2012年09月05日
ちょっとインドまで⑩ 「ゆっくり流れる時間の中で」<最終回>
⑩「ゆっくり流れる時間の中で」<最終回>
昨年から今年にかけて、海外で日本人が殺害されるという事件が頻発している。
インドでも、僕が行った1ヶ月ほど前に、ラージャスターン州の観光地で日本人旅行者の女性イが、男にドライバーで顔をメッタ突きにされるという痛ましい事件が起きていた。
インドは、比較的治安の良い国だ。
町を歩いていて、置き引きや引ったくりにはあったとしても、命を狙われるようなことは、まずない。
しかし、どうだろうか?
日本ですら連日、新聞の片隅に、殺人事件の記事を見つけることができる。
治安が良ければ、何をしても安全ということではないだろう。
今、日本人は金を持っている。
我々個人にその意識がなくても、訪れる国の人たちには、“豊かな国から来た旅人” として映っていることは事実なのだ。
妬(ねた)みや嫉妬(しっと)を挑発するような行動だけは、旅人のマナーとして、つつしみたいものである。
インドでは、前述の事件をふくめ、外国人のトラブルは圧倒的に女性が多い。
それも安易な目的や服装でやって来てしまった若い女性だ。
婚前交渉が禁止されているわけではないが、結婚が神聖化されているため、インドでは未婚の男女に対する管理が厳しい。
特に女性への風当たりは強く、恋人同士でも、なかなか手をつなげない国と考えたほうがよい。
よって、インドの若者たちは、常に性的欲求不満状態にあるのだ。
彼ら(若いインド人男性)からみると、どうも欧米人や日本人は “フリーセックスの国から来た人” という、おかしな妄想があるらしい。
だから、やたらと外国人女性は、痴漢に狙われる。
現に、僕が在住の日本人女性とショッピングへ行ったとき、何度となく彼女の 「ドント・タッチ・ミー!」「ゴー・アウェイ!」 という悲鳴を聞いた。
どうしたことかと近寄ると、「この男が私の尻をなでた」 とか 「胸をつかんだ」 ということだった。
中には 「あなたはバージンか?」 とか 「セックスしよう!」 と露骨に迫ってくる場合もあるという。
いずれにせよ、ハッキリとした態度をとることが大切である。
さて、インドの旅も、そろそろ終わりに近づいてきた。
デリーを発つその日、僕は半日早くインドを発ちタイに向かう連れを見送り、午後は散歩に出かけることにした。
ニューデリー郊外の、まだ舗装されていない道を歩いていると、豚の親子が僕の前を横切って行く。
相変わらず背中に白いコブのある牛たちは、我が物顔で路上に寝そべっていた。
あと数時間で、自分もインドを離れるのだと思ったとき、言い知れぬ悲しみが込み上げてきて、寂寞(せきばく)感に包まれてしまった。
これには、自分でも驚いた。
「帰りたくない……」
駄々をこねる子どものように、夕日を見つめながら何度も心の中で、そうつぶやいていた。
この国には、果てしない時間があると思った。
日本の何倍もの、ゆっくりとしたスピードで、時は流れているようだ。
今日も駅のホームでは、“その日来る” 電車を誰もがひたすらに待っていた。
色と音と臭いと砂ぼこりの中で・・・
< 『ちょっとインドまで』 完 >
2012年08月27日
ちょっとインドまで⑨ 「カレーライスがあった!?」
⑨ 「カレーライスがあった!?」
帰国後、すでに2ヵ月を経過しているが、僕の体には、依然として何の変化も起きていない。
ということは、あれほど恐れていた数々の病原菌には、好かれずに済んだらしい。
しかしインドを旅したことのある人の話によれば、そのほとんどの人が、道中なんらかの病に伏したと聞く。
仮に病気にならないまでも、下痢だけは免れられないという。
また、下痢をすることが、先進国の人間である証しなどと言う人もいるくらいだ。
では、この僕は、どうなってしまうのだろう。
よっぽどインドと相性が良いのか、肌に合うとでもいうのだろうか。
本当に、快食、快眠、快便の毎日だったのである。
とにかく食い物が旨かったことが、今回の旅の最大の勝因(?) だったようだ。
ホテルのレストランといわず、町中の食堂といわず、すべての味覚がウソのようにバッチリと合っていたのには、自分でも驚きだった。
確かに、インドはどこへ行っても、食事はカレーだった。
しかし、カレーといっても “カレーライス” ではない。
日本でいうカレーライスは、元はインド料理であっても、イギリスへ渡り、日本に輸入されてから、さらに日本人の舌に合うように改良された食べ物と考えたほうがよい。
いわば、カレーライスは日本料理の1つなのだ。
また、日本ではカレーは辛いものと決め付けられている。
インド料理専門店ですら、そうなのだから、本場はもっと辛いと思ってしまっても仕方がない。
