温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2022年04月19日

西上州の薬湯 (15) 最終回 「『高崎の奥座敷』 と呼ばれた浮世離れの別天地」


 高崎観音山温泉 「錦山荘」 高崎市


 JR高崎駅から、わずか3キロ。
 観音山丘陵の中腹にたたずむ一軒宿は、市街地から近い場所にありながら、豊かな自然に囲まれた静寂の中に立つ。
 昔より、時の要人たちに愛されてきた別天の地だった。

 開湯は大正4(1915)年。
 当時は清水(きよみず)鉱泉と呼ばれる共同浴場があり、地域の人たちに親しまれ、大変にぎわっていたという。
 宿は昭和4(1929)年に、和風建築の高級料亭旅館として創業した。
 特に秋の紅葉は美しく、その錦織り成す風光明媚な景色から 「錦山荘」 と名付けられた。

 かつては新渡戸稲造や犬養毅などの政治家や実業家が足を運び、「高崎の奥座敷」 とまで言われた。
 平成の大合併がされるまでは、高崎市で唯一の温泉宿だった。


 昭和63(1988)年に改築され、装いも新たに展望風呂を持つ旅館に生まれ変わった。
 現在は日帰り入浴や食事、宴会ができる温泉施設として、宿泊客のみならず地域の人たちの憩いの場として利用されている。

 しかし大正、昭和、平成と時代は移り変わっても、ここだけは今も昔も変わることのない深い自然に包まれている。
 市街地との距離を考えると、奇跡とも言える清閑を保っている。


 本館の2階には、創業当時の客室が残されている。
 「桐」 「竹」 「桜」 「楓(かえで)」 の間には、客室名どおりの銘木を贅沢に使った長押(なげし) や回り縁、網代(あじろ)天井など、日本建築の粋を極めた内装が施されている。
 その美しさは、一見の価値あり。
 あえて、この4部屋を指名して宿泊するファンもいるほどだ。

 自慢の露天風呂へは、渡り廊下のような階段を上って別館へ。
 浴室は昔ながらの丸太を組んだ湯小屋風。
 湯舟の中からは高崎市街地を一望することができる。
 眼下の烏(からす)川越しに市役所、その奥に県庁舎を望み、遠く赤城山の全景を見渡す大パノラマが広がる。


 ♪ 秋の日脚は観音山に 落ちて夕闇立田の姫も 織るが紅葉の錦山荘は 浮世離れた別天地 ♪

 “ブルースの女王” と言われた大歌手、淡谷のり子が昭和初期に歌った 『高崎小唄』 のフレーズである。
 冷えた体を湯の中で温めていると、歌詞が心に染みて来る。

 まさに、ここは “浮世を離れた別天地” だ。


 <2018年2月2日付>
 ※現在、錦山荘は休業しています。


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで 「生活info(くらしインフォ)」 (関東新聞販売) に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載してまいりました。
 ご愛読いただき、ありがとうございました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:03Comments(2)西上州の薬湯

2022年04月13日

西上州の薬湯 (14) 「太古の地中から湧き出る全国無比の鉱泉」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで 「生活info(くらしインフォ)」 (関東新聞販売) に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 八塩温泉 「神水館」 藤岡市


 神流(かんな)川の支流、南沢の渓流沿いに、古くから鉱泉が湧いていた。
 8つの塩泉があったことから 「塩の湯口八ツ所」 と呼ばれ、これが地名の由来だという。

 源泉は約14~16度の冷鉱泉。
 200万年以上前の新生代第三紀に地中に閉じ込められた海水が、現在も自噴している。
 高濃度の塩分を含んでいるため、物資不足の戦時中は源泉から食塩を精製したこともあった。
 また炭酸を含むため、菓子などの製造にも利用されてきた。
 明治時代の古文書にも、<固形成分の多きこと全国無比の鉱泉なり> と記載されているほどの名薬湯だった。


 八塩(やしお)の源泉は、上流にあるほど塩分が濃いともいわれ、現在は5つ源泉が川沿いに湧き、3軒の温泉宿が点在している。
 入浴には加水して濃度を薄めながら使用しているが、それでも塩辛い湯がピリピリと肌を刺激する。

 胃腸病、リウマチ、一般皮膚病には温浴。
 また創傷、打撲、やけど、切り傷などは、局部冷浴により効果があるといわれている。
 塩分が発汗を抑えるため、保温効果もある。


 昭和6(1931)年創業の 「神水館(しんすいかん)」 は、「日本秘湯を守る会」 (朝日旅行) の会員宿として、温泉ファンに広く知られている老舗旅館。
 桃山風建築の本館と数寄屋造りの別館が、まるで時代劇のオープンセットのような存在感をもって、旅人を出迎えてくれる。

 玄関を入るとガラス張りのロビー一面に、神流川の悠々とした流れが、あたかも一幅の屏風(びょうぶ)絵のように広がる。
 春のサクラ、夏のツツジ、秋のモミジ、そして冬木立と四季折々の表情を映し出している。
 同館が “映し絵の宿” とも呼ばれるゆえんである。


