2011年09月08日
島人たちの唄⑬ 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」(下)
篠島は、南北に細長い勾玉(まがたま)のような形をしている。
北部の埋立地区を除くと、ほとんどは起伏に富んだ山島だ。
民家は、わずかな平地と斜面に寄り添うように密集している。
港のある西側は知多半島を望み、渥美半島を望む東側には、前浜(ないば)と呼ばれる淡黄色の美しい砂浜が600メートルにわたり広がる。
一行は前浜で波とたわむれたのち、いよいよ島一番のビュースポットを目指して、山道に取りついた。
ヒールを履いているご婦人には気の毒な急斜面を、全員が息を切らして登り始めた。
登山道はすべて海に面している。
奇岩や砂浜、小さな属島が見えるたびに、方々から喚声が上がる。
そのたびに僕は、優越感に満たされた。
僕らが愛したこの島を、みんなが気に入ってくれたのが、うれしくて仕方がなかった。
やがて最南端の展望台へ。
正面には属島の一つ、野島が見える。
無人島だが、標高は篠島より高い。
さあ、ここからは下りだ。
足元に気をつけて!
折りしも、合わせたように日没の時刻。
てっぺんに松をあしらえた松島に、夕日の長い帯がかかり始めていた。
「万葉の丘」 から望む夕日は、「日本の夕日100選」 に選ばれている名所だ。
あまりの美しさか、一行から声は上がらない。
その代わり、各々がケータイを手に、シャッターを押し出した。
しばらく、みんな丘にたたずんでいた。
海面をのびてきた夕日の帯が、やがて僕らにとどき、みんなの顔を赤く染めていった。
宿の夕食時、誰もがケータイの待ち受け画面を見せ合い、その美しさを自慢しあっていた。
目の前には、刺身に始まり、唐揚げ、鍋、そして雑炊にいたるまで、フグフグフグのフグ三昧のフルコースがずら~りと並んだ。
篠島のフグは、日本有数の漁獲高を誇り、下関にも卸しているという、知る人ぞ知る名物である。
産地で直接手に入るから、良いものが安く手に入る。
だから、この量!
たぶんみんな、一人でこれだけのフグ料理を食べたことなんて、初めてじゃないのかな。
まっ、この僕だって、これだけこの島に来ていて、フグ刺しを遠慮なく箸ですくって食べたのは、初めてだけど……。
翌朝、みんなは早起きをして、今度は朝日を見に出かけたらしい。
あいにく僕は二日酔いで、それどころではなかったのだ。
でも、帰りはもう、添乗員はいらない。
小さな島だもの、思い思いに歩けばいい。
会長さんご夫妻の 「送りますよ」 の言葉をふりきって、誰もが港までの道を、歩き出していた。
< 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」 完 >
2011年09月06日
島人たちの唄⑫ 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」(中)
2004年11月、某日未明。
僕らを乗せた大型バスが、高崎を出発した。
僕らとは、僕とY館長さんが入会している「K会」のメンバー20人である。
さしずめ、13回目の渡島になる僕が、添乗員である。
車中では、島の資料を配って、しっかり勉強会も行った。
上信越自動車道から長野自動車道、中央自動車道へ。
愛知県へ入ってからは名古屋高速に乗り、知多半島道路で終点を目指す。
途中、休憩と昼食をとったので、知多半島の最南端、師崎港に着いたのは、高崎を出てから8時間後のことだった。
ここから篠島までは、高速船でわずか15分の距離。
指呼の間に見える篠島の姿を前に、みんな、はしゃいでいる。
でも、僕だって同じだ。
何度訪ねても、海を渡るこの瞬間が、いつもワクワクする。
知った島人たちの顔が、いくつもよぎるのである。
「小暮さん、どうも」
高速船を降りると、篠島観光協会長でホテル「あつ美や」のご主人、荒木延一さんが出迎えてくれた。
『島人たちの唄』 の展示会では、後援もしていただき、僕らが大変お世話になった人である。
奥さんと一緒に、送迎車を2台用意してくれていた。
でも、みんな、目が好奇心に満ち満ちていて、なかなか車には乗り込まない。
「だったら歩きましょう! 宿まで案内しますよ」
僕のひと言で、ほとんどの人が荷物だけ預けて歩き出した。
ぞろぞろと歩く一行の前を、バイクが行きかう。
センターラインのない道は、右車線も左車線もない。
真ん中を堂々と、2人乗り、3人乗りの小型バイクが通り過ぎるたびに、一行は喚声を上げる。
「本当だ、小暮さんの言ったとおりだ!」
「さっき、4人乗りの家族を見た!」
驚くのも無理はない。
起伏が多く、幅の狭い島の道は、4輪車はほとんど通れない。
だから島民の足は、もっぱらバイク。
誰ひとりヘルメットをかぶっている者なんていない。
ナンバープレートが付いてないバイクや軽トラだって、平気で走っている。
島民のほとんどが無免許だ。
僕らも初めて島に来たときは、我が目を疑った。
ここは日本?
