐに子どもを授かったという。
 「だから、ここの湯は 『子宝の湯』 とも言うのよ」
 と、笑顔を見せる。
 この女将の底抜けに明るい人柄に惹かれて通って来る常連客も多い。

 2年前、長男の智さんが、調理師の修業を終えて帰ってきた。
 「あとは、若女将が来てくれるだけです」
 と、6代目湯守の女将へバトンを手渡す日を夢見る。


 <2012年7月4日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:11Comments(0)湯守の女房

2021年08月28日

湯守の女房 (27) 「毎日、あの山に感謝しています」


 谷川温泉 「旅館たにがわ」 みなかみ町


 「旅館業は、良いことも悪いことも、すぐにお客さまから反応が返ってくる仕事。お客さまの 『また来るよ』 の言葉に支えられて、今日までやって来ました」。
 2代目女将の久保容子さんは、そう言って、手が届きそうなほど近くに見える谷川岳を客室の窓から見つめた。

 「谷川岳あっての谷川温泉です。毎日、あの山に感謝しています」


 高崎市の旅館の三女に生まれた。
 宿主人の富雄さんとは、高校から大学まで同級生。
 学生時代に友人らと富雄さんの実家がある谷川温泉を訪れ、谷川岳の雄大な景色を見た。
 「群馬にも、こんなに素晴らしいところがあったのか」 と感動した。

 田舎暮らしにあこがれていたこともあり、卒業後の昭和44(1969)年に結婚。
 数軒の宿が並ぶ、小さな谷川温泉に来た。


 <水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった>

 国道291号から離れ、温泉街へ向かう道の途中に作家、太宰治 (1909~48) の文学碑がある。
 ここ谷川温泉を舞台にした小説 『姥捨(うばすて)』 の一節が刻まれている。
 「旅館たにがわ」 の駐車場にも、太宰の記念碑が立つ。

 昭和11(1936)年8月、太宰治は療養のため約1ヶ月間、この旅館の前身の 「川久保屋」 に滞在した。
 このとき執筆した 『創生記』 は、代表作 『人間失格』 を書くきっかけになったといわれる。
 ここでの滞在経験をもとに2年後、『姥捨』 も発表。

 川久保屋は昭和20年代に経営者が代わり、その後、取り壊され、「旅館たにがわ」 の駐車場となった。


 太宰との関係は、昭和50年代に太宰治研究家の故・長篠康一郎氏が訪ねて明らかにした。
 長篠氏は、川久保屋に太宰が滞在したことを確認し、著書に発表した。
 「長篠さんは何日か宿泊して、温泉街を歩き回って取材していました」
 と女将は振り返る。


 昔、神の化身の美しい娘が川で身を清め、裾を洗うと温泉が湧き出したという伝説から、源泉は 「御裳裾(みもすそ)の湯」 と名付けられ、薬師堂が祀られている。

 その湯は無色透明の弱アルカリ性単純温泉。
 やや熱めで、肌にやさしくまとわり付く独特な浴感がある。

 太宰は、あこがれの芥川賞の落選を、川久保屋滞在中に知った。
 さぞかし悲痛な思いで、湯に身を沈めたことだろう。


 今年も太宰治の命日である6月19日の 「桜桃忌」 には、女将や従業員ら約10人が、道端の文学碑と駐車場の記念碑に白菊を供えた。
 館内にはミニギャラリーが設けられ、長篠氏から寄贈された太宰の初版本や写真、遺品など約50点が展示されている。


 <2012年6月20日付> 
  


Posted by 小暮 淳 at 12:49Comments(0)湯守の女房

2021年08月23日

湯守の女房 (26) 「宿泊客に健康になって帰ってほしいとの願いを込めているんです」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。



 猿ヶ京温泉 「猿ヶ京ホテル」 みなかみ町


 猿ヶ京ホテルのロビーラウンジからは、ガラス窓越しにエメラルドグリーンに水面を染める赤谷湖(あかやこ)が、よく見える。
 「四季折々に色を変える山と湖。一年中、私たちを楽しませてくれ、元気をもらえます」
 と、3代目女将の持谷美奈子さん。

 秋田県小坂町生まれ。
 大学卒業後、銀行の横浜支店で同僚だった主人の明宏さんと出会った。
 平成3(1991)年の結婚を機に退職し、明宏さんの実家の猿ヶ京ホテルに入った。
 「ここは私のふるさとと自然環境が似ている。ただ一つ違うところは、温泉があることです」


 実は、湖底には猿ヶ京ホテルのルーツが眠っている。

 相俣(あいまた)ダムの建設で昭和33(1958)年、湯島、笹の湯という2つの温泉地が湖底に水没した。
 そこには4軒の老舗の湯宿があり、「旧四軒」と呼ばれた。
 高台に移転し、猿ヶ京温泉をつくった。
 猿ヶ京ホテルの前身は、旧四軒のうちの1軒、桑原館である。


 「猿ヶ京」 という地名にも、いわれがある。

 戦国武将、上杉謙信がこの地に泊まり、不思議な夢を見た。
 宴席で膳に向かうと、箸が片方しかなく、ごちそうを食べようとすると歯が8本抜け落ちた。
 家臣に告げると、「関八州 (関東一円) を片っぱし (片箸) から手に入れる夢なり」 との答え。
 謙信は喜び、「今年は庚申(かのえさる)、今日もまた庚申の日。我も申年生まれ。これより関東出陣の前祝いとして、ここを 『申ケ今日』 と名付ける」 と言ったためと伝わる。


 山あいの旧新治村 (みなかみ町) には、多くの民話が残る。
 主人の明宏さんの母で大女将の靖子さんは、お年寄りらが語り継ぐ民話に注目し、長年、その採集と記録に努めて来た。
 語り部として毎晩、宿泊客に民話を語る。
 温泉街にある 「三国路与謝野晶子紀行文学館」 「猿ヶ京関所資料館」 などの館長でもある。

