2024年10月13日
噓も方便
「洗濯屋」 と聞くと、「ケンちゃん」 と即座に反応してしまうのは、どっぷり昭和の時代に思春期を過ごしたからでしょうか?
たぶん同世代の男性は、みなさん、お世話になったのではないかと思います。
でもね、よくよく回想すれば、「洗濯屋」 なんて呼んでなかったですよね。
僕が小学生の時は、すでに 「クリーニング屋」 でした。
町内に一軒だけあったクリーニング店。
大きな白い布製のバッグが荷台にくくり付けた自転車に乗って、毎日のようにお兄さんが家にやってきました。
「毎度、Fクリーニングですけど、奥さん、どう? 間に合ってる?」
そう一声かけて、行きます。
当時の家庭用洗濯機には、脱水機能はありませんでした。
洗い終わった洗濯物は、2本ののゴムのローラーの間にはさんで、ハンドルを回しながら圧縮する “しぼり装置” が付いていました。
今思うと、かなり荒っぽいやり方です。
生地は傷むし、よくボタンも取れていました。
だからクリーニング屋は、繁盛していたんですね。
スーパーもコンビニもなかった時代です。
我が家を訪れていた商人のなんと多かったことか!
酒屋も米屋も、みんな御用聞きと配達に来ました。
夕方になると現れたのは、豆腐売りと納豆売りでした。
豆腐売りは、吹くラッパの音が合図です。
「プープ、プープ」 という音が、子どもには 「とーふ、とーふ」 と聞こえたものです。
「ジュン、豆腐2丁、買ってきて」
とオフクロに言われ、丼を持って、通りへ飛び出して行ったものです。
もちろん、当時の豆腐は今のように一つずつがパッケージなどされていません。
豆腐売りのおっちゃんは、水の中に浮いている豆腐を、そのまま手づかみですくい上げて、丼の中に入れてくれました。
納豆売りは、かなり高齢のおじいちゃんでした。
「なっと、なっとー! なっと、なっとー!」
と、よく通る声が夕暮れの町中に響いていました。
納豆も今のように発泡スチロールの容器になんて入っていません。
ワラにくるまれたものと、経木という木を薄くスライスした皮で包まれた三角形のものとありました。
ワラに包まれたものは高級だったので、庶民はもっぱら三角形の納豆を買っていました。
子ども心に、強烈な印象で記憶に残っているのが、海産物を売りに来る行商でした。
やって来るのは、決まって腰の曲がったおばあさんです。
大きな、それはそれは大きな、自分の体より大きい袋を抱えて、突然、玄関に現れます。
「どっこいしょ」 と言って袋を下ろし、玄関の上り口に干物や海藻類を並べ始めます。
「ワカメ、買ってよ」 「味が全然違うから」 「ほら、一口味見してみて」
と矢継ぎ早に、まくし立てます。
玄関でオフクロが困っていると、奥からオヤジが出てきて言いました。
「おばさん、こめんね。俺の姉さんはさ、新潟の柏崎に嫁いだんだよ。だからさ、海のものは食いきれないくらい送られて来るんだよ」
ウソだ! ウソだ!
今、とうちゃんは、ウソをついた。
子どもには 「ウソつきは泥棒の始まりだ」 と言っておきながら、平気でウソをついている。
だって、新潟に伯母さんなて、いないもん!
「そうかい、そりゃ悪かったね。失礼するよ」
と、おばあさんが広げた海産物を仕舞い始めると、オヤジは言うのでした。
「おばさん、お茶を一杯飲んでいきなよ。歩き続けで、疲れただろう」
お茶を飲む間、オヤジはおばあさんの身の上話を聞いてあげていました。
「嘘も方便」 という言葉を知ったのは、もう少し大きくなってからのことでした。
2024年08月02日
百葉箱には暮らせない
あつい、あつすぎる!
(十万石まんじゅうのトーンで)
連日、猛暑日が続いています。
なのに、こんなことを言う人がいます。
「いくぶん、今日は涼しいですかね」
そ、そ、そんな~!
その日の気温は、猛暑日一歩手前の34℃越えです。
ああ、ああ、みんな暑すぎて、頭がクルクルパーになっちゃってるんですね。
涼しいわけがない!
でも、前日の体温越えに比べると、涼しいと感じてしまうんです。
異常気象に、だまされています!
昨日、気象庁は、今年の7月の平均気温が観測史上、過去最高だったと発表しました。
やっぱりね。
でも、だまされてはいけません。
気象庁が発表している平均気温も最低気温も最高気温も、特別な環境下で測定されたものですよ。
風通しの良い、直射日光の当たらない日陰で、しかも芝生の上1.5mの位置で観測されています。
そんな好条件で、我々は、いつも暮らしてはいませんって!
で、ふと思い出しました。
我々が小学生だった頃には、校庭の隅に百葉箱がありました。
ひゃくようばこ?
知らない人もいるかもしれませんね。
すでに廃止になっている昭和の風景です。
百葉箱は、白い木製の箱です。
草の生えた地面の上、1~1.5mのところに小屋のような箱があり、中には温度計や雨量計が入っていました。
白い外壁が、太陽の光を反射するように作られていました。
ということは、あのような恵まれた環境で測定した温度が、“今日の最高気温” として発表されているわけです。
でも、我々の日常は違います。
炎天下だって、余儀なく移動や作業をしなければなりません。
気温が35℃でも、日なたは40~50℃になっているはずです。
アスファルトの上なら、それ以上でしょう。
これは、もう、災害なんです。
国は、何らかの措置を講じるべきです。
その前に気象庁に、お願いがあります。
「今日の炎天下温度」 というのを発表してください。
でないと、35℃の猛暑日を 「涼しい」 と感じてしまう国民が増殖しますよ。
2024年07月17日
薄荷と肉桂
毎度おなじみの呑み屋ネタで恐縮です。
会話の脈絡からママが、こんなことを言いました。
「そういえばさ、運動会のときに小学校の正門の前に、ハッカのパイプを売る店が出てたよね」
これに対して、「あった、あった!」 と声を上げたのは60歳以上の客でした。
「知らな~い」 と言ったのは、未満の客です。
そうそう、確かにありましたね。
ハッカパイプ!
縁日などでも見かけましたが、小学校の正門で買った記憶があります。
ソフトビニールでできたキャラクターが付いた細長い容器に、砂糖を入れてもらい、パイプのようにしてチューチューと吸いました。
その時の砂糖は、ただ甘いだけではなくハッカの味がしました。
中身を食べ終わった後は、そのまま容器が笛になって、ピーピーと鳴らしながら帰ったものです。
ハッカは 「薄荷」 と書きます。
今でいうミントのことなんですが、ちょっと違います。
ミントの品種ですが、日本自生の和種だそうです。
「そういえばさ、味紙なんていうのも駄菓子屋に売ってたよね」
と僕。
「あじがみ? 知らな~い」
とは、やはり還暦未満の客でした。
味紙とは?