かくいう僕も、日本のカレーの10倍辛い激辛カレーを想像していた。
ところが、どこで誤って伝えられたのか、まったくそんなことは、なかったのである。
たまに辛いカレーもあったが、必ずヨーグルトが付いているので、自分の好みの辛さに調節ができた。
色もすべて黄色い色をしているとは限らず、実にバラエティーに富んでいた。
中でも、鮮やかな緑色をしたホウレンソウのカレーは、目と舌で楽しめ、忘れられない味となっている。
どこのレストランでもメニューは、肉類を食べるかどうかによって、ヴェジタリアン(菜食主義)とノン・ヴェジタリアン(非菜食主義) に分かれている。
これは宗教的理由によるものだが、僕の感想では、絶対的にヴェジタリアン料理の方が美味しかった。
肉料理といっても、マトンとチキンくらいなもので、どうしてもバリエーションが少なくなってしまう。
もちろん、牛肉などは絶対にありえないのだ。
それに引き換えヴェジタリアン料理(野菜のカレー) は、実に種類も豊富で、飽きがこない。
僕は、ターリー(大皿の意味) という定食を好んで食べたが、ヴェジタリアンのそれは、どこも安くて旨くて、いつも腹いっぱいに満たすことができた。
大きな金属の皿に、嬉しくなるほどの色々な料理が盛り合わせてある。
たとえば、ある日の昼食のターリーは、次のようなメニュー構成だった。
ダール(豆のスープ)、ヨーグルト、オクラのカレー、ジャガイモとカリフラワーのカレー、ライス、チャパティ(インドのパン。日本で知られているナンは高級品で、町中のレストランにはない) といった具合である。
日本に “しょう油丼” が存在しないように、インドにもカレーライスという料理はない。
つまり日本料理のほとんどが、しょう油で味付けがされているように、インドではスパイスで調理した料理のことを “カレー” と呼んでいるのである。
ということで、食べることにはまったく不自由しなかつた旅ではあったが、たった1つだけ難儀なことがあった。
それは “水” である。
水道水がそのまま飲める日本のような国は、世界でも数少ないことは、以前にも海外を旅して百も承知だった。
しかし、それにしてもインドは暑い。
また乾燥している上に、砂ぼこりが舞っているのだから、水を切らすことは許されなかった。
比較的どこでもミネラルウォーターは手に入ったが、それが信用ならないのである。
ただの水道水を入れて売っていたりするから、用心だ。
キャップが完全に閉まっているかのチェックを怠ってはならない。
インドの旅は 「コーラに始まり、水に終わる」 と言われるくらいだから、町のどこでも買い求められるコーラは、安全な飲み物だった。
それでもビンの口は、濡れテッシュで拭き、なるべく口をビンに付けないようにして飲んでいた。
マトゥーラという小さな町へ行ったときだった。
レストランで注文したコーラに、絶句してしまった。
町一番のオシャレなレストランだというのは分かるが、コーラがグラスに注がれ、おまけに氷まで浮いていたのである。
でも、背に腹は変えられぬ。
ノドは、カラカラだった。
仕方なく、日本より持参した殺菌衛生剤をふりかけて、カルキ臭い、なんとも言えぬ味のコーラを口に運んだ。
閑話休題・・・
さて、では本当にインドに、カレーライスはなかったのか?
というと、実は、一度だけカレーライスを食べたのである。
インドを離れる、最後の日だった。
ニューデリーのレストランで食べた 「エビカレー」 が、まさに日本のカレーライスだったのである。
リング状に盛られたライスの中に、どちらかというと茶色に近い色のカレーが入っていた。
見た目といい、香りといい、味といい、よく知っているカレーライスなのである。
どのガイドブックにも “インドにないものは、カレーライス” と書かれていただけに、僕は大発見をした喜びに、笑みまでこぼれていた。
ところが、店を出てから改めて看板を見てみると、そこには 「コンチネンタル(ヨーロッパ風)」 の文字が・・・
やはりインドには、カレーライスが存在しないようである。
<つづく>
2012年08月21日
ちょっとインドまで⑧ 「勧善懲悪の抱腹絶倒シネマ」
⑧ 「勧善懲悪の抱腹絶倒シネマ」
インドへ行ったら、ぜひ映画を観てみたいと思っていた。
そのきっかけは、何気なく見ていたテレビのクイズ番組だった。
「次のグラフは何を表したものでしょうか?」
とナレーションが流れ、棒グラフが映し出された。
1位がインド、2位がアメリカ ・・・
もちろん、その時の僕には見当もつかなかったが、クイズの答えを聞いて、ますますインドへのあこがれは強くなってしまった。
答えは、映画の年間製作本数の順位だったのである。
その数、800本以上!