 「大女将は、何でもできる人。だから分からないことがあると何でも聞いています。旅館の仕事場では厳しいですが、プライベートでは可愛い女性です」

 靖子さんは、ホテルの名物料理 「豆腐懐石」 も考案した。
 館内の豆腐工場で、職人が毎日作っている。
 「ヘルシーな料理をおいしく食べていただき、宿泊客に健康になって帰ってほしいとの願いを込めているんです」
 と、美奈子さんは言う。


 露天風呂からも、赤谷湖を一望できる。
 かつて若山牧水らの文人墨客が去来した道も、この美しい湖の底だ。
 移転した 「旧四軒」 は、現在は2軒となった。


 <2012年5月23日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:29Comments(0)湯守の女房

2021年08月15日

湯守の女房 (25) 「ふるさとを持たない都会の人たちが、また戻りたくなる宿づくりを心がけています」


 たんげ温泉 「美郷館」 中之条町


 四万温泉 (中之条町) へ向かう四万川沿いを走る国道353号から離れ、支流に沿った県道を行く。
 沢渡温泉の手前からエメラルド色した清流、反下(たんげ)川をさかのぼること約5キロ。
 やがて、うっ蒼とした国有林の中に、入り母屋造りの一軒宿 「美郷館(みさとかん)」 が見えてくる。

 「宿のまわりには昔ながらの自然が残されています。みなさん、この環境を気に入られて来られます」
 と、出迎えてくれた女将の高山純子さん。
 玉村町生まれで平成11(1999)年に主人の弘武さんと出会った。
 9ヶ月間の交際で結婚し、旅館に入った。


 地元で林業会社を経営している弘武さんの父の光男さんが、山村の活性化のため、昭和の時代から人知れず湧いていた温泉を引いて同3(1991)年に旅館を建てた。
 経営は人に任せていたが、同12(2000)年の改築を機に、次男の弘武さんが板前修業から戻って宿を継ぐことになった。

 「だから、どうしても私との結婚も急ぐ必要があったんですよ。『ただ笑っているだけでいいから』 『旅館は楽しいよ』 なんてうまいことを言われて、山の中までついて来ちゃいました」
 と笑う。


 それまで会社員だった純子さんにとって、旅館業はずぶの素人。
 経験豊かな仲居さんたちに教わりながら、見よう見まねでやってきた。

 3人の子どもも、子守りをしながら旅館に泊まり込んで育てた。
 当時を知るお客さんから 「あの時の赤ちゃんは、大きくなったでしょうね」 と声をかけられることも。


 何度訪ねても、ロビーの造りには息をのむ。
 ふた抱えもありそうな大黒柱や梁(はり)、垂木(たるき)が圧倒的な存在感をもって出迎えてくれるのだ。
 ケヤキに惚れ込んだ父がえりすぐった木を、木挽(こび)き職人が3年かけて手でひいた。
 その材木を宮大工がクギを使わずに組んでいる。
 改めて木目の美しさに見入ってしまった。


 「こちらがお金をいただいているのに、お客さまの方から 『ありがとう』 って言っていただいた時、ああ、このやり方で間違っていなかったんだと、うれしくなりますね。地方にふるさとを持たない都会の人たちが、また戻りたくなる宿づくりを心がけています」

 そのかいあって、宿泊客の8割はリピーターだという。
 オープン以来、日帰り入浴客を受け入れていないのも、宿泊客を大切にしするからだ。

 草津温泉、四万温泉という大温泉地の近くにありながら、自分だけのやすらぎの場を求めて小さな秘湯を訪ねる浴客の気持ちがよく分かる。


 <2012年5月9日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:57Comments(0)湯守の女房

2021年08月10日

湯守の女房 (24) 「歴史ある温泉と旅館を守っていかなくてはならない」


 八塩温泉 「神水館」 藤岡市


 神水館(しんすいかん)本館は、昭和6(1931)年の創業時に建てられた。
 同28年に地元産の太い木材をふんだんに使って別館を併設し、全体を桃山風建築の趣(おもむき)にした。

 本館の玄関を入ると、長い廊下沿いのガラス窓一面に、神流川(かんながわ)が悠々と横たわって見えた。
 両岸の岩盤が断崖をつくる。
 一帯は昔から変わらず四季折々の表情を見せ、宿を包み込む。
 「映し絵の宿」 と呼ばれるゆえんだ。

 すぐ川向かいは埼玉県。
 約7キロ上流には国の名勝・天然記念物の三波石峡(さんばせききょう)がある。


 「ここからの景色が気に入られて、毎月のように通われて来るお客さまもいます」
 と4代目女将の貫井美砂子さん。
 旅館の4姉妹の次女に生まれ、昭和37(1962)年に主人の秀彦さんと結婚し、女将になった。

 「私にとって旅館は家庭の延長。生まれ育った場所ですから、何も特別なことではありません」


 神流川の支流沿いに古くから8つの塩泉が湧き、「塩の湯八ツ所」 と呼ばれたため八塩(やしお)の名が付いたという。
 塩分濃度の高い鉱泉だったので、戦時中、食塩を精製したこともあった。
 なるほど、入浴すると皮膚に塩分が付き、保温効果がある。

 内風呂には、源泉を加熱した温浴用と、源泉そのままの冷浴用の2つの浴槽がある。
 交互に入浴すると、神経痛、筋肉痛などの効能を高めるとされている。
 ただし、源泉の温度は約15度と冷たく、入浴には覚悟がいる。


 若女将の恵理香さんは神流町生まれ。
 税理士事務所に勤めていて旅館に出入りし、長男の昭彦さんと知り合った。
 13年前に結婚し、主に経理を担当している。

 「私は接客が苦手なので、感情が顔に出てしまうことがあるんです。どんな時でもテキパキとこなす女将のようには、なかなかできません。日々勉強をしています」

 結婚が決まった時、「本当なの?」 って、親戚や近所の人たちに言われたという。
 「歴史ある温泉と旅館を守っていかなくてはならない。ああ、すごいところへ行くんだと、実感しました」
 そう若女将が言うと、女将がすかさず、
 「力まず自然でいいのよ。あなたにはあなたの良いところが、いっぱいあるんだから」
 と声をかけた。