わら半紙のような紙に、食紅で絵が描いてあって、それをちぎって口に入れると甘いのです。
味がなくなったらガムのようにクチャクチャになった紙を、ペッと吐き出すのです。
今思えば、毒々しい色で描かれていて、いかにも危なっかしいお菓子でした。
チクロやサッカリンなどの人工甘味料や知らない着色料が、いっぱい使われていたんでしょうね。
昭和40年代初頭のことです。
チクロもサッカリンも発がん性があるとして、その後、使用が禁止となりました。
「味紙」 とは、僕ら仲間内での呼び方です。
一般には、「ニッキ紙」 と呼ばれていたようですね。
そういえば甘さの中に、ニッキの香りがしたような……
ニッキは 「肉桂」 と書きます。
正しくは 「にっけい」 で、「にっき」 は音変化した呼称だそうです。
ニッキ飴、なんてありましたよね(今もありますね)。
京銘菓の 「八ツ橋」 なんかが、ニッキ味の代表菓子です。
今でいうシナモンのこと。
でも正確には、日本産の肉桂と呼ばれるクスノキ科の常緑樹を指すそうです。
もう、味紙には合えないかもしれませんが、ハッカパイプなら令和の縁日でも売ってそうですよね。
もし、出合ったら衝動買いをしてしまいそうです。
白髪ロン毛の初老の男が、キャラクターの付いたハッカパイプをピーピーと鳴らしながら歩いていたら、ヘンですかね?
2024年02月28日
昭和願望症候群
「死にたい」
「生きていたくない」
そんな声が、僕の周りで聞こえてきます。
自殺願望?
ではありません。
しいて言うならば、“昭和願望症候群” です。
昭和生まれの昭和育ちの世代は、急速に進歩した令和の世の中に、ついていけません。
ついていけないどころか、便利が生み出した生活や環境にさえも馴染めないでいます。
ある友人は、こんなことを言いました。
「長野市の公園廃止を聞いたときは、本当、もう死にたくなった。今の世の中、おかしいよ」
「子どもの声がうるさい」 という、たった一軒の住民の苦情から公園の使用を禁止したというニュースです。
ついに、ここまで来たか!
と、僕も耳を疑ったほどでした。
令和になり、音に関する苦情は、エスカレートするばかりです。
盆踊り、花火大会、除夜の鐘、風鈴……
それらの音が 「うるさい」 という現代人。
昭和の時代には、考えられなかったことです。
友人は、こんなことも言いました。
「バスの車内で、ベビーカーが邪魔だと言いがかりをつけられたり、赤ん坊の泣き声がうるさいからと降ろされた母親がいた。なんだよそれ! いちゃもんつけてるそいつだって、生まれたときは赤ん坊だったじゃねぇーか!」
と、憤懣やるかたない様子。
さらに彼は続けます。
「確かにベビーカーは邪魔だよ。赤ん坊の泣き声をうるさいと感じるときだってあるさ。でも、みんなお互い様だったんだよ。盆踊りだって、除夜の鐘だって、たった一日なんだから我慢すりゃいいじゃねぇか! 日本の文化なんだから」
いつから、この国はこんなにも、住みにくくなってしまったのでしょうか。
TBS系ドラマ 『不適切にもほどがある』 では、昭和から令和にタイムトリップした男が、現代のコンプライアンスにがんじがらめの世の中で、悪戦苦闘する物語です。
昭和世代には、その 「あるある」 が受けているようですが、笑い事では済まされない危機感を感じます。
脚本家の宮藤官九郎も、そこが一番伝えたかったのでしょうね。
「昭和が良かった」 とは言いません。
でも、不便でも人と人が手をかけて、協力しながら生きていた時代だったと思います。
思いやりややさしさが、もっと町の中にあふれていたような気がします。
さる年配の女性が言いました。
「長生きしたくなくなってきたね。こんなに生きにくいんじゃ、未来が怖くて見られないもの」
誰も本気で 「死にたい」 なんて思っていません。
でも世の中が、これ以上変化するのなら 「生きていたくない」 というのは本音かもしれませんね。
昭和は遠くなりにけり……
2024年01月10日
遠くで昭和を聴きながら
♪ 沖の鴎に 深酒させてヨ いとしあの娘とヨ 朝寝する ダンチョネ ♪
その訃報を知ったのは、いつもの店のいつものカウンターでした。
テレビ画面に突然映ったニュース速報。
<歌手の八代亜紀さん(73) 死去>
早々に酔い始めた4人の常連たち。
「えっ!」
皆一様に、息を呑みしまた。
すぐさま客の一人がスマホで検索。
「去年の夏から体調を崩して、活動を停止していたらしいよ」
ママが会話に加わります。
「いくつだったの?」
僕が答えました。
「73だって」
「また昭和が遠くなっちゃったね。さみしいね」
そのあと、1人2人、3人4人と常連客が顔を出して、あっという間に小さなカウンターは満席状態に。
「お正月だから歌おうか?」
ママがマイクを差し出しました。
「当然、このメンバーじゃ、昭和の歌だね」
と言った僕の言葉通り、1960~70年代の歌謡曲がオンパレード。
一番若い人で還暦、上は80代が2人もいます。
誰か、八代亜紀を歌わないかな……
聴きたいな、「舟唄」 を……
「ほら、ジュンちゃんも入れて! 正月なんだからさ」
ママにせかされて、タブレットの歌手一覧を操作する僕。
八代亜紀は歌えないもんな……
だったら追悼の意を込めて、やっぱり谷村新司かな……
ソロの曲もいいけど、今日はアリス時代の好きな曲を歌っちゃおうか……
♪ もう行かなくちゃ つらくなるから 最後の言葉だ ありがとう ♪
「ああ、昭和がどんどん遠くなっていっちゃう」
しもじみと感じた夜でした。
ご冥福をお祈り申し上げます
2023年12月27日
スカスカおせちとグチャグチャケーキ
そのクレーム (相談件数) に驚いた!
約1,200件 (26日午後8時時点)。
某大手百貨店がオンライン販売したクリスマスケーキの一部が、破損して配達されていたというニュースです。
一部ということですから予約数は、その何倍もあったというわけです。
このニュースを聞いて、すぐに思い出したのが10数年前に話題になった 「スカスカおせち」 でした。
2万円以上もする高級おせち料理を半額で販売したところ予約が殺到。
届いたおせち料理は、中がスカスカだったという笑うに笑えない珍事件でした。
似てるよね、この2つのニュース!
「おせち」 と 「クリスマスケーキ」 の違いはあっても、僕ら昭和世代にとっては、どちらも特別な日の特別な食べ物だったからです。
おせちは、買うものではなく、作るもの。
昭和では、当たり前でした。
正月の三が日は、どこも商店が開いてませんから、おせち料理と餅を食べて過ごすしかありませんでした。
クリスマスケーキなんて、僕が子どもの頃は、お大尽の家の子しか買ってもらえませんでした。
それだって、バタークリームのケーキです。
冷蔵庫が普及していなかった時代のこと。
まだ、生クリームの存在すら知らなかったのです。
それでも給食で、小さなバタークリームのケーキが出たときは、うれしかった!