貧しい国というイメージがあっただけに、驚きだった。
その時、“インドへ行ったら絶対に映画を観よう” と決めた。
そして、それが今回の旅のテーマの1つとなった。
しかしインドに限らず、アジアの映画というと、やたら現実を鋭く見つめた芸術祭参加作品といった、暗い映画をイメージしがちである。
また、言葉がヒンディー語では、訳が分からない。
“やっぱり映画は、旅のテーマには成り得ないのだろうか……” と、少々あきらめかけているときだった。
予備知識にと読んでいた本の中で、次のようなフレーズが、僕の心を釘づけにしたのだ。
『日本でも公開されているような芸術作品は主流ではなく、年に何百本と作られている作品の大部分は、カラーシネスコ大音響で迫ってくるラブロマンスや大活劇の底抜けに楽しい娯楽映画だ。涙あり、笑いあり、アクションあり、恋愛あり、歌あり、踊りあり……何でもあり。言葉など分からなくても大丈夫、ストーリー展開は単純明快なのでスクリーンを見ていれば分かる。まずは、とにかく1本観てみよう!』
なんとも、そそる言葉だった。
そして、実際にインドで観たそれは、日本では、もう味わえないような興奮があった。
だって、インド滞在中に2度も僕の足を映画館へ運ばせてしまったのだから!
インドの町で映画館を見つけることは、実に容易なことだった。
町の中で一番立派な建物、それが映画館だからだ。
そして、どこも長蛇の列。
その最後尾に付いて、1時間も前からインド人と一緒に並べば、いやがうえにもワクワクしてしまう。
インドの映画館は、全席指定である。
チケットの窓口は、大抵、1階席と2階席の販売に分かれていて、2階席のほうが料金が高い。
高いといっても約10ルピー(約45円) だが、ほとんどのインド人は安い1階席の窓口に並んでいた。
我々は外国人の特権を利用して、もちろん2階のバルコニー席を買った。
やはり2階席売り場には、身なりの良い女性や家族連れが目立っていた。
扉が開いて暗闇の中に飛び込むと、すでに映画は始まっている。
オープニング曲がジャンジャン流れているため、せっかく指定券を手にしているのに、押すな押すなの大混乱だ。
これがまた、エキサイティングで、“インドにいるんだ” という実感が湧いてきて、興奮してしまう。
懐中電灯を持ったお兄さんが、チケットの番号を見て、席へと誘導してくれた。
でも、最高級の指定席のわりには、イスからバネが飛び出ていたり、お尻が湿っぽかったり、はたまた廃物利用の色と形の異なる座席だったりと、お世辞にも快適とは言いがたいが、文句なんて、これっぽっちもない。
なにせ、ここはインドなのだ。
そして、あこがれのインド映画を観ているのだから!
言葉の心配は、本当にいらなかった。
観ているだけで大筋のストーリーは分かるし、その展開の速さは飽きることがない。
僕がジャイプルという町で観た 『JIGAR』 という映画のあらすじは、こうだった。
ハンサムな主人公の男と、色白でグラマーな美人のヒロインが出会い、恋をする。
ある日、主人公の男と対立する町のチンピラが、いやがらせに恋人の妹にからみ、しまいには公衆の面前で強姦してしまう。
主人公が駆けつけたときには、時すでに遅く、チンピラは去り、妹はガラスの破片で自殺をしてしまう(このあたり、話がブルース・リーの映画によく似ている)。
ここで主人公の男の顔が、スクリーンいっぱいに大映しになり、「おぼえてろ!」的なセリフを吐いて、幕が下りる。
休憩が入るのだ。
観客は皆、トイレへ立ったり、ロビーで夢中になって映画の話をしている。
後半は、もうお分かりの通りの復讐劇となる。
アクションあり、カンフーあり、そしてハッピーエンドとなり、お約束のミュージカルで締めくくる。
それはそれは、単純明快な勧善懲悪の世界なのだ。
不自然なほどに何でもありの世界なので、とにかく、おかしい。
乱闘シーンが始まったと思えば、次は男女の愛のささやき合いが、オーバーな振り付けとともに大人数のミュージカルへ。
舞台も、いきなり町中から高原やお花畑に変わってしまう。
あまりに、おかし過ぎて、つい我を忘れて涙まで流してバカ笑いをしていたら、どうもまわりの雰囲気がヘンだ。
ふと気づくと、笑っているのは我々日本人だけで、インド人たちは、いたって真面目な面持ちである。
シラ~っとした視線に囲まれていた。
後で知ったことだが、劇中で踊られていた “おかしな踊り” の1つ1つには、すべて意味があったらしいのである。
それにしても、文句なしにインドの映画は、面白い!