 敷地内に自家源泉が湧く。
 泉質はナトリウム―塩化物・炭酸水素塩冷鉱泉。

 「重曹を含んでいるため、昔は、まんじゅうを作るのにも使われていたと聞いています。また切り傷や皮膚病に特効があるといわれ、医者に紹介されて通って来る患者さんもいます」
 と5代目主人の貫井昭彦さん。
 その効能は、アトピー性皮膚炎が治ったという報告もあるほどだ。


 内風呂には、源泉を加温した 「温浴用」 と、源泉そのままの 「冷浴用」 の2つの浴槽がある。
 交互に入浴することで、神経痛や筋肉痛などの効能を高めるという。
 源泉の温度は約15度。
 冬場の入浴は覚悟が必要だ。
 ところが、これがクセになる。
 湯上りは、いつまで経っても汗が引かず、体がほてり続けていた。


 <2018年1月5日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:05Comments(0)西上州の薬湯

2022年04月06日

西上州の薬湯 (13) 「奥多野の深い谷に湧く秘境のいで湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで 「生活info(くらしインフォ)」 (関東新聞販売) に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 塩ノ沢温泉 「やまびこ荘」 上野村


 西上州には、“塩” の名の付く温泉が多い。
 八塩温泉 (藤岡市) が有名だが、かつては磯部温泉 (安中市) は 「塩の窪(くぼ)」、坂口温泉※ (高崎市) は 「塩ノ入(いり)」 と呼ばれていた。
 名前通りの塩分を含んだ塩辛い温泉 (鉱泉) が湧いている。
 海なし県で塩分とは不思議に思うが、太古の昔、そこが海の底であった証しと知れば、温泉へのありがたみも倍加するというものだろう。

 塩分の多い温泉は保温効果が高いため、別名 「あたたまりの湯」 とも 「熱の湯」 とも言われている。
 湯冷めをしにくいので、気温の低い冬にこそ入りたい温泉といえる。
 また殺菌力があるため、昔から切り傷ややけどに効く薬湯として親しまれてきた。


 群馬県最南端の地、上野村も昔から塩分の多い温泉が湧いていることで知られていた。
 開湯は不明だが、古くから 「塩ノ沢」 という地名はあったという。
 宿から200メートルほど奥まった岩盤の裂け目から塩辛い泉が湧いていた。

 昭和43(1968)年7月、「やまびこ荘」 は国民宿舎として開設された。
 神流川の支流、塩ノ沢川の渓流沿い。
 まさに “山びこ” が響き渡る、四方を山に囲まれた深い谷の底に一軒宿はある。

 平成13(2001)年7月に現在の本館が増築され、リニューアルした。
 館内は “木工の里” にふさわしく、テーブルやイスなど村内在住作家の作品が配され、いつ訪れても木の香りとぬくもりに包まれている。


 大浴場には内風呂と露天風呂のほかに、石に囲まれた洞窟風呂がある。
 のぼせない配慮からか湯舟は浅く、湯もぬるめなので、ゆっくりと半身浴が楽しめる。
 目をつむっていると、時おり、ポトン、ポトンと湯気が天井からしずくとなって落ちてくる音がする。
 日常の邪念を捨てて、瞑想(めいそう)にふけるのもいい。

 湯上りの食事は、山菜や川魚などの素朴な里山料理が並ぶ。
 なかでも特産品のイノブタ料理は、ここでしか食せない上野村限定の味。
 豚肉に比べ、タンパク質と鉄分が多く、逆に脂肪が少なく、甘みとコクがある滋味あふれる美食である。
 夏は陶板焼き、冬は鍋でいただける。
 もう一つの名物、十石みそとの相性も抜群だ。


 <2017年12月1日付>

 ※坂口温泉は閉館しました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:59Comments(0)西上州の薬湯

2022年04月01日

西上州の薬湯 (12) 「万華鏡のように色を変える摩訶不思議な湯」


 鳩ノ湯温泉 「三鳩樓」 東吾妻町


 湯の歴史は古く、寛保年間(1741~44)と伝わる。
 その昔、傷ついたハトが岩間に湧き出る湯に身を浸し、傷を癒やしていた。
 それを見て、温泉の効能を知った村人が 「鳩ノ湯」 と名付けたという。

 寛政5(1793)年、一人の行者が湯小屋を建て、営業を始めた。
 「草津入湯のただれ一夜、二夜にして歩行自由になること神妙のごとし」
 といわれ、江戸と信州を結ぶ裏街道にある奥上州の素朴な湯治場として栄えてきた。


 ≪鳩に三枝(さんし)の礼あり 烏に反哺(はんぽ)の孝あり≫

 子バトは親バトより3本下の枝に止まるという礼をわきまえ、カラスは親に養ってもらった恩に報いるために、大人になってからは歳をとった親ガラスの口にエサを含ませてやるという。
 宿名の 「三鳩樓(さんきゅうろう)」 は、礼儀と孝行を重んじる教え 「三枝の礼」 に由来する。


 「あまりに歴史が古過ぎて、自分が何代目かは不明なんです」
 と、現主人の轟徳三さん。
 現在の宿は、明治時代に建てられたものを大正、昭和と増改築しながら代々の楼主が守り継いできた。


