2025年05月14日
ゆがんだ論法
イヤだ、イヤだ、イヤだ!
最近、こんな事件ばっかりです。
「『誰でもよかった』 のなら、我々にしてほしかった」
これは、先日、千葉市の路上で高齢女性が殺害された事件の容疑者、中学3年生の男子生徒の祖父母のコメントです。
胸につまされるコメントです。
僕の孫も容疑者と同じ、中学3年生の男子です。
もし、同じ立場なら祖父として、同じコメントをしたと思います。
「誰でもよかった」
最近の通り魔事件で、よく聞く言葉です。
本来、殺意は個人に抱くものです。
うらみ、つらみ、ねたみの矛先は、自分を傷つけた特定の人に向けられます。
ストーカー殺人など、その最たるものです。
でも 「誰でもよかった」 とは?
逮捕後、この男子生徒は、こう供述しています。
「家を出たかった」
それには、
「少年院に入れば家を出られる」
そのためには、
「人を殺すのが確実だ」
だから、
「誰でも良かった」
なんですか!? この論法は?
訳が分かりません。
ところが最近の事件の容疑者は、そろって同じ言葉を発しています。
大阪の下校途中の小学生を車でひいた男
愛知の祖父母を殺害した高校生
それぞれ 「誰でも良かった」 と供述しています。
あまりにも自分勝手な論法です。
「家を出たかった」 のであれば、家を出ればいいだけで、人を殺す必要はありません。
この短絡的で、ゆがんだ論法が、なぜか今、蔓延しています。
男子生徒は、まず、家を出るべきだったのです。
もし僕の孫が、同じ相談をしてきたら、彼を地球の果てまで逃がしてやろうと思います。
ついでにジイジも一緒に、現実から逃げまくります。
2025年05月13日
ハッとしてP
この感情は、何なんでしょうか?
老いらくの恋?
いえいえ、そんなに激しいものじゃありません。
いうならば、親心のようなものでしょうか……
我が家の近くには、4軒のコンビニがあります。
徒歩で行ける範囲に2軒、自転車で行ける範囲に2軒。
ふだんは一番近いコンビニを利用しています。
先日の日曜日、車で外出した帰りに、ふだんは利用しない4番目に近いコンビニに寄りました。
レジへ行くと、店員はいません。
「あの~、すみません!」
僕が大きな声で呼ぶと、
「は~い、いらっしゃいませ~!」
と奥から若い女性が出てきました。
「あっ!」
と僕が叫ぶと、
「あっ!」
と、女性店員も叫びました。
そう、Pちゃんじゃありませんか!!
読者の中には、覚えている人もいるかもしれませんね。
今年の冬に、足しげくおでんを買いに行っていたコンビニの店員です。
(2025年1月29日 「Pちゃんの汁だくおでん」 参照)
Pちゃんはネパールから来た、語学学校に通う学生です。
土日だけ、我が家から一番近いコンビニでアルバイトしています。
僕らは、客と店員として出会いました。
おでんの販売が終了してからも、なんとなく彼女の顔が見たくなって、なんだかんだと買い物の用事を作って、土日になるとコンビニを訪れていました。
そしてレジで、他愛のない世間話をしていました。
故郷ネパールのことや学校のこと、日本での生活などなど……
僕の質問に、嫌な顔をせず笑顔で答えるPちゃん。
おのずと愛着が湧いてきます。
「あれ、店、変わったの?」
「同じオーナーの店です」
「なんだ、ビックリした」
「たまたまです」
彼女は、この日だけの助っ人店員だったようです。
それにしても奇遇です。
なにか特別な縁を感じます。
(だから、たまたまだって!)
「じゃ、がんばってね」
「いつもありがとうございます」
異国の地でアルバイトをしながら勉学に励んでいるPちゃんが、なぜか、とっても愛しいのであります。
しかも大都会ではなく、こんな地方都市の小さな町のコンビニで。
故郷の親御さんは、さぞや心配していることでしょうね。
“日本のお父さん” になってあげたくなるのです。
いえいえ、歳の差からみたら祖父であります。
なんでも、いいじゃありませんか。
がんばれ、Pちゃん!
次に会うのは、どこのコンビニなのでしょうか?
楽しみが増えました。
2025年05月12日
白秋のバイブル
青春のバイブルといえば、僕の場合、五木寛之の 『青春の門』 (講談社文庫) でした。
高校時代、夢中になって読んだ記憶があります。
今でも書架には、シリーズ全巻が揃っています。
では、60歳を過ぎた現在のバイブルは?
ところで、「青春」 の対義語って知っていますか?
「白秋」 です。
老年期のことで、50~75歳くらいまでの、人生の実りを楽しむ期間だそうです。
ということは、まさに現在の僕は、“白秋まっ只中” なのであります。
50代後半から、くり返し読んでいる本があります。
やはり五木寛之なんですね。
『大河の一滴』 (幻冬舎文庫)
以前、このブログでも触れています。
(2024年5月24日 「腹五分で行こう!」 参照)
『大河の一滴』 は、27年前のベストセラーです。
五木寛之が、このエッセイを書いた時の年齢が、ちょうど今の僕の年齢なんですね。
そんな縁もあって、最近になって、また読み返しています。
人生とは面白いもので、年齢によって見えている世界は異なります。
若い時に見えていたものが、老いると見えなくなり、また若い頃に見えなかったものが、この歳になると見えてくるのです。
この本は、読み返すたびに、そんな “気づき” を、さりげなく教えてくれます。
こんな話が載っています。
老子と弟子の別れのシーンです。
弟子は老子に、こう言います。
「先生、私は長いあいだ先生のもとで一生懸命、学んできました。でも先生は、これまで一度も、人生の真実とはこのようなものである、という決定的なことを私に教えてくださることがありませんでした。(中略) 最後に、お願いですから、なにかひと言で結構ですから、これが人間の存在というものだよ、人生の真実というものだよ、という大事なひと言を私のために、別れに際して教えていただけませんでしょうか」
これに対して老子は、自分の口を大きく開けると、口の中を指さして言いました。
「どうだ、わかったか?」
これに対して混乱した弟子は、
「いいえ、わかりません」
と答えます。
すると老子は、しょうがないやつだな、といわんばかりに、もう一度、大きく口を開けて言いました。
「歯はあるか?」
ここから、老子と弟子の禅問答が続きます。
「いいえ。先生はご老人なので一本も歯は残っていません」
「そうか。では、舌はあるか」
「はい、もちろん舌はございます」
すると老子は、そのままうなづいて牛車に乗り、その場を離れてしまいました。
まるで、“なぞなぞ” のような話です。
この後、弟子は、この老子の不思議な行動を、どう解釈したのか?