<つづく>
2012年08月17日
ちょっとインドまで⑦ 「カースト制度とバクシーシ」
⑦ 「カースト制度とバクシーシ」
インドを旅行中、僕らは入国後の数日と出国前の数日、知人であるデリー在住の日本人の家に世話になった。
デリーの中心から6~7㎞南にあるハウズ・カス通りは、ゴールデンシャワーと呼ばれる黄色い花をたわわに付けた街路樹がつづく、閑静な住宅街だ。
どの家々も高い塀をめぐらす、白い鉄筋コンクリートの瀟洒(しょうしゃ) な造り。
表札は、すべて外国人の名前である。
ここがインドであることを、忘れてしまいそうになる一画だ。
僕がお邪魔したS邸も、3階建てで広い庭のある大きなお屋敷だった。
しかし、それより何よりも驚いたのは、その家にいた使用人の数である。
コックを兼ねたお手伝いさんが1人、日本車を運転するドライバーが2人、チョキダールとよばれる門番が交替制で3人、それとスィーパー(掃除人) とマリ(庭師) がいて、計8人である。
これでも少ないほうだと言う。
多い家では、さらに仕事が分担されていて、洗濯をする人、給仕のみをする人、家によってはアヤ(子守り女) がいて、10人以上いるのが普通である。
なぜ、そんなに使用人がいるのかと言えば、それはカースト制度がある国だからだ。
その話をインド人にすれば、必ず 「インドにカーストはない!」 とイヤな顔をされる。
事実、独立後の新憲法では、カーストによる差別を禁じており、法的にもカーストは存在しないことになっている。
が、この国の習慣には、現在でも上下関係や差別感が根強く存在していることは、旅人の僕にでも分かる。
インドには、色を意味する 「ヴァルナ」 と呼ばれる “四姓” にあたるカースト(身分) がある。
バラモン(司祭)、クシャトリア(武士)、ヴァイシャ(平民)、そしてシュードラ(奴隷) という肌の色による身分の上下階級である。
これに 「ジャーティ」 という生まれを意味する、職業による差別が加わってくるのだから、ややこしい。
その区分は、2,000以上あるといわれている。
その中で、特に問題とされているのが、いわゆるアウト・カースト(不可触民) たちである。
カースト内の位置すら与えられないこの人たちは、“触れただけ” “見ただけ” でも汚れるものとして差別されている。
インド国内に1億人近くいるとされているこの人たちは、社会的地位が現在でも、非常に低い。
インドの上流階級の家に使用人が多いのも、そんな差別によるものだ。
「私が床掃除などできるか!」
「トイレ掃除は、アチュート(不可触民) の仕事だ!」
と、自分の身分を誇示するために起きている不都合なのである。
住宅街から一歩外へ出ると、貧しい人々の姿が目に入る。
道路の脇や大きな木の下には、無数の人の群れが老若男女を問わず寝ている。
あたかも行き倒れのような格好で、地面に伏したままの人、人、人……。
少女が倒れていた。
15、16歳だろうか。
目をつむったまま、ピクリとも動かない。
死んでいるのかもしれない。
ハエが彼女の鼻といわず、頬といわず、止まっていた。
日陰のある駅の構内は、若干、涼しいのだろうか。
魚市場のマグロのようにボロ布にくるまった人々が、所狭しと横たわっていた。
どんなに上手く身をかわしたつもりでも、時には彼らの手や足を踏みつけてしまう。
それでも、決して怒鳴られることはなかった。
時おり、首をもたげたうつろな眼差しが返ってくるだけである。
子どもの乞食も多かった。
どこまでも、どこまでも後をついて来て、「バクシーシ(おめぐみを)」 をくり返す。
バザール(市場) を歩いているときだった。
僕の前に小学生くらいの少女が、なにやら針金で作った人形のようなモノを抱えて現れた。
しかし、次第に近づくにつれ、それが人形ではないことが分かった。
ガリガリにやせ細った赤ん坊だったのだ。
「バクシーシ」
蚊の鳴くような声で、真っ黒な手を差し出してきた。
あまりのショックに、僕は何をすることもできなかった。
ジャイプルという砂漠の入口にある町では、乞食の多さと非道さに驚愕(きょうがく) した。
指や手がない者、両足がなくスケートボードのような滑車を付けた板で動き回る者。
また、ハンセン氏病や象皮病 の子どもたちを多く見かけた。
そして彼ら、彼女らは、ことさらに自分の不具の箇所を強調し、同情を求めて金を要求してきた。
この子らは、生まれつきにして不具なのではないらしい。
親が “もらい” が多いことを願って、手足を切断するのだと聞いた。
乞食の子は、乞食。
一生乞食として生きる子の末を思えばのことだという。
あまりの残酷な姿に、何度となく、目をそむけた。
<つづく>
2012年08月13日
ちょっとインドまで⑥ 「バレて元々、ゴネれば得」
⑥ 「バレて元々、ゴネれば得」
「ノー・プロブレム(問題ない)」
インドを旅していると、日に何度となく、この言葉を聞かされる。
彼らは、実に英語が堪能だ。
とは言っても、ごく一部の人たちなのだろうが、相手が外国人だと分かれば、積極的に英語で話しかけてくる。
我々、日本人の文法メチャクチャ単語羅列英語よりは、はるかに流暢(りゅうちょう)である。
ところが、きれいな分かりやすい英語を話してくれる人は稀(まれ)で、なまりの強いインド風英語でまくし立てられることがほとんどだ。
「tr」 の発音がなかったり、極端な巻き舌で 「r」 を強調して 「アール」 と発音していたりで、せっかく英語で話しかけてくれているのに、気づかないことだってあった。
まあ、そんなときは、こっちも知っている限りのジャパニーズイングリッシュでまくし立てれば、その場はなんとかなるものだ。
そもそもインドには、260の言語がある。
方言も入れると、その数は750とも言われている。