 浴場へは、本館から板張りの床をきしませながら長い渡り廊下を下る。
 浴槽に満たされた茶褐色のにごり湯には、黒い炭のようなかたまりや黄褐色の析出物が、無数に浮遊している。
 ところが一夜明けると、湯は鮮やかなカーキ色に変色していた。

 「白くなったり、青くなつたり、黄色くなったり、季節や天候によって、毎日変わる。まれに無色透明になることもあるんだよ」
 と主人。
 「これが自然の温泉の色だよ」 とも言った。

 時々、にごった湯を見て 「汚れている」 「掃除をしていない」 と言う若い女性客がいるという。
 「本物の温泉を知らないんだね」 と笑った。


 館内の浴槽を全部清掃するには、毎日4時間の労力を要する。
 含有する鉱物が付着して目詰まりをするため、2ヶ月に1回は給湯パイプの掃除も欠かせない。

 今は都会でも、手軽に温泉が楽しめる日帰り入浴施設が数多くある。
 湯を循環ろ過しながら塩素消毒をしている浴槽には、沈殿物もにごりもない。
 でも、湯に手を加えずに本物の温泉をそのまま大切に守ろうとすれば、手間はかかる。

 “湯守(ゆもり)” のいる宿とは、そういうものである。


 <2017年11月3日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:08Comments(2)西上州の薬湯

2022年03月28日

西上州の薬湯 (11) 「森の中によみがえった皮膚病に効く名薬湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで 「生活info(くらしインフォ)」 (関東新聞販売) に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 猪ノ田温泉 「久惠屋旅館」 藤岡市


 下日野は、森におおわれた深い山の中である。
 標高はさほど高くないが、県道からはずれて山道に差しかかった途端に、ひんやりと空気が変わる。
 渓流、猪ノ田(いのだ)川のほとりに、ひっそりと和風の一軒宿がたたずんでいる。

 猪ノ田温泉の歴史は古く、すでに江戸時代には源泉の湧き口に湯小屋があった。
 硫化水素を含む独特の腐卵臭がすることから 「たまご湯」 と呼ばれ、大変珍重されていたという。
 明治の初めからは 「皮膚病に効く」 という評判が高く、医者に見放された患者が東京方面からもやって来るほど湯治場としてにぎわい、大正時代には旅館が建てられ、戦前まで大いに繁盛していた。

 しかし、戦後に経営は悪化し、昭和40年代には廃業してしまった。
 それから長い間、惜しむ声はあっても、源泉は森の中で眠ったままだった。


 「歴史と効能のある温泉を、どうしても復活させたかった」
 地元で牛乳販売業を営んでいた先代主人の故・深澤宣恵(のぶやす)さんが、旅館を開業したのは昭和58(1983)年のことだった。
 周囲の反対、湯権者との交渉など、温泉復活までには10年の歳月を要した。

 その昔 「たまご湯」 と呼ばれ親しまれた薬湯は、肌触りのなめらかさから 「絹の湯」 と名を変えて、ふたたび傷ややけど、アトピー性皮膚炎に効く温泉として、全国からうわさを聞きつけた湯治客が訪れている。


 「源泉には殺菌、浄化、漂白の作用があることから、皮膚科や小児科のお医者様が患者さんの治療に役立てたこともあります」
 と、女将の信子さん。
 「自宅でも治療に使いたい」 という湯治客らの要望もあり、女将の発案で源泉を詰めたペットボトルの販売を行っている。

 「長年、体の弱かった私が、こうして健康を取りもどせたのも、すべて温泉のおかげです。毎日、湯に入ると自然に 『ありがとう』 と感謝の言葉が出ます」

 そのトロンとした肌にまとわり付く絹のような浴感と効能を求めて、遠方からやって来る人が後を絶たない。


 <2017年10月6日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:54Comments(0)西上州の薬湯

2022年03月17日

西上州の薬湯 (10) 「青い鳥が見つけた疲れを癒やす不思議な泉」


 野栗沢温泉 「すりばち荘」 上野村


 バタ、バタ、バタバタバタバタ……。
 突然、疾風が舞い、あっという間に目の前の泉が、何十羽という青い鳥の群れで覆われてしまった。

 東南アジアのごく限られた地域に分布する 「アオバト」 という渡り鳥だ。
 海水を飲むことで知られる鳥で、日本では北海道~四国、伊豆七島などで繁殖し、積雪のない温暖な地で群れを成して冬を越す。
 ここ上野村に姿を見せるのは、5~10月の半年間。
 塩分の濃い、海水に似た湧き水を飲みに、毎年約3,000羽がやって来る。


 野栗沢集落の人たちは、昔から巨石の間から湧き出る泉の水を飲みに、青い鳥がやって来ることを知っていた。
 産後の肥立ちの悪い婦人に、この鳥の肉を食べさせると、見る見るうちに体力が回復したという。
 また、泉の水を飲みながら農作業をすると、不思議と疲れを知らずに仕事がはかどるので、大変珍重されてきた。

 「ほれ、この水を飲めば絶対に二日酔いしないから」
 と、初めて宿に泊まった晩に、主人の黒沢武久さん (故人) から、源泉水が入ったコップを手渡された。
 ほんのり塩辛くて、スポーツドリンクのような味がした。


