2020年08月31日
川原湯温泉 「やまきぼし」
<5年後には “旧七軒” と呼ばれていた旅館が、すべて揃います。そうすれば、もう少し温泉街らしくなると思います。>
(当ブログの2017年11月24日 「川原湯温泉のゆくえ④」 より)
うれしい知らせが届きました。
川原湯温泉(長野原町) の “旧七軒” の一つ、「やまきぼし」 が、代替地に移り、宿泊業を5年ぶりに再開しました。
冒頭のセリフは、3年前に雑誌の取材で川原湯温泉を訪ねた時に、川原湯温泉協会長であり、「やまきぼし」 社長の樋田省三さんから聞いた言葉です。
周知のとおり、旧川原湯温泉はダム建設計画から60余年後の今年、長い長い闘争と翻弄の日々を終え、湖底に沈みました。
かつては約20軒あった宿泊施設も、移転前には10数軒となり、現在、代替地で再開した宿は、「やまきぼし」 で6軒目となります。
僕が最初に旧川原湯温泉の 「やまきぼし旅館」 を訪ねたのは、30年ほど前のこと。
当時、勤めていた雑誌社の記者として、極寒の真冬に奇祭 「湯かけ祭り」 を取材しました。
その時、お世話になった宿が 「やまきぼし旅館」 でした。
でも、まだ駆け出しだったため、取材に夢中で、温泉と旅館の記憶は、ほとんどありません。
それから10年ほどして、もう一度、訪ねています。
この時はプライベートで、目的は “温泉王” といわれる作家の嵐山光三郎氏が命名した露天風呂の 「崖湯」 に入りに行きました。
当時、嵐山氏は頻繁に川原湯温泉を訪れ、老舗旅館の “旧七軒” のご主人たちと、「夜話会」 なる呑み会を開いていました。
たぶん僕は、作家として、そして温泉ライターの大先輩として、嵐山氏にあこがれていたのだと思います。
※川原湯温泉での 「夜話会」 については、嵐山光三郎著 『温泉旅行記』(ちくま文庫) に詳しく書かれています。
営業再開に際しては、樋田さんの長男、恒祐さんが後継ぎとして入り、素泊まりなどの需要に対応する新しいスタイルの湯宿 「やまきぼし」 として、再スタートするとのことです。
少しずつ、少しずつですが、新生・川原湯温泉に、にぎわいが戻りつつあります。
3年前の取材で、樋田さんは、これからの川原湯温泉について、こんなふうに話していました。
<次世代を担う若い後継者が、帰って来ています。私たちは過去を引きずっていますが、彼らには未来しかない。新しい川原湯温泉に期待しています。>
(「グラフぐんま」 2018年1月号、温泉ライター小暮淳の 『ぐんま湯けむり浪漫』 より)
僕も、大いに期待しています。
2020年07月12日
新鹿沢温泉 「鹿澤館」
また残念なニュースが飛び込んで来ました。
新鹿沢温泉(嬬恋村) の “シンボル” として親しまれてきた老舗旅館の 「鹿澤館」 の本館が、取り壊されることになりました。
昨年10月に東日本を襲った台風19号により、大量の土砂が流れ込む被害を受けて、営業を休止していました。
修復には膨大な費用がかかる上、そこへ、このコロナ禍の追い打ちをくらいました。
やむなく、営業の再開を断念したとのことです。
まさに、新鹿沢温泉のシンボル!
新鹿沢温泉に行ったことのある人ならば、必ず目にしたことでしょう。
その威風堂々とした佇まいは、訪れる者を圧倒しました。
木造2階建ての本館は入母屋造りで、瓦ぶきの屋根には千鳥破風 (屋根の斜面に取り付けた三角形の装飾版) が施されています。
また玄関前の車寄せは、寺社建築に見られる唐草絵の彫刻や格天井で造られています。
「鹿澤館」 の創業は昭和9(1934)年。
当時、洋風の旧本館や木造3階建ての客間などが次々と建築されましたが、同29(1954)の火災で、ほとんどが焼失。
かろうじて難を逃れたのが、現在の本館だといわれています。
温泉ファンは、ご存じだと思いますが、新鹿沢温泉は大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまった鹿沢温泉から移転し、再建された温泉地です。
湯元である 「紅葉館」 だけが旧鹿沢に残り、かつては7軒の旅館が新天地で営業を続けていました。
これで鹿澤館が再開を断念すると、新鹿沢温泉は3軒になってしまいます。
とっても残念です。
で、ここで、お知らせです。
同館を記録に残し、後世に伝えておこうと、鹿沢温泉観光協会と嬬恋村では、7月19日(日) に、「お別れ内覧会」 を開催します (参加無料、午後1時~5時)。
昔の写真の展示や同温泉街の入浴券の配布、同館を撮影対象とするフォトコンテストなどを実施する予定です。
詳しくは、動画投稿サイト 「ユーチューブ」 の 「さようなら鹿澤館 お別れ内覧会」 を、ご覧ください。
●問合/嬬恋村総合政策課 TEL.0279-96-1257
2020年06月23日
谷川温泉 「別邸 仙寿庵」
コロナ自粛解除後、初の温泉は、谷川温泉(みなかみ町) でした。
しかも仕事ではなく、プライベートでもありません。
それは何かと問われたら?
しいて言うなら、公務でしょうか!?
でも、「みなかみ温泉大使」 としてではありません。
無理やり、こじつけるならば、自称 “群馬の温泉大使” としての布教活動です。
世の中には殊勝な人たちがいるもので、こんな僕から夜通し温泉話が聞きたいと、わざわざ東京から3人の若者(男2、女1) が、群馬のみなかみ町くんだりまで来てくださったのであります。
しかも、「温泉夜話」 の会場に指定してきたのが、なななんと! 「別邸 仙寿庵」 だったのです。
仙寿庵といえば、群馬を代表する高級温泉旅館であります。
もちろん僕は、取材で何度か伺ったことはありますが、すべて日帰りです。
宿泊の時は、いつも本館の 「旅館たにがわ」 にお世話になっていました。
では、なぜ、若者たちが、そんな高級旅館を指定して来たのでしょうか?
理由を聞けば、納得。
3人が勤める会社の社長さん御用達のお宿なのだそうです。
それにしても、スゴイ!
でも理由はなんにせよ、そうと決まれば、自粛解除を祝って、豪華に優雅に存分に満喫しようじゃありませんか!