気になる人は、一読をおすすめします。
著者は、こう結んでいます。
<これは古い物語ですけれども、私たちは自分が生きていくなかで、そういうことをふっと考えるというところに、じつはなにか大事なものがあるのではないかと思うのです。ふだんは考えないことを、ふっとそのときに反省させられる。>
♪ 白秋時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの 白秋時代の真ん中は 道に迷っているばかり ♪
2025年05月11日
歴史を変えた一夜湯治事件
その昔、「温泉へ行く」 といえば、それは 「湯治に行く」 ことでした。
湯治とは、読んで字のごとく 「温泉で病を治す」 ことです。
しかし医学や薬学が進歩した現代、病気になったからと温泉へ行く人は、滅多にいません。
温泉へ行く目的は、ほとんどの人が観光だと思います。
では、いつから温泉地が、湯治場から観光地へと変わってしまったのでしょうか?
毎月1回、第2水曜日に出演しているエフエム群馬 「news ONE」。
僕は番組の中で、毎回テーマを決めて温泉の話をしています。
今月のテーマは、ズバリ! 「歴史を変えた一夜湯治事件」 です。
江戸後期に起きた一大事件を紹介します。
この事件をきっかけに、湯治目的以外の旅人が温泉地に宿泊するようになりました。
さて、その歴史を変えた大事件とは?
ラジオで、お話しします。
■放送日 5月14日(水) 18:37 頃~
■放送局 FM GUNMA (86.3MHz)
■番組名 『news ONE』 月~水 18:00~18:55
■出演者 岡部哲彦 (アナウンサー)、小暮 淳 (温泉ライター)
2025年05月10日
ヘビとムカデの共存
大歓声の中、ついに動き出しました!
太鼓の音と、「ワッショイ」 のかけ声とともに、ニョロニョロと!
ギネス記録を持つ、スーパージャイアントウルトラ大蛇みこしが!
昨日、老神温泉(沼田市)で第61回 「大蛇まつり」 が開催されました。
例年、僕は 「老神温泉大使」 として、赤城神社の例大祭には出席していたんですけどね。
今回は、大使としての任務は欠席して、謎学ライターとして現地からリポートしてきました。
謎学ライター?
はい、僕の造語ではありますが、群馬県内の不思議な出来事を集めては、文章や映像にて表現するライターであります。
で、12年に1度だけ巳年に登場する108メートルの大蛇みこしの渡御(とぎょ)の謎を解明するべく、祭りに参加したのであります。
ご存じ、群馬テレビ 『ぐんま!トリビア図鑑』 のロケであります。
僕は、この番組のスーパーバイザー(監修人)をしていますが、温泉や謎学がテーマのときだけは、自らがリポーターを買って出ています。
現地から何のリポートをしたのかって?
ですよね、ただ祭りの様子をリポートするだけなら、ニュース番組の報道班の仕事です。
でも、トリビア図鑑ですからね。
ただ現地からリポートするわけにはいきませんって!
で、番組では、2つの謎を解明します。
①いつからヘビのみこしを担ぐようになったのか?
②なぜ神様は入れ替わってしまったのか?
①「大蛇まつり」 は今回で61回目です。
ということは、それ以前は大蛇まつりではありませんでした。
「老神温泉祭り」 です。
さらに昔は 「赤城神社祭り」 でした。
では、なぜ61年前から急に、ヘビのみこしを担ぎだしたのか?
それは昭和38年に老神温泉を襲った、ある災難がきっかけでした。
②赤城山と日光男体山の神戦伝説は、群馬と栃木の両県に残っています。
が、そのほとんどが、日光の神がヘビで、赤城の神がムカデです。
全国的に知られるテレビアニメ 『まんが日本昔ばなし』 でも、日光がヘビで、赤城がムカデでした。
では、なぜ老神温泉に伝わる話だけが、逆なのでしょうか?
いったい、いつ、神様は入れ替わってしまったのか?
それは突然、61年前にヘビのみこしを担ぐようになったことと、関係があるのでしょうか?
実は今回、再三取材を重ねるうちに、新たな真実が浮上しました。
拙著 『ぐんま謎学の旅 民話と伝説の舞台』 の取材時には、知り得なかった事実です。
それは、赤城の神と日光の神は、実は争っていなかったのではないか?
共存していた可能性を示唆する “あるモノ” を見つけたのです。
その、あるモノとは?
僕が現地からリポートします。
お楽しみに!
※群馬テレビ 『ぐんま!トリビア図鑑』、「“大蛇まつり” の真相?」 は、6月3日の放送です。
2025年05月08日
セロリ記念日
食べ物の好き嫌いが多い少年期でした。
長ねぎ、玉ねぎ、ピーマン、人参、キャベツ、レタス……
野菜全般が苦手で、給食でも、それらをはじいて食べていました。
大人になるにつれ偏食もなくなり、今では、ほとんど好き嫌いはありません。
3つの野菜を除いては……
それは、レタスとパセリと、らっきょうです。
先日の酒席でのこと。
我々のん兵衛界隈では、アマチュア料理研究家として名の知られるS氏が、手作りの料理を持参しました。
いくつものタッパーに仕込んだ、和洋中およびオリジナルの創作料理がふるまわれました。
S氏は男性です。
でも趣味で始めた料理の腕は、今や玄人はだし。
数々の料理はブログにもアップされ、読者の間では高い評価を得ています。
どの料理も、箸が止まらないおいしさです。
酒のあてには、申し分ありません。
が……
一品だけ、箸が止まりました。
そうです、その小鉢には、セロリが盛られていたのです。
「これは、もしかしたらセロリですか?」
「はい、“セロリとパプリカのみそ和え” です」
ゲッ!