東南アジアの街角にいる錯覚に陥った。
まるでここだけが治外法権のような、島だけの不文律に夢中にならずにはいられなかったのだ。
宿に着いた僕らは、荷物を置くと、すぐに外へ飛び出した。
島一周の探検に行くことになったのだ。
一行の平均年齢は、お世辞にも若いとは言いがたい。
でも、歩くと言い張るのだから、案内をしないわけにもいくまい。
僕だって、島一周は過去に1度しか果たしていない。
2時間はかかるぞ、音を上げるなよ!
<つづく>
2011年09月05日
島人たちの唄⑪ 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」(上)
「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」 は、月刊ぷらざ 2005年2月号に特集記事として掲載されたエッセーに、加筆・訂正したものです。
「いいね、感動した。今度、この島に連れてってよ」
声をかけてきたのは、某博物館の館長、Yさんだった。
昨年の5月、前橋市内で開催したフォト&エッセイ展 『島人たちの唄』 の会場でのことだった。
僕らは2年前から愛知県の三河湾に浮かぶ篠島という離島に通っていた。
僕らとは、僕と友人のカメラマンのO君である。
2人にとって篠島との出会いは、衝撃的だった。
「えっ、この島が、あの島だったのか!」
たまたま愛知県の知人に連れられて行った島だったが、そこは僕らにとっては、まさに聖地だったのだ。
1979年、夏。
この島に2万人を超える若者が全国から押し寄せた。
7月26日、吉田拓郎の 「篠島アイランドコンサート」 である。
翌27日まで、夜通しで歌った曲は全58曲。
朝日が昇るまで叫びつづけたラストの 「人間なんて」 は、ファンの間では、いまだ伝説として語り継がれている。
そのライブ会場となった跡地に立ったとき、熱狂的な拓郎ファンの僕らは、同時に熱いものが体中を駆けめぐるのを感じた。
“あれから4半世紀・・・追ってみたい。夢のつづきを、島の人たちの記憶を”
それから僕は、何かに取りつかれたように、島通いを始めた。
群馬から約500㎞離れた愛知県、車で高速道路を飛ばして約6時間。
僕らは、2年間で12回、島に渡った。
「島が沈んじゃへんかと思ったがね」
「お父さんの肩車で聴いたよ」
「道といわず浜といわず、若者が寝ころんでいた」
「もう一度、拓郎さん来ないかね。よろしく言ってよ」
最初は、そんな当時を述懐する島民の話を聞けるのが嬉しくて通っていたが、いつしか僕らは、スーパーもコンビにも信号機もない “モノのない島の豊かな暮らし” に魅せられていった。
その間、ネットのウェブマガジンで、2人のフォト&エッセイの連載が始まった。
展示会も前橋市につづき、宇都宮市、そして地元愛知県安城市のギャラリーでも開催することができた。
そのたびに、会場にお祝いの花束を贈ってくださったY館長さん。
僕らは、館長さんの 「島に連れてってよ」 の約束を果たすべく、“篠島バスツアー” を企画した。
<つづく>
2011年03月01日
島人たちの唄⑩ 「小女子とクラゲと島の春」
朝夕はまだ冷えるが、それでも3月ともなれば三河湾は、もう春の装いだ。
港の朝は早く、小女子(コウナゴ)漁に活気づいていた。