ということで、昨日は雨の中、いそいそと谷川温泉に向かいました。
ウェルカムドリンクの生ビールをロビーでいただきつつ、雨に煙る谷川岳を眺めながら、“ご褒美タイム” のスタートです。
ここからの景色のことを、僕は著書 『みなかみ18湯 (下) 』 の中で、こう書いています。
<対峙する山並みと庭園を包み込むように曲線を描く廊下は、あたかも美術館のようだ。天井まで続く漆喰(しっくい) と京土壁。和と洋の美しさが、自然の緑と相まって、なんとも不思議な空間を創り出している。>
約1000坪の建物内に、客室は18部屋のみ。
いわば、“デザイナーズ旅館” と呼ばれるブームの先駆者のような宿です。
設計を担当した建築家の羽深隆雄氏は、1998年に仙寿庵で日本建築仕上学会賞の作品賞を受賞しています。
また2016年には、旅行業界のアカデミー賞とも称されるワールド・ラグジュアリーホテル・アワードで、「Luxury Hideaway Resort」 を受賞しています。
ま、そんな宿ですら、取材するのと実際に泊まるのでは、大違いです。
広~い部屋に通されても、ポツンと一人ぼっちで、やることがありません。
主催者の3人が来るまでは、ひたすら温泉三昧に興じることにしました。
大浴場と露天風呂、そして客室の露天風呂と、温泉ライター冥利に尽きる贅沢な時間を満喫させていただきました。
午後6時過ぎ、おじいさん1人と若者3人が、宴の席に揃いました。
自分で自分のことを “おじいさん” と呼んだのは、だって、3人とも若いんですもの!
(僕の息子や娘より、若いのです)
「お会いできて、大変うれしいです」
「いえいえ、こちらこそ、こんな素敵な宿にお招きいただき、ありがとうございます」
「まずは、乾杯いたしましょう。小暮さんは、日本酒ですか?」
「あ、はい……いや、なんでも」
とかなんとか、世代間ギャップを跳ねのけるべく、一気にのんで、一気に酔って、マシンガンのごとく温泉説法を撃ちまくったのであります。
気が付けば、宿のスタッフから 「お時間です」 の合図。
「では、続きは僕らの部屋で」 との誘いに、「私は、もう歳ですから、このへんで」 と断ればいいものの、「いいですねぇ、行きましょう!」 と最年長の自覚もないまま、深夜のトークバトル会場へ。
結果、話のテーマは温泉から民話、はては妖怪から未確認生物までオーバーヒート!
それでも、楽しくて嬉しくて、久しぶりに笑い転げました。
やっぱり、これがリモートではない、“リアル飲み会” の醍醐味なんでしょうね。
少しずつですが、僕の日常が返ってきました。
2020年06月03日
老神温泉 「楽善荘」②
「ありがとうございます。お知り合いの方が、泊りに来てくださいました」
突然、老神温泉(沼田市) の 「湯元 楽善荘」 の女将さんから電話がありました。
本当に、お久しぶりです。
老神温泉には約15軒の宿がありますが、知る人ぞ知る老神ファン御用達の小さな宿です。
ご夫婦だけで商っているため、全室素泊まりのみ!
でも屋号に “湯元” と付いているだけあり、湯は絶品!
もちろん、加水なし、加温なし、完全放流式です。
だから僕は、取材等で温泉地に入り込む際は、時々、利用させていただいています。
「知り合い?」
「はい、○○様です」
○○さんが老神温泉へ行かれることは、事前にメールをいただいていましたが、決して僕は 「楽善荘」 の名を出して、薦めたわけではありません。
○○さんが、自分で選んだ宿です。
女将さんから 「ありがとうございます」 なんて、礼を言われる筋合いはありません。
そう答えると、こんな話もしてくれました。
「小暮さんのご近所という方が、泊りに来られたこともありましたよ」
「近所?」
「ええ、小暮さんは、よく散歩をしていると言ってましたから……」
「はあ……、では近所の方ですね」
僕には、思い当たる節がありません。
「小暮さんの読者だとも、言っていました」
「はあ……」
ますます分からなくなってきました。
町内に、僕の仕事を知っている、マニアックな温泉好きがいたのですね。
もちろん、僕には、散歩の途中で町内の人と、楽善荘の話をした記憶はありません。
いずれにしても、お二方とも、大の温泉好きで、僕の本を読んでいて、あまたとある群馬県内の温泉地と温泉旅館の中から、老神温泉の楽善荘を選んだということです。
僕の本を、そこまで読み込めるとは、かなりの温泉通であります。
「コロナの影響は、いかがですか?」
「ええ、大きな宿は、今月いっぱい休むようですよ」
「今年は大蛇まつり(5月) も中止になってしまいましたものね」
「本当にね、さみしい限りです」
女将さん、必ずまた、行きますからね。
それまで、ご主人と仲良く、元気でいてくださいね!
2020年03月16日
霧積温泉 「金湯館」⑩
朗報が飛び込んできました!
昨年10月の台風19号により、路肩が崩落して全面通行止めになっていた霧積温泉(安中市) へ続く県道の復旧作業が完了しました。
これにより、今まで陸の孤島だった一軒宿の老舗旅館 「金湯館」 の営業が本格再開しました。
良かった! 本当に良かった!
昨日の毎日新聞に4代目主人、佐藤淳さんのコメントが載っていました。
<設備に支障はなかったが、県道再開のめどが立たず、廃業も頭をよぎった。>
収入が途絶える不安から、転職も考えたといいます。でも、
<伝統ある旅館を自分の代で途絶えさせたくない。>
と女将の知美さん、先代女将のみどりさんとともに決意を固め、徒歩で来られる登山客らの受け入れを始めました。
※(当時の様子は、当ブログの2019年12月1日 「霧積温泉 金湯館⑨」 参照)
歴史をたどれば、“秘湯” と呼ばれる温泉は、いつの世も災害との闘いのくり返しです。
霧積温泉も例外ではありません。
金湯館の創業は、明治17(1884)年。
往時は旅館が5~6軒あり、別荘が40~50棟立ち並び、避暑地として大いににぎわっていたといいます。
伊藤博文や勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら政治家や文人たちも多く訪れています。
ところが同43年、一帯を山津波が襲いました。
そして、金湯館以外の建物は、すべて泥流にのみ込まれてしまいました。
その後、昭和30年代から親族が1キロ下流で旅館を開業していましたが、9年前に廃業。
金湯館は、また一軒宿になってしまいました。
県道寸断中のキャンセルは、延べ700人に上ったといいます。
それでもSNSには 「頑張って続けてください」 「再開したら行きます」 との励ましの言葉が寄せられました。
また、約30人もの登山客が、約3時間かけて訪ねて来たといいます。
湯よりも温かい、人の温かさを感じます。
良かったですね、淳さん、知美さん、みどりさん。
また会いに行きます!