セロリだけでもアウトなのに、ピーマンの親戚のパプリカまで同居していました。
万事休す、であります。
だからといって、ここまで順調に箸をつけてきたのに、この一品だけ残すのも失礼というものです。
エイッ!
こうなったら、子どもの頃に覚えた 「忍法鼻つまみゴックンの術」 を使うしかありません。
噛まずに、飲み込めばいいんです。
ソレッ!
と口の中に放り込み、一気に飲み込もうとしましたが、ちょっとばかりサイズが大きいのです。
仕方ない……噛むしかない……
シャキッ!
ん? なんだ? おかしいぞ?
そーなんです、あのセロリ特有の鼻を突くような香りがありません。
いえいえ、それだけではなく、パプリカとの相性も良くて、口の中がまろやかな風味に包まれました。
「おいしいです!」
「そう、よかった」
「実は、ちゃんとセロリを食べたの今日が初めてだったんです」
と告白。
周りの人は驚いていましたが、S氏だけはニコニコと、ほほ笑んでいます。
「なんで食べられるんだろう? なんでですか?」
との僕の問いに、S氏いわく、
「料理って、カガクなんですよ」
「カガク?」
「そう、化学であり、科学でもあるんです」
一同、「へー!」 と言ったところで、誰一人、意味は分かっていないと思います。
さすが、東大卒の料理研究家は、おしゃることも一流です。
ほとんど料理をしない僕にとっては、まったくの未知の世界です。
S氏が魔法を使ったとしか思えません。
でもね、生まれて初めてセロリが食べられたのです。
ペロリと小鉢を平らげてしまいました。
Sさん、ありがとうございました。
今度は、パセリとらっきょうに魔法をかけてくださいね。
「これならば食える」 と僕が言ったから 五月六日はセロリ記念日
2025年05月07日
雨の日は逆まわり
昨日は一日中、雨でした。
こんな日は目覚めたときから 「今日は何をして過ごそうか……」 と考えあぐねています。
連載中の原稿を書こうか?
それとも音楽を聴きながら読書を楽しもうか?
で、思案の挙句、出た答えが、「酒を呑もう!」 でした。
そうと決まれば、呑み屋に連絡です。
<一席、空いていますか?>
すぐにママから返信メールが届きました。
<OK>
さて、出発の準備に取りかかります。
今日は雨です。
いつもより歩くスピードも落ちるでしょうから、早めに家を出ることにしました。
いや、待てよ!
今日は、いつものバスでなく、あえて次のバスで行こう!
瞬時に、そう思ったのでした。
市内循環バスは、「右まわり」 と 「左まわり」 が1時間に1本ずつあります。
いつもは、目的地に早く着く 「右まわり」 を利用しています。
でもね、毎度毎度、利用していると、景色が飽きてくるんです。
「次、右に曲がるんだ」
「このバス停で、時間調整をするんだ」
ってね。
乗って来る客も、学生と年寄りばかりです。
今日は雨、しかも振替休日です。
コースを変えれば、未知の風景との出会いがあるかもしれません。
そう思い、少し遠回りになるのですが、逆まわりの循環バスに乗ることにしました。
案の定、乗車客は僕一人でした。
学生も年寄りも乗って来ません。
当然です。
学校は休みだし、こんな雨の日に外出する年寄りもいないということです。
ただ、いくつもの発見がありました。
「えっ、こんな細い道を入るの!?」
と、住宅街の中をクネクネと走ります。
と思えば、病院や保健センターのような施設では、敷地内まで入り込むんです。
右まわりのバスでは、見られない風景の連続に、ワクワク感が止まりませんでした。
夕刻、店に着くと、すでに3人の常連客がいました。
うち、2名は僕と同じ “バス通飲” 仲間です。
「雨の日は、バスに限るね」
「カンパ~イ!」
雨には、日本酒が似合います。
あては、「タケノコの薄皮の山椒和え」。
♪ 雨 雨 降れ 降れ もっと降れ~ ♪
こんな一日も、いいものです。
2025年05月06日
マンボウの島
「あっ、この風景……見たことある!」
新聞をめくる手が止まりました。
見開き2面の特集記事です。
そこには、大きくカラー写真が掲載されていました。
海を望む高台からの風景。
手前には白い鳥居が立ち、小さな漁港が見えます。
記事の見出しを見て、すぐに思い出しました。
<生誕100年 三島由紀夫の見た風景>
ここは 「神島」 です。
島の名を聞いて、ピンときた人は、かなりの文学ファンですね。
小説 『潮騒』 の舞台となった、伊勢湾に浮かぶ三重県の離島です。
名作は、たびたび映画にもなりました。
いずれも主演を務めた女優は、ビッグスターです。
吉永小百合 (1964年)
山口百恵 (1975年)
僕が、この島を訪れたのは約20年前。
まさか小説の舞台とは知らずに、船に乗りました。
(小説は読んでいましたが、作中では 「歌島」 だったので)
当時、僕はカメラマンとともに、三河湾に浮かぶ篠島という離島を取材していました。
(カテゴリー 「島人たちの唄」 参照)
時々、気分晴らしに近くの島々をめぐっていたのです。
その一つが 「神島」 でした。
小さな島でした。
名所は、小説の舞台だけ。
観光案内所には、映画のロケ写真が飾ってありました。
クライマックスの名シーン。
主人公が裸で、焚火の上を飛び越した 「監的哨跡」 を見て、宿に向かった記憶があります。
「あんたたち、運がいいね~! 網にかかったって、漁師が持ってきてくれたよ」
そう女主人が言って、夕食にマンボウの肉を出してくれました。
マンボウって、食べるんだ!?