 「うちは女将が顔なんです。まだまだ私の出る幕はありません」
 と、今度は若女将が言葉を継いだ。


 この風光明媚な景色は将来も変わらないだろう。
 やがて女将になった恵理香さんが、若女将と同じやりとりをしているのかも知れない。
 そう想像し、愉快な気分になった。


 <2012年4月25日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:05Comments(0)湯守の女房

2021年08月05日

湯守の女房 (23) 「湯がにごると、天気が崩れます」


 坂口温泉 「小三荘」 高崎市


 群馬県の山間部の温泉は泉温が高いが、平野部は温度が低い冷鉱泉が目立つ。
 ボイラーのない昔から、人々が温めてまで入浴した冷鉱泉には 「薬湯」 が少なくない。

 その一つ、坂口温泉は約300年前から湧き続けている薬湯だ。
 弱アルカリ性の食塩泉は、皮膚病に効くといわれる。
 昭和25(1950)年創業の 「小三荘(こさんそう)」 は、日帰り入浴客にも人気の湯治場だった。


 厨房を預かる女将の山崎照代さんは、いつもニコニコしている。
 甘楽町生まれで、同39年に4代目主人の孝さんと結婚し、宿に入った。
 今も宿泊客の多い日を除き、主人と長女の家族3人で切り盛りしている。

 「農閑期になると近在の農家の人たちで、いっぱいになりました。重曹を含んでいるので、『おまんじゅうを作るのに源泉を分けてほしい』 と言う人も来ました」
 と振り返る。


 お湯が自慢だ。
 「とっても不思議な湯なんです。にごる日もあれば、透明の日もある。湯がにごると、天気が崩れます」
 と教えてくれた。
 以前、雨の日に訪ねたことがあったが、確かに白濁していた。
 今回の取材の日は、快晴。
 予想通り、浴槽の湯は無色透明だった。

 はっきりしない天気だと、薄黄色の時もあれば、淡緑色の時もあった。
 ただ、トロンと肌にまとわりつく濃厚な浴感は、いつも変わらない。
 これが昔から 「たまご湯」 と呼ばれるゆえんである。


 浴槽の窓の戸外に、小さな石仏群が見える。
 地元では 「お薬師さま」 と呼ばれ、「医王仏」 との別名もある。
 頼るべき医薬のなかった時代、先人たちが病を治してもらったお礼に奉納した石仏たち。
 盗難や風化によって30体余りになってしまったという。
 平成の世になっても奉納する人がいるらしく、真新しい石仏も何体か見られる。

 「今の人は、ゆとりがないのでしょうね。かつてのように連泊する人が少なくなり、日帰り入浴客も風呂につかって、すぐに帰ってしまう人が多くなりました」
 と、ちょっと寂しそうな顔を見せた。


 温泉の入り方が変わったというが、それでもここの湯に惚れ込んでやって来る人が、今でもたくさんいる。

 浴室で常連客の男性と一緒になった。
 「子どもの頃から、よく親に連れて来られたよ。あせもなんか1、2回入れば治った。ここの湯に入ると、よその温泉は物足りなく感じるね」
 と話した。

 「旅館の仕事は長くて、大変だけど、お客さまが喜んでくだされば苦労とは思いません」
 そう言って、照代さんは笑った。


 <2012年3月28日付>

 ※「小三荘」 は現在、休業しています。
  


Posted by 小暮 淳 at 13:11Comments(0)湯守の女房

2021年08月02日

湯守の女房 (22) 「お湯に惚れ込んで、毎月来られるお客さまがいます」


 やぶ塚温泉 「開祖 今井館」 (太田市)


 群馬の温泉地は北毛や西毛に多い。
 やぶ塚温泉は、東毛の数少ない温泉地である。

 天智天皇の時代に開湯されたと伝わり、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に攻め入った時、傷ついた兵士をこの湯で癒やしたことから 「新田義貞の隠し湯」 とも呼ばれる。


 今井館の創業は定かではない。
 今井館に残る天保2(1831)年の古文書に 「薬湯」 という鉱泉宿を営んでいた初代主人、弥右衛門の名前がある。
 江戸時代後期には、すでに温泉宿を営業していたらしい。
 現主人の今井和夫さんで9代目だ。

 女将の道予さんは太田市の生まれで、専門学校のとき、大学生だった和夫さんと出会い昭和46(1971)に結婚。
 当時は木造3階建ての本館と別館が並び、100人以上が泊まれる湯治場としてにぎわっていた。

 「お湯に惚れ込んで、毎月来られるお客さまがいます。また、初めて来られた県内のお客さまは 『こんな近くに、こんないい温泉があった』 と驚かれます」

 昔から 「おできは、やぶ塚へ行けば治る」 と言われた。
 皮膚病に効き目があり、湯治客らは草津や伊香保で治らなかった “できもの” を、ここの湯で治したという。
 「薬湯」 と呼ばれてきたゆえんだ。


 言い伝えでは、八王子山とよばれる丘陵地のふもとに湯権現という小さな社があり、下の岩の割れ目から、こんこんと湯が湧いていた。
 ある日、温泉に1頭の馬が飛び込み、高くいななくと、雲を呼び、雨を起こして、天高く舞い昇って行った。
 すると温泉は、たちどころに冷泉に変わったという。