2020年03月07日
尻焼温泉 「ホテル光山荘」③
<長笹沢川に架かる橋の名は 「尻明橋(しりあきばし)」 という。かつて 「尻焼(しりやき)」 の文字を嫌って、温泉名を 「尻明」 「白砂(しらす)」 「新花敷(しんはなしき)」 などと称した時代があった。この橋は、その頃の名残である。>
(『群馬の小さな温泉』 より)
“群馬の秘湯” と聞いて、尻焼温泉(中之条町) を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
一時、雑誌やテレビなどで、川全体が露天風呂になっている野趣あふれる写真や映像が紹介されるやいなや、秘湯ブームに乗っかって、大混雑したことがありました。
でも今は、また元の湯治場風情に包まれた静かな温泉地にもどっています。
前日の雪が残る中、昨日は久しぶりに取材で尻焼温泉へ行って来ました。
名物の川風呂には、平日の午前中にもかかわらず、数名の男性が湯を浴んでいました。
「あの人たち、近くでキャンプをしている人たちですね」
そう教えてくれたのは、川風呂から一番近い宿 「ホテル光山荘」 のオーナー、小渕哲也さんです。
彼とは、かれこれ10年以上の付き合いになります。
僕は、尻焼温泉のある中之条町の観光大使でもありますが、みなかみ町の温泉大使でもあります。
そして小渕さんは、みなかみ町のうのせ温泉にある 「旅館 みやま」 のオーナーでもあるため、双方の総会やイベントなど、その他もろもろで大変お世話になっている方でありす。
今回は、僕が雑誌の取材に来ることを知って、わざわざ旅館まで来てくださいました。
尻焼温泉の発見は古く、嘉永7(1854)年の古地図に温泉地として記されています。
川の中の野天風呂として村人たちが利用していたらしいのですが、温泉宿が建ったのは遅く、昭和になってからでした。
往時は5~6軒の旅館がありましたが、現在は3軒です。
その中で一番古い宿が、昭和52(1977)年創業の光山荘です。
宿名の由来は、創業者が “鉱山” を所有していたからだといいます。
そして3軒の宿の中で唯一、自家源泉を保有しています。
以前、僕は著書の中で、こんなふうに書いています。
<湯は熱いのだが、不思議とクールな浴感であることに気づいた。まるでミントの入浴剤に入っているような清涼感である。その感覚は、湯から上がっても変わらない。体が火照ることなく、汗も吹き出さない。なんとも涼しい湯である。>
「小暮さんの本を読んだ人が、実際に湯を確かめに来るんですよ」
小渕さんに言われたことがありました。
「それで?」
「みなさん、『本当ですね』 と納得して帰られます」
はたして、今日の湯は?
源泉の温度は約54度もあります。
それが加水されることなく、ドバドバとかけ流されているのですから、やはり熱いのです。
でも、ご安心を!
浴室には、大きな湯かき棒が置かれています。
これで豪快に、バシャバシャと湯をもんでやるのです。
すると不思議不思議、スーッと体が湯の中に入って行くのです。
それからは、上記のように著書に書いたとおりです。
清涼感があり、湯上がりも汗が出ませんでした。
「相変わらず、いい湯ですね」
「ありがとうございます」
「湯がいいのは、湯守(ゆもり) の腕がいいからですね」
「だったら私ではなく、毎日、湯をみている女将に言ってやってください」
だからロビーで、女将に言ってあげました。
「グッジョブ!」
いい湯に出合えると、本当に幸せな気分になりますね。
オーナー、女将さん、取材協力ありがとうございました。
2020年01月29日
上牧温泉 「辰巳館」⑧
今さら辰巳館については、語ることはないのですが……
大正時代に初代が温泉を発見した上牧温泉で最も古い旅館であること。
源泉は弱アルカリ性で、昔から 「化粧の湯」 と呼ばれ美肌効果があること。
「裸の大将」 で知られる山下清画伯が滞在して、浴室に大壁画を描き残した宿であること。
などなど、復習の意味も込めて、バスの中でスピーチをさせていただきました。
昨日は、NHK文化センターの野外温泉講座日でした。
僕は講師を11年務めています。
上牧温泉(みなかみ町) の老舗旅館 「辰巳館」 を訪れるのは、この講座では3回目となります。
昨年実施した受講生への 「もう一度行きたい温泉旅館」 のアンケートでも一番人気の宿です。
ということで、リクエストにお応えして2020年新春第1回目の講座は、辰巳館に決りました。
人気の理由は、湯の良さもさることながら 「献残焼(けんさんやき)」 と呼ばれる料理にあります。
雪深い上越地方に伝わる郷土料理で、高貴な方に献上した物のおすそ分けを焼いて食べたことから名付けられたといいます。
また昔、上牧では上杉と武田の豪族の戦いが長いこと続いたといわれ、武士が夕焼けの空を背に山菜や川魚を剣に刺して、焚き火にかざして焼いたからともいわれています。
赤々と燃える炭火の上で、串に刺した川魚や地鶏、旬の野菜を焼いていただきます。
辰巳館には、大切にしている 「三温」 と呼ぶ3つの “温もり” があります。
人の温もり、湯の温もり、そして、この旬を食す炭火の温もりです。
「かんぱーい!」
「今年もよろしくお願いしまーす!
湯上がりに地ビールを呑みながら炭火を囲んで新春の宴が始まりました。
受講生のみなさん、よろしくお願いいたします。
今年も名湯・秘湯をたくさんめぐりましょうね!