水族館でしか見たこともない、摩訶不思議な格好をした魚をいただきました。
煮つけでしたが、そのお味は……
覚えていないくらいの味だったと思います。
まずくもなく、うまくもなく、記憶に残らない味だったようです。
マンボウを食べたのは、後にも先にも、その時だけです。
翌日、女主人に叩き起こされました。
「一番の船で帰りな! 午後から海が時化(しけ)るってよ!」
本当は、釣りでもしながら、もう少し島を楽しみたいと思っていたんですけどね。
「しばらく船は出ないかもよ」
と、せかされて、朝食を済ませると早々に港へと向かいました。
偶然、見かけた一枚の写真から、遠い日の島での出来事が一瞬にしてよみがえって来ました。
G.Wは、どこも行かなかったけど、記憶の中の離島を旅してきました。
2025年05月05日
よっこいしょういち
「なにそれ? 知らな~い」
「あれ? なんか聞いたことあります」
「古ッ! そんなのが流行ったね」
世代によって、反応は様々です。
“よっこいしょういち”
昭和のギャグであります。
昭和47年(1972)、センセーショナルなニュースが日本中に流れました。
戦後27年間、終戦を知らずにグアム島に潜んでいた残留日本兵の横井庄一さ (当時57歳) が発見されました。
くしくも沖縄が本土に復帰した年でした。
その翌々年には、やはり残留日本兵の小野田寛郎さんがフィリピンのルパング島から帰還して、二度ビックリ!
戦後30年近く経っても “まだ戦争は終わってなかった” ことを日本国民が痛感した出来事でした。
当時、テレビでは “横井さん帰還” のニュースが、連日放送されました。
「横井庄一」 という名は、国民の脳裏に鮮烈に刻み込まれたのであります。
たぶん、当時のコメディアンが言ったギャグなんでしょうね。
「よっこいしょ」 と 「横井庄一」 をかけたダジャレです。
大流行して、老いも若きも子どもも、みんな使っていました。
あれから半世紀。
齢65を過ぎて前期高齢者の仲間入りをした頃からです。
気が付いたら言っているんですね。
イスから立ち上がるとき、腰かけるとき、何かを始めようとするとき……
「よっこいしょういち」
知らずの知らずのうちに、発していました。
「ああ、この響き、昭和だよな~」
と思いつつも、止められません。
気が付くと、つい、言っているんですね。
さて、今日は何回言うんでしょうか?
数えてみたいと思います。
2025年05月04日
老いては元スタに従え
いまだに、僕のことを 「編集長」 と呼ぶ人たちがいます。
25年前、僕が編集人をしていた生活情報誌のスタッフらです。
雑誌自体は現在もありますが、僕が去った後に、彼らも編集室を去り、それぞれ別の人生を歩んでいます。
それでも連絡は途切れず、今でも年に数回、ランチ会や懇親会を開いて、僕を呼んでくれています。
当時、30代だったO君、M君は、今は50代。
20代だったSさんも40代です。
みんな、立派なお父さんとお母さんになりました。
「編集長、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「編集長、ラジオ聴きましたよ」
と、何かにつけて彼らは、電話やメールをくれます。
こんなことを言われたこともあります。
「編集長は、だいぶ丸くなりましたよね」
「そうかね?」
「えー、そりゃ~、あの頃はツンツンに尖っていましたから(笑)」
当時、僕は40代です。
そんなに、ツッパッて生きていたんですかね。
でも振り返ると、あの頃は、毎日が夢と希望と野望に満ちあふれていた時代でした。
彼らとは、プライベートでも登山や旅行に、たびたび出かけていましたものね。
一般的な会社の、上司と部下の関係ではなかったと思います。
ていうか、僕は社員ではなく、外部から来た “雇われ編集長” だったのであります。
だから僕には彼らを 「部下」 という意識がなく、彼らも僕を 「上司」 とは思っていなかった思います。
スタッフ、もしくは同じ夢を追うチームの一員だったのです。
その中で 「編集長」 という立場は、指揮を執る監督、もしくは指導するコーチの役割を果たしていたのだと思います。
いわば、同じ釜の飯を食った “仲間” なのです。
以前、Sさんから、こんなことを言われたことがありました。
「もう、編集長じゃないんだから、“小暮さん” でいいよ」
と僕が言うと、
「編集長は、編集長なんです! ニックネームだと思ってください」
と、きっぱり断られてしまいました。
その断り方が、実に気持ち良くて、うれしかったのを覚えています。
先日、O君から、こんなメールが来ました。
「編集長、連休中に、ひとっ風呂いかがですか?」
彼はときどき、こうやって僕を誘い出してくれます。
そして彼は、僕の生態についても熟知しています。
風呂に入れば、酒が呑みたくなることも……
昨日、指定の時間に、彼は我が家にやって来ました。
まるで、お抱え運転手のように!
「お疲れ様です。どこに行きますか? 編集長の好きな温泉へ行きますよ」
好きも嫌いもありません。
汗を流せて、さっぱりしたら、酒が呑みたいだけです。
「じゃあ、近場でいいですね」
「ああ、どこでもいいよ」
かくして、湯上がりに生ビールをたらふくいただき、帰りは、また我が家の玄関前まで送っていただきました。
持つべきものは、元スタッフであります。
いつも、ありがとうね。
みんな、老後は頼んだよ~!
「老いては元スタに従え」 であります。
2025年05月02日
色のないブログ
「なぜ、写真がないのですか?」
よく聞かれる質問です。
このブログのことです。
確かに言われてみれば、そうなのです。
ブログを開設して15年、4,200話以上を投稿していますが、写真を添付したことは一度もありません。
文字だけのブログです。
それは、なぜか?