みんな学校では食べないで、そーっと、そーっと形が崩れないようにして、家まで持って帰ったものです。
そして、小さなケーキを家族みんなで、一口ずつ分け合って食べました。
それが、一般的な昭和の家庭のクリスマスケーキの思い出です。
時代は変わり、令和のクリスマスケーキはオンラインショップで販売されました。
有名なパティシエが監修したとのことですが、製造は工場です。
5,000個以上の注文があったといいます。
では、なぜ、グチャグチャに破損したケーキが届いたのでしょうか?
配送業者が、雑な扱いをしたから?
でも、中身は冷凍とはいえ、レーキですからね。
プロが、そんな扱いをしたとは思えません。
しかも、1,200個ですよ?
ということは、製造過程でトラブルが起きたのでしょうか?
完全に冷凍されていない状態で出荷された?
きっと、原因は数日のうちに解明されるでしょうね。
ただ、これだけは言えます。
なんでも、かんでも、“便利” で “お得” な世の中になった結果じゃないのかなって。
この “便利” で “お得” な商戦の中で、悲鳴を上げている人たちが必ずいるということです。
キャパオーバーによる人材不足が、原因じゃないのかな?
製造も配送も、結局はマンパワーですもの。
おせちは家で作り、ケーキは洋菓子店に買いに行っていた時代には起こらなかった、令和ならではの珍事件じゃないでしょうか。
2023年02月03日
鬼の居ぬ間に贅沢
「鬼は~外! 福は~内!」
毎年2月3日の夜になれば、町内のあちらこちらから豆をまく声が聞こえてきたものです。
「ほら、お父さん、早く早く! 隣んちは、もう始めましたよ」
なんて言いながら、オフクロが升に入れた大豆を、あわてて持ってきたものでした。
家の1階も2階も、すべての窓という窓を開け放ち、外へ向かって豆を投げつけます。
「鬼は外、鬼は外、福は~内!」
オヤジは決まって、“鬼は外” を、2度くり返していました
いったい、いつからでしょうか?
豆まきをする声を聞かなくなってしまったのは?
我が家も子どもたちが小さい頃は、やっていましたが、もう何年もしていません。
今でも小さい子どもがいる家では、やっているのでしょうか?
窓を開けず、小声で、こっそりと……
でも、なぜ、節分の日に、豆をまくのでしょうか?
節分とは、季節の変わり目のことです。
今は新暦2月3日の行事ですが、古くは一年を二季と考え、立春 (新暦の2月4日) が新年初日であり、その前日を節分、その夜を年越しとしていました。
年賀状に 「迎春」 と書くのは、立春が新年の初日であったからのようです。
日本では古来、季節の変わり目には、いつもと違うことが起こったり、予期せぬ出来事に見舞われる不安定な時期と考えられていました。
すなわち、節分の日を狙って得体のしれない魔物が侵入してくるのを防ごうと、米をまく行事が行われたといいます。
これは、穀物には穀霊(こくれい)が宿り、霊力があると信じられていたからです。
節分の夜に豆をまくようになったのも、同じように霊力のある豆で、旧年のけがれや悪霊を払うためだったと考えられます。
「年齢(とし)の数だけ豆を食べると、一年間、風邪をひかないんだよ」
なんて、おばあちゃんに言われたことを思い出します。
「いいな~、おばあちゃんは、たくさん食べられて」
子どもたちは “年を取ると得をする” と思ったものです。
これは 「再生」 を意味するもので、立春という新しい年を迎えるにあたって、生命力の更新を図ろうとした風習のようです。
今まですり減らしてきた年数分だけ、霊力のある豆を食べれば、再生する力を得られると考えたのかもしれませんね。
そういえば豆は、おせち料理にも必ず入っていますものね。
「まめに働く」 といって、縁起のいい食べ物です。
最近は、恵方巻のほうがブームのようですが、関東人の僕らからしたら、しっくりきません。
やっぱり、今夜は豆を食べましょう!
甘い金時豆では、つまみになりませんので、塩豆あたりをつまみながら、キューっと冷酒をひっかけたいと思います。
「鬼の居ぬ間に贅沢」
なんて、言っちゃって!
結局、のん兵衛は一年中、季節の変わり目など関係なく、いつでも酒で身を清め、邪気を払っているのであります。
2023年01月07日
昭和大好き! GS歌合戦
昨日、初Hを済ませました。
といっても、“姫始め” のことではありませんよ!
ご存じ、我らのたまり場、酒処 「H」 であります。
まあ、何度も言うようですけど、カウンター8席のみの “どじょうの寝床” のような細くて狭くて小さい店ですからね。
あっという間に、満席となります。
僕は毎回、一番乗りを目指して午後4時過ぎには店に入るのですが、惜しくも新年一番乗りにはならず。
すでに先客がいました。
「残念、先を越されました」
と言えば、常連のKさんは、
「今来たところです。早く来ないと、ここは前橋一、座れない店で有名ですからね」
「まるで、イス取りゲームのようですね」
と笑いました。
すると、ママがひょっこり厨房から顔を出して、
「残念でした。一番乗りはSさん。2時半に来て、3時半には帰って行きました」
とは、殺生なことで。
開店は午後4時ですからね。
Sさんは、完全なるルール違反であります。
ママは、仕込み中を襲われたようです。
とかなんとか、「おめでとう!」 「今年もよろしく!」 と言いながら呑んでいると、1時間後には満席状態に。
散歩の途中に 「トイレを貸して」 と立ち寄った常連まで、そのまま居ついて、立ち呑みを始める始末です。
「H」 は、今年も絶好調であります。
午後8時を過ぎると、客らのテンションもマックスになり、いよいよ、恒例の歌合戦の始まりです。
客層は、昭和20~30年代前半生まれですからね。
当然、どっぷり昭和大好き人間たちであります。
その都度、演歌だったり、ムード歌謡だったり、テーマは変わるのですが、なぜか昨晩はGS (グループサウンズ) しばりとなりました。
ブルーコメッツ、タイガース、テンプターズ、スパイダース、ワイルドワンズ、オックス、カーナビーツ……
「なぜか、みんな知ってるし、みんな歌える」
「昭和って、そういう時代だったんだよ」
「だって、テレビは茶の間に1台だもの」
「そうそう、だから家族全員で、同じ番組を観ていた」
「歌番組も多かったよね」
「だからヒット曲は、子どもからお年寄りまで、みんなが歌えたんだ」
歌は世に連れ、世は歌に連れて、令和の歌声酒場は大盛り上がりであります。
「では最後に、ジュンちゃんも一曲、お願いします」
とマイクが回ってきました。
もちろん、GSにはGSで返します。
「それでは、みなさん、ご一緒に!」
♪ 初めての 口づけに 知った恋のよろこびよ
帰れ僕の この胸に
My baby Want you Want you see again ♪
ザ・ジャガーズの 「君に会いたい」 で、締めくくりました。
のん兵衛のみなさん、今年も大いに、吞み明かしましょう!