網を張った簀(す)の子が、地べたが見えなくなるまで港の護岸一面に並べられ、その眺めは気持ちいいほどに圧巻だ。
次から次へと女衆が、加工所の中から籠いっぱいに蒸された小女子を抱えてやって来る。
その手さばきの素早さといったらない。
老いも若きも一緒になって、一列また一列と簀の子を小女子で満たしていく。
「ははは、そんなにオモシレーかい? こっちは毎日、エライことだわ」
一番年配の女性が、見ている僕に言った。
港の隅では、網を繕(つくろ)う男たち。
時間は、まだ午前7時。
「早かったんですね」
と声をかけると、
「この時季は、クラゲがようけ(たくさん)入るもんでね。網が破けるんよ。今日はもう、漁ができんで、帰ってきた」
と、せっせと網の補修に余念がない。
日に焼けた、テカテカの顔が笑っている。
「クラゲは漁師の敵だ」
と言ったが、毎度のことのようで、落胆の様子は微塵(みじん)もない。
午前4時に出港、7時間ほど漁をして、通常なら昼に戻るはずだったらしい。
「コウナゴはもう大きいもんで、そろそろおしまいだい。4月からは、シロメが始まる」
チリメンジャコ(しらす干し)の原料になるカタクチイワシの稚魚のことを、地元では「シロメ」と呼ぶ。
シロメの漁期は4月から11月までと長期にわたり、渥美半島沖の外海で行われる。
篠島の水揚げの半分以上を占める基幹漁業だ。
船が港へ入ってくる。
何十羽というウミカモメの群れを従えて。
海鳥たちは、船に何が積まれているかを知っているからだ。
頭上高いところでは、やはりおこぼれを狙って、トンビが何羽も旋回を繰り返している。
父親の船の帰りを、家族総出で出迎える。
脂ののった、少し大ぶりの小女子が水揚げされた。
思ったほど、数は多くない。
「(漁が始まって)もう1ヶ月でしょう。1日1ミリずつ大きくなっちゃうのよ。先月は1日平均100万(円)になっただいね。今は、その10分の1。小さいほうが高く売れるけど、煮て食べるには、このくらいが旨くていいけどね」
そう言って、漁師の妻は、伝票を握りしめながら市場を出て行った。
桜の咲く頃、港はまたサクラダイ漁で活気立つ。
島の春は、元気だ。
2011年01月21日
島人たちの唄⑨ 「カオスの片隅で」
「いたっ、いたぞー! 捕まえろー!」
人気アイドルグループが、TVの中で逃げ回っていた。
迷路のような路地が、幾重にも絡みながら、小高い山を覆いつくす島の住宅密集地で、追いかけごっこをしている。
考えることは、同じだ。
TV局の番組制作スタッフの目にも、篠島の住宅地が格好の遊び場に映ったのだ。
僕も初めてこの島を訪ねたとき、潮風から家を守るために軒を寄せ合いながら密集する住宅地に入り込んで、途端に迷子になってしまったのだから……。
港のある埋立地をのぞけば、島内に平地はほとんどない。
南端から西部にかけては、切り立った断崖が続く景勝地で、民家はない。
東方に広がる800メートル余りの砂浜が、平地といえば唯一の平地である。
昭和51年、中手島と小磯島という2つの属島を基点にして、現在の埋立地が完成した。
これにより、住宅や民宿が平地を求めて、移転建築された。
しかし、古い島民は依然、今も迷路の中で暮らしている。
ビ、ビ、ビビビーーーーー!!!!