事実、旅行中に手にしたルピー紙幣には、英語を含めて15種類の異なった文字で、貨幣価値が記されていた。
公用語だけでも14種類。
最も話者人口の多いヒンディー語でさえ、2億人に満たないという。
インドの人口が約8億5000万人だから、7億人近い人は別の言語を話していることになる。
英語が共通語として公用語に加えられているのは、そのためである。
自分の語学力のなさを棚に上げて言うのもなんだが、それにしてもなまりがひどいのだ。
そんな彼らの英語で、最も分かりやすく、かつ頻繁に使われていた言葉が、「ノー・プロブレム」 だった。
何かにつけ、“問題ない” のひと言で済ませてしまうインド人。
彼らの態度、特に外国人と接するときの態度には、“バレ元、ゴネ得” の精神がうかがえる。
「何かごまかしてバレても元々、ゴネて何か取れれば得」 と考えているのだから、旅行者は用心しないと、必ずしてやられる。
たとえば、郵便物である。
旅先から親しい友人宛てに絵ハガキを出すのも、旅の楽しみのひとつというものだ。
しかしインドの場合、無事に日本へ郵便物が届く確率は、2分の1といっても過言ではない。
現に、僕は現地の日本人駐在員の人から 「ハガキは絶対に町中のポストに投函せず、必ず郵便局で局員が切手に消印を押すところを確認すること」 と忠告を受け、途中からはそうしたものの、見事に前半に出したハガキは1枚も届いてはいなかった。
早い話、切手は盗まれ、郵便物は捨てられてしまうのである。
インドから日本までは6ルピー(約27円)、彼らには、いい小遣いになる。
ある日、僕は町の大きな郵便局にハガキを出しに出かけた。
局員が消印のスタンプを押すのを見届け、他の窓口で新たに切手を買い求めようとした。
「6ルピーの切手を5枚欲しい」
30ルピーの紙幣を窓口に出すと、なにやらニヤニヤと、人を小バカにしたような笑みを浮かべ、隣の局員と話し始めた。
どうやら 「6ルピー切手なんて、この国にはないぜ。ジャパニ」 と言いたいらしい。
そんなことは、こっちも知っている。
融通が利かないヤツらだ。
「5ルピー切手を5枚と、1ルピー切手を5枚欲しい」
これなら文句はあるまい。
すると今度は、「どこまで出す? ジャパンか?」 と訊ねてきた。
もちろん 「イエス!」 と答えた。
すると、
「ジャパンまでなら6ルピー30パイサ(1ルピーは100パイサ) だ」 ときた。
ここでも “バレ元、ゴネ得” が始まった。
僕と局員とのやり取りを見かねてか、連れが達者な英語で荷担してくれた。
「たった今、隣の窓口で、6ルピーで日本までハガキを出したところだ!」
すると局員は、何事もなかった顔で、5ルピー切手5枚と、1ルピー切手5枚を差し出した。
すべてが、この調子である。
タクシーやオート・リクシャーに乗っても、まっすぐ目的地へは行かない。
すぐに脇道へ入り込み、みやげ物屋の前で止め、「何か買え」 と言う。
タバコひとつ買うのも、そうだ。
店によって、同じ物の値段が、まちまちなのである。
ひどい店では、2~3倍の値段で売りつけようとする。
いずれの場合も、こちらが強い態度でハッキリと言い返せば、何も問題はない。
しかし、翌日また顔を合わせれば、「ハーイ、ジャパニ! 安くしとくぜ!」 と性懲りもなく、すり寄ってくるのだ。
悪びれないヤツらだが、なぜか憎めないのである。
まるでインドの気候のように、カラッとしている連中なのだ。
<つづく>
2012年08月06日
ちょっとインドまで⑤ 「音と臭いと砂ぼこりの中」
⑤ 「音と臭いと砂ぼこりの中」
タージ・マハルがあることで有名なアーグラーという町へ行ったときのことだ。
実際、見るところといったら巨大な墓 “タージ・マハル” ぐらいしかなく、2日もいると時間を持て余してしまった。
僕は地図の中に動物園があるのを見つけ、それとなしに連れに告げた。
どうせヒマなのだから、同意してくれると思ったのだ。
「何もインドにいて、わざわざ動物園に行くこともないだろう。毎日が動物園の中にいるようなものだよ」
と、あっさりと同行を拒否されてしまった。
しかし、よくよく考えてみれば、まったくその通りなのである。
聖なる牛を筆頭に、町の通りを歩いているのは、決して人間だけではない。
馬もロバも人間と一緒に働いているし、インドではラクダや象だって仕事をする。
塀の上になんの彫刻が置いてあるのだろうと近寄ってみれば、それはハゲワシだったり、住宅街の道で、突然現れたクジャクの姿に驚かされたこともあった。
猿などは、完全に町のならず者である。
果物や野菜を店頭から盗んでは、我が物顔で町を行く。
なかには、それこそ日本では動物園でしか見られないような、黒い顔した白い手長の猿もいた。
それでも町の人たちは、決して動物たちを追い払おうとはしない。
牛が目の前を通るとき、露店商人たちはサッと手で商品を押さえる。
ときには牛も食い物を盗むが、無理に取り返すことはしない。
のったり、のったりと牛は歩き、商人たちは牛が過ぎ行くのを、ただジッと待っているのである。
ある日、町の中を歩いていて、ふと日本の我が町のことを思った。
子どもの頃には目にすることができた昆虫や小動物たちが、完璧に今は姿を消している事実。
道路はすべてアスファルトで舗装され、ドブ川はすべてふさがれて、新たに道となっている。
おかげで、豪雨のたびに氾濫して異臭を放つこともなくなり、清潔で住み良い町になった。
しかし同時に、真夏でも蚊取り線香を使わなくて済む町になってしまった。
昆虫がいなくなれば、それを食べる小動物たちも必然と姿を消した。
野良犬や野良猫の姿さえ、見かけなくなった。
人間のための快適な町づくりを行った結果である。
ところが、どうだろうか・・・
その中で暮らす人々たちは、快適さだけを得て、以前と同じような生活を続けることができているだろうか?