2022年10月04日
迷わず行けよ、行けば分かるさ。
「貧乏ですか?」
「貧乏ならば何でもできる!」
夢を分かち合う友人と、長年交わしている合言葉です。
ご存じ、あの名ゼリフのパロディーであります。
今月1日、元プロレスラーで参院議員も務めたアントニオ猪木さんが、心不全のため死去されました。
79歳でした。
アントニオ猪木さんといえば、僕ら世代にとっては、まさに劇画から飛び出して来たような実存するヒーローでした。
ともに同時代のプロレス界をけん引してきたジャイアント馬場さんと人気を二分にしましたが、僕たちちびっ子は、圧倒的に “猪木ファン” でした。
休み時間や放課後になれば、男の子たちは、決まって “プロレスごっこ” に夢中でした。
「四の字固め」 「キーロック」 「コブラツイスト」……と、覚えたての技を掛け合うのが楽しくて、ついつい白熱してしまい、ケガをして保健室へ運ばれる子が続出したほどでした。
なかでも一番人気は、猪木スペシャルこと、「卍(まんじ)固め」。
みんな、この技をかけたくて、体の小さい、ひ弱な子がターゲットにされました。
しっかり、いじめの温床になっていたと思います。
ということで、いつしか学校での 「プロレスごっこ」 は禁止となりました。
が、悪ガキは懲りません。
「学校の外なら、いいんだぜ」
と下校時に、いじめられっ子を待ち伏せをして、技の練習に励んだものでした。
そんな少年時代のある日。
ついに僕らが暮らす地方都市にも、アントニオ猪木が来ました!
場所は、今はなき百貨店屋上の特設会場。
もう、黒山の人だかり。
百貨店の屋上は、これ以上人が入れないくらいの超満員。
友だちと何時間も前から並んで、猪木の登場を待ちました。
そして……
「うおおおおーーーー!!!」
登場するや、僕らは興奮の絶頂に達しました。
「大きい!」
こんな大きな大人を、僕らは身近に見たことがありません。
「カッコイイ!」
その姿は、テレビで観るヒーローそのものだったのです。
早くから会場に陣取っていた僕らは、幸運にも 「サイン会」 の列にも並ぶことができました。
生まれて初めて見る本物のプロレスラー。
しかも人気ナンバーワンのスーパーヒーローに、僕らのテンションは上がりっぱなしです。
帰り道。
色紙を手にした僕たちは、興奮しています。
「おれ、猪木の顔、あんまりよく見なかった」
「握手した手、おれ、一生洗わねんだ」
友だちは口々に話します。
「グレコ (僕のあだ名) は、どうだった?」
そう訊かれて、返した言葉を今でも覚えています。
「うん、耳がデカかった!」
「お前、そんなとこ見てたの?」
「みんな気づかなかった? しかも複雑な形をしていた。あれは闘う男の耳だな」
今でもアントニオ猪木さんのことを思うと、大きくて変形した耳が僕の脳裏に浮かびます。
それと同時に、1998年の引退セレモニーで残したあの名言も……
≪迷わず行けよ、行けば分かるさ≫
猪木さん、子どもたちに夢を、大人たちには勇気を与えてくれて、ありがとうございました。
安らかに、お眠りください。
感謝
合掌
2022年09月09日
令和の力道山
いつものたまり場、酒処 「H」。
マックス8席のカウンターは、昨晩も満員御礼。
顔ぶれは、前期高齢者および前期高齢者予備軍たち。
となれば必然と話のテーマは、いつしか “昭和” に落ち着きます。
今回の話の入り口は、「スマホ」 でした。
「今の若者はさ、電車の中でもレストランでも、ずーとスマホを見ているわけよ。あれって、異常だよね」
との発言に、すかさず僕は返しました。
「我々だって、言われたじゃないですか。『テレビばっかり観てるとバカになる』 って」
すると、他の客が、
「言われた言われた! 『マンガばかり読んでるとバカになるって』」
いつの時代も子どもや若者は流行の先端に飛びつき、大人たちは、それに対して常に否定的であるものなのですね。
「友だちの家にテレビを観に行って、帰りが遅くなって親に怒られなかった?」
「怒られたな。俺んちはビンボーだったからさ、親がなかなか買ってくれなくて」
そんな話を、前期高齢者予備軍 (僕もこの仲間です) が話している時でした。
後期高齢者一歩手前の前期高齢者が言いました。
「えっ、電気屋で観たんじゃないの?」
実は、話が食い違っていたのであります。
この微妙な年齢差に、昭和の端境期(はざかいき)が存在したのです。
前者はカラーテレビ、後者は白黒テレビの登場期について話していたのでした。
時代で言えば前者は昭和40年代、後者は昭和30年代ということになります。
「街頭テレビじゃないんですか?」
白黒テレビについて話していることに気づいた僕は、問い返します。
「街頭テレビは都会、群馬の田舎では電気屋のショーウインドーの前で観るしかなかったの!」
そこから話しは、一気に街頭テレビのスター、プロレスラーの力道山で盛り上がります。
「いやー、空手チョップはカッコよかったな~!」
「そうそう、体の大きい西洋人を、バッタバッタと小柄な東洋人が、叩きのめすんだから!」
懐かしそうに話す人生の先輩に、僕はひと言。
「それって、コンプレックスの裏返し?」
すると、こう言いました。
「たぶん戦争に負けた相手を倒すことに、国民は快感を覚えていたんだろうね」
「ということは、大谷翔平の活躍も同じですかね?」
この後、全員一致で、大谷翔平は “令和の力道山である” という結論に達しました。
力道山が活躍した時代は、「もはや戦後ではない」 と言われた高度成長期の始まり。
戦後70年以上経つ今でも、我々日本人の中には、敗戦のコンプレックスが根強く残っているということだろうか?
がんばれ、大谷翔平!
ショータイムを見せてくれ!
相変わらず、昭和から離れられない懲りない面々であります。
2022年08月28日
昭和は近くなりにけり
今の時代、人々は “昭和” に何を求めているのでしょうか?
「だからさ、今の歌って、イントロがないのよね」
「そうそう、いつ歌い出すんだか分からない」
「ていうか、その前に覚えられないけどね」
なんて、言い訳から始まります。
何のことかって?
はい、カラオケです。
我らが呑兵衛の聖地、酒処 「H」 では、閉店前になると、居残った常連客数名で、お決まりの 「昭和歌謡ショー」 が始まります。
常連客といっても年代にバラつきがあります。
昭和歌謡も、昭和は60年間もありましたから、これまたバラつきがあります。
いいんです!