 その冷泉は、今も宿の裏にある温泉神社の石段下に湧く。
 源泉名を 「巌理水(げんりすい)」 といい、村人たちが守り続けてきた。

 泉質は、美肌効果のあるメタけい酸を含むアルカリ性の炭酸泉。
 温度が低いため加温しているが、手ですくうとズッシリと重く、トロリとしたぬめりがある。

 「よその温泉へ行くと違いが分かります。ここの湯は、まろやかで、よく温まり、肌がツルツルになると宿泊客に喜んでもらっています」


 源泉を加水して薄めることになるからと露天風呂は増設せず、内風呂を大切にしている。
 滞在する宿泊客にゆっくりと温泉に入ってほしいから日帰り入浴客もとらない。
 そんな湯へのこだわりが、ファンに支持されている。

 「温泉は天与の恵み。ご先祖様に感謝し、代々受け継がれてきた大切な温泉を守り続けていきたいと思います」
 と湯守の女房の気概をのぞかす。


 <2012年3月7日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:29Comments(0)湯守の女房

2021年07月30日

湯守の女房 (21) 「『この、にごり湯がいい』 とやって来られます」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。



 梨木温泉 「梨木館」 (桐生市)


 「ここは今も、私が来た頃と、まったく変わりません。周囲に民家や街灯すらない、本当に何もない山の中です」
 と、5代目女将の深澤正子さんは話す。

 梨木(なしぎ)温泉は、赤城山の一峰、長七郎山のふところにある。
 平安時代、坂上田村麻呂が赤城神社造営のおりに発見したと伝わる。
 渡良瀬川の支流、深沢川の奥深い谷間に一軒宿が建つ。


 正子さんは旧勢多郡東村 (現・みどり市) の生まれ。
 材木商の長女として育った。
 主人の亮一さんとは知人の紹介で出会い、昭和45(1970)年に結婚。
 同時に旅館に入った。
 亮一さんは平成18(2006)年、先代の死去にともない、当主が代々名乗る 「直十郎(なおじゅうろう)」 を襲名した。

 「結婚をするなら商売をしている人と決めていました。人と接して話をするのが大好きでしたから、学生時代も親戚の食堂でアルバイトをしていました」


 宿の創業は明治15(1882)年。
 それ以前は野天の湯屋があり、地元の人たちが入りに来る程度だった。
 大正時代になり旧国鉄足尾線 (現・わたらせ渓谷鐵道) が開通すると、湯治場としてにぎわった。

 しかし戦後、台風による水害で旅館に通じる県道が流され、昭和40(1965)年には火災で旅館が全焼。
 それでも東上州では数少ない温泉が湧いているため宿が再建された。


 鉄分を大量に含む黄褐色のにごり湯。
 成分が濃いために、析出物が堆積して浴槽の縁が変形してしまうほどだ。

 「『にごり湯は汚い』 と嫌われた時代があり、よっぽど湯をろ過して使おうと考えたこともありましたが、今となれば守り通して良かったと思っています。最近は、お客さまのほうが 『この、にごり湯がいい』 とやって来られます」


 名物は同54(1979)年に主人が考案した 「キジ料理」。
 刺し身、しゃぶしゃぶ、唐揚げ、つみれ鍋など、直営の養殖園で飼育されたキジを使った珍しい料理が、夕げの食卓に並ぶ。

 露天風呂付きの客室やビールサーバー、コーヒーメーカーの設置など、新たな温泉宿を演出するのは、長男で6代目の幸司さん。
 ホテル専門学校卒業後、石川県七尾市の和倉温泉の老舗旅館 「加賀屋」 で2年間、旅館経営の実務を学んだ。


 「従業員に恵まれ、子どもに恵まれ、女将業を続けていられるのも温泉があればこそ。他には何もない所ですが、そのぶん日常から離れて、ゆっくり過ごせる所なんです」

 そう言って女将は、赤城山の雪が風花となって舞う戸外を眺めた。


 <2012年2月22日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:23Comments(0)湯守の女房

2021年07月23日

湯守の女房 (20) 「炭火は人の心を癒やす力があります」


 上牧温泉 「辰巳館」 (みなかみ町)


 山あいの利根川沿いに建つ 「辰巳館(たつみかん)」 は、上牧(かみもく)温泉で最も古い老舗旅館だ。
 近くに水上温泉郷という大観光地をひかえながらも、ここは俗化されずに今も静かな湯治場風情を保っている。

 大正13(1924)年、田んぼに稲が枯れる場所があり、不思議に思った初代が原因を探ろうと掘ったところ、温泉が湧き出たという。
 当初は無料で村人に温泉を開放していたが、昭和2(1927)年に旅館を開業した。


 4代目女将の深津香代子さんは辰年生まれ。
 伊勢崎市生まれで、東京の大学生時代に群馬出身者の集まりで知り合った主人の卓也さんと24歳で結婚した。
 総合商社に就職した卓也さんと2年間、東京で暮らした。
 いずれ旅館に入ることは覚悟していたという。

 「旅館に入って20年になりますが、今でも宴会時のあいさつは、緊張して声がふるえてしまいます。最初は着物を自分では着れなかったものですから、一からすべて大女将に教わりながら今日まで何とかやってきました」


 10年ほど前、卓也さんと香代子さんは、辰巳館が目指す “三温(さんおん)” という言葉をつくった。
 <体を癒やす温泉の温もり>
 <心が和む人との温もり>
 <旬を食す炭火の温もり>

 炭火の温もりとは、宿の名物 「献残焼(けんさんやき)」 のこと。
 川魚や地鶏、旬の野菜などを炭火で焼きながら食べる上越地方の郷土料理で、その昔、高貴な人に献上した物のおすそ分けを焼いて食べたことから名が付いた。
 昭和40年代に先代が今の料理にアレンジした。

 「炭火は人の心を癒やす力がありますね。みなさん、ふるさとに帰ったようだと言ってくださいます」


 炭火で食に満たされ、心が和み、温泉が体を温めてくれる。
 泉質は、ナトリウムとカルシウムを含む硫酸塩・塩化物温泉。
 昔から 「化粧の湯」 と呼ばれている名湯である。