便利になり、清潔になった町は、もう人が手をかけるものがなくなってしまったようだ。
人と人が互いに手をかけ合う町は、“音” や “臭い” とともに、遠い昔のものとなってしまった。
インドの町の中で立ち止まっていると、無性に悲しみが込み上げてきた。
僕の足元では、やせ細ったスズメと灰色をしたカラスが、数匹のリスと一緒に、さっきから残飯をついばんでいる。
「どうして、ここの動物たちは逃げないんだろう……」
ひとり言のように僕がつぶやくと、連れが答えるように言った。
「いじめる人間がいないということだな。ここには」
見上げる空は、連日、雲ひとつない快晴。
そして町は、いつも色と音と臭いが、砂ぼこりの中で渦巻いていた。
<つづく>
2012年07月29日
ちょっとインドまで④ 「はじまりはいつも宿探し」
④ 『はじまりはいつも宿探し』
1日の始まりは、まず宿探しからだった。
新しい駅に降り立つと、ガイドブックを頼りに、ひたすら歩く。
1,000ルピー近くする高級ホテルにも一度だけ泊まってみたが、我々のような貧乏旅行者には身分不相応というもの。
日本円にすればビジネスホテル並みの料金でも、そんな暮らしを何週間も続けられるものではない。
また、せっかくインドにいるのだから、インドの臭いに浸っていたいし、その臭いの源である民衆の中で過ごしていたい。
そうなれば必然的にぜいたくな旅なんて、このインドでは望めなくなってくる。
本当に貧乏旅行に徹する気になれば、確かに10ルピー(約45円) 前後で泊まれる宿もあるが、あの強烈な町中の光景を目の当たりにしてからは、少々意気込みのほうも萎(な)えてしまった。
自分たちの年齢を考えると、体力にもあまり自信がない。
“ここはひとつ、中間をとって100ルピー前後の宿にしよう!”
という結論に達したのである。
3~4㎞歩くのはざらで、ひどい時は約10㎞もの道のりをさまよい歩いた。
デリーやカルカッタなどの大都市を別にすれば、インドの町は、どこも歩くことが基本となる。
交通機関としては、どの町にもリクシャー(日本語の「人力車」が語源という) が代表的な乗り物としてある。
自転車で引くサイクル・リキシャーと、小型オート三輪の後部を座席にしたオート・リクシャーがポピュラーであるが、「○○まで」 というハッキリした行き先の指定ができない初めての町では、やはり、ひたすらに歩くしかないのだ。
大抵の町は、まず旧市街と新市街とに分かれている。
旧市街は、イギリス統治以前からある古い城や寺院を中心に、庶民の活気にあふれたバザール(市場) が広がっている。
一方、新市街は、イギリス支配時代に、旧市街の外側に建設されたものが多く、官庁、銀行、オフィスなどが並んでいる。
我々が探し当てようとしている安いホテルは、もちろん旧市街にある。
ところが頼りにしているガイドブックとやらが、なかなか当てにならない。
地図には書かれていない道が多く、情報が古過ぎて実際に行ってみると、すでになかったりと、たどり着くのは至難の技だ。
それだけで、優に半日はつぶれてしまうのである。
その甲斐があってか、やっと見つけて宿にたどり着いたときは、まさに極楽!
たとえ、そこが暗く湿った部屋であったとしてもだ。
リュックを投げ出し、ベッドの上に大の字になる。
30度を超す強い陽射しと砂ぼこりの中を歩き回ったのだ。
ノドはカラカラ、頭の中といわず体中が、砂でジャリジャリしている。
が、1泊100ルピーの宿では、まず、お湯の出るシャワーは望めない。
水が出るだけでも、ありがたいというものである。
さて、水を浴びてサッパリしたし、これでやっと今日のメシにありつけるというもの……
というのは、高級ホテルでのお話。
100ルピーの宿では、これからの準備が肝心なのだ。
とにかく、インドは蚊が多い。
蚊といえば、マラリアだ。
蚊取り線香は、インド旅行の必需品である。
部屋に着くなり、蚊取り線香を2ヶ所に置いて火をつけ、モウモウと煙をたいて蚊を退治しなければならない。
もちろん寝るときは、虫よけスプレーで露出している肌を念入りにガードすることを忘れてはならない。
次は、ベッドだ。
一見、清潔そうに見えるカバーも、はがしてみると、いかにもダニと南京虫の巣窟といった感じのシットリ加減なのである。
まずは殺虫剤をひと吹き、スプレーする必要がある。
そして、その上にビニールシート(ゴミ袋の大きいものを使用) を敷き、カバーをもどす。
寝るときは、さらに自分で持ってきたスリーピングシーツを使用する。
という徹底ぶりである。
これでやっと、本日最初の食事にありつけるというものだ。
<つづく>
2012年07月26日
ちょっとインドまで③ 「地球のゴミ箱の中を歩く」
③「地球のゴミ箱の中を歩く」
インド、という国の名を聞いて、まず最初に何を連想するだろうか?