今から5年ほど前。
この件について、高崎市のフリーペーパー 「ちいきしんぶん」 から取材を受けました。
記事は、企業向けの 「ニュースレター」 という広報紙に掲載されました。
<ブログ 「小暮淳の源泉ひとりじめ」 は、今年の1月でまる10年。2月から11年目に突入です。(中略) このブログから仕事や講演の依頼はもとよりテレビやラジオの出演、新聞や雑誌への執筆依頼まで来るとか。また小暮さんのファンとの交流もこのブログがきっかけだそうです。>
こんな書き出しで始まります。
ちなみに、記事のタイトルは 『続ける力』。
<まさに日々こつこつ積み上げている行動に対して、素晴らしい結果が出ているという事実。さて気になるのは、どうやって続けてきたか? ご本人に直接聞いてみました。>
なんと答えたのか記憶にはないのですが、記事には、こう書かれています。
<「秘訣としては、写真を一切使わずに文字のみのブログであることかもしれません。視覚にとらわれず、筆者目線で日々を切り取ることができるから」>
このアンサーに対して記事は、こう締めくくっています。
<今やSNSは文字より写真のほうが優先されがち。写真1枚あれば、文字での表現を大いに補ってくれますが、逆に写真がなければ文章に集中できる。目から鱗の回答でした。>
先日もブログのコメント欄に、読者からのこんなコメントが寄せられていました。
<いっさい写真を使わずに、人気ランキング1位って、すごくないですか。 「NO PHOTO」 の黒の並びが、かっこいいし、何より文章だけで勝負しているってのが、いいのかな。>
「まいちゃ」 さん、ありがとうございます。
そう感じていただいている読者が、このブログを15年間、今日まで支えてくれています。
黒い文字だけの色のないブログですが、末永くお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
2025年05月01日
羆 ―HIGUMA―
20年ほど前だったと思います。
あるミニコミ誌から、寄稿の依頼を受けました。
与えられたテーマは、「私の愛読書」。
ジャンルは問わず、最近読んだ本で、ぜひ他の人にも読んでほしいオススメの一冊を紹介するという企画でした。
その時、僕が選んだ本が、山と渓谷社の 『山でクマと会う方法』 でした。
不思議なタイトルですよね。
本来なら、“会わない方法” です。
でも僕は、その真逆の発想に引かれたのです。
というのも当時、僕は趣味と仕事を兼ねて、頻繁に山登りをしていました。
多くは1,000メートル以下の低山ハイクでしたが、それでも時々、山道では 「クマ出没注意」 の看板を見かけました。
また、山によっては、要所要所に “クマ除けの鐘” が設置されていて、叩きながら登ることもありました。
当然、いつもリュクには、大きなクマ除けの鈴を付けていました。
でもね、幸か不幸か、一度もクマに遭遇したことはありません。
そんな時に出合った本が、『山でクマと会う方法』 です。
クマの習性や棲む環境、行動範囲を知れば、クマに出遭う確率は上がります。
ならば、その逆の行動をとれば、クマに遭わずに済むのです。
当時の僕には、心強い指南書でした。
近年、日本全国でクマが人里に現れるニュースが頻繁に報じられています。
これは異常事態です。
登山は、クマのテリトリーに人間が入り込むのですから当然、人間側が注意をしなくてはなりません。
でも人里、いえ最近は市街地にまでクマが出没しています。
人間のテリトリーにクマが、無断で入り込んでいるのです。
人間にしてみれば、“寝耳に水” であります。
防ぎようがありません。
ニュースを見るたびに僕は、恐怖を覚えます。
令和の世に、このクマ騒動は、なんで起きているのか?
待てよ、確か、昔、歴史に残る、とんでもない事件が北海道で起きているよな?
と思って調べてみました。
大正4(1915)年12月に北海道天塩山麓の苫前郡苫前村で起きた、日本獣害史上最大の惨事 「苫前羆事件」 です。
わずか2日間に6人の男女が、ヒグマに殺害されました。
ということで、今回紹介するのはドキュメンタリー小説です。
吉村昭・著 『羆嵐(くまあらし)』 新潮文庫
凄惨な現場の描写に、恐怖が止まりません。
なのにページをめくる手も止まらなくなってしまいました。
怖い! だから止めよう!
でも引き返すのも怖い!
だったら前に進もう!
と、気が付いたら読み手の自分が、小説の中の主人公になっていました。
中盤以降、戦慄はピークに達します。
こんな会話があります。
「なぜ子供を食わぬのかわかるか」
老練な猟師は村人に問います。
首を振る村人に、こう言います。
「最初に女を食った羆は、その味になじんで女ばかり食う。男は殺しても食ったりするようなことはしないのだ」
これがヒグマです。
本州のツキノワグマとは、凶暴さが違います。
全長9尺 (2.7メートル)、体重102貫 (383キロ) の化け物が、村人たちに次から次と襲いかかるのです。
でも、これは実話なんです。
結末は、いかに!?
この結末も史実なのであります。
未読の方は、ぜひ、一読を!
※巻末解説、倉本聰氏の文章が白眉です。
2025年04月30日
釈迦に説法するほど野暮じゃない
「先生、大変お久しぶりです、覚えていらっしゃいますか?」
今年の初め、女性の声で、突然、そんな電話がありました。
ケータイの画面には、某県の温泉関連団体名が表示されていました。
本当に久しぶりであります。
どれくらい久しぶりなのかといえば、なんと! 17年ぶりであります。
よくもまあ、ケータイの電話帳に残されていたものです。
17年前に何があったのか?
17年前といえば、僕はまだ40代の後半。
新聞や雑誌に温泉関連の記事は執筆していたものの、すべて群馬県内のローカル紙です。
もちろん、著書は一冊も出版していませんでした。
なのに、どこから、どうやって、県外の、しかも温泉関連団体に僕の名が知られたのか?
講演会の講師として、招かれてしまったのです。
今思えば、無謀中の無謀でした。
だって、まだ著書もない、駆け出しの温泉ライター (しかも自称) が、全国屈指の温泉県の、しかも温泉関連の施設や業者たちを前に、講釈をぶったのですから!
いま、思い出しても背筋がゾーッとします。
若気のいたり、だったのでしょうか?