2020年01月10日
大胡温泉 「三山の湯 旅館 三山センター」⑬
「小暮さん、今年もよろしくお願いします」
毎年、正月の三が日が過ぎると、必ず電話をくださる女将さんがいます。
大胡温泉(前橋市) の一軒宿、「三山センター」 の中上ハツヱさんです。
もう、15年近く続いています。
思えば、大胡温泉との出合いは、とても衝撃的でした。
我が家から近いということもあり、ふらりと湯をもらいに立ち寄った時のことです。
帰りしなに、玄関前を掃除する女将さんとバッタリ会い、立ち話を始めました。
「とっても温まる、いい湯でした」
そう感想を告げた僕に、女将さんから返って来た言葉が、長い付き合いのはじまりでした。
「まさか温泉だったとは、私も驚きました」
「えっ、温泉だったって?」
「最初は、ただの井戸水を温めていただけだったのにね」
その言葉を聞いた僕は、
「ぜひ、取材をさせてください!」
と詰め寄り、2度3度、いえいえ、もう何十回取材に訪れたか分かりません。
<神経痛が治る魔法の井戸水は天然温泉だった>
<平成の世に湧いた痛みがやわらぐ奇跡の井戸水>
新聞や雑誌、著書などで、その不思議な湯について記事にすると、大反響になりました。
県内はもとより、県外からもウワサを聞きつけた浴客がやって来るようになり、しまいには、大学の教授までもが 「湯を調べたい」 と言って来たほどです。
以来、女将さんとは長い付き合いを続けています。
9年前、東日本大震災の時も僕は大胡温泉にいました。
群馬テレビで 『温泉ライター 小暮淳の素顔』 という番組を収録する時も、ロケ地は大胡温泉でした。
また昨年は、クリエーター仲間20名が集まり、大胡温泉で新年会を開きました。
「小暮さんがいなかったら、うちなんて、つぶれていましたよ」
なんて、うれしいことを言ってくれる女将さん。
だから僕は、いつも、こう返します。
「何言ってるんですか、湯がいいからですよ」
現在、大胡温泉は日帰り入浴はやっていません。
「宿泊客が多くなって、忙しくなっちゃったのよ。それに、もう歳だしね」
と笑います。
でも、宿泊客が増えたというのは、喜ばしいことです。
歳だって、まだまだ平均寿命内ですよ!
女将さん、元気で100歳まで続けてくださいね。
今年もよろしくお願いいたします。
2019年12月18日
馬頭温泉 「南平台温泉ホテル 観音湯」
“元祖 美人の湯”
その刺激的なコピーに誘われました。
元祖があるなら、本家も始祖も発祥もあるのだろうか?
そもそも 「美人の湯」 とは、なんぞや?
日本には 「三大美人の湯」 といわれる温泉があります。
川中温泉(群馬県)、龍神温泉(和歌山県)、湯の川温泉(島根県) です。
この3つの温泉に、共通の泉質はありません。
では、なぜ、この3つの温泉が 「美人の湯」 と呼ばれるようになったのでしょうか?
出典は大正~昭和にかけて発行された 『温泉案内』(鉄道省編) という冊子にあります。
これに 「色を白くする湯」 という項目があり、3つの温泉地の名前が掲載されています。
決して “美人になる湯” と書かれているわけではありません。
でも昔から肌の美しさは、美人の条件に欠かせないものでした。
そこで、美白→美肌→美人となったようです。
その “元祖” だといいます。
いかがな湯なのでしょうか?
ということで昨日は、僕が講師を務める野外温泉講座にて、その検証のために馬頭温泉(栃木県) へ行ってきました。
最初に源泉を掘り当てたのは、ホテルの創業者でした。
昭和48年(1973) のことですから 「日本三大美人の湯」 よりは、だいぶ後発の温泉地だといえます。
それでも “元祖” にこだわるのは、そのアルカリ度の高さゆえなのでしょう。
水素イオン濃度を示すPH値は、9.6です。
群馬県内の温泉でいえば、真沢(さなざわ)温泉(みなかみ町) と同レベルの高濃度です。
真沢温泉も地元では、「美人の湯」 と呼ばれています。
※(群馬県内には、さらに高濃度のアルカリ性温泉があります)
「うわ~、ウワサどおりのヌルヌルですね~!」
受講生たちは湯舟の中で、体をさすりながら、はしゃぎます。
「真沢の湯に近いですね」
とは、古参の受講生。
さすがです!
ピッタリとPH値まで一致しています。
「先生、私が誰だか分からないでしょう? キレイになり過ぎて!」
湯上がりに女性の受講生が、すり寄ってきました。
「あっ、本当だ! あんまり若くて美しくなっちゃって、気づきませんでしたよ(笑)」
でもね、必ずしも 「美人の湯」 = 「若返りの湯」 ではありませんからね。
美しい人は、より美しく。
そうでない人は、それなりにです。
さて、今年も1年間、この講座では県内外の名湯・秘湯をめぐって来ました。
来年は、どんな湯にめぐり合えるのでしょうか?
楽しみにしています。
2019年12月11日
宝川温泉 「汪泉閣」⑦
「グラフぐんま」(企画/群馬県、編集・発行/上毛新聞社) というグラビア雑誌をご存知ですか?
たぶん、群馬県民なら一度は見たことがあると思います。
県内の銀行や公共施設には、必ず閲覧用に置かれている雑誌です。
僕は、この雑誌に2年前から 『ぐんま湯けむり浪漫』 という記事を連載しています。
最新の12月号で、第24回を数えます。
そして、迎える新年号は?
「県から、雪の露天風呂シーンが欲しいとの要望がありました」
との相談が、前回の打ち合わせ時に担当編集者からありました。
長年、雑誌の編集に係わっていますが、この“季節感の要望” というのが、一番の悩みのタネであります。
そう、月刊誌にしろ、季刊誌にしろ、取材するのは発行の数ヶ月前なのです。
「桜の写真が欲しい」 と言われても、取材するときは完全につぼみの状態です。
雪だって、この暖冬では期待できません。
ので、取材日を引っ張って、引っ張って、現地の様子をうかがっていました。
そしたら先週、「みなかみ町で積雪15cm」 の報告が入りました。
「だったら、さらに奥の豪雪地帯で知られる藤原地区なら30cmは積もっただろう!」
とスケジュールを組んで、本日、宝川温泉へと行ってきました。
ところが……
暖かい!
持参したコートを一度も着なかったぐらい暖かいのです。
そして案の定、どこを探しても雪はありません。
遠く眺める谷川岳が、わずか山頂部分に雪化粧をしているだけです。
ということで、グラビアのカメラマンには後日、出動していただくことにして、僕と編集者、そして地元の観光協会職員に同行してもらい、取材を進めることになりました。
宝川温泉といえば、“天下一” と称される巨大露天風呂です。
4つある露天風呂の総面積は、約470畳分!
そのスケールは、川と見まがう大きさで、かつて温泉評論家たちが選ぶ 「全国露天風呂番付」 で、“東の横綱” の地位にに輝いたことがあるほどです。
でも、“天下一” と称される理由は、大きさだけではありません。
このサイズの露天風呂が、加温なしで、完全放流式(かけ流し) であることです。
それができるのも温度と、そして毎分約1,800リットルという恵まれた湯量があるからであります。
入浴シーンの撮影は、2番目に大きい(120畳) の 「摩訶の湯」 で行いました。
いつもは、著者1人での入浴が多いのですが、今回は同行した観光協会職員の男性にも一緒に入ってもらいました。
すでに、ご存じの方もいるかもしれませんが、ここの露天風呂は混浴(1つ女性専用あり)ですが、今年から男性も 「湯浴み着」 の着用が義務付けられました(女性は3年前から)。
僕は今までの取材では、いつも全裸だったので、なんとも違和感のある撮影でした。
でも今のご時世、外国人観光客も増え、スマホによる盗撮が多発している現状を考えると、仕方がないのかもしれませんね。
温泉ファンとしては、さみしい限りであります。
いずれ日本から(着衣なしの純然たる)混浴文化が消えてしまうのではないかと……
日本の温泉文化の未来に憂いながらも、無事、取材を完了!