勾配の路地、それも階段の途中で、けたたましいクラクションにまくし立てられた。
振り返れば、急登もなんのそのの抜群のテクニックで、スクーターが駆け上がって来る。
「ごめんなさいねぇ」
おばちゃんは、僕の脇をすり抜けて行った。
島の階段には大概、スクーター用の側道が設けられている。歩道橋で見かける、自転車を押して上がるスペースのようなものだが、島では一切、自転車は走っていない。
坂道が多過ぎて、移動の手段には適さないからだ。
迷路は、ときに行き止まりとなる。
が、そんなときは分かれ道まで引き返し、ひたすら空を目指せばいい。
空へ空へと向かう路地は、やがて島の分水嶺に出る。
東に浜を、西に港を、そして空へつづく海を見渡す。
潮風を遮断した暗い迷路の中で密閉された空気は、坂道という煙突を伝って昇り、島のてっぺんで排気される。
「暗」 から 「明」 へ
眼下の岩肌にへばりついたフナムシのような甍(いらか)の群れが、島人たちの知恵がぎゅうぎゅうと詰まった純度の高い極上のカオス(混沌)に見えてきた。
いつかアジアの片隅で感じた、あの喧騒と雑踏にも似た、生活の匂いと音が充満したカオスの世界である。
2010年12月08日
島人たちの唄⑧ 「坂道と少女」
篠島は周囲 6.7キロメートル、南北に細長い勾玉(まがたま)のような形をしている。
北部の埋め立て地区を除くと、起伏の多い山島だ。
民家はわずかな平地と、斜面に寄り添うように密集している。
道は極端に狭く、四輪車はほとんど通れない。
坂が多く、迷路のように入り組んだ道では、スクーターが島民の唯一の足がわりなのである。
西の港から東の浜へ抜けるには、神明神社の坂道を通るのが最も近い。その距離、わずか200メートル。
坂のてっぺんから西に東に海を望むことができるこの道を、僕は日に何度も往復した。
当然、島民にとっても生活に欠かせない幹線道路のため、ひっきりなしにスクーターが行き交っている。
この坂道の途中に、島でたった一軒の本屋 「小久保書店」 がある。
書店といっても、外観も店内も屋号とは程遠い、雑貨屋である。
店内の3分の2は生活用品や文房具品で占められていて、残りの3分の1のスペースに、雑誌とコミックと、わずかな書籍が置かれているだけだ。
いつ通っても、人影はなく、店自体がやっているのか、閉まっているのか、通るたびに不思議に思っていた。
絹のようなやさしい雨が降り続く、日曜日だった。
僕は朝からオフ日に当てていた一日だったので、ひまを持て余していた。
せっかく持参した釣り具も手つかずのまま、雨の島をただあてもなく歩いていた。
坂の上り口にある「六地蔵」と呼ばれる灯籠の前で、「その昔、加藤清正が、名古屋城を築城した際に、この島から岩を切り出したそのお礼に贈られたものだ」と話す老人との立ち話にも、そろそろ飽きてきた頃、港の方からやって来る赤い傘に気づいた。
少女だった。
埋め立て地区の子だろうか。
こんな雨の日に、一人でどこへ行くのだろうか。
郵便局の角を曲がり、坂道を上がり出した少女を、僕は老人の話に相づちを打ちながら、目で追っていた。
少女は「小久保書店」の前で、立ち止まった。
何度か入り口の戸に手をかけているようで、そのたびに、小さな赤い傘が揺れている。
しばらく少女はそこにたたずんでいたが、とうとう店の人は、出て来なかった。
少女が坂道を下りて来た。
また港の通りへもどって行った。
いつしか、老人の姿も消えていた。
振り返ると、いつもは賑やかな坂道が、雨に濡れながら、ひっそりと静まりかえっていた。
2010年11月20日
島人たちの唄⑦ 「夕暮れの井戸端会議」
「家のカギなんて、かけたことないね」
「島にドロボーなんて、いないもん」
浜に面した道端に、一列になってイスを並べて、夕涼みをしている年寄りたち。
島のあちこちで、よく見かける光景だ。
「ドロボー入っても、すぐ捕まっちまうだわ」
「ああ、船で逃げなかならんもん」
「乗り場、止めちまえばええんだ」
アッハハハー! ウワッハハハー!
笑い声が浜通りに響き渡る。
それをかき消すように、2人乗り 、3人乗りの原付バイクが行き交う。
もちろん、ナンバープレートなんて付いていない。
停めてあるバイクもクルマも、みんなキーは差したまま。
それでも盗まれることはない、と言う。
誰ともなしに 「ナンバー付いてないけど、あれ違反じゃないの?」 と尋ねると、すかさず1人の老人が応えた。
「あれね、付けておくと違反なんだわっ」
アッハハハー! ウワッハハハー!