 “裸の大将” で知られる山下清画伯も、上牧の湯を愛した一人だ。
 昭和30年代に幾度となく訪れて、何点もの絵を描いている。
 なかでも 『大峰沼と谷川岳』 は、原画をもとに大浴場のタイル壁画になった。

 署名部分は清自身がタイルを貼った。
 絵の右端に、後ろ姿の清本人も描かれている。
 やさしい化粧の湯に抱かれながら、裸の大将を探すのも癒しのひと時である。


 「一度は行ってみたいという高級旅館ではなく、何度も普段着で行ける宿でありたい」
 女将の言葉が、いつもでも心に残っていた。


 <2012年1月18日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:20Comments(0)湯守の女房

2021年07月18日

湯守の女房 (19) 「 『また来るね』 の言葉が私の生きがいです」


 赤城温泉 「赤城温泉ホテル」 (前橋市)


 年配の人に 「赤城温泉ホテル」 といえば、「ああ、『あづまや』 ね」 と返事が返って来る。
 「あづまや」 とは、元禄13(1700)年創業の赤城温泉ホテルの旧名である。
 昭和54(1979) に改築され、いまの屋号になった。

 赤城温泉は、かつて 「湯之沢温泉」 といい、赤城山麓で、ただ一つの温泉地だった。
 応仁元(1467)年の薬師石像から室町時代には温泉があったことをしのばせる。
 国定忠治や新田義貞も、この湯につかったと伝わる。


 この老舗に現代風の女将がいる。

 「話し好きなものだから、ついついお客さんに言い過ぎてしまうことがあるんです。毎日、反省しています」
 そう言って10代目女将の東宮香織さんは、屈託のない笑顔を見せた。

 伊勢崎市生まれ。
 市内の居酒屋で知り合ったご主人の秀樹さんが、香織さんに一目ぼれをして猛アタック。
 6年間の交際を経て、26歳で結婚し、すぐ旅館に入った。
 子育ては、先代女将の喜久枝さんがサポートした。
 小学6年と4年の男児の母親である。

 会うたびに、女将業が天職だと思う。
 宴席などにも気軽に顔を出し、客からは 「ママ」 と慕われる。
 「本当に、いい女性(ひと)が来たよね」
 と、親戚は口々にいう。

 香織さんが考案し、数年前から個室風呂付きの別館で 「赤ちゃんプラン」 を始めた。
 「小さな子ども連れだと、どうしても他の人の視線が気になります。子どもが泣いても騒いでも平気な空間を提供したかった」
 と話す。
 部屋には、赤ちゃん布団や哺乳瓶、ミルク専用ポットなどが用意されている。

 「接客に心を砕いているつもりだけど、必ずしも皆が満足しているとは限りません。『また来るね』 の言葉が私の生きがいです」


 万病に効く薬湯として知られ、代々守り継いできた湯は、茶褐色ににごっている。

 露天風呂は、湯葉のような白い炭酸カルシウムの膜が湯面を覆う。
 「石灰華(せっかいか)」 と呼ばれる析出物で、温泉マニアにとって垂涎の的だ。
 内風呂は、浴槽の縁や洗い場の床に、温泉の成分が鍾乳石のように堆積している。

 これほどに濃厚な源泉が、加水も加温もせず、かけ流しされている。


 実は、主人の秀樹さんと私は、はとこ同士だ。
 私の母方の祖母が、ここの温泉で産湯をつかった。
 子どもの頃から慣れ親しんできた私のルーツの湯である。
 こうして、いまも湯に入れる幸せを、ご先祖様に感謝したい。


 <2011年12月21日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:56Comments(0)湯守の女房

2021年07月15日

湯守の女房 (18) 「つくづく温泉は生きていると感じます」


 川中温泉 「かど半旅館」 (東吾妻町)


 和歌山県田辺市の 「龍神温泉」、島根県斐川町の 「湯の川温泉」 とともに、「日本三美人の湯」 の一つになっている。
 川中温泉だけは一軒宿だ。

 源泉は、雁ケ沢の川底から湧いている。
 泉温が約35度と低く、熱交換式で温められているが、一切熱を加えていない昔ながらの源泉風呂もある。


 「『湯がぬるい。こんなの温泉じゃない』 って言われ、お客さんに泣かされたことが、たびたびありました」
 と、2代目女将の小林順子さん。

 榛東村生まれで25年前、ご主人の正明さんと見合い結婚した。
 温泉旅館の長男との結婚は、いずれ女将となって旅館を切り盛りすることを意味する。

 「夫の真面目な人柄に惹かれました。結婚した相手が、たまたま温泉旅館をやっていただけです」
 と話す。
 その清楚な表情は、ご主人の好きな竹久夢二の美人画に、どことなく似ている。

 「夫は結婚前から温泉の歴史や湯を守ることの大切さを語っていました。『温泉は誰のものでもない。有史以前から湧いている地からの恵みをうちが預かっているだけ』 が口癖でした」


 「日本三美人の湯」 に共通した美肌作用は、弱アルカリ性でナトリウムイオン、カルシウムイオンを含んでいること。
 皮脂がナトリウムイオンと結びつくと石けんのような洗浄効果をもたらし、カルシウムイオンと置き換わるとベビーパウダーのように作用するといわれる。
 とりわけ川中温泉はカルシウムイオンの量が多く、湯上りのツルツル感は群を抜いている。

 「最初は温泉の効能なんて、信じていなかったんです。でも実際にアトピーやニキビなどの症状が良くなったお客さんを何人も見てきましたからね。つくづく温泉は生きていると感じます」


 温泉の起源は古く、江戸時代には湯小屋が建てられ、明治時代には湯治場としてにぎわっていたという。
 しかし、昭和10(1935)年に集中豪雨に襲われ、旅館は跡形もなく押し流されてしまった。

 同22年、正明さんの祖父が、湯を惜しむ人たちのために旅館を再建。
 父の故・寿雄さんが初代館主に就いた。


 「ここに美人がいるわけじゃない。私は心の美人だよ、ワッハハ」
 先代女将の故・タミ子さんの豪快な笑い声が懐かしい。
 幅広の麺を野菜と一緒に煮込む郷土料理の 「おっきりこみ」 の麺を自ら打った。
 その伝統は夫妻に受け継がれている。