今日も宝川温泉は、外国人のカップルやファミリーで、いっぱいでした。
クール・ジャパン!
(宿泊客の4割が外国人とのことです)
2019年12月04日
うのせ温泉 「旅館 みやま」③
「小暮さん、ありがとうございます」
「えっ?」
「記事にしていただいて」
「はあ……」
この時点で、僕は何のことを言われているのだか分かりませんでした。
電話の主は、県内で温泉旅館をいくつも経営するオーナーさんです。
過去に、たびたび取材でお世話になり、講演や会合でも顔を合わせています。
「令和元年11月15日の 『ちいきしんぶん』 です」
それを聞いて、やっと合点がいきました。
僕は現在、高崎市のフリーペーパー 『ちいきしんぶん』 に 「はつらつ温泉」 というコラムを連載しています。
このコラムで 「牧水ゆかりの宿」 と題し、歌人の若山牧水が訪れた温泉宿を紹介しました。
ただ、オーナーが経営する、うのせ温泉(みなかみ町) の 「旅館みやま」 に牧水が泊まったわけではありません。
牧水は、大正11(1922)年10月21日、沼田市の 「鳴滝」 という旅館に投宿しました。
その建物が、旧水上町に移築されて、現在の 「旅館みやま」 となりました。
コラムでは、そんなエピソードを書かせていただきました。
※(移築・再建までの詳細は、当ブログの2010年6月11日 「うのせ温泉 旅館みやま」 および 2013年1月22日 「うのせ温泉 旅館みやま②」 を参照)
「えっ、どうして、ご存じなんですか?」
ちいきしんぶんは、高崎市内だけに配布されているフリーペーパーです。
遠く、みなかみの地へ、どうやって運ばれたのでしょうか?
「お客さんですよ! この記事を持って、グループで泊まりに来られたお客さんがいたんです」
「へーーー!!!」
思わず、ため息をもらしてしまいました。
小さな冊子の小さな記事です。
それなのに、温泉ファン、牧水ファンは見逃さないのですね。
ああ、この仕事を続けていて良かった!
と、つくづく思いました。
「小暮さん、ぜひ、お出かけください。また一緒に飲(や)りましょう」
「はい、ぜひぜひ、お願いします」
牧水のように、旅を愛し、湯を愛し、酒を愛して生きていたいですね。
2019年12月01日
霧積温泉 「金湯館」⑨
今年は例年になく台風が猛威をふるい、全国に爪跡を残しました。
群馬は強風による被害は少なかったものの、大雨による災害が各地で起こりました。
温泉宿も例外ではありません。
台風19号による豪雨のため、霧積温泉(安中市) の一軒宿、金湯館へ向かう唯一の道路(県道北軽井沢松井田線) の路肩が約20メートルにわたり崩落して、現在も全面通行止めです。
車だけでなく、人も通れません。
それでも金湯館は、営業を続けています。
それは宿が長野県境にそびえる鼻曲山(1655m) への登山口にあるからです。
行楽シーズンの予約取り消しなどで大きな打撃を受けていますが、それでも温泉を愛する常連客たちが険しい山道を歩いて泊まりに来て、ご主人や女将さんを激励しているといいます。
先日、新聞に4代目若女将の佐藤知美さんのコメントが掲載されました。
<この状況がいつまで続くか不安な毎日だった。たくさんの人たちに励まされ、どんな状況でも頑張ろうと思えた。早急な対応に感謝している。>
群馬県は国と協議し、災害査定を待たずに事前着工する応急本工事を開始しました。
順調に進めば、来年1月末までに工事を完了する見通しです。
僕が最後に金湯館を訪れたのは、昨年の今頃でした。
雑誌の取材で3代目女将の佐藤みどりさん、4代目の淳さん、知美さん夫妻にお会いしました。
いつお会いしても明るく、あったかなもてなしで迎えてくださる素敵なご家族です。
道路が開通する頃には、宿のシンボルである “水車” が見事に氷結していることでしょうね。
それまで頑張ってくださいね。
また、会いに行きます!
2019年11月16日
高原千葉村温泉 「高原千葉村」④
温泉ファンの間では、“幻の温泉” とも呼ばれた群馬県内でもマニアックな温泉です。
その名も、高原千葉村温泉。
なぜ、そんなネーミングなのか?
場所は、みなかみ町相俣。
昭和48年(1973) に、千葉県千葉市が市民の保養目的しとて建てた施設なのです。
約41万500平方メートルの敷地にキャンプ場、スキー場、テニスコート、青少年自然の家、ロッジ、ログハウスなどの野外スポーツ施設を所有しています。
温泉が湧いたのは昭和53年(1978)。
昔から雪解けの早い所があり、掘削したところ湧出したとのこと。
ところが、この温泉が、たちまち評判になりました。
このあたりでは珍しい、硫黄を含んだ乳白色の湯だったのです。
「季節や天候によって色が変化する不思議な湯です」
最初の取材時、当時の管理事務所長さんが言った言葉を覚えています。
僕は過去に3回訪ねていますが、確かに3回とも色が違いました。
1回目は、少し緑がかった抹茶ミルク色。
2回目は、完全なる乳白色。
3回目は、半透明で湖のように神秘的なエメラルドグリーンでした。
では、なぜ、温泉ファンから “幻の温泉” といわれたのか?
まずは、群馬県にありながら千葉市の施設だということ。
もちろん一般客も 「市外者料金」 を払えば利用は可能ですが、あまり知られてなかったようです。
そして一番の理由は、日帰り入浴客を受け入れていなかったことです。
この二重のハードルのため、なかなか温泉ファンでも未体験の人が多い温泉でした。
さて、ここまで読んで、なにか気づきませんでしたか?
そうです! 僕の文章が 「でした」 と過去形なんです。
残念ながら、利用者数低下などの理由により今年の3月で廃止されてしまいました。
でも、ご安心ください!
みなかみ町が今年4月、千葉市から施設を取得いたしました。
そして現在、施設運営を希望する民間業者を募集しています。
ぜひ、温泉好きの経営者さんがいましたら、ご一報ください!