あれから17年が経ちました。
当時の担当者が、僕のことを覚えていてくださったのです。
「また、○○県で講演をしてくださいませんか?」
そう言われ、一瞬、体が凍り付きました。
もちろん、うれしいのです。
でもね、17年前の記憶がよみがえって来たのであります。
だって、またもや聴講者は全員、温泉関係者なのです。
17年前は、確かに無知でした。
無知だから、若さと度胸だけで、何も考えず、大風呂敷を広げて、意気揚々と乗り込んで行けたのであります。
でも17年が経ちました。
僕も大人になりました。
著書も多数出版し、県内外での講演も数を重ねてきました。
そのうえで、思うのです。
「釈迦に説法っだって~!」
野暮、やぼ、ヤボ~!
さて、引き受けてしまったからには、逃げも隠れもしませんって。
お釈迦様の前に出て、正々堂々と、僕が見て聞いて感じた仏 (温泉) の道を説いてみせましょう!
ということで、来月の講演に向けて、日々、温泉のプロたちが喜びそうなマニアックなネタを集めています。
牛に引かれて……、いえ、新幹線に乗って、いざ、出陣じゃ~!
2025年04月29日
スマホがないと便利です
「スマホを見ていた」
先日、首都高速道路でトラックが乗用車に追突して、2歳児が亡くなった事故で、運転手が話した事故原因です。
高速道路でスマホを見ると、どれくらい危険か?
時速90キロで5秒間スマホを見ると、その間に100メートル以上進んでいることになります。
一瞬で、便利なはずのスマホが、凶器に変貌するのです。
「ながらスマホ」 の事故は、自動車だけではありません。
自転車による 「ながらスマホ」 の事故も、後を絶ちません。
ついに警視庁は、自転車で交通違反をした際に反則金納付を通告できる交通反則切符制度を、来春に開始すると発表しました。
自転車の走行中にスマートフォンを使用する 「ながら運転」 には、罰金12,000円が課せられます。
なんなんですかね、スマホの普及するスピードに比べると、後手後手の法整備のような気がしますが……
ま、依然、スマホを持たない僕には、関係ない話なんですけどね。
だって、こんな “便利” な生活は手放せませんって!
スマホって、一度持ったら最後で、持たない生活なんて考えられないんでしょう?
その逆で、持たない生活を続けていると、スマホを持つ生活なんて考えられなくなるのです。
その一番の理由は、やはり、スマホがないと “便利” ということ。
本来、便利とは、暮らしが豊かになることです。
なのにスマホは、以下の2つを束縛します。
①時間
②人間関係
スマホがない生活は、この2つが豊かです。
①待ち時間や休憩時間を有意義に使えます。
僕は、読書に当てています。
②SNSを通じた、うわべだけの人間関係を排除することができます。
本当に大切な友人や知人とは、メールや電話で情報交換をするほうが的確です。
ということで、スマホに縛られる生活なんて、僕には考えられません。
もし、今後、僕がスマホを持つような日が来るとすれば、それは他に通信手段がなくなった時でしょうね。
ま、その時はその時で、臨機応変に対処したいと思います。
2025年04月28日
どう生きる? どう生きた?
「人生は、何をするかではなく、どう生きるかだ」
死んだオヤジの口ぐせでした。
10代に家を出て、夢を目指して東京へ向かう僕にも、やはりオヤジは、この言葉で見送ってくれました。
今、この歳になり、やたらとこの言葉が反芻されます。
「オヤジは、どんな意味を込めて、僕に告げたのだろうか?」
そして息子として、今になってオヤジの生涯を振り返ることが増えました。
常にオヤジは、一匹狼でした。
終戦後、語学力を買われて、進駐軍の通訳として働きました。
撤収後は、地元の中学校の英語教師になりましたが、校長とトラブルを起こし、わずか数年で退職。
その後は、たった一人で細々と私塾の経営をしながら、晩年まで暮らしました。
一見、唯我独尊のオヤジでしたが、正義感も強く、困っている人を放っとけない、やさしさも持ち合わせている一本気の人でした。
ただ最期まで、世間や他人に流されることなく、長い物に巻かれることなく、“自分” を貫いた一生だったと思います。
いま僕は、すでに当時のオヤジの年齢を越えています。
「何をするかではなく、どう生きるか」
という教えも、過去形として受け止めなくてはならない歳になりました。
「何をしたかではなく、どう生きてきたか」
とりあえず60数年間を、生きてみました。
常に、何かをしながら生きていたと思います。
では、どう生きたか?
日々、自問自答をくり返しています、
何かはしてきたけど……
その生き方までは、無頓着だったような気がします。
あと何年、生きられるのでしょうか?
オヤジの年齢まで生きられるとしたら、まだまだ30年近くもあります。
残りの人生、何をするかでなく、どう生きるか?
まさに、これからが真価を問われそうです。
2025年04月27日
ショッカー戦闘員の苦悩
昨日のつづきです。
昨日現在 (4月26日付)、このブログの記事投稿総数は4,227話です。
その中でアクセス数の多い 「人気記事ランキング」 というのが日々、発表されています。
もちろん、読者のみなさんは閲覧することはできませんが、ブログ主の僕はチェックすることができます。
ちなみに現在のベスト3は下記の記事です。
①奈女沢温泉 「釈迦の霊泉」 2012年11月10日
②座禅温泉 「白根山荘」 2014年10月9日
③老神温泉 「ぎょうざの満州 東明館」 2014年6月18日
以下、100位くらいまで、ほとんどは温泉地・旅館または温泉関連の記事が占めています。
その中にあって、温泉関連以外で根強い人気を保っているのが、2013年4月15日に投稿した 『ショッカーの 「イー!」 』 という記事です。
正しくは、ショッカー戦闘員の 「イー!」 ですね。
この話は、僕が若い頃に体験した着ぐるみ劇団でのエピソードです。
そうなんです!
昨日、お話ししたウルトラマンの話です。
実は、この劇団の演目はウルトラマンシリーズだけじゃないんです。
仮面ライダーシリーズも演じていました。
で、当然ですが、身長が足りない僕は、ヒーローには入れません。
だからといって仮面ライダーの怪人役は、ウルトラマンの怪獣とは違い、機敏なアクションが求められます。
ということで、僕の出番は、その他大勢の悪役 「ショッカー」 の戦闘員ということになります。
僕ら戦闘員は、ショーが始まる前から、会場の陰に隠れています。
そして、ショーが始まると 「イー!」 と叫びながらステージへと飛び出して行きます。
一番、恥ずかしい瞬間です。
だって、知ってますよね?
