2021年08月28日
湯守の女房 (27) 「毎日、あの山に感謝しています」
谷川温泉 「旅館たにがわ」 みなかみ町
「旅館業は、良いことも悪いことも、すぐにお客さまから反応が返ってくる仕事。お客さまの 『また来るよ』 の言葉に支えられて、今日までやって来ました」。
2代目女将の久保容子さんは、そう言って、手が届きそうなほど近くに見える谷川岳を客室の窓から見つめた。
「谷川岳あっての谷川温泉です。毎日、あの山に感謝しています」
高崎市の旅館の三女に生まれた。
宿主人の富雄さんとは、高校から大学まで同級生。
学生時代に友人らと富雄さんの実家がある谷川温泉を訪れ、谷川岳の雄大な景色を見た。
「群馬にも、こんなに素晴らしいところがあったのか」 と感動した。
田舎暮らしにあこがれていたこともあり、卒業後の昭和44(1969)年に結婚。
数軒の宿が並ぶ、小さな谷川温泉に来た。
<水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった>
国道291号から離れ、温泉街へ向かう道の途中に作家、太宰治 (1909~48) の文学碑がある。
ここ谷川温泉を舞台にした小説 『姥捨(うばすて)』 の一節が刻まれている。
「旅館たにがわ」 の駐車場にも、太宰の記念碑が立つ。
昭和11(1936)年8月、太宰治は療養のため約1ヶ月間、この旅館の前身の 「川久保屋」 に滞在した。
このとき執筆した 『創生記』 は、代表作 『人間失格』 を書くきっかけになったといわれる。
ここでの滞在経験をもとに2年後、『姥捨』 も発表。
川久保屋は昭和20年代に経営者が代わり、その後、取り壊され、「旅館たにがわ」 の駐車場となった。
太宰との関係は、昭和50年代に太宰治研究家の故・長篠康一郎氏が訪ねて明らかにした。
長篠氏は、川久保屋に太宰が滞在したことを確認し、著書に発表した。
「長篠さんは何日か宿泊して、温泉街を歩き回って取材していました」
と女将は振り返る。
昔、神の化身の美しい娘が川で身を清め、裾を洗うと温泉が湧き出したという伝説から、源泉は 「御裳裾(みもすそ)の湯」 と名付けられ、薬師堂が祀られている。
その湯は無色透明の弱アルカリ性単純温泉。
やや熱めで、肌にやさしくまとわり付く独特な浴感がある。
太宰は、あこがれの芥川賞の落選を、川久保屋滞在中に知った。
さぞかし悲痛な思いで、湯に身を沈めたことだろう。
今年も太宰治の命日である6月19日の 「桜桃忌」 には、女将や従業員ら約10人が、道端の文学碑と駐車場の記念碑に白菊を供えた。
館内にはミニギャラリーが設けられ、長篠氏から寄贈された太宰の初版本や写真、遺品など約50点が展示されている。
<2012年6月20日付>
Posted by 小暮 淳 at 12:49│Comments(0)
│湯守の女房