みなかみ温泉大使からのお願いです。
幻の温泉を復活させましょう!
●問い合わせは、みなかみ町観光商工課 TEL.0278-25-5018
2019年11月12日
赤城温泉 「赤城温泉ホテル」⑦
<成し終えて 赤城の山に 果てるとも 湧き出る湯こそ 吾命かな>
宿の玄関前で、8代目主人の故・東宮欽一さんが詠んだ歌が出迎えてくれました。
欽一大伯父は、僕の母方の祖母の弟であります。
「おじさん、また来たよ」
そう、心の中で歌碑に呼びかけながら、館内に入りました。
「大変、ご無沙汰しています」
「また、よろしくお願いいたします」
満面の笑みで出迎えてくれたのは、10代目主人の東宮秀樹さんと、女将の香織さん。
秀樹さんと僕は、はとこの関係になります。
「今でも小暮さんの本を持って来られる方がいますよ」
「うれしいですね」
「決まって、『著者の小暮さんとは親戚なんですよね』 と言われます(笑)」
本とは、2010年9月に出版した 『群馬の小さな温泉』(上毛新聞社) のことです。
この本で僕は、赤城温泉はかつて 「湯之沢温泉」 と呼ばれていたこと、赤城温泉ホテルの前身は 「東屋(あづまや)」 だったこと、そして、我が一族の “ルーツの湯” であることを書きました。
子どもの頃から、慣れ親しんだ温泉です。
創業300年の昔から先祖たちが、脈々と守り継いできた命の湯であります。
昨日は雑誌の取材で、赤城温泉へ行ってきました。
「相変わらず、いい色をしていますね」
カメラマンのT君が、浴室でセッティングをしながら言いました。
「あれ、T君は、ここ初めてじゃないんだ?」
「いやだな~、小暮さんたら! D(雑誌名) の取材で来たじゃないですか!」
そうでした、彼は、初代の 「海パンカメラマン」 でした。
もう、かれこれ10年以上も前の話です。
めぐりめぐって、また、こうして一緒に仕事をしているのも、彼とは縁があるんでしょうね。
※( 「海パンカメラマン」については、当ブログ内で検索をしてください )
今日も茶褐色の “にごり湯” は健在です。
加水なし、加温なし、完全かけ流しゆえ、その湯の色は濃厚です。
湯舟からあふれ流れた湯の通り道は、黄土色の析出物が堆積して、鍾乳石のような模様を描いています。
また露天風呂では、析出物が、まるでサンゴのように無数の突起を持ったオブジェを作り出しています。
さらに、運が良ければ見られるという 「石灰華(せっかいか)」 まで漂っていました。
これは温泉成分である炭酸カルシウムが、湯葉のような白い膜となって湯面を覆う現象のことです。
僕でさえ、今までに数回しか見たことがありませんから、かなりラッキーでした。
赤城温泉の歴史は古く、起源は古墳時代ともいわれ、奈良時代の書物には、すでに記述があります。
何百年、何千年と湧き続ける命の湯。
それを守り続けてきた先祖に、ただただ感謝であります。
2019年10月23日
増富温泉 「増富の湯」②
「先生の神通力は、大したものですね」
「さすが、“天気の子” です」
「いや、天気のオジサンですね!?」
バスの中は、笑いに包まれました。
台風20号から変わった温帯低気圧の影響で、昨日は朝から東日本は大雨となりました。
時おり強い雨が降る中、前橋駅と高崎駅から一行を乗せたバスは、上信越自動車道をひた走っていました。
NHK文化センターの野外温泉講座 「名湯・秘湯めぐり」。
この講座の講師となって、丸10年が過ぎました。
11年目の今年は、古参の受講生らからアンケートを取り、「もう一度行ってみたい温泉」 を再訪しています。
今月の講座では、5年ぶりに山梨県北杜市の増富温泉へ行って来ました。
ご存じ、世界最高レベルのラジウム含有量を誇る、日本を代表する放射能温泉です。
「あの強烈な体験が忘れられません」
という圧倒的な人気に押され、2回目の湯めぐりとなりました。
※(詳しくは当ブログの2014年7月23日 「増富温泉 増富の湯」 参照)
「ほら、日が差してきましたよ!」
僕は誇らしげに、空を指差しました。
「凄すぎます! 青空までのぞいています」
「ずーっと、みなさんのために、天に向かい念じていたのですよ」
受講生らは過去の奇跡を知っているだけに、完全に僕の神通力を信じきっています。
これまでに何度となく雨天の講座日はありましたが、必ず現地に着く頃には晴れているのですから。
今回も日帰り温泉施設の 「増富の湯」 にお世話になりました。
部屋で旅装を解いて休憩をした後、三々五々と浴室へ向かいました。
25℃、32℃、35℃、37℃と温度の異なる浴槽が並んでいます。
25℃は足を入れただけで、パス!
32℃から、ゆっくりと体を慣らしながら温度を上げていきます。
放射能泉ではありますが、正式な泉質名は、含二酸化炭素-ナトリウム-塩化物炭酸水素塩温泉です。
だから、なめると塩辛いし、微量ですが体に泡の粒が付きます。
鉄分も多く含んでいるため析出物が多く、黄褐色ににごっています。
上がり湯として用意してある浴槽が、42℃のゲルマニウム鉱石風呂です。
無色透明ですが、体の芯まで良く温まります。
「放射能泉は、湯あたり、湯ただれをしやすいので、長湯は禁物ですよ。自分の体調とよく相談して、午後の入浴を楽しんでください」
とりあえず講師らしいことも言いつつ、みんなで湯上がりのビールを飲み干したのでありました。
さて来月は、どこの秘湯へ……
令和元年度後期講座は、はじまったばかりです。
2019年10月18日
野栗沢温泉 「すりばち荘」⑤
訃報が飛び込んできました。
群馬県最南端の温泉宿、野栗沢温泉 「すりばち荘」 のご主人、黒沢武久さんが亡くなられました。
78歳でした。
僕が初めて黒沢さんにお会いしたのは、15年前でした。
雑誌の取材で伺い、そのまま泊り込み、夜遅くまで飲み交わした思い出があります。
「これを飲めば、絶対に二日酔いなんてしないから」
と、寝しなにコップで渡された源泉水。
おかげで、翌日はスッキリと目が覚めました。
午前5時、ご主人に連れて行かれたのは、海水を飲むことで知られる南国の鳥 “アオバト” が集まる源泉の湧出地です。
日本全国、鳥や獣が発見したという温泉伝説は、あまたとありますが、ここの温泉だけは伝説ではなく、史実なのです。
その 「魔法の水」 をパイプで引いて、温泉宿を開業したのが黒沢さんでした。
この取材を機に、僕はたびたび宿を訪ね、これまでに3冊の著書に野栗沢温泉のことを書かせていただきました。
※(2014年に出版した『新ぐんまの源泉一軒宿』の表紙写真は、「すりばち荘」です)
最後に黒沢さんにお会いしたのは、2年前です。
やはり雑誌の取材でした。
その時は日帰りの取材でしたが、「昼を食っていけよ」 と言って、うどんを打ってくださいました。
でも、ただのうどんではありません。
源泉水で打ったオリジナルの 「すりばちうどん」 です。
コシがあって、モチモチしていて、幅広で、塩気があって、独特の風味があります。
あのうどんが、もう食べられないなんて……
この15年間で一番思い出深い取材は、2012年8月に掲載された朝日新聞の 『おやじの湯』 でした。
この連載では、実際に温泉宿の主人と僕が一緒に温泉に入り、湯の中で対談をするという新聞史上でも画期的な企画でした。
その年の春、黒沢さんは最愛の奥様を亡くされていました。
その悲しみから食事がノドを通らなくなり、げっそりとやせていました。
それでも、「小暮さんの頼みじゃ、断れねえよ」 と言って、一緒に湯舟に浸かり、カメラに向かって笑顔を振りまいてくださっていたのが印象的でした。
※(当ブログの2012年7月18日「野栗沢温泉すりばち荘②」を参照)
源泉水で作ったオリジナルの石けんやシャンプーに、奥様の名前を付けるほどの愛妻家だった黒沢さん。
大好きだった 「いくこ」 さんに、会えましたか?