 昭和58(1983)年、地元に生まれ育った黒沢さんが泉の水を引いて、旅館を開業した。
 以来、数々の温泉の効能が知れ渡り、全国から湯治客が訪れるようになった。
 特に乾燥肌やアトピー性皮膚炎などの皮膚病に効くといわれ、湯治に通って来られない人のためにと、源泉水を含んだ石けんやボディーソープの販売もしている。


 野栗沢川を見下ろす内風呂は、いつ行ってもヒノキの香りに包まれている。
 うっすらとカーキ色した湯は、肌に張り付くような浴感があり、長湯をしても不思議とのぼせない。
 浸かれば浸かるほど、体が楽になるのが分かる。

 ヒノキ風呂の隣には、源泉を溜めた小さな浴槽がある。
 冷水だが意を決して入れば、湯上りはポカポカに温まる。
 「俺は毎日入っているから、風邪を引いたことがない」
 と、主人は豪語する。

 今でも地元の人たちは、やけどや切り傷をすると温泉水を患部に浸して治すという。
 「この水をうどん粉で練って、ガーゼに塗って、貼ってみな。ウルシのかぶれだって、虫刺されだって、一発で治っちまうから。これは魔法の水だよ」
 そう言って笑った。


 <2017年9月1日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 09:36Comments(0)西上州の薬湯

2022年03月10日

西上州の薬湯 (9) 「全国でも珍しい炭酸泉が湧く地産地食の一軒宿」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで関東新聞 「生活info(くらしインフォ)」 に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書、料金等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 下仁田温泉 「清流荘」 下仁田町


 多彩な泉質の温泉が数多くあることで知られる群馬県。
 そのなかでも温泉全体の1%という全国的に珍しい炭酸泉が、ここ下仁田の地に自然湧出している。

 泉質は、含二酸化炭素―カルシウム・ナトリウム―炭酸水素冷鉱泉。
 入浴すると炭酸ガスの気泡が肌に付くのが特徴だ。
 毛細血管を広げて血圧を下げる効果があるため、ヨーロッパでは 「心臓の湯」 とも言われている。
 カルシウム、ナトリウムを含むアルカリ性の湯は、皮膚の角質をやわらかくして、脂肪分や分泌物を洗い流すため、美容効果に優れている。
 また塩分を含んでいるため保温効果も高く、湯上がり後も体のポカポカ感が持続する。

 湯は、うっすら生成り色した半透明。
 湧出時は弱酸性なのに、熱を加えるとアルカリ性に変わるという摩訶不思議な湯が、存在感をもって肌にまとわりついてくる。
 やがて1つ、2つと泡の粒が全身に付き出す。

 浴室は男女別の内風呂と露天風呂があり、露天風呂には加温されていない源泉風呂が併設されている。
 源泉の温度は約12度。
 外気に触れて水温は上がっているものの、それでもかなり冷たい。
 意を決して浸かれば、全身が気泡に覆われる。


 湯の起源は定かではないが、その昔、傷ついたイノシシが浴びているのを村人が発見したと伝わる。
 かつては山岳信仰の修験者の行水に使われていたといい、地元では特に皮膚病に効く霊泉として珍重されていた。

 宿の創業は昭和49(1974)年。
 それ以前は、ヤマメやニジマスなどの川魚を養殖しながら飲食店を営んでいた。
 約1キロ離れた栗山川上流の湧出地から源泉を引いて温泉宿となったのは、創業から3年後のことだった。

 7000坪という広大な敷地には、池や小川が配され、本館と7つの離れ家、浴室棟、露天風呂が点在し、それらをつなぐ渡り廊下が池を半周する。
 宿の裏手には遊歩道がつづき、自家農園、シカ園、キジ園、イノシシ牧場、ヤマメ池をめぐる。


 「地元の食材を提供するのが、本来のもてなしの姿」
 と、米以外は自給自足にこだわる2代目主人の清水雅人さん。
 宿の名物として知られる 「猪鹿雉(いのしかちょう)料理」 は、この地に伝わる祝い事に欠かせない郷土料理。
 食材はすべて敷地内で飼育されている。

 その他、下仁田ネギのかき揚げやコンニャクの刺身、コイのあらい、ヤマメの塩焼きなどの料理も、すべてが自家製で手作りという “地産地食” のもてなしに徹している。


 <2017年8月4日付>

 
  


Posted by 小暮 淳 at 11:16Comments(0)西上州の薬湯

2022年02月27日

西上州の薬湯 (8) 「浅間山の噴火とともに湧き出した霊泉」


 磯部温泉 「磯部ガーデン」 安中市


 群馬県は赤城山~榛名山~浅間山を結ぶラインを境に、北と南で泉質と泉温の異なる温泉が湧く。
 北の山間部はサラリとした高温泉、南の平野部は塩分の多い冷鉱泉。
 古来、温めてまで浴した冷鉱泉には、霊験あらたかな温泉が多い。

 磯部温泉の発見は古く、鎌倉時代には湧出していたといわれている。
 天明3(1783)年、浅間山の大噴火による降灰で泉口が埋まってしまったが、その圧力により新たな源泉が噴出したと伝わる。
 この付近一帯は碓氷川に沿った盆地状の凹地で、塩辛い水が湧き出ていたことから 「塩の窪(くぼ)」 と呼ばれていた。

