2021年08月21日
マジョリティの正義
僕は子どもの頃から、人と同じことをしたり、人と同じ物を持つことを極端に嫌う少年でした。
たとえば、小学校の授業で使うリコーダーやそろばん、習字セットなども、学校で購入する指定の物は買わず、アニキのお古を使っていました。
もしかしたら親に余分な負担をかけたくないという思いやりからだったのかもしれませんが、本人は、それが恥ずかしい事でも、イヤな事でもありませんでした。
むしろ、人と同じ物を使っていることの方が、耐えられなかったのです。
遊びも同様。
当時の男の子たちは、みんな野球少年でした。
放課後は公園や神社の境内、原っぱなどで必ず、「手打ち野球」 をして遊んでいました。
でも僕は、そこでも馴染めません。
みんなと同じことをする行為に、嫌悪感を抱いてしまうのです。
だから、当時はまだ少数派だったサッカーをやっていた記憶があります。
習い事も、しかり。
女の子はピアノ、男の子は少年野球チームが定番でした。
そして男女とも、学習塾に通うのが “多数派” でした。
でも僕は、剣道と絵画教室でした。
理由は、「やりたかったから」 ではなく、「人と違うことをしたかったから」。
今でいうマイノリティ (社会的少数者) っていうやつなんでしょうか?
とにかく、人と同じことや人と群れることが嫌いな少年でした。
先生から 「将来の夢・なりたい職業」 という課題が出されたことがありました。
この時、僕は何一つ具体的なことを書いていません。
たった一文、≪自分にしかできないこと≫ と記しています。
長じて今、僕はライターという職業に就いているわけですが、はたして初志貫徹しているかは、はなはだ疑問ではありますが、マイノリティを目指した結果だったことは間違いありません。
さて、マイノリティの対極にある言葉は、マジョリティ (多数派) です。
とかく世の中は、このマジョリティが支配しています。
僕が最も嫌う “多数決の正義” が生まれるからです。
また、イヤな事件の報道がありました。
今年3月、北海道旭川市で中学2年の女子生徒が、いじめにより死亡した事件です。
この女子生徒の母親の代理人弁護士が記者会見を開き、手記を公開しました。
それによると母親は、学校にいじめの疑いを訴えた際、教頭からこのように言われ、突き放されたといいます。
『10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか?』
でましたーー!!
伝家の宝刀、“多数決の正義” です。
「大は小を兼ねる」 を超え、「多は少を滅す」 という、なんともおぞましい勝手きわまりない論理であります。
まったく、この国ときたら……
何十年経っても、相変わらず生きにくい国であります。
Posted by 小暮 淳 at 12:11│Comments(0)
│つれづれ