またもや、大爆笑が沸き起こった。
「ウソだと思ったら、ほれ、駐在さんに訊いてみろ」
「自転車あるで、奥におるよ」
と、島でたった1つの交番を指さした。
「駐在ひとりじゃ、取り締まれたもんじゃない。だって、そんなことしたら簀(す)巻きにされて、海に放り込まれちゃうもん」
頭をかきかき、おまわりさんは苦笑いをした。
この島に赴任して、4年が経つという。
「本当は3年が任期だけどね。島って、なかなか来手がいないんよ」
休みの日に、家族のいる名古屋へ帰るのが、唯一の楽しみなのだとも言った。
「良く言えば、団結力。悪く言えば、島根性ってやつだな。よそ者が何か言えば、それが島中に広がる。やたらの事は、言えないよ。この間、急性胃炎になっちゃって、胃カメラを飲んできたんだ」
そう言って、おまわりさんは腹をさすってみせた。
そして、言葉を付け加えた。
「俺が島に来たときは、ナンバーなんて1つも付いてなかったんだ。これでも少しは良くなったんだよ」
2010年11月03日
島人たちの唄⑥ 「海の神様」(下)
「とーちゃ~ん!」
「おとうさーん!」
父親の船が見えると、浜で手を振る子どもたち。
島の小学生らによるマーチングバンドの演奏が、沿岸を行く船団を見送る。
「ぎおんまつり」の翌朝、何十隻もの漁船が、一斉に港を出て行った。
どの船も大漁旗を揚げ、満艦飾に彩られている。
中手島、小磯島と北の属島を回り、やがて沖に出ると、船の群れは一列となって、海上パレードを始めた。
「おお、行って来るぞー!」
漁盛丸の甲板でも、漁師たちが家族の声援に応えて、手を振った。
エンジンの音を上げて一気に加速すると、飛沫(しぶき) を上げながら船体を大きく旋回させて、一層その勇壮ぶりを誇示した。
すると浜では、ひと際大きな喚声が沸き起こった。
「あの島には洞窟があってな、お伊勢様まで続いていると言われてんだ」
漁師が指さした先には、切り立った頂を持つ野島がそびえていた。
無人島だが、標高は本島より高い。
野島社という神社が祀られ、漁師たちは新しい船の進水式には、必ずこの島を一周する。
ここ篠島は愛知県南知多町に属しているが、その昔は三重県の伊勢の国に属していたという。
現在でも、伊勢神宮に奉納する御弊鯛(おんべだい)という干鯛の調整所がある中手島だけは、篠島村より譲り受け、神宮の所管となっている。
「田んぼや畑には持ち主がいるが、海は誰のものでもねえ。わしら漁師は、海の神様に生かされてんだよ」
船団は、さらにスピードを上げて、野島を目指す。
島に近づくと、漁師たちは一斉に海に向かって御神酒(おみき)をまいた。
そして、海の安全と大漁を祈った。
2010年10月29日
島人たちの唄⑤ 「海の神様」(上)
わっしょい、わっしょい!
ワッショイ、ワッショイ!
青い法被(はっぴ)に赤く「祭」の文字が染め抜かれた、揃いの衣装で子供神輿(みこし)がねり歩く。
丘の方から、浜の方から、港を目指して集まってくる。
今日は、年に一度の「ぎおんまつり」の日だ。
港のお祭広場では、かわいいピンクの法被を着た幼稚園児たちの踊りが始まった。
人口2000人余りの孤島にしては、子供の数の多さが目にとまる。
ジーンズ姿に茶髪の若いお父さんやお母さんが多いのも、この島の特徴だ。
全国の漁村の中で、群を抜いて若者の漁業就業率が高い篠島ならではの光景である。
えーんやこーら、えーんやこーら!
エーンヤコーラ、エーンヤコーラ!
広場の中央に鎮座していた舟形の山車(だし)が、動き出した。
今度は、大人も子供も一緒に、紅白の綱を引く。
えーんやこーら、えーんやこーら!
エーンヤコーラ、エーンヤコーラ!