 昭和になり、江戸時代の絵図が発見された。
 この絵図の中に描かれている2ヵ所 「塩の窪」 に、現在の温泉記号に似た符号が記入されていることから、磯部温泉は 「日本最古の温泉記号発祥の地」 といわれるようになった。

 平成8(1996)年、温度の高い新源泉が掘削され、旅館および日帰り温泉施設、足湯に供給されている。


 “舌切雀(したきりすずめ) のお宿” として知られる 「磯部ガーデン」 は、昭和11(1936)年に磯部館 (大正2年創業) の別館として開業した。
 磯部温泉の開拓者といわれる大手萬平 (詩人、大手拓次の祖父) が明治時代に創業した 「鳳来館(ほうらいかん)」 の無き今は、一族の流れををくむ磯部屈指の老舗旅館である。

 では、なぜ、“舌切雀のお宿” なのか?

 舌切り雀の物語は、口伝えにより全国に残されている。
 これらの話を拾い集めて、日本の昔話として世に発表した人物が、童話作家の巌谷小波(いわや・さざなみ) (1870~1933) だった。
 小波は大正時代に何度も当地を訪れ、磯部の伝承話が一番、話にブレがないことから 「ここが舌切り雀のお宿だ!」 と、伝説発祥の地として定義づけた。

 当時の本館である磯部館に滞在して、多くの書や句を残した。
 小波が残した掛け軸には、『竹の春 雀千代ふる お宿かな』 という句と、スズメの擬人画が描かれている。
 また館内の宝物殿には、スズメの舌を切ったハサミや、おばあさんが背負って帰ったツヅラなど、物語ゆかりの品々が展示されている。


 <2017年7月7日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:37Comments(0)西上州の薬湯

2022年02月22日

西上州の薬湯 (7) 「山のリゾートホテルに湧いた美肌の湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで関東新聞 「生活info(くらしインフォ)」 に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書、料金等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 倉渕川浦温泉 「はまゆう山荘」 高崎市


 群馬にありながら、なぜ施設に海辺の植物の名前が付いているのだろうか?
 その理由は、幕末の時代にさかのぼる。

 幕臣の小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、日米修好通商条約批准のために渡米した。
 その時、アメリカとの造船技術の差に驚き、帰国後、横須賀に製鉄所や造船所を建設した。
 のちに小栗は官軍に反逆の意があるとし、土着を決心した上州権田村 (旧倉渕村) において斬殺されてしまう。

 この史実により、横須賀市 (神奈川県) は恩人である小栗上野介忠順を顕彰し続ける村民に対して敬意を表し、交友都市を結んだ。
 その証しとして昭和62(1987)年に横須賀市民休養村として設立されたのが 「はまゆう山荘」 だった。

 海なし県の山奥なのに海岸の砂地に自生する植物の名前が付いているのも、浜木綿(はまゆう)が横須賀市の 「市の花」 だからである。


 「以前は軽井沢への通過点としての利用客が多かったのですが、温泉が湧いてからは湯を目当てに来られる方が増えました」
 と話すのは創業以来、同荘に勤務する総務課長の塚越育法さん。
 平成18(2006)年の市町村合併を機に横須賀市から高崎市へ移譲され、翌年、念願の温泉を掘削。
 同21年3月から倉渕川浦温泉としてリニューアルオープンした。
 県内で最も新しい温泉地の誕生だった。

 泉質はナトリウム・カルシウ-塩化物・硫酸塩温泉。
 三種混合と呼ばれる成分の濃いにごり湯で、かすかに金気臭がする。
 浴感がやわらかく、湯上りは肌がツルツルになることから 「美肌の湯」 と呼ばれ、オープン当時は評判になった。

 もう一つの名物が 「よこすか海軍カレー」。
 明治41(1908)年に日本カレー発祥の地、横須賀で生まれた海軍割烹術の “カレイライスレシピ” を基に復元したカレーで、群馬で食べられるのは唯一ここだけ。
 スパイシーでありながら懐かしい味は、湯上りの生ビールとの相性も良い。


 <2017年6月2日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:17Comments(0)西上州の薬湯

2022年02月13日

西上州の薬湯 (6) 「水墨画の世界を一望する絶景露天風呂」


 妙義温泉 「妙義グリーンホテル」「妙義ふれあいプラザ もみじの湯」 富岡市


 九州・大分県の耶馬渓(やばけい)、四国・香川県の寒霞渓(かんかけい) と並び 「日本三大奇勝」 に数えられている妙義山。
 言わずと知れた群馬県を代表する 「上毛三山」 の一座である。
 白雲山、金剛山、金鶏山の三峰からなり、奇岩怪石が林立する山容は中国の水墨画のように美しく、訪れる人を魅了する。


 その絶景を一望する高台に建つ 「妙義グリーンホテル」。
 平成6(1994)年、併設されるゴルフ場の宿泊施設として開業したリゾートホテルである。
 ところがオーブン当初からゴルフ客より圧倒的に観光や入浴を目的とする利用客が多かったという。
 理由は、湯の良さが口コミで広まったせいだった。