 <2011年12月7日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 09:45Comments(0)湯守の女房

2021年07月08日

湯守の女房 (17) 「『湯がいいね』 と言って通って来てくださるお客さんがいる限り、家族でがんばります」


 桜川温泉 「ふじやまの湯」 (川場村)


 「何もないところだから、せめて花を見せてあげたい」
 以前会った時に、そう語っていた2代目女将の中村せんさんが、今日も満面の笑みで迎えてくれた。
 田舎の親戚の家を訪ねたようで、思わず 「ただいま」 と言いたくなってしまう。

 民宿 「ふじやまの湯」 の開業は平成2(1990)年。
 前年の川場スキー場のオープンにともない、村が民宿経営者を募集したのがきっかけだった。
 地元で兼業農家をしていた父親が手を挙げた。


 「なんでも、ここは昔から “湯の気” があると言われていて、温かい水が湧いていた場所だったらしいですよ。父が 『民宿をやるなら温泉があったほうがいい』 と言って、オープンに合わせて掘ったんです」
 と女将。

 地下750メートルまでボーリングしたところ、毎分約300リットルというアルカリ性の単純温泉が湧き出した。
 温度が約30度と低いために加温しているが、浴感はツルツルとして心地よい。
 湯の中から腕を出すと、ワックスを塗ったようにコロコロと湯の玉が肌の上を滑り落ちていくのが分かる。


 浴室は丸太を組んだ山小屋風。
 「武尊山(ほたかさん)の焼き石」 と呼ばれる大きな溶岩石が、2つの浴槽の間に配され、野趣に富んでいる。
 内風呂ながら大きく窓を取ってあり、開放的で気持ちがいい。

 前回、訪れたのは初夏だった。
 浴室の窓から眺める庭には、クリンソウをはじめタイツリソウ、二ホンサクラソウ、シラネアオイといった山野草が一面に咲いていた。
 すべて女将が手塩にかけて育てたものだ。

 「同じ山野草でも、ここで咲くと花の色が違うと、花好きの人たちが言ってくれます」
 と、うれしそうに話す。
 標高750メートル、澄んだ水と空気と女将の愛情が作り出す、ここだけの風物詩である。


 大地の恵みは、地産地消にこだわった夕げの膳にも並ぶ。
 山菜のてんぷらやヤマメの塩焼きにはじまり、竹の子やコンニャクの煮物、酢の物、サラダにいたるまで、山と里の幸がふんだんに盛られている。

 お米はご主人の芳次さんと息子の久さんが作った自家米コシヒカリ。
 棚田の天日干しという昔ながらの手間をかけた味には、定評がある。


 「温泉がなかったら、続けてこられなかったでしょうね。『湯が言い』 と言って通って来てくださるお客さんがいる限り、家族でがんばりますよ」


 <2011年11月23日付>

 ※「ふじやまの湯」 は2018年に閉館しました。
  


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2021年07月01日

湯守の女房 (16) 「若かったから何も考えず、夢中になって働けた」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 霧積温泉 「金湯館」 (安中市)


 国道18号の旧道を碓氷峠の坂道にかかる手前で右に折れ、曲がりくねった県道を車で約30分。
 「金湯館(きんとうかん)」 近くまで続く林道の入り口はゲートで閉ざされているため、霧積(きりづみ)温泉のもう一つの宿 「きりづみ館」(※) の前で車を降り、山道を徒歩で上ること約30分。
 “秘湯” と呼ぶにふさわしい温泉宿である。

 「よく来てくださいました。お待ちしておりました」
 と女将の佐藤みどりさんが、笑顔で迎えてくれた。


 金湯館の創業は明治17(1884)年。
 当時は旅館が5、6軒、別荘が40~50棟立ち並び、9年後の信越線全通までは避暑地として、軽井沢より栄えていたという。
 伊藤博文、勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子、西条八十ら政治家や文人も多く訪れている。
 旧館2階には明治憲法草案がつくられたという部屋が残る。

 同43(1910)年の大洪水で、一帯は山津波に襲われ、金湯館以外の建物は泥流にのみ込まれた。


 みどりさんは昭和38(1963)年、旧松井田町 (現・安中市) から3代目主人の敏行さん (故人) のもとへ嫁いできた。
 前年の夏に宿でアルバイトをしたのが、出会いのきっかけだった。
 宿は、まだ水車や自家発電機を使っていた。

 電気、電話が通じたのは同56(1981)年のこと。
 敏行さんの兄弟ら10人の大家族だった。
 男は燃料や薪(まき)を担ぎ、女は洗濯や火鉢の炭おこしに追われた。

 「若かったから何も考えず、夢中になって働けた」


 20年前に長男の淳さんと結婚した若女将の知美さんが、かたわらでうなずく。
 彼女もまた旧松井田町の出身で、金湯館でのアルバイト経験がある。
 「自然が豊かだから、子育てには最適」
 と言うが、
 「インターネット回線が通っていないので、いまだにネット予約ができないんです」
 と苦笑する。


 <母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?>

 昭和52(1977)年、西条八十の詩の一節を引用した森村誠一の推理小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台のひとつとなった。
 「当時は、山道が渋滞するほど大混雑した」
 と、みどりさんは振り返る。


 代々守り継いできた源泉は、約40度とぬるい。
 炭酸を含んでいるため、体を湯に沈めると途端に、全身が泡の粒におおわれる。
 なんとも不思議な浴感だ。

 昔から泡の出る湯は、骨の髄まで温まるといわれるが、まさにその通り。
 湯上りは、いつまで経ってもポカポカと体が火照っていた。


 <2011年11月9日付>

 (※) 「きりづみ館」 は廃業しています。
  


Posted by 小暮 淳 at 17:59Comments(0)湯守の女房

2021年06月28日

湯守の女房 (15) 「安心で安全な食材を使って、自分の納得した料理を提供したい」


 尻焼温泉 「白根の見える丘」 (中之条町)