自分が育った昭和で、聴いて覚えた昭和歌謡を歌えばいいんです。
60年代ならば、裕次郎やひばり……
70年代ならば、グループサウンズやフォークソング……
80年代ならば、聖子ちゃんや明菜ちゃん……
などが、オンパレードです。
「みんなで歌えるのが、いいよね」
結局、みんなが知っているヒット曲が、一番人気となります。
歌っている間だけでも、あの頃に戻れているんでしょうね。
これが、正しい昭和の楽しみ方です。
と、思ったら昨晩!
ビックリする番組をテレビで観ました。
テレビ朝日 『博士ちゃん夏休みSP』。
平均年齢15歳という昭和が大好きな子どもたちが集まって、“昭和のアイドルベスト20” を決めるという特番です。
今までにも、昭和経験者が昭和歌謡やアイドルを選ぶという番組はありましたが、平成生まれの昭和を知らない子どもたちが選ぶ、昭和の番組というのは珍しい!
というこで、たっぷりと2時間半、グラス片手に拝視聴させていただきました。
まず、子どもたちの “博士ぶり” にビックリ!
よくもまあ、生まれる前のことを調べて、詳しく知っています。
ベスト20には、ザ・ピーナツや弘田三枝子など、僕にとっても上の世代のアイドルがランキングされていたりして、なかなかシブイ番組構成となっていました。
結果、ベスト3は以下の通りでした。
1位 中森明菜
2位 山口百恵
3位 松田聖子
大方の予想通りですが、1位と3位は逆予想の人が多かったのではないでしょうか?
ベスト3はさておき、僕の “推しアイドル” も2人、ランク入りしました。
11位 麻丘めぐみ
12位 太田裕美
大変、満足です。
僕の青春を支えてくれたお2人ですからね。
めぐみちゃんは中学時代、裕美ちゃんは高校時代に、夢中になってレコードを買いました。
昭和は遠くなったと思っていた矢先のことでした。
令和の若者たちが、昭和の魅力に気づいてくれたなんて……
ただただ、うれしくて!
昨晩は、ついつい呑み過ぎてしまいました。
2022年08月17日
沖縄より北海道のほうが暑いって本当!?
たびたび昭和ネタで恐縮です。
半世紀前の話。
小学生の頃、夏休みになると絵日記の宿題がありました。
毎日、マメに記せばいいのですが、ついついかまけてしまい、夏休みの終わりに思い出しながら一気にまとめて書いた人も多かったのではないでしょうか?
ご多分に漏れず、僕も、そんな少年の一人でした。
○月×日 何曜日 天気 気温
僕の記憶が正しければ、最高気温が30度を超える日は、何日もなかったように思います。
でも、記憶なんて当てになりませんから、気象庁のホームページで昭和40年代の気温を調べてみました。
すると、やはり、記憶は正しかったんですね。
7~8月の最低気温は23~25度、最高気温は30~32度でした。
まれに33~34度の日もあったようですが、どうしていたんでしょうね?
クーラーのない時代です。
プールに行ったり、日の当たらない部屋で、ジッとしていたのかもしれませんね。
「宿題は、午前中の涼しいうちに済ませてしまいなさい」
毎日、オフクロに言われたことを思い出します。
でも、理にかなっていたんですね。
このセリフ、今は通用しません。
朝から30度以上になりますもの。
午前午後に関係なく、
「冷房の効いた涼しい部屋でやりなさい」
と言うはずです。
地球温暖化により、世界各地で異常気象による異変が起きています。
線状降水帯や洪水、山火事などのニュースは、すでにお馴染みですが、先日、こんな見出しを付けた異変が、新聞に載っていました。
≪避暑なら北海道より沖縄?≫
1992年7月~2022年6月までの都道府県庁所在地の気温データによると、最高気温35度以上の 「猛暑日」 が最も少ない都市は、最南の那覇市だったというのです。
30年間で、わずか5日。
2番目に少なかったのが、最北の札幌市で7日でした。
ところが、これが30度以上の 「真夏日」 になると、大きく逆転します。
那覇市は3,087日で最も多く、札幌市は最も少ない284日でした。
ということは、猛暑日が最下位でも真夏日が1位の沖縄は、平均的に一年中暑いということですね。
記事では、他の都市については触れていませんが、日々の天気予報を見ていれば、分かりますよね。
日本は全国どこへ行っても暑い!ということ。
そして、昭和は涼しかったということです。
“熱中症” なんていう言葉は、なかった時代のこと。
炎天下の “日射病” のみ注意していた夏休みでした。
「外へ出る時は、帽子をかぶるんだよ。日射病になるからね」
「水を飲み過ぎるんじゃないよ。体がだるくなるからね」
なんて言われていたことを、なつかしく思い出します。
つくづく、昭和の時代に40度超えの日がなくて良かったと思います。
たぶん、熱中症で搬送される患者の数は、今の桁違いだったでしょうね。
やっぱり、昭和って、いいな~!
2022年07月19日
昭和の悪ってカッコイイ!
相変わらず僕のマイブーム “昭和あるある” は続いています。
一日のすべての仕事を終え、のんびりと酒を呑むとき、ナイトキャップの友は、もっぱらユーチューブです。
それも昭和のドラマや映画を探し出して、懐かしさに酔眼しています。
最近、観た映画に、『あぶない刑事』 と 『ビー・パップ・ハイスクール』 があります。
当時20代だった僕は、この手の作品には興味がなく、すべてスルーしていました。
それが、この歳になって観ると、面白いんですね。
何が楽しいかって、登場人物のファッションや街並み。
そして当時のアイドルたち……
今は完全に芸能界から姿を消してしまっている人もいて、昭和の芸能史を見ているようで飽きません。
現代では公序良俗や安全管理、ジェンダー面など、問題がありそうな場面が多々登場しますが、それはそれで、ツッコミどころ満載で楽しいのです。
で、何が令和の今と一番違うかというと、“ワル” の描き方です。
短気でカッとなりやすく、手が速く、暴力的ではあるのですが、実は心根はやさしい。
とっても分かりやすい、ステレオタイプのワルばかりです。
単純でズル賢くないところが、好感を抱くようです。
だから昭和の映画の主人公は、ワルが多いのだと思います。
令和の若者たちに昭和の映像を見せると、一様に驚く3つ “非常識” があるそうです。
「喫煙」 と 「ノーヘル」 と 「シートベルト」
昭和の映画やドラマでは、喫煙シーンが欠かせませんでした。
電車の中だろうが、病院の待合室だろうが、のべつまくなし、紫煙をくゆらすシーンのオンパレードです。
刑事ドラマの張り込みでは、足元の吸い殻の山で、時間の経過を表現していたくらいですからね。
また暴走族しかり、逃げる犯人しかり、追いかける刑事しかり、走るバイクのドライバーはノーヘルでした。
でも、今見るとノーヘルの方が臨場感があるし、何より演じている役者さんの表情も見て取れます。
これがヘルメット着用だと、表情が分からないだけではなく、切羽詰まった逃走感が伝わりません。
そして、シートベルト。
令和のドラマでは当然、装着していますが、違和感を感じる時ってありませんか?