ご冥福をお祈りいたします。
2019年10月04日
相間川温泉 「ふれあい館」⑥
「群馬県内で一番濃い温泉は、どこですか?」
と問われたら、
「そうですねぇ…」 と、ちょっと悩んだふりをして、
「相間川ですかね」
と答えると思います。
“濃い” という表現の解釈は人それぞれでしょうが、「色」 「におい」 「味」 の3点から見て、そう答えさせていただきました。
現在、相間川温泉(高崎市) の源泉を利用している施設は2つ。
宿泊施設も併せ持つ 「ふれあい館」 と日帰り入浴施設のみの 「せせらぎの湯」 です。
今回、僕は雑誌の取材で、両方の施設の湯に入ってきました。
この地に温泉が湧いたのは平成7年(1995)3月のこと。
源泉の温度は約62度と高温で、湧出量は毎分約200リットルもありました。
何よりも工事関係者を驚かせたのは、温泉の色でした。
湧出時は無色透明ですが、時間の経過とともに赤褐色へと色を変えます。
これは、鉄分を多く含んでいるためです。
また塩分濃度が高く、なめると塩辛く、湯の中で体を移動させようと手を突くとフワリと浮くほどでした。
そして何よりも、そのニオイ!
金気臭にまざって、油臭がします。
これは地下に閉じ込められていた微生物が、地熱と地圧により変化したものと考えられ、原油の生成過程と同じ原理だといいます。
さらに湯舟の表面には、この油の膜が張ります。
これが日光に当たると七色に変化することから 「虹色の湯」 とも呼ばれるようになりました。
源泉名は 「せせらぎの湯」。
ですが、入浴施設として先に開業したのは 「ふれあい館」 です。
でも源泉の湧出地は 「せせらぎの湯」 の敷地内にあります。
「せせらぎの湯」 は、平成12年に旧倉渕村の福祉センターとしてオープンしました。
ということで、湧出地と浴槽の距離が近いからでしょうか?
いつ訪ねても、「せせらぎの湯」 のほうが色は濃いようです。
でもニオイは、「ふれあい館」 のほうが強く感じます。
味はどちらも、とっても塩辛いです。
「個性的過ぎる湯だから、お客さんの好き嫌いは分かれるでしょうね?」
と訊けば、
「ですね。でも、嫌う人は100人に1人か2人ですよ」
と笑ったのは 「ふれあい館」副支配人の秋山博さん。
「ただ、成分が濃いので、湯あたりをする人が多いのが悩みのタネです」
そう言って、浴室の貼り紙を指さしました。
「これ、私が考えたコピーなんですけどね」
<カップラーメン お湯を注いで3分 相間川の温泉(おゆ) 入って7分! これ以上は のびるだけ>
うまい!
山田くーん、座布団3枚!
ということですので、訪れる際は、長湯は禁物です。
2019年09月25日
鹿沢温泉 「紅葉館」⑥
やっぱ、すごい!
グイグイ、しめ付ける。
ジンジン、しみて来る。
ビリビリ、しびれる。
さすが、群馬を代表する高品質の湯であります。
僕が講師を務めるNHK文化センター主催による野外温泉講座 「名湯・秘湯めぐり」。
毎月、バスで県内外の温泉をめぐっていますが、おかげさまで、この講座も11年目を迎えています。
ということは群馬県内に約100ある温泉は、ほとんど訪ねたわけでして、なので今年からは在校生にアンケートをとって、“もう一度行きたい温泉” のリクエストが多かった人気の温泉宿を再訪しています。
泉質部門で圧倒的な人気を誇ったのが、群馬県嬬恋村にある鹿沢(かざわ)温泉の一軒宿 「紅葉館(こうようかん)」 でした。
鹿沢温泉へ向かう群馬県側の道路が整備されたのは、戦後になってからでした。
それまでは長野県側からの湯治客ばかりでした。
長野の人たちには、今でも “山の湯” と呼ばれ親しまれています。
長野県東御市(とうみし)新張(みばり) から湯の丸高原のある地蔵峠を経て、鹿沢温泉までの約16キロにわたる県道沿いには、100体の観音像が安置されています。
昔、この道は 「湯道」 と呼ばれ、湯治場へ向かう旅人たちの安全祈願と道しるべを兼ねて、江戸時代の末期に立てられたものです。
その湯治場こそが鹿沢温泉であり、現在でも湯元として湯を守り続けている紅葉館の入口前に、ちょうど100番目の立派な観音像が立っています。
「きゅうじゅうはち、きゅうじゅうきゅう、ひゃーーーーく!」
バスの中では、受講生全員が観音像を数えながらカウントアップを楽しみました。
「やっぱり、すごい湯ですね~」
と以前にも来たことのある古参の受講生が言えば、
「わ~、こんな湯は初めてですよ!」
と新入生が驚きの声を上げます。
源泉の温度は約47度。
湧出量は毎分約60リットル。
そして最大の魅力は、源泉の湧出地と浴槽との距離が、わずか10メートル!