音頭をとるのは、島外から赴任して来ている小学校の先生だ。
島でたった一人の駐在さんも、山車の後から声をかける。
「カメラ屋さ~ん、来とったんか」
小学校5年生のランちゃんが手を振った。民宿のお孫さんだ。
いつしか僕らのことを、そう呼ぶようになっていた。
港から城山をぐるりと回り、淡黄色の美しい砂浜がつづく前浜(ないば)の浜通りをゆく。
やがて山車は海の神様、八王子社にたどり着いた。
昔から島の漁師たちは、海が荒れて漁に出られない日がつづくと、この八王子様にすがった。
すると、海は凪(な)ぎ、船を出すと大漁がさずかったという。
山車が奉納されると、漁師たちは浜で神主とともに海に向かい、祝詞(のりと)をあげた。
また静かな、いつもの島がもどってきた。
その夜、港から打ち上げられる花火は、「ぎおんさま」の送り火。
海面に映す、いくつもの大輪の花を眺めながら、島人たちは海の安全と大漁を祈った。
今年も島の夏が、やってきた。
2010年10月19日
島人たちの唄④ 「我は島の子 漁師の子」
「オレはなる!」
「う~ん、わからん」
「たぶん、なると思う」
港で釣りをする子供たちに、「漁師になるの?」と声をかけた。
3人の子供たちの返事は、“決定” “未定” “推定” に分かれた。
島の産業人口割合は、半分が漁業、4分の1がサービス業(旅館・民宿などの観光業)で占められている。
「コイツは魚のこと、めっちゃ詳しいぜっ」
そう言われた子は、将来の職業を決めている子だった。
「シロメをエサにして、クロダイを釣っているんだ」
そう言って、自慢げに竿を投げて見せた。
地元ではカタクチイワシの稚魚のことを「シロメ」という。3cmくらいのものを言い、シラス干し(ちりめんじゃこ)の原料となる。
これより大きくなると「カエリ」、成魚は「シシコ」と呼ばれる。
カタクチイワシは年に何回も産卵するため、漁期も長く、シラス漁は島の水揚げの半分以上を占める看板漁業となっている。
港を歩くと、この島の漁師の若さと活気に驚かされる。
茶髪にピアス、携帯電話を手にした都会の若者と変わらない格好で、ミニバイクにまたがり、狭い路地をかっ飛ばして行く光景に、何度も目を丸くした。
ただ、日に焼けた赤黒く照り光った肌が、海を相手に働いている漁師の姿だった。
日本の漁業は昭和一桁生まれの漁師たちが、ずーっと支えてきた。
現在、高齢化が加速して、漁師の数は全国的に急減している。
ところが篠島は、この30年間というもの、漁師の人数は変わることなく、一定の水準を維持している。
また、全国の「漁村の若さランキング」においても、13位。この数字は、九州や北海道を除いた本州ランキングでは、第2位の若さ(平均年齢)を誇っている。
島の子供たちは、一様に「海が好きだ」と答える。
“未定”の子も、“推定”の子も、「海が好きだから、島で暮らしたい」と言った。
この島では、クラスの男子の半分が漁師になるという。
2010年10月07日
島人たちの唄③ 「老女たちの午後」
♪しのじま~ め~しょは~ まず みかど~い~ど~♪
(篠島名所は まず帝井戸)
唐突に、路地端の陽だまりに腰を下ろしていた老女の一人が、歌い出した。
ナカさん、93歳。
深く刻まれた顔のしわを、日の光がやさしく照らしている。
♪ひがしゃ~ し~ろのあと~ にしゃ こまが~いけ~♪
(東は城の跡 西は駒ヶ池)
「このおばさんは唄が上手でね、いつも 『いたこ絞り』 しながら、歌っとった」
物憂げに目を細めながら聴いていた、一つ年上のチカエさんが言う。
二人は、この島で生まれ育った幼なじみ。
老女たちの遠い時間が、唄と一緒に流れ出した。
その昔、といっても大正に入って間もなくの頃。島外から“しぼり問屋”が絞りの技術を島に持ち込み、教えたのが始まりだった。
細かな手作業に頼る 『いたこ絞り』 は、器用な島の女にうってつけだった。女子は小学生の低学年頃から母親のかたわらで、絞りを習い始める。娘盛りともなれば、みんな一人前以上の腕前になり、高く買い上げられて収入も良かった。
冬場、漁が暇になる男衆が遊んでいても、この 『いたこ絞り』 だけで、充分に生計が立てられたという。
「たくさん、儲けたがね」
「ああ、大勢でやるので、そばの人に負けないように一生懸命だった」
「家の外の日陰に筵(むしろ)を敷いて、子供から大人まで集まって、夜まで絞ったがね」
♪みなみゃ まぜがさ~き~ かとうきよまさ あの まくら~い~し~♪
(南は南風ヶ崎 加藤清正 あの枕石)
南風(まぜ)ヶ崎は島の最南端、かの加藤清正が名古屋城築城のために石を切り出したところ。一つだけ枕をかったまま、運び残したという大きな石がある。
帝(みかど)井戸も、城の跡も、みんな島人たちの自慢の場所だ。
「楽しい暮らしもしてきました。苦しい暮らしもしてきました。こうして二人で、ずーっと遊んどる」
チカエさんが問わず語りに、ひとりごちた。
老女たちの時間が、また、ゆっくりと動き出した。
2010年09月27日
島人たちの唄② 「日本の中のアジア」
「そりぁ、おめー、俺は国際免許だからのー。バイクにナンバー、ねえもん」
漁でやぶけた網をつくろいながら、民宿のおやじが言った。
三河湾に浮かぶ小島、ここ篠島に信号機はない。センターラインもない。
平地の少ない起伏に富んだ島内は、車の入り込める道路は少なく、民家が密集する住宅地の道路は極端に狭い。
だから老いも若きも、もっぱら島民の足は原付バイクだ。
初めて島に降り立った日、目の前の光景に目を疑った。
ここは日本?