1分1秒を争う逮捕劇で、いくら交通ルールだといっても車を発車させる前に、律儀にシートベルトを装着するシーンって、なんだか臨場感に欠けます。
そこへ行くと、昭和の逃走および追跡シーンは、迫力があります。
くわえタバコのサングラス姿の刑事が、車に飛び乗ると、いきなりギアを入れて急発進!
バイクで逃げる犯人もノーヘルで、一方通行を逆走!
と思えば、追尾するパトカーに向かって走り、間髪交わし、パトカー同士が衝突して炎上!
これぞ、昭和の刑事ドラマです。
時代と共に “悪” の質も変わりました。
令和の世になり、単純明快なワルは姿を消して、ネットやSNSを駆使した頭脳派の犯罪が増えています。
それに伴い、勧善懲悪から難解複雑なストーリー性が好まれるようになっているのかもしれませんね。
でもね、ナイトキャップの友だもの。
分かりやすいワルを分かりやすく成敗してくれる正義のヒーローが、安眠をいざなってくれるのです。
僕の昭和熱は、もうしばらく続きそうです。
2022年07月18日
猫に御飯
昨日は 「昭和の常識は令和の非常識」 と題して、昭和と令和での体育授業の違いを書きました。
いろいろ思い返してみると、子どもの頃に当たり前にしていたことが、現在では、まったく行われていないことや完全に間違えであったことが、たくさんあることに気づきます。
今日は “生き物” について検証してみたいと思います。
昭和30~40年代に少年期を過ごした僕ら世代にとって、昆虫もさることながら爬虫類はワンランク上の高級な “ともだち” でした。
特に男の子に人気があったのが、ヘビです。
当時、日本に棲息する毒ヘビは、「マムシ」 と 「ハブ」 だけだと言われていました。
関東地方にはハブはいませんから、僕らはマムシにさえ気を付けていれば安全だったわけです。
幼なじみのT君は、みんなから 「ヘビ博士」 と呼ばれていました。
彼は夏になると、アオダイショウやシマヘビを首に巻いて登校してくるような大のヘビ好き。
そんな彼の家に遊びに行くと、たくさんのヘビが飼育されていて、帰りに一匹ずつお土産に持たせてくれました。
身近には、ヤマカガシというヘビもいましたが、アオダイショウやシマヘビに比べるとサイズが小さいため、僕らの間では不人気でした。
今思えば、この “不人気” が功を奏したようです。
後に、奥歯に毒があることが判明。
現在では、日本に棲息する毒ヘビの一種に数えられています。
T君は、ヘビ博士でもあるけど、「昆虫博士」 でもありました。
当然、彼の家に行けば、カブトムシやクワガタムシ、カミキリムシ、カナブン……などなど、さながら昆虫園でした。
早朝、彼の家に集まり、みんなで雑木林に昆虫採集に行くのが夏休みの楽しみでした。
で当時、カブトムシのエサといえば、“スイカの皮” が定番でした。
ところが今は、スイカを与えてはいけないのが常識だって、知っていましたか?
なんでも、カブトムシが下痢をしてしまうそうです。
あれって、下痢だったの?
ただの小便かと思っていました。
ということで、スイカを与える昭和の常識は、令和では非常識。
現在は、専用の昆虫ゼリーを与えるのが、令和の常識となりました。
“エサ” といえば、「猫まんま」 と 「犬まんま」 も昭和と令和では大きく変わりました。
昭和の時代、ネコのエサは、冷や飯におかかをかけた 「にゃんこ飯」 が定番。
イヌは、これまた冷や飯にみそ汁をぶっかけた 「わんこ飯」 です。
ネコは外出自由なのに対して、イヌは散歩のとき以外は屋外でクサリにつながれているのが、昭和の常識でした。
そのぶん、昭和のイヌは、たくましかったように思います。
だって役目は、ペットではなく番犬ですからね。
(ネコだって、その昔は、ネズミ捕り用に飼われていました)
で、時がめぐり、いつしかネコもイヌも屋内で飼われるようになり、食事 (もうエサなんて言ってはいけません) も栄養豊富なキャットフードやドッグフードに変わりました。
人間のライフスタイルに合わせて、ペットも人間の都合に合わせた生活スタイルに変わってきたようであります。
ペットフードなんて、人間の食事でいえば、レトルト食品やインスタント食品と同じじゃないですか。
みなさんのまわりは、いかがですか?
今でも残っている “昭和の常識” ってありますか?
2022年07月17日
昭和の常識は令和の非常識
♪ 思いこんだら 試練の道を
行くが男の ど根性
真赤にもえる 王者のしるし
巨人の星をつかむまで
血の汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ飛雄馬 どんと行け
(「ゆけゆけ飛雄馬」 より)
アニメ 『巨人の星』 の主題歌です。
これは都市伝説のような本当にあった話。
ドラマの中で主人公の星飛雄馬が、グランド整備用の巨大なローラーを引くシーンがありました。
そこに、この主題歌が流れたものだから、当時の子どもたちは、このローラーの名前が 「コンダラ」 だと勘違いしてしまったというエピソード。
「思いこんだら」 を 「重いコンダラ」 と聞き間違えたわけです。
ところが以後、このローラーのことを通称 「コンダラ」 とも呼ぶようになったといいます。
ちなみに、正式名は 「整地用手動式ローラー」 といいます。
ところで、当時のスポコン (スポーツ根性) アニメには、必ず、練習のシーンになると 「うさぎ跳び」 が出てきました。
当然、僕らの世代は部活と言えば、この 「うさぎ跳び」 が付き物でした。
身体の後ろで手を組み、しゃがんだ状態でピョンピョンとウサギのように跳ねるので 「うさぎ跳び」。
ところが現在は禁止されています。
理由は、目的であったはずの下半身強化の効果はなく、膝などに負担がかかり、疲労骨折の原因になるからのようです。
そう言えば、部活中に 「水を飲んではいけない」 なんていうのも、“昭和の常識” でしたね。
今では、もってのほか!
熱中症対策の上でも水分補給は、欠かせません。
医学的、科学的に解明されて、“昭和の常識” が令和では、非常識になりつつあります。
最近知った “令和の非常識” に、「体育座り」 があります。
みんな体育の授業中に、やらされましたよね。
グランドや体育館に集まり、先生の話を聞くときは、全員 「体育座り」 です。
いま、この 「体育座り」 が廃止に向かっています。
理由は、長時間していると内臓や椎間関節を圧迫し、腰痛や座骨の痛みを引き起こす可能性があるからとのことです。
確かに今思えば、あんまり楽な姿勢ではなかったような記憶があります。
でも思い出の中には、しっかりと刻まれています。
「うさぎ跳び」 も 「体育座り」 も……
昭和は遠くなりにけり
次は何が “昭和の常識” から消えてゆくのでしょうか?