カレーライス、牛、カースト、ガンジス川、サリー、タージ・マハル ……
僕にとっても、その程度の知識しかなかった。
出発前に、2、3冊の紀行エッセーや参考資料に一応目を通してはみたものの、それ以上にも、それ以下にもイメージは増減されなかった。
何よりも過敏になっていたのは、やはり病気のことだった。
特にインドを旅するとなれば、コレラ、マラリア、腸チフス、肝炎といった恐ろしい病名が次々と頭に浮かんでくる。
つい、二の足を踏みたくなってしまう。
コレラの場合、現在、WHO(国際保健機構) もインドを汚染地区とはしていないし、最近はコレラの発生がきわめて少ないという。
よって、日本から直接インドへ行く場合には、予防接種は義務づけられてはいない。
それでも、しないよりは、して行ったほうが、いいに決まっている。
出発ギリギリまで迷った末、僕は予防注射をせずに行くことに決めた。
理由は、2つ。
経験者の話によれば、コレラの予防注射は大変強く、高熱を伴うことが多い。
そのために、出発前に発熱してしまい、せっかくのインド行きを断念したという、本末転倒な話も聞いた。
また、予防注射を受けたからといって、100%確実というものでもないらしい。
エイッ、成るようになる!
こうなれば運を天に任せて、いざ、出陣じぁ~!
かくて常日頃、強運の持ち主を自負している僕は、家族の心配を振り切り、ビタミン剤と正露丸をお供に、旅立ったのである。
いざインドへ行ってみると、町はどこもゴミ箱の中を歩いているようだった。
ゴミ箱といっても、日本の “夢の島” に象徴されるような、残飯や紙くず、使い捨てにされた生活用品が散乱しているわけではない。
人の波、体臭、叫び声、エンジン音、色の洪水、砂ぼこり、強烈な陽射し ・・・・
ありとあらゆる騒音と臭いが、五感という五感をすべて刺激してくる。
まさに “地球のゴミ箱” として、僕には映った。
牛が目の前で放尿を始める。
それをかわそうとして路傍へ身を寄せれば、右手に水の入った空き缶を握り締めた人々が、側溝にしゃがみ込んで排便を悠然としている。
ふと、露店の砂糖菓子に目をやれば、ハエが黒山にたかっている。
店主は、それを追い払う様子もない。
“これは、病気にならないほうが奇跡に近いかもしれんぞ ……”
その時、本気でそう思ったものだ。
我々にしてみれば、あまりにも非日常過ぎる光景に、めまいさえ感じていた。
<つづく>
2012年07月22日
ちょっとインドまで② 「これがインド流のご挨拶」
②『これがインド流のご挨拶』
成田空港を昼に飛び発ったA I (エアインディア) 305便は、12時間のフライトを無事終え、予定通りの時刻にインディラ・ガンジー・インターナショナル・エアポート(デリー) へ着いた。
時差は3時間半、まだその日の夜9時である。
さっそくインド流の出迎えを受けたため、入国するのにたっぷり2時間もかかってしまった。
とにかく、すべてに手際が悪い。
入国審査にしろ、税関にしろ、銀行(両替所) にしろ、成田のそれとは段違いだ。
こっちは夜遅く異国に着いたこともあり、気があせっているから、余計にいらだってしまう。
ところが、これがインド流のやり方なのである。
1分1秒の遅れが、1日のスケジュールを狂わせてしまうような国から来た我々には、到底信じがたいことだが、彼らは表情をひとつも変えずに 「ノー・プロブレム(問題ない)」 のひと言で、なんでも済ませてしまう。
では、仕事が丁寧なのかといえば、決してそうではない。
作業の途中で隣の係員と会話を始めてしまうし、自分の担当窓口を離れて後ろのほうでボーっとしているやらで、長蛇の列は一向に前へ進まないのである。
おまけに銀行では、こっちが黙っていれば必ずと言っていいほど、両替を誤魔化す。
気づいて指摘すれば、「バレたか!」 といった笑みを浮かべ、紙幣を放り投げてくる始末だ。
現に、僕の連れは、後で調べてみたらナント!1,000ルピー(約4,500円) もの大金(インドの平均月収にあたる) を誤魔化されていた。
いやはや、入国早々トラブル続出の、なんとも不安な旅の始まりではあるが、これがインド流なのだから仕方がない。
“郷に入っては郷に従え!”