湧き出した湯が、地形の高低差のみを利用して、そのまま浴槽へ流れ込んでいます。
「自然湧出」 「自然流下」 「完全放流(かけ流し)」
僕が推奨する “いい湯の3条件” をすべて満たしている温泉なのです。
浴室の入口には、日本温泉協会の査定による 「天然温泉 温泉利用証」 が掲げられています。
これは温泉と浴槽の成績表で、実際に入る温泉の <自然度> <適正度> が、6項目5段階で評価されています。
で、ここは、「源泉」 「泉質」 「引湯」 「給排湯方式」 「加水」 「新湯注入率」 の6項目で、すべてオール5の評価を受けています。
全国には約3,000ヶ所の温泉地があります。
その中で、オール5の評価を受けている施設は、17軒しかないといいます。
その17軒のうちの1軒が、鹿沢温泉 「紅葉館」 なのであります。
「うーーーっ、このガツンと迫り来る湯の存在感がたまりません!」
熱いのですが、沈めない熱さではありません。
足、腰、胸と徐々に湯に慣らしながら沈めば、やがて肩まで入れます。
そして、全身を羽交い締めにするようにグイグイと締めつける浴感は、唯一無二の湯です。
まだ未体感の人は、ぜひ一度、「雲井の湯」源泉のワイルドな湯を味わってみてください。
ご主人、女将さん、息子さん、大変お世話になりました。
次回の人気投票でも、必ず選ばれると思いますので、また来ますね!
2019年09月18日
倉渕川浦温泉 「はまゆう山荘」③
今日は、温泉の謎を解き明かしに行ってきました。
訪ねたのは高崎市(旧倉渕村) の一軒宿、倉渕川浦温泉 「はまゆう山荘」。
一軒宿の山荘と呼ぶには、しょう洒で立派な建物です。
その佇まいは、さながら中世ヨーロッパの古城を思わせる重厚な造りのリゾートホテルです。
それもそのはず、実はこの建物、昭和62年(1987) に神奈川県横須賀市と旧倉渕村が友好都市関係にあつたことから、横須賀市民の休養村として設立されたものです。
だから宿名も横須賀市の市花 “浜木綿(はまゆう)” なのであります。
では、なぜ海辺の大きな市と山奥の小さな村が友好都市関係なのか?
その理由についてを書き出すと長くなりますので、拙著 『新ぐんまの源泉一軒宿』 や 『西上州の薬湯』 等をお読みください。
ということで、オープン当時は温泉宿ではありまでした。
きっかけは平成18年(2006) の高崎市との合併でした。
翌年、念願の温泉掘削となり、2年後の同21年3月より 「倉渕川浦温泉」 としてリニューアルオープンしました。
当時、“群馬に新たに温泉宿が誕生した” というニュースを受けで、すぐさま取材に行った記憶があります。
2009年9月に出版した拙著 『ぐんまの源泉一軒宿』(絶版) にも、<県内でもっとも新しい温泉宿である。> と記述しています。
そして、湯については、こんな表現をしています。
<湧き出た湯は、黄金色した45度の高温泉。>
ところが、あれから10年経った現在、源泉の温度は32度と下がり、湯の色は無色透明になっています。
しかし泉質に変化はありません。
はたして、これはどういうことなのか?
今回の取材によって、思わぬ事実が判明しました。
なぜ、温度が下がってしまったのか?
なぜ、湯の色が消えてしまったのか?
いずれ、何かの機会に報告いたします。
これだから、温泉は楽し!
2019年08月28日
逆巻温泉 「川津屋」
長年、「さかまき」 と読んでいました。
でも、正しくは 「さかさまき」 でした。
宿の女将さんが教えてくれました。
昨日は、月に1回の野外温泉講座日でした。
僕はNHK文化センター前橋教室の講師をしています。
講座名は、「名湯・秘湯めぐり」。
県内外の有名温泉地の旅館から秘境の一軒宿まで、毎月、バスでめぐっています。
今回訪ねたのは、新潟県中魚沼市津南町秋山郷にある小さな宿です。
逆巻温泉 「川津屋」。
日本秘湯を守る会の会員宿でもあります。
「オー!」 「ワー!」
バスの中は、目の前の絶景に大はしゃぎです。
中津川渓谷沿いの道を、バスは車体を大きく揺らしながら進みます。
両岸の山肌が、ぐんぐんと狭まり、覆いかぶさるように迫ってきます。
国道から離れ、急な坂道を下り、渓谷を見下ろす猿飛橋を渡って、対岸の山道を上り出すと、喚声は悲鳴に変わりました。
「キャー!」「やめてー!」「落ちるー!」
ガードレールもなく、道幅も車体ギリギリの断崖を、くねくねとバスは上りはじめました。
やがて前方に白い旅館の建物が見えてきました。
「はい、お疲れさまでした。着きましたよ」
と僕が言えば、
「先生、生きた心地がしませんでしたよ」
「バスが落ちて死んでも、このメンバーなら悔いはないな」
と誰かが笑いを誘います。
だから僕は言ってやりました。
「それより明日の新聞記事が気になって、死ねませんね」
また笑いが起こりました。
逆巻温泉の開湯は明治時代。
イワナ釣りに来た先祖が、岩の割れ目から流れ落ちる湯を発見し、宿を開業したのが始まりといいます。
その湧き出した湯を、そのまま湯舟に注ぎ入れているのが、「洞窟風呂」 です。
岩盤がむき出しの洞穴から、約40℃の源泉が湧き出ています。
「いやー、こりゃ、最高ですね」
「来た甲斐があるというものです」
まずは男性陣が、先に風呂をいただきました。
浴槽は3~4人しか入れませんので、何回かに分けて、男女交替で入りました。
湯上がりは、渓谷を望む庭に出て、“絶景ビール” をいただきました。
ベンチとブランコがあるのです。
もちろん、僕はブランコに揺られながら、喉をうるおしました。
時おり、アキアカネがやって来て、缶ビールのふちに止まります。
深山は、すでに秋の気配です。
昼食は、すべて山の幸に徹底した “ごちそう” です。
川魚と山菜料理、海のものは一切ありません。
そして極めつけは、宿自慢の 「熊汁」 です。
じっくり2日間煮込んだ熊肉は、やわらかくてクセもなく、大変おいしくいただきました。
古参の受講生いわく、
「今までで、最高の料理ですね」
秘湯の宿ならではのもてなしに、みなさん大満足の様子でした。
講師としても、うれしい限りであります。
さて、来月も秘湯の宿を訪ねます。
みなさん、乞うご期待ですぞ!