なんだか自分の思い出が否定されているようで、ちょっぴりさみしくもあります。
2022年05月23日
クッキーもしくはビスケット
「左党だから甘いものは苦手ですか?」
と訊かれることがありますが、そんなことはありません。
両党使いです!
とはいっても、微糖派です。
ケーキのクリームよりも和菓子のあんこが好きです。
豆大福なんて、無性に食べたくなることがあり、わざわざ買いに行くこともあります。
それと、アイス!
季節を問わず、呑んだ帰りは必ずコンビニ寄って、アイスバーを一本。
お気に入りは 「ブラックサンダー」 です。
実は僕の仕事場には、年中欠かすことのないお菓子があります。
それは、クッキーもしくはビスケット。
疲れたらサクッ! 考え事をしながらサクッ! 読書の合間にサクッ!
気が付いたら何十年も、その習慣が続いています。
「なんで僕は、こんなにもクッキーやビスケットが好きなんだろう?」
ある日、真面目に考えてみました。
すると、思い当たるのは幼少期の出来事。
昭和35(1960)年9月~同42年3月までの6年半にわたり、NHK総合テレビで放送されていた 『おかあさんといっしょ』 の中で、「ブーフーウー」 という、ぬいぐるみと着ぐるみの人形劇がありました。
いわゆる童話 「三匹の子ぶた」 の後日談のような劇なのですが、ブーとフ―とウーという3匹の子ぶたとオオカミの話です。
この劇の最後で、必ずオオカミが進行役のおねえさんに、ビスケットをねだるのです。
そしてビスケットを、おいしそうに食べるんです。
「早く早く、ビスケット食べちゃうよ~!」
とテレビの前の僕は、毎回、オオカミと一緒に食べたくて、母親にビスケットをねだるのでした。
すると母親は、
「はいはい、ちゃんと買ってありますよ」
と言いながら、ビスケットが2枚のったお皿を持ってきてくれました。
以来、僕は、大人になってもクッキーもしくはビスケットが好物となり、自分から自分へのご褒美として常備するようになりました。
今でもクッキーもしくはビスケットを口に含むと、時々、3匹の子ぶたとオオカミの姿が浮かびます。
三つ子の魂なんとやら……
味覚の思い出というのは、一生ついてまわるのですね。
ということで、今、サクッと口の中にクッキーを放り込みました。
2022年05月10日
「めかいご」 って何?
僕は大人になるまで、「ものもらい」 という言葉を知りませんでした。
いわゆる目にバイ菌が入って、まぶたが腫れる病気のことです。
昭和の時代、僕の子どもの頃は不衛生で、何でもかんでも手で触っていましたから、「ものもらい」 になる子は、とっても多かったのです。
必ずクラスに一人か二人、眼帯をした子がいました。
でも、なぜか、この眼帯が、漫画の中の悪役みたいでカッコイイんですよね。
(もしくは悲劇のヒロインみたいで)
特に、美人の女の子が眼帯をしてくると、ドキッ!としたものです。
(黒髪に眼帯の白が似合っていました)
では当時、僕らは、この 「ものもらい」 のことを、なんて言っていたか?
はい、「めかいご」 です。
「めかいご? なに、それ?」
思えば、なんとも不思議な言葉の響きです。
「“かいご” って何?」
「“介護” のこと?」
東京へ出た若い頃、そう他県民から問われて、返答に困ったことがありました。
いったい、何のことなんでしょうか?
先日、いつもの店で、常連客らと雑談をしていた時のこと。
「めかいご」 が話題となりました。
カウンター客は、一人を除き、群馬県内の出身者です。
その東京出身者は、もちろん標準語の 「ものもらい」 という表現をしました。
が、驚いたことに、県民でも使用していた言葉が分かれたのです。
結果、このような分布になりました。
前橋市を中心とした県中部は、「めかいご」。
高崎市を含む西部は、「めっぱ」。
その他は、「めかご」 でした。
「めかご」 と 「めかいご」
この2つは、たぶん、語源が一緒だと思われます。
「“めかご” って、目籠のことだよね?」
「そういえば、子どもの頃、籠を頭にかぶると、親に怒られたな」
「罰が当たるとか」
「いや、俺は、“めかいご” ができるといわれた」
確かに僕も、おばあさんに言われた記憶があります。
目籠とは、竹で編んだカゴのことですが、カゴに限らず網目の物は、すべて頭にかぶると怒られました。
なんで網目の物をかぶると 「ものもらい」 ができるのかは不明ですが、「めかいご」 「めかご」 の語源は、“目籠” にありそうです。
では、「めっぱ」 とは?
ご存じの方がいたら、教えてくださいませませ。
2022年04月04日
ディスる言葉
「バーカ、カーバ、チンドン屋、おまえのかーちゃん出べそ!」
子どもの頃のケンカを思い出すと、必ずこのセリフが出てきます。
今でいう、“ディスる言葉” っていうやつですかね。
相手を侮辱し、ののしるときに発する常套句です。
昭和の子供社会は、絶対的な年功序列でした。
それに体格や腕力も加味されますから、小さい子は大きい子に太刀打ちができません。
でも、くやしい!
だから、いじめられ、泣かされて、逃げ帰るときの “イタチの最後っ屁” のような捨てゼリフを誰もが持っていました。
「あんぽんたん」
「おたんこなす」
なんていう言葉も、頻繁に使っていた記憶があります。
それにしても今思うと、なんとも不思議な響きを持った言葉です。
なので、ちょっと調べてみました。
「あんぽんたん」 は、愚か者、アホ、バカを意味する言葉で、漢字では 「安本丹」 と書きます。
語源は諸説あるようですが、その一つにフランス語説があります。
性交不能を意味する 「アポンタン」 の変化したものだとか。
でも僕は、「あんぽんたん」 と聞くと、なぜか、その響きから富山の薬 「反魂丹(はんごんたん)」 を連想してしまいます。
諸説の中にも 「あほんだら」 を文字って、子どもたちが言葉遊びで変化させたというのがありました。
<越中富山の反魂丹、鼻クソ丸めて万金丹、それを飲むやつ安本丹>
僕らが使っていた、「バーカ、カーバ、チンドン屋……」 より、かなり高度なディスり言葉です。
「おたんこなす」 は、まぬけ、のろまを意味する言葉です。
漢字では 「御短小茄子」 と書くようです。
この語源はハッキリしています。
吉原の遊女たちが使う隠語でした。
イヤな客のことを、アソコが小さいという意味で 「短珍棒」 と呼んでいたらしんですね。
これに “御” を付けて、“棒” が取れて変化した言葉が、「御短珍(おたんちん)」。
さらに言葉は変化します。
“珍棒” の代わりに形状が男根に似ている野菜のナスをあてて、「御短小茄子」 となりました。
「小茄子」 というのが、いいじゃありませんか!