戦闘員の格好を!
全身黒タイツなんですよ。
体形モロ分かりです。
乳首の突起も、股間のモッコリも、形状通りにクッキリと見えているんです。
親や恋人には、絶対に見せたくない姿であります。
で、なんで、このブログが人気ランキングの上位に来ているのか?
はい、実は 「検索キーワード」 というものも閲覧することができるのです。
何という言葉で検索をして、このブログにたどり着いたのか?
それをチェックする機能があるんです。
で、ありました!
一番多かったキーワードです。
「戦闘員 もっこり」
やっぱり、みなさん、気になりながら戦闘員の股間を見ていたんですね。
ああ、今思い出しても、はずかしーーーーいッ!!!!!
僕の青春の1ページに刻まれた黒歴史であります。
(黒タイツだけに)
2025年04月26日
ごめんね、ウルトラマン
先日、定年退職を迎えた同世代の知人から、こんな話を聞きました。
退職式でのこと。
同僚とともに3人で、式に臨んだとのこと。
退場の際、見送る曲として会場には、一人ひとりの好きな曲が流れたそうです。
「で、何を流しの?」
「ウルトラセブン」
「ウルトラセブン?」
「そう、ズ―――っと前から決めていたの」
「で、他の2人は?」
「自己申告しなかったみたいで、『いい日旅立ち』 でした」
なんだが、昭和の結婚披露宴のようですね。
それにしてもウルトラセブンのテーマとは、かなりの変わり者です。
「俺は職場ではヒーローだったんだ」 という自己顕示欲の現れなんでしょうか?
それとも、子どもの頃に抱いた将来の夢への再チャレンジという意思表明なのでしょうか?
いずれにせよ、彼の第二の人生に、幸多かれと願います。
ウルトラセブンといえば、円谷プロです。
僕の世代は、なんてったって初代のウルトラマンであります。
男の子なら誰もが、「シュワッチ」 と言いながらジャンプしたり、スペシューム光線を発する格好をして遊んでいました。
長じて、好きが高じて僕は、20歳の頃に劇団入りました。
と言っても、子ども相手の着ぐるみ劇団です。
それも、円谷プロ系でした。
だもの、毎週末はデパートの屋上や商店街の催し物会場で、ウルトラマンショーを開催していました。
えっ、ウルトラマンに入っていたのかって?
まさか!
ヒーローの着ぐるみに入れるのは、身長180センチ以上の体育大学生と決まっていました。
身長160センチ台のその他僕らは、やられる怪獣です。
(なんと! 僕はあの、ウルトラマンを倒したゼットンにも入ったことがあるんですよ) ←自慢
で、ショーの最後には決まって、握手会というのがあります。
ステージに出演したヒーローが整列します。
ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン、アルトラマンエース、ウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオ
(当時は、そのあたりまででした)
実は、握手会に参加したチビッコたちには、プレゼントがありました。
それは!
なななんと、サイン色紙であります。
え―――――っ、ウルトラマンにサインなんてあるの~!?
と驚くかもしれませんが、
あります!
それもウルトラ兄弟全員のサインがあります。
もう 半世紀近くも前のことなので、時効ですよね。
誰が書いていたのか?
はい、劇団員です。
だから僕らは毎日、家でサインの練習をしていました。
ウルトラマンからウルトラマンレオまで、全員のサインを覚えさせられました。
そして、ショーの合間の休憩時間には裏方で、せっせせっせと色紙にサインをしていたのです。
あの頃、サインをもらった子どもたちも今は50歳以上のおっちゃん、おばちゃんになっていると思います。
ごめんなさいね、夢を壊してしまって。
キミが持っているサインは、もしかしたら僕が書いたものかもしれません。
いい夢を見たと思って、許して!
シュワッチ!
2025年04月25日
いいかんぺー紅白歌合戦
朝、目覚めると僕は、まず第一に2つの事をチェックします。
①スケジュール
②天気
①取材や打ち合わせ等の外出予定がある場合は、前日の内に準備してありますが、ない場合、急ぎの原稿等があるかどうかのチェックです。
②まず新聞の天気予報を見て、さらに詳しくネットで情報を集め、念には念を入れて雨雲レーダーもチェックします。
で、外出予定もなく、急ぎの原稿もなく、しかも天気が良好だった場合、僕はすぐさま、メールを打ちます。
<オッハー! 今日、一席空いてますか?>
送信先は、行きつけの呑み屋のママです。
昨日は、こんなメールが返ってきました。
<おつかれさ~ん! 今日は暇だから良かったよ~!>
“小さな小さな旅” の始まりです。
昼過ぎ、リュックを背負って家を出て、歩き出します。
バス停まで約20分。
市内循環バスは、どこまで乗っても一律100円です。
昨日は、JRの駅で下車しました。
まずはコンビニに寄って、新聞を一紙、購入。
それを持って、近くのレストランへ。
パスタを食べつつ、新聞を隅から隅まで読破。
まだまだ時間はあります。
「そういえば、会期が始まっていたはず」
と、前々から気になっていた歴史資料館へ立ち寄りました。
郷土の偉人の企画展です。
学芸員の解説を受けながら、30分間の閲覧を楽しみました。
さて、そろそろ店へ向かうか?
行きつけの呑み屋、酒処 「H」 の営業時間は午後4時からです。
が、それは建前で、それより前でも常連客らは、お構いなしにやって来て、呑み始めています。
まだ4時前だけど、呑み始めるか?