 源泉は、ナトリウムイオンが海水の10倍という炭酸水素塩・塩化物泉。
 まるでローションのようにトロンと肌にまとわりつく独特な浴感が、根強い温泉ファンに支持されている。
 宿泊客の3割は県内客が占め、さらに、その半数は富岡市や安中市など近隣からのリピーターである。
 なかには毎日、入浴だけに訪れる人もいるという。

 宿泊のみならず、ランチ付き入浴パックや夏のビアバイキング、また宴会や法要、結婚式などの会場としても幅広く利用されている。


 妙義神社のほど近く、妙義山を背に、眼下に関東平野を望む絶景が楽しみる日帰り温泉 「妙義ふれあいプラザ もみじの湯」。
 施設の開設は平成12(2000)年だが、それ以前から源泉は湧いており、噂は広まっていた。
 湯を持ち帰り入浴に使用したところ、アトピー性皮膚炎の症状が軽くなったなどの皮膚病に関するもので、以来、“美肌の湯” として知られるようになった。

 テラスや露天風呂からは富岡や安中の市街地はもとより、高崎の観音山、前橋の県庁舎、遠く筑波山まで見渡す。
 内風呂は富岡製糸場をイメージしたレンガ調の浴室と、妙義山の岩肌をイメージした白亜の浴室の2種類あり、週ごとに男女が入れ替わる。

 山桜から新緑、紅葉と折々に装いを変える妙義山の自然に抱かれながらの湯浴(あ)みは、ハイカーのみならず地元のリピーターも多い。


 <2017年5月5日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:42Comments(0)西上州の薬湯

2022年02月07日

西上州の薬湯 (5) 「天然湖畔に湧いたカーキ色のにごり湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで関東新聞 「生活info(くらしインフォ)」 に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書、料金等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 榛名湖温泉 「ゆうすげ」 高崎市


 標高1,084m、南北1.5㎞、東西0.8㎞、周囲4.8㎞。
 榛名湖は、赤城山、妙義山とともに 「上毛三山」 の1つとして県民に親しまれている榛名山の外輪山に囲まれたカルデラ内に水をたたえる火口原湖。
 周辺の高原は四季折々の風景が美しく、初夏のユウスゲやレンゲツツジ、初秋のマツムシソウなど山野草が咲き誇り、訪れるハイカーたちの目を楽しませてくれる。

 そんな榛名湖畔に温泉が湧いたのは昭和43(1968)年のことだった。
 若者向けの宿泊施設を経営していた地元のバス会社が、温泉を掘り当てた。
 しかし伊香保温泉との兼ね合いもあり、なかなか県から温泉の使用許可が下りずにいた。
 同51年に旧榛名町開発協会の経営により、ようやく榛名湖温泉としてオープンした。

 ところが同54年4月には旧榛名町に経営が移管され、温泉の使用も本館と新館のみという条件付きとなってしまった。
 新館とは、「老人休養ホームゆうすげ」 としてオープンした 「レークサイドゆうすげ」 である。
 平成11(1999)年、本館の 「ゆうすげ元湯」 がリニューアルオープン。
 そして同18年9月、高崎市と榛名町の合併を機に、株式会社榛名湖温泉として民営化された。

 紆余曲折の歴史をたどり、この2軒の宿が温泉地の看板を守っている。
 県内では数少ない天然湖畔に湧く温泉で、黄褐色のにごり湯が観光客やハイカー、湯治客に親しまれている。


 「この恵まれた自然と環境を最大限に活用しようと、観光と健康を兼ね備えた “健光事業” というのを推進しています」
 と代表の中島美春さん。
 「ゆうすげ元湯」 では、ただ単に観光目的だけで訪れるのではなく、専門家による体力測定や健康指導、トレッキングなどを組み込んだ 「ヘルスツーリズム」 (宿泊体験ツアー) を開催している。
 これに温泉の効能が加わるのだから、まさに “現代版の湯治” である。

 一方、「レークサイドゆうすげ」 は宿泊客の7割がリピーターを占める滞在型の湯治宿。
 そもそもが老人ホームとして建てられた施設だけあり、60歳以上の客には宿泊および休憩料金の割引がある。


 泉質はナトリウム・マグネシウム―塩化物・硫酸塩温泉。
 効能は神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、冷え性ほか。

 源泉は無色透明だが、時間の経過とともにカーキ色からオレンジ色へと染まる。
 よく温まり、湯冷めをしないと評判だ。


 <2017年4月7日付>

 ※「レークサイドゆうすげ」 は2020年3月に閉館しました。また 「ゆうすげ元湯」 は 「ゆうすげ」 と施設名を変更しています。
  


Posted by 小暮 淳 at 12:22Comments(2)西上州の薬湯

2022年01月28日

西上州の薬湯 (4) 「旅の行者が見つけた200年前から湧く秘湯」


 薬師温泉 「かやぶきの郷 旅籠」 東吾妻町


 草津街道 (国道406号) は大戸の関所を超えると、西へ向かう。
 須賀尾宿を抜けるこの道は、江戸時代から信州を結ぶ裏街道として、多くの旅人たちに利用されてきた。