確か同じ風景を以前に見た記憶がある。
東南アジアだ。
ベトナムだ。
おびただしい数のバイク、バイク、バイクの波が、怒涛(どとう)のように押し寄せては、通り過ぎて行った。2人乗り、3人乗りは当たり前、4人乗りだって珍しくない。
まさに目の前は、あの時と同じ光景が映っていた。
人口2,000人あまりの島、バイクの数はベトナムほど多くはないが、誰ひとりヘルメットをかぶっている者なんていない。
おじいちゃんもおばあちゃんも、若者も、2人乗り、3人乗りで風を切って道路の真ん中を悠々と行く。ナンバープレートのないバイクや軽トラも、平気で走っている。
坂道を勢いよく下るバイクから、何かが落ちた。
泡をまき散らしながら、コロコロと転がってきた。
缶ビールだ。
バイクは素早くUターンして戻ってくると、運転していた漁師の兄ちゃんが缶を拾い上げた。
そして、また片手にビールを持ったまま、港へ向かって走って行った。
「誰に習ったか、ババアも国際免許だのー」
そう言って、おやじは赤黒く焼けた顔をくしゃくしゃにして、笑ってみせた。
かたわらで、私を乗せたバンを港から運転してきた奥さんが笑っている。
ここだけが治外法権なのではない。
しいて言うなら、不文律。風習や習慣のようなもの。
水平線に沈んでゆく夕日を見ていたら、なんだか無性に可笑しさが込み上げてきた。
この島を、好きになりかけている自分がいた。
2010年09月27日
島人たちの唄① 「時代の終わりに魂を」
※このカテゴリーは、ウェブマガジン「info」(2003~2005)に連載されたエッセイを加筆、訂正したものです。
「島が沈んじゃへんかと思ったがね」
酒屋の女主人は述懐する。
1979年、夏。
愛知県知多郡南知多町大字篠島。三河湾に浮かぶ周囲6キロ、人口約2,000人のこの小島に、2万人を超える若者が全国から集まった。
7月26日、吉田拓郎・篠島アイランドコンサートである。
あれから4半世紀。
強者(つわもの)どもの夢の跡を追って、この島にやって来た。
島の北側に広大な平地が広がる。
海上から全景を望むと、起伏の多い島の中でも唯一人工的な形状をなしている一画だ。1976年に埋め立てられた地域である。
港に降り立つと、まず真っ赤な屋根の観光案内所が視界に飛び込んできた。観光案内所にしては、異様に大きな建物だ。
聞けば、パターゴルフ場のクラブハウスだったという。
バブルの産物は、建物だけではなかった。
敷地の中は、見るも無残な荒れ野が広がっていた。
ここが拓郎ファンの聖地、コンサート会場のあった所だった。
「ここ、この辺だよ、ステージがあった場所は。拓郎のおっきな顔写真の看板が立ってたよ」
当時9歳だった、港で食堂を商う女性が教えてくれた。
父親に肩車をしてもらい、その大観衆を眺めた記憶があると言った。
「あの焼肉屋さん、おにぎり売って、ようけ(たくさん)儲けたんよ」
指さしたステージ跡の裏手には、島の焼肉屋にしては大層立派な “拓郎御殿” が建っていた。
ピンクのシャツに白のパンツスタイル、カーリーヘアーにバンダナを巻いた拓郎の顔が目に浮かぶ。
「俺は歌は下手だし、顔はブスだし、唇はタラコだし。でも、ソウルだけはある。魂だけはある。そこだけで闘って行こうと思っている」
そう叫んだ顔が浮かぶ。
時代がフォークをニューミュージックと呼び出した頃だった。
70年代の終わりを告げるように、拓郎の歌う 『人間なんて』 が夜明けの島に響き渡っていた。