「いや、待てよ、今日は気温も高く、汗をかいたな」
と思い、歴史資料館を出た僕は、その足で、日帰り温泉施設へ向かいました。
「カンパ~イ! おつかれさま~!」
僕とママと、もう一人の常連客と、まずは生ビールです。
やがて常連客が、もう一人来て、しばらくはにぎやかに談笑していたのですが、やがて、1人帰り、2人目も帰り、気づいたら僕とママの2人っきりになってしまいました。
「ねっ、今日は暇だって言ったでしょ」 とママ。
でもね、こんな日は、とっても珍しいんですよ。
いつもは予約でいっぱいで、立ち呑みが出るくらいの繁盛店なんです。
1年に1回か2回くらいですかね、僕とママが2人っきりになれる日があるんです。
こんな日は、決まって2人だけの、とっておきの “ゴールデンタイムSHOW” が始まります。
題して、「いいかんぺー紅白歌合戦」。
(「いいかんぺー」 とは群馬の方言で、「いい加減」 のことです)
「まずは紅組からお願いします」
と僕は、ママにマイクを渡します。
何が 「いいかんぺー」 なのか?
はい、歌詞です。
なんでもいいから好きな洋楽をリクエストします。
曲は知っているけど、外国語だから歌えない曲を、適当にデタラメ発音で歌うのです。
この日、ママが選んだ曲は、70年代にヒットしたフランス語の歌でした。
「次は白組ね」
僕は大好きなビージーズの曲をリクエスト。
まあ、青春時代を思い出しながら、なんとか歌い切りました。
昨日は、帰りのバス時間の都合もあり、ここまででしたが、余裕がある日は、この後、ミッシェル・ポルナレフなんかを歌うんですけどね。
ママ、次回はいつになるのかね?
「いいかんぺー紅白歌合戦」 の続きを楽しみにしています。
2025年04月24日
至福のテイスティング
「ぐんまの地酒大使」 としての任務を日々、遂行しています。
それは、テイスティングです。
先週、「舞風」 が15本、届きました。
「舞風(maikaze)」 とは、群馬県農業技術センター開発の酒造好適米 「舞風」、県産酵母、県の仕込み水を使用した “オール群馬の地酒” のことです。
今年のエントリーは15蔵。
1蔵1本、180ml (1合) を毎日、1本ずつテイスティングするのが、毎年恒例の僕の任務であります。
ただ難しいのは、僕も人の子ですからね。
ごひいきの酒蔵っていうのがあります。
ということは、銘柄を知ると、ついつい高い点数を付けてしまう恐れがあります。
ということで、“目隠しテイスティング” を心がけています。
15本の 「舞風」 は、段ボール箱に入っています。
あらかじめ、すべてのラベルとキャップには目隠しをしておきます。
そして、目をつむったまま段ボール箱に手を入れて、無差別に1本を抜き取ります。
冷酒グラスに注ぎ、まずは一口目の第一印象をメモします。
二口目は、口の中で酒を回し、味と香り、酸味等を吟味します。
でも、まだ、ここでは採点をしません。
酒は呑み続けるうちに、一口目の感想とは異なることがあるからです。
最初は 「辛い」 と思った酒が、杯を重ねるうちに 「程よい酸味」 に変わることもあります。
味覚とは、そんなものです。
僕の場合、「飽きの来ない」 という評価を大切にしています。
で現在、5日間で5蔵5本、5合分のテイスティングをしました。
やっと3分の1が終わったところです。
テイスティング中、手元には 「審査メモ」 と書かれた用紙が置かれています。
左に蔵元の一覧、真ん中は評価覧、右が評価コメント覧になっています。
評価は5段階です。
まず僕は味に対して、「ふつう」 を 「3」 に設定して、「うまい」 と思えば 「4」 以上の採点をします。
さらに、これに 「好み」 を加えます。
最終的には、酒は好みの問題ですからね。
「好き」 と感じたら 「0.5」 ポイント刻みで加点します。
で現在、すでに呑んだ5本の中に、満点 「5」 を評価した酒がありました。
しかも採点後に、ラベルを見てビックリ!
なんと昨年、僕がベストワンに選んだ蔵元の酒だったのです。
う~ん、まだまだ僕の舌は衰えていなかったのですね!
ていうか、この味が 「好み」 なんでしょうね。
残り10日間、至福のテイスティングを味わいたいと思います。
※今年の 「舞風」 出品酒と15蔵のエントリー一覧は、2025年4月20日 「ファンが選ぶ今年の舞風 2025」 を、ご参照ください。
2025年04月23日
赤天狗 黒天狗
群馬県民は、“天狗” と聞けば、迦葉山(かしょうざん)を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
天狗伝説で有名な沼田市の霊山です。
過去に僕は、「なぜ沼田は “天狗の町” になったのか?」 というタイトルで、本にまとめました。
(拙著 『ぐんま謎学の旅 民話と伝説の舞台』 に収録)
でもね、何も天狗伝説は、沼田市だけではありません。
日本全国、もちろん群馬県全域に残されています。
天狗山、天狗岩、天狗松、天狗の○○……
地図や観光マップを見れば、いたるところに点在しています。
また温泉地には、天狗が湯を止めたり、子どもをさらうなどの悪事をはたらく伝説が多々あります。
その場合、ほとんどの伝説に登場する天狗は、顔が赤くて、鼻が高い、「鼻高天狗」 です。
まあ、天狗といえば、その風貌ですよね。
でも、天狗には、もう一種類(?)、いるじゃありませんか!?
そうです!
顔のとがった、くちばしを持つ、黒い 「烏(カラス)天狗」 です。
別名、「木の葉天狗」 ともいいます。
前々から僕は、この烏天狗が気になっていたんです。
で、調べてみると、赤い天狗よりも黒い天狗のほうが、歴史が古いことが分かりました。
赤い天狗は、近世になってからキャラクターが確立され、ブームになったようです。
だったら黒い天狗がルーツなのか?
この疑問を追って僕は、また “謎学の旅” に出ました。
訪ねたのは、県内某所。
その町にはシンボルとして、大きな烏天狗の銅像が立っています。
しかも、近くには天狗山もあり、天狗を祀った神社もありました。
うん?
天狗って、神様なんだ。
妖怪じゃないんだ!
黒い天狗の棲む町を徹底調査したいと思います。
謎学の旅は、つづく。