 宿場を過ぎると左手の渓流沿いに、小さな温泉郷が現れる。
 「温川(ぬるがわ)」 「鳩ノ湯」 「薬師」 からなる浅間隠(あさまかくし)温泉郷だ。
 一軒宿ばかりが3軒、ひっそりと佇んでいる。
 一番奥に薬師温泉がある。


 開湯は寛政5(1793)年。
 温泉坊宥明(ゆうめい)という旅の行者により発見されたと伝わる。
 鳩ノ湯集落にあった法印本正院の持ち湯であったため 「法印さんの湯」 といわれ、村人たちにも沐浴が開放されていたという。
 江戸時代は鳩ノ湯と一体で、薬師の湯を 「上の湯」、鳩ノ湯を 「下の湯」 と言った。

 当時は野天の湯治場だったが、昭和になって浴舎ができると 「昭和温泉」 とも呼ばれ、やがて旅館が建ち、薬師温泉と改名された。


 旅人を出迎える見事な合掌かやぶき切妻造りの長屋門は、長さ約26メートル、高さ約9メートル。
 門の2階に上がれば、約7000坪という広大な敷地に連なるかやぶき屋根を見渡すことができる。
 全国から集められた築150年以上の古民家が移築されている光景は、圧巻のひと言。
 誰もが時空を超えた旅人となり、江戸の街並みを歩き出す。

 町人長屋を通り、かやぶき民家の集落を抜けると、やがて200坪を有する本陣屋敷にたどり着く。
 ここが旅館 「旅籠(はたご)」 の帳場である。
 湯屋に行く途中に泉源があり、洞窟の奥で沸々と湯が湧き出す様子をモニターを通して見ることができる。

 源泉はナトリウム・カルシウム―塩化物・硫酸塩温泉。
 うっすらと茶褐色に微濁した湯は、血圧降下や動脈硬化の予防に効果があるといわれている。
 館内には源泉風呂のほか、薬湯風呂や露天風呂、貸切風呂など6つの浴場がある。


 素朴な山のごちそうが並ぶ 「炭火焼き料理」 が宿の名物だが、近年は郷内で食せる手打ちそばが評判となり、この味を目当てに来る日帰りリピーターが増えている。


 <2017年3月3日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:53Comments(0)西上州の薬湯

2022年01月23日

西上州の薬湯 (3) 「湯舟を黄金色に染める濃厚なにごり湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで関東新聞 「生活info(くらしインフォ)」 に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載しています。
 ※肩書、料金等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 相間川温泉 「ふれあい館」 高崎市


 相間川(あいまがわ)温泉 「ふれあい館」 は、旧倉渕村 (現・高崎市) が都市生活者のために遊休農地を整備して貸し出している市民農園 「クラインガルテン」 の中にある。
 クラインガルテンとは、ドイツ語で 「小さな庭」 の意味。
 本場ドイツにならって都市農村交流を目的とし、平成4(1992)年に日本で最初にオープンした本格的農園である。

 約1万3000坪の敷地内には、農園225区画のほか、ログハウスやバーベキュー場、体育館などが造られている。
 農園1区画 (平均12坪) の使用量は年間8,400円と安価なため、首都圏から農作業に訪れる人が多い。


 温泉が湧いたのはオープンから3年後の平成7(1995)年3月のことだった。
 源泉の温度は約62度と高温で、湧出量は毎分約200リットルもあった。
 そして何よりも工事関係者を驚かせたのが、温泉の色だった。

 湧出時は無色透明だが、時間の経過とともに黄褐色から赤褐色へと染まり、やがてレンガの粉のような大量の沈殿物を析出した。
 さらに高濃度の塩分を含んでいる、県内でも珍しい温泉だったのである。


 泉質は、ナトリウム・カルシウム―塩化物強塩温泉。
 析出物が多く、循環装置が使えないため、浴槽の湯は内風呂も露天風呂も完全放流式 (かけ流し)。
 その析出物の正体は酸化鉄で、光の加減によっては、湯が鮮やかなオレンジ色に見えることもある。

 にごり湯が濃厚なため、入浴の際は足元に注意が必要だ。
 ゆっくりと足裏で湯底を確かめながら入り、湯をすくい、鼻先に近づけると独特の金気臭がする。
 顔に触れると、ひげそりの肌がヒリヒリとする。
 なめると、かなり塩辛い。
 体を移動しようと手をついた瞬間、フワリと尻が浮いた。
 それほどに塩分濃度が高い。

 皮膚に付着した塩分が発汗を抑え、保温効果があることから別名 「あたたまりの湯」 「熱の湯」 とも呼ばれる温泉だ。
 湯冷めをしにくいので、この時季、冷え性の人にはお勧めである。


 あまりの心地よさに、ついつい長湯をしてしまいがちだが、それは禁物。
 塩分と鉄分の多い温泉は、実際の温度よりも体感温度が低く感じられるため、湯あたりを起こすことも。
 こまめな休憩と水分の補給を忘れずに!