 草津白根山に源を持つ長笹沢(ながざささわ)川には、川床から温泉が湧く野天(のてん)の川風呂がある。
 座ると尻が熱くなることから 「尻焼(しりやき)」 の名が付いたといわれる。

 宿がある中之条町入山の根広(ねひろ)地区は、川から高低差で約80メートル。
 草履や筵(むしろ)づくりなど伝承文化に触れることができる 「ねどふみの里」 という体験施設がある。
 「ねどふみ」 とは、材料のスゲやカヤを温泉に浸け、足で踏んでやわらかくすること。

 「昔は旧六合(くに)村 (現・中之条町) のどの地区でも行われていたが、今はこの集落だけ」
 と2代目の中村善弘さんは語る。
 根広地区は源泉の権利を共有し、約20戸のすべての民家に温泉が引かれている。


 宿の創業は昭和49(1974)年。
 野反湖でキャンプ場の管理人をしていた父・弘治さん (故人) が、善弘さんの高校卒業を機に営業を始めた。
 草津白根山が望めることから2年前、創業時の 「白根ハイツ」 から 「白根の見える丘」 に改名した。


 調理室で割烹着姿の女将、ひろ子さんが豆腐を作っていた。
 草津町の出身。
 温泉街でバンド演奏をしていた善弘さんに見初められた。

 豆腐作りは、子育てが終わった10年ほど前、先代女将の義母から教わった。
 「かつては六合の女は、みな豆腐が作れた。だから抵抗はなかった」
 と、ひろ子さん。


 水は、善弘さんが往復4時間かけてくんできた東吾妻町の名水 「箱島湧水」。
 大豆は、赤城山麓の前橋市粕川町産など。
 市販豆腐の約3倍の大豆を使う。

 約15時間、湧水に浸けた大豆を機械で粉砕し、約25分間、灰汁(あく)を取りながら大鍋でかき混ぜる。
 布でしぼり、にがりを投入して、待つこと約20分。
 固まり出した豆乳を型に入れ、重しをして約45分。
 やっと1日限定12丁の木綿豆腐が、できあがった。

 「私自身が素性の分からない物を口にしたくないんです。安心で安全な食材を使って、自分の納得した料理を提供したい」
 と、出来立ての豆腐を手に、相好を崩した。


 夕食まで間があるので、源泉かけ流しの露天風呂に。
 湯舟のそばに、3センチ角のヒノキのブロックが300~400個入った箱が置かれている。
 ブロックをを湯に浮かせると香りが楽しめるだけでなく、湯が冷めづらくなるという。

 夕日に照らされて、遠くの山々が稜線を際立てている。

 湯から上がったら、濃厚な味の手作り豆腐が待っている。
 これを岩塩とオリーブオイルでいただく。
 ビールとの相性も抜群のはずだ。


 <2011年10月26日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:07Comments(0)湯守の女房

2021年06月25日

湯守の女房 (14) 「慰霊の園にふさわしい、自然の地形を生かした場所」


 月夜野温泉 「みねの湯 つきよの館」 (みなかみ町)


 みなかみ町と沼田市境にそびえる三峰山の中腹。
 関越道をまたぎ、宿と向かい合う丘に、高さ約20メートルの白い塔が立つ。

 女将の都筑理恵子さんの父で、戦時中に召集されて旧オランダ領東インド (現・インドネシア) のジャワ島で軍務についていた理(おさむ)さんが、昭和63(1988)年に建立した 「鎮魂之碑」 である。
 終戦直後、旧日本軍の残留兵とインドネシア独立派が、武器の引き渡しをめぐって衝突した 「スマラン事件」 によって、虐殺された戦友を慰霊している。

 「供養に訪れる遺族や関係者のために」 と温泉も掘削し、翌年から旅館経営を始めた。
 「父は、これは生き残った者の使命と言っていた。その父も2年前に、86歳で戦友の元へ旅立ちました」


 創業時、宿の経営は他者に任せていたが、2年後、前橋市で宅地造成業を営む父の会社で働いていた理恵子さんが、女将として宿に入った。
 心が癒される温泉宿らしい風情をもったのは、それから。

 「知らない土地で、相談相手もいない。素人の私が、年配のスタッフばかりのところに来たのですから、いつも逃げ出したい気持ちで、いっぱいでした」


 スタッフと知恵をしぼり、アイデアを出し合った。
 楽器が得意な者は、食後に客の前で演奏をした。
 菓子づくりが好きなスタッフは、ケーキを焼いたり、プリン、ヨーグルト、ジャムなどを作ったりして、客に振る舞った。

 なかでも年間2千個を売り上げるヒット商品がある。
 チーフの小林哲生さんが考案した自家製スモークチーズだ。
 敷地内にあった煙突の廃材を輪切りにして、スモーカーに見立て、リンゴのチップでチーズをいぶしたところ、評判になった。
 スモークチーズの予約をしてから泊まりに来る常連客も少なくない。

 「スタッフ、お客さま、地元の方々、いつでも人との出会いに助けられてきました」


 宿の自慢が、もう一つある。
 月夜野盆地を見下ろす “天空の湯舟” だ。

 左手に子持山から続く峰々を望み、正面には大峰山、吾妻耶山(あづまやさん)といった上州の名峰が連なる。
 眼下には棚田が広がり、こんもりとした鎮守の杜が、なんとものどかな山里の風景を描いている。
 日がな一日、何度入浴しても飽きない。
 しかも、新緑、紅葉、雪景色と四季折々に変化する。


 理さんは生前、著書 『嗚呼スマランの灯は消えて』(広報社) の中で、<慰霊の園にふさわしい、自然の地形を生かした場所> と記している。

 なぜ、鎮魂之碑をここに建てたのか?
 なぜ、温泉宿を造ったのか?

