2020年08月31日
川原湯温泉 「やまきぼし」
<5年後には “旧七軒” と呼ばれていた旅館が、すべて揃います。そうすれば、もう少し温泉街らしくなると思います。>
(当ブログの2017年11月24日 「川原湯温泉のゆくえ④」 より)
うれしい知らせが届きました。
川原湯温泉(長野原町) の “旧七軒” の一つ、「やまきぼし」 が、代替地に移り、宿泊業を5年ぶりに再開しました。
冒頭のセリフは、3年前に雑誌の取材で川原湯温泉を訪ねた時に、川原湯温泉協会長であり、「やまきぼし」 社長の樋田省三さんから聞いた言葉です。
周知のとおり、旧川原湯温泉はダム建設計画から60余年後の今年、長い長い闘争と翻弄の日々を終え、湖底に沈みました。
かつては約20軒あった宿泊施設も、移転前には10数軒となり、現在、代替地で再開した宿は、「やまきぼし」 で6軒目となります。
僕が最初に旧川原湯温泉の 「やまきぼし旅館」 を訪ねたのは、30年ほど前のこと。
当時、勤めていた雑誌社の記者として、極寒の真冬に奇祭 「湯かけ祭り」 を取材しました。
その時、お世話になった宿が 「やまきぼし旅館」 でした。
でも、まだ駆け出しだったため、取材に夢中で、温泉と旅館の記憶は、ほとんどありません。
それから10年ほどして、もう一度、訪ねています。
この時はプライベートで、目的は “温泉王” といわれる作家の嵐山光三郎氏が命名した露天風呂の 「崖湯」 に入りに行きました。
当時、嵐山氏は頻繁に川原湯温泉を訪れ、老舗旅館の “旧七軒” のご主人たちと、「夜話会」 なる呑み会を開いていました。
たぶん僕は、作家として、そして温泉ライターの大先輩として、嵐山氏にあこがれていたのだと思います。
※川原湯温泉での 「夜話会」 については、嵐山光三郎著 『温泉旅行記』(ちくま文庫) に詳しく書かれています。
営業再開に際しては、樋田さんの長男、恒祐さんが後継ぎとして入り、素泊まりなどの需要に対応する新しいスタイルの湯宿 「やまきぼし」 として、再スタートするとのことです。
少しずつ、少しずつですが、新生・川原湯温泉に、にぎわいが戻りつつあります。
3年前の取材で、樋田さんは、これからの川原湯温泉について、こんなふうに話していました。
<次世代を担う若い後継者が、帰って来ています。私たちは過去を引きずっていますが、彼らには未来しかない。新しい川原湯温泉に期待しています。>
(「グラフぐんま」 2018年1月号、温泉ライター小暮淳の 『ぐんま湯けむり浪漫』 より)
僕も、大いに期待しています。
2020年08月30日
温泉考座 (23) 「いい温泉の選び方」
ここ数年、企業や団体から講演やセミナーの講師に招かれることが多くなりました。
もちろん、講話のテーマは “温泉” です。
講話の最後には、聴講者との質疑応答の時間があります。
一番多い質問が、「いい温泉の選び方」 です。
なかには、そのものズバリ 「一番いい温泉を教えてください」 という人もいます。
これは、とても難しい質問です。
そんなとき私は、こんな話をします。
「みなさんは、一番おいしいラーメン屋はどこですか? と聞かれたら、なんと答えますか?」 と。
“おいしい” とは主観であり、味の好みは人により異なります。
スープだけでも、しょうゆ味なのか、みそ味なのか、塩味なのか、とんこつ味なのか?
さらに、細麺、太麺、ちぢれ麵と、麺にも好みがあります。
“おいしさ” の基準は、人それぞれです。
温泉も同じです。
サラリとしたクセのない単純温泉、白濁した香り豊かな硫黄泉、ソーダ水のような泡の付く二酸化炭素泉、赤褐色ににごった含鉄泉など、好きな温泉の種類は人により異なります。
でも、おいしいラーメンと、いい温泉には、共通していることがあります。
それは、鮮度です!
作って何時間も経ったラーメンを出したのでは、スープは冷め、麺はのびてしまいます。
どんなに腕の良いラーメン屋でも、作り立てを出さなければ意味がありません。
温泉も同じで、湧き立ての湯に入れる温泉が、最高に “いい温泉” なのです。
温泉は、地上に出た瞬間から劣化が始まります。
空気に触れ、酸化し、時間の経過とともに老化していきます。
また空気に触れた瞬間から、温度の低下も始まります。
ですから、より短い時間と距離で浴槽に湯を流し入れた温泉が、一番いい温泉ということになります。
ラーメンには、手打ち生麺で作ったラーメンもありますが、手軽に食べられるインスタントラーメンやカップラーメンもあります。
どちらもラーメンには、違いありません。
温泉も同じです。
おいしいラーメンを探すように、みなさんも自分のお気に入りの温泉を探してみてください。
<2013年9月25日付>
2020年08月29日
健康優良爺
「驚いた! 小暮さん、こりゃ、めちゃくちゃ優等生ですよ。このまま行けば、105歳まで生きますね」
「ひゃく、ご、さ、いーーーー!!!」
僕は先月の終わりに、年に一度の健康診断を受けました。
その結果が、昨日、主治医から渡されました。
医者からは、「血圧が少し高いくらいで、特に異常なし」 との事務的な報告でしたが、僕は、その足で薬局へ行き、なじみの薬剤師に報告しました。
「いかがでしたか?」
「ええ、がん検診も異常なしです。でも、これを見ても素人には、細かいことは分かりません」
そう言うと、
「ちょっと、見て差し上げましょうか?」
と言って、手渡した検査資料に目を通しはじめました。
その用紙には、「血液検査プロファイル」 と書かれていました。
「素晴らしい!パーフェクトですよ。 すべての項目が、こんな数値の人は、なかなかいませんよ。小暮さんは、毎日、お酒を呑まれるんですよね?」
「はい、365日、欠かしたことはありません!」
と、キッパリ!
すると、薬剤師は