金満国ニッポンの恥さらしにならないためにも、気を長く持ち、したたかに構えなくてはならないようだ。
さて、入国手続きが進むに連れて、僕の気が気ではない心が、さらに緊張を増していくのが分かった。
呼ばれるには呼ばれて、なんとかこの国までたどり着いたものの、はたして選ばれるのだろうか?
「小暮さん、選ばれる人と選ばれない人というのは、どうも空港へ降り立った瞬間に決まるらしいですよ」
社長さんの言った言葉を思い出す。
背中のリュックが急に重く感じられ、緊張がピークに達しようとしたときだった。
空港内でも、かすかに感じていた異臭が、屋外へ出た途端、ツーンと強烈に鼻孔を突いてきたのだ。
うわぁ~~、これだったのか!
動物の臭いとも、排泄物の臭いとも判別のつかない初めて体験する臭いだった。
それが一瞬にして、僕の体に貼り付いてきて、離れようとしない。
その場にジッとしていると、体内にまでしみ込んでくるかのようだった。
しばらくすると鼻も慣れてきたようで、呼吸に対しての拒否反応をしなくなっていた。
一度、思いっきり深呼吸をしてみる。
あれっ?と思う。
もう一度、深呼吸をしてみる。
するとなんだか不思議と、懐かしさを覚えた。
知ってるぞ、この臭い ……
粘土の臭いである。
子どもの頃に遊んだ、あのミドリ色した油粘土の臭いに似ていると思った。
<つづく>
2012年07月21日
ちょっとインドまで① 「呼ばれる人、選ばれる国」
このカテゴリーでは、1993年に当時、僕が編集人をしていたタウン誌 『月刊 上州っ子』 に、異国体験見聞録と題して連載した紀行エッセーを、不定期にてご紹介します。
約20年前の記事ですので、現在の実情とはそぐわない箇所も多々ありますが、当時の臨場感をそのままお届けするために、あえて加筆・訂正等はしていませんので、ご了承ください。
①「呼ばれる人、選ばれる国」
いま、髭(ひげ)を蓄えている。
常々、機会があったら髭を生やしたいと思っていた。
でも、あの生え始め2~3日経った頃の汚らしい顔には、毎度我慢ができなくなり、断念することたびたび。
今回のインド行きは、人前から数週間姿を消せるという、絶好のチャンス到来となったわけである。
似合うが似合わないかは、ご覧になった方の主観におまかせするとして、久々に現れた僕の顔の真ん中に、なにやら黒いゴミのような物が、恥ずかしそうに付いているものだから、会った人のリアクションもさまざまだ。
「えーっ、小暮さんかい? 一瞬、誰かと思ったよ」
「うぉっ、ヤクザが入って来たのかと思った」
一様に目を白黒させて 「どうしちゃったの?」 と言わんばかりの形相で迎えてくださった。
こちらも大した理由付けはない。
ただの気まぐれなのだから、「しばらく休みをとっていたものですから……」 と応えていた。
すると先方も大体の察しがつくようで、「どちらへ?」「海外?」 と質問責めにあう。
「ええ、まあ、ちょっとインドまで・・・」
ここから先の反応に個人差があり、実に面白いのだ。
「エーッ、インド~! すごい所なんでしょう」 と驚きの声を上げる人。
「インドですか……。実は私もいま一番行ってみたい国なんですよ」 と羨望のまなざしで話を聞きたがる人。
大きく分けると、そんな2つのタイプがいるようだ。
前者は女性が多いが、決まって 「カレーしかないの?」 と訊いてくる。
後者は、圧倒的に男性である。
それも30~40代の一風変わった自由人タイプの人。
これまた必ず訊かれる質問がある。
「やっぱり、人生観が変わりましたか?」 である。
では、その2つの質問の答えは?
どちらもYESであり、どちらもNOであると言える。
なぜなら、たかだか数週間の旅の中で僕が見てきたものなど、すべてがインドの一部でしかすぎない。
だから僕が見たインドもインドには違いないが、その断面だけを語ってインドを知ったつもりでいると、他の人はきっと 「違う」 と言うだろう。
でも、そこがインドの面白いところなのだ。
同じものでも、見る人自身の感じ方によって、まったく違うものに見えてしまう。
また、訪ねる人とインドの相性の善し悪しというのもあるらしい。
インドを訪れた観光客の中には、その強烈な個性に圧倒されてしまい、ホテルから一歩も外へ出ることなく、何も見ずにそのまま日本へ帰って来てしまう人が、後を絶たないという。
わざわざインドまで行って見たものは、ホテルと空港を往復した車の中からの景色だけ・・・。
早い話が、この人たちは、インドとの相性が悪いのである。
僕は出発前、さる会社の社長さんから、こんなことを言われた。
「ほう、小暮さんもついにインドに呼ばれましたか……。私は、まだですけどね。いつ呼んでくれるか、楽しみに待っているんですよ」
さらに彼は、「選ばれるといいですね。戻ったら、ぜひ、それが聞きたい」 と言葉を付け加えた。
呼ばれる?
選ばれる?
旅立つ前の僕の心は、なにやら自分の価値を試されているようで、気が気ではなかったのである。
<つづく>