イヤな客を小バカにしている感じが出ています。
ということは、「おたんちん」 も 「おたんこなす」 も、女性に対しては使えない言葉ということであります。
珍竹林 (ちんちくりん) や頓珍漢 (とんちんかん) ……
昭和のディスる言葉は、まだまだあります。
でも、昔のディスり言葉って、なんだか響きに愛嬌があって、言われた方もあんまり傷つかない感じがしますね。
致命傷を与えるための言葉ではなく、笑いに変えられるユーモアセンスがありました。
ネット社会の現代では、消えてしまった言葉の文化なのかもしれません。
2022年03月11日
ロボットがやって来た!
「ロボット、ドロップ、ロケット」 って、続けて3回言ってみて?
子どもの頃に流行った早口言葉です。
けっこう難しいんですよ。
みなさんも言ってみてください。
大人になっても舌を噛んでしまいます。
これって、語呂が似ているだけじゃないんですね。
みんな、昭和の子どもの “あこがれ” だったんです。
ロボットはもちろん、「鉄腕アトム」 に 「鉄人28号」。
ドロップは、「サクマのドロップ」 です。
当時、缶入りのドロップは高級品でした。
そして、ロケットといえば、「アポロ11号」。
昭和44(1969)年、アメリカが打ち上げたロケットが人類初の月面着陸に成功しました。
あれから半世紀……
子どもたちのあこがれだった “三種の早口言葉” は、だいぶ身近なものになりました。
今どき、「ドロップあげるよ」 と言って、付いて来る子どもはいませんし、ロケットもお金さえ出せば民間人でも宇宙へ行ける時代になりました。
ではロボットは?
先日、某外食チェーン店へ行った時のことです。
テーブルに置かれたタブレットで、メニューをタッチして送信。
ここまでは、ほかのファミレスでも経験済みですからスムーズに操作ができました。
すると、しばらくして……
ファンファンファンと音がします。
音がする方向を見ると、なにやら機械のような箱型の物体が厨房から出できて、客席と客席の間を上手にすり抜けながら、こっちへやって来ました。
ロボットです!
といってもスターウォーズのC‐3POのような人型ではありません。
どちらかといえば、R2‐D2タイプの配膳ロボットでした。
僕の席の前でピタリと止まり、料理を取るように指示します。
料理を取り終わると、「頭をなでてください」 といいます。
たぶん、これが配膳終了の合図なんですね。
指示通り、丸い頭をなでてやると、“配膳ロボ” は、また動き出しました。
来た時とは違うルートで、人や壁に当たることなく、これまた上手に厨房の中へ消えて行きました。
これは、スゴイ!
21世紀は、ついに、ここまで来たのか!
ますます、人間は要らなくなってしまうなぁ……
なんて思っていたら、今度は店員がやって来ました。
何をするのだろうか?
と、けげんな顔で見ていると、無言でテーブルの上に伝票を置いて行きました。
「えっ、そこは手動なんかい!」
思わず心の中で、ツッコミを入れさせていただきました。
惜しいな~、そこもデジタルで処理して欲しかったですね。
僕らが子どもの頃に夢見ていた21世紀の世界……
あと半世紀経つと、想像以上の世の中になっているんでしょうね。
ま、その頃には、いませんけれどね。
2022年02月19日
光るは親父のハゲ頭
<光るは親父のハゲ頭>
ある日突然、このフレーズが頭をよぎりました。
あれ、これ、何だっけ?
えーと、えーと、確か、子どもの頃に友だちとやった言葉遊び……
でも、これはオチで、この言葉にたどり着くまでに、尻取りのように連想ゲームが延々と続いたような……
始まりは何だっけ?
そうだ!
<いろはに金平糖(こんぺいとう)>
その日は、それだけ分かり、数日が過ぎました。
僕が小学生の時ですから、昭和30~40年代の遊びです。
日々、半世紀以上前の記憶をたどる “昭和謎学の旅” が始まりました。
「いろはに金平糖 金平糖は甘い」
そして、甘いのは砂糖です。
そうです、味からのスタートでした。
でも、それがどのようにして、“ハゲ頭” まで、たどり着くんでしたっけ?
「風が吹けば桶屋が儲かる」 的に、発想を膨らませます。
ただ、断片的ではありますが、いくつかの通過キーワードは思い出しました。
「ホオズキ」 「オナラ」 「バナナ」 「十二階」
この言葉を通過するように連想を続ければ、たどり着けることが分かりました。
「砂糖は白い」
白いのは? ウサギです。
ウサギは跳ねます。
跳ねるのは? カエル?
いや、僕の記憶の中に “カエル” という響きは残っていません。
そーだ! 「ノミ」 です!
そして、「ノミは赤い」。
でも今思うと、ちょっと不思議です。
ノミが跳ぶことは知っていましたが、赤い色をしてたなんて?
誰が考えたのでしょうか?
「赤い」 が出れば、次は 「ホオズキ」 です。
今の子どもは知らないでしょうね。
ホオズキの赤い実の中の種を出して、穴から吹くと、笛のように音が鳴るんです。
だから、「赤いはホオズキ」→「ホオズキは鳴る」→「鳴るはオナラ」 です。
子どもは、オナラとかウンチが大好きです。
当然、続きは、こうなります。
「オナラは臭い」→「臭いはウンチ」
ここまで来れば、記憶のキーワードが使えます。
バナナです!
「ウンチは黄色い」→「黄色いはバナナ」 となります。
さてさて、最大の難関が 「十二階」 です。
確かに、この遊びの中に入っていた言葉なんです。
この謎を解くのに、また数日を要しました。
そして、ついに記憶をつなぎ合わせ、全文を完成させました!
もし、知っている人がいたら、ぜひ一緒に、ご唱和ください。
(メロディーも抑揚もなかったと思います。棒読みで結構です)
いろはに金平糖 金平糖は甘い
甘いは砂糖 砂糖は白い
白いはウサギ ウサギは跳ねる
跳ねるはノミ ノミは赤い
赤いはホオズキ ホオズキは鳴る
鳴るはオナラ オナラは臭い
臭いはウンチ ウンチは黄色い
黄色いはバナナ バナナは高い
高いは十二階 十二階は怖い
怖いはオバケ オバケは消える
消えるは電気 電気は光る
光るは親父のハゲ頭
いかがでしたか?
地域によっては途中が異なると思いますが、スタートの 「いろはに金平糖」 とオチの 「親父のハゲ頭」 は全国共通だと思われます。
ところで、意味不明な言葉の中に、実に昭和がひそんでいることに気づきます。
バナナは高かったんですね。
子どもにとっては、今でいうメロンやマンゴークラスの果物でした。
遠足や風邪をひいた時にしか口に入らない高価なモノだったのです。
だから 「バナナは高い」
で、値段の高さと建物の高さをひっかけたのが、「十二階」 です。
当時、10階以上の建物なんて、地方都市はありませんでしたからね。
でも10階でなく、12階にしたのは、ゴロが良かったからだと思います。
あー、スッキリしました。
数日間かけた僕の “昭和謎学の旅” が終わりました。