 <2017年2月3日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:37Comments(2)西上州の薬湯

2022年01月17日

西上州の薬湯 (2) 「泡の出る湯は骨の髄まで温まる」


 霧積温泉 「金湯館」 安中市


 ≪母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦わら帽子ですよ≫

 昭和52(1977)年、西条八十の詩の一節を引用したベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積(きりづみ)温泉が一躍ブームとなった。
 学生時代に霧積温泉を訪ねた作家の森村誠一は、宿でもらった弁当の包み紙に印刷されていたこの詩に、感銘を受けたという。
 映画は、歌手・ジョー山中が歌った主題歌とともに大ヒットした。

 「国道から宿までの山道が、渋滞するほど混雑した」
 と、3代目主人の佐藤敏行さんは、当時を述懐する。


 金湯館の創業は明治17(1884)年。
 すでに霧積温泉は湯治場として営業を始めており、同20年には旅館が4軒、別荘が50棟以上も立ち並び、かなりのにぎわいをみせていた。
 信越線が開通するまでは、避暑地として軽井沢よりも栄えていたという。

 伊藤博文や勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら政治家や文人たちも多く訪れている。
 本館には、明治憲法が草案されたというケヤキ造りの由緒ある部屋が残り、今でも指定して泊まる客が多い。


 ところが明治43(1910)年、大洪水による山津波が一帯を襲った。
 金湯館ただ一軒だけを残して、すべての建物が泥流に吞み込まれてしまった。

 以後、昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電にて営業を続けてきた。
 電気と電話が通じたのは昭和56(1981)年のことだった。


 湯元として代々守り継いできた源泉は約40度とぬるく、湯に体を沈めると炭酸を含んでいるため泡の粒が付くのが特徴だ。
 昔から 「泡の出る湯は骨の髄まで温まる」 と言われ、珍重されて来た薬湯である。
 その言い伝えどおり、湯上りはいつまでたっても体がポカポカとほてって、なかなか汗が引かない。

 なぜ交通が不便だった時代に、わざわざ人々は、こんな山奥までやって来たのか?
 その理由は、この湯に浸かれば一目瞭然である。
 切り傷ややけどに効果があるとされ、かの勝海舟も皮膚病の治療に通ったといわれている。


 長野県境にある鼻曲山や熊野神社への登山口でもあり、汗を流しに秘湯に立ち寄るハイカーも多い。


 <2017年1月6日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:03Comments(0)西上州の薬湯

2022年01月11日

西上州の薬湯 (1) 「薬師像が見守る起源300年のたまご湯」


 このカテゴリーでは、2016年12月~2018年2月まで関東新聞 「生活info(くらしインフォ)」 に連載された 『西上州の薬湯』(全15話) を不定期にて掲載いたします。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 倉渕温泉 「長寿の湯」 高崎市


 清流、長井川をはさんだ宿の対岸に、大きな源泉櫓(やぐら)が立っている。
 櫓の下には小さなお堂があり、薬師如来像が祀られている。
 約300年前、霊験著しい湯の御利益に対して、旅人たちが感謝を込めて安置した 「湯前(ゆぜん)薬師」 だと言われている。

 「雪解けの早い場所があり、そこには薬師像もある。地元では昔から “たまご湯” と呼ばれる幻の薬湯が湧いていたと伝わる。だから、ここは絶対に温泉が出る」
 東京でボーリング会社を営んでいた主人の川崎秀夫さんは、丸3年間通い続けて温泉の掘削に成功した。
 昭和63(1988)年のことである。


 平成3(1991)年に念願の温泉旅館をオープンしたものの、バブル崩壊のあおりを受け、あわや廃業の窮地に追い込まれることもあった。
 同15(2003)年、「温泉旅館はお父さんの夢。絶対に手放すわけにはいかない」 と、東京で暮らしていた女将の節子さんが一念発起。
 湯と宿を守るため、単身で群馬にやって来た。

 それまでの宿泊メインの経営から、女将の郷里である山梨県の温泉地で見かける宿泊と日帰り入浴客の両方を受け入れるスタイルに移行し、積極的に湯の良さをアピールした。
 その甲斐もあり、口コミで噂を聞いたリピーターが増えた。
 今では草津の帰りに “仕上げ湯” として立ち寄る常連客も多い。

 湯はサラリとして肌によく馴染む単純温泉。
 “たまご湯” の名のとおり、とても滑らかで、湯の中で手をこすると、キュッ、キュッと音が鳴る。
 美肌効果があり、切り傷ややけど、皮膚病に効くといわれてきた。
 「腰痛、肩こりなど畑仕事の疲れが軽くなる」
 「風邪気味でも湯に入れば体調が良くなる」
 「毎日通ったらアトピーが治った」
 など、ファンから寄せられた声に人気のほどが知れる。


 「ここはさ、湯もいいけど、なんたって女将さんがいいんだよ」
 と20年間通い続けているという地元客は、満足そうに笑った。
 「ここに来ないと、一日が終わった気がしないんさね」
 とも。

 渓流を望む露天風呂からは、源泉櫓とお堂が見える。
 お堂の中では、薬師様が今も昔と変わらずに旅人の安全と健康を見守っている。
 もちろん、見知らぬ土地で奮闘する女将の姿もだ。


 <2016年12月2日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 14:04Comments(2)西上州の薬湯