 すべての答えが、この風景にある。


 <2011年10月5日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:28Comments(2)湯守の女房

2021年06月19日

湯守の女房 (13) 「父は 『災厄をなくしたい』 と天狗堂を建て、新たな天狗面を奉納しました」


 沢渡温泉 「龍鳴館」 (中之条町)


 「私の余生は湯守(ゆもり)です」

 3年前に3代目女将を継いだ隅谷映子さんは、元県立高校の英語教師。
 沢渡(さわたり)温泉の旅館の長女に生まれ、家業を継ぐのは当然と思ってきた。

 「夫と結婚するときも、いずれは温泉宿をすることが条件でした」

 57歳で退職。
 両親が経営する宿がある沢渡温泉と、やはり高校教師だった夫や義父が暮らす伊勢崎市の自宅を往復する生活を続けた。
 先代女将の母の他界を機に、沢渡温泉に腰を落ち着かせた。


 前身は正永館(しょうえいかん)といい、大正時代に歌人の若山牧水が立ち寄っている。
 昭和3(1928)年に母の叔母が経営を譲り受けて、「龍鳴館(りゅうめいかん)」 と改名した。

 父の故・都筑重雄さんは、海軍の航空母艦の乗組員で、終戦後、町工場に勤めていた。
 親類から 「旅館を継いでほしい」 と言われたが、「商売は苦手だから」 と断り続けた。
 ある日、重雄さんは “お天狗様” と呼ばれる地元の占い師から 「北北西の沢渡へ行け」 と告げられた。
 同24(1949)年、2代目経営者となった。


 沢渡温泉の開湯は、建久2(1191)年と伝わる。
 翌年、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、浅間山麓でイノシシ狩りをした際に、発見したといわれる。

 明治までは草津帰りの浴客でにぎわったという。
 「一浴玉の肌」 と呼ばれるやさしい湯が、酸性度の強い草津の湯ただれを癒やす 「なおし湯」 となった。


 昭和20(1945)年、山火事に端を発し、1,500ヘクタール、136戸が焼けた 「沢渡の大火」 で温泉街も全焼した。
 昔から地元には守り神として天狗のお面があったが、大火の数年前に子どもがいたずらをして、お面の鼻を折ってしまったという。
 沢渡温泉は、同10(1935)年にも 「沢田村水害」 に見舞われていた。

 「父は、『災厄をなくしたい』 と、宿の裏山に天狗堂を建て、新たな天狗面を奉納しました」

 同56(1981)年の建立以来、毎年4月16日に天狗様の祭りをしている。


 温泉の温度は約55度。
 加水せず、窓の開閉で温度調節をする。
 温泉の成分を薄めずに提供したいという女将のこだわりからだ。

 ツーンと染み入るように、体の隅々まで馴染んでいく。
 硫黄のにおい(※)が心地よく、くせになる浴感である。


 浴室の隅に、頼朝が腰かけたと伝わる石が置かれている。
 表面の傷痕は、水害や大火をくぐり抜けてきた表れという。
 天狗のお面同様、沢渡温泉の安穏を見守っている。

 ※(正しくは硫化水素のにおい)


 <2011年9月21付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:22Comments(2)湯守の女房

2021年06月13日

湯守の女房 (12) 「湯を目当てに来るお客さんばかりだから、文句を言われたことはありません」


 白根温泉 「加羅倉館」 (片品村)


 片品村鎌田から国道120号を金精峠へ向かう。
 日光白根山系の加羅倉(からくら)尾根と赤沢山の谷間を流れる大滝川沿いに一軒宿はある。

 川風が涼しい。
 ヤマメやイワナを追う釣り人の姿が見られる。
 本館と別館の間に架かる赤い橋の上で、女将が出迎えてくれた。


 「突然、湯量が4倍になっちゃったの。浴槽から湯があふれ出て、洗い場まで池のようになって。100日ぐらい続いて元に戻ったけど」

 5代目湯守の女房、入澤澄子さんは東日本大震災後の異変について語った。
 震災で湧出が止った温泉さえある、それに比べたら……。

 「温泉あっての温泉宿だから」


 主人の眞一さんとは、勤務先の水上温泉の旅館で知り合った。
 転機は平成7(1995)年。
 眞一さんが知り合いから加羅倉館の管理人を頼まれ、澄子さんは反対した。

 「でも 『湯がいい』 の一点張りで、押し切られてしまいました」


 白根温泉は江戸初期には、すでに湯治場としてにぎわっていたという。
 大正時代には放浪の歌人、若山牧水が一泊し、日光へ旅立っている。
 オーナーの別荘だった別館には昭和27(1952)年、皇太子時代の天皇陛下(※1)が泊まっている。

 数軒あった宿も、今は加羅倉館だけになった。
 半地下式の浴槽棟は、その別館の前にある。
 オーナーが所有していた競走馬の温泉治療場の名残という。


 13本の源泉が自然湧出している。
 うち、使っているのは男風呂、女風呂、シャワー、厨房のたった4本。
 浴槽へは高低差を利用し、湯を流し入れる。

 泉質は、少し硫黄臭(※2)のする弱アルカリ性の単純温泉で、源泉の温度は約64度。
 多少、加水をしているものの 「熱くて沈めない」 と嘆く利用客もいる。
 しかし、徐々に体を湯に慣らしながらつかってみると、ツーンと骨の髄まで染み入るような浴感だ。
 ヘルニアやリウマチの治療のために通う湯治客も多いという。


 「昔ながらの温泉宿だけど、湯を目当てに来るお客さんばかりだから、文句を言われたことはありません。私もお客さんも互いに気をつかわないところが、いいんじゃないですか」
 と屈託なく笑う。
 湯もまた、けれんみのない生一本である。

 ※1 (掲載当時)
 ※2 (正しくは硫化水素臭)


 <2011年9月7日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:59Comments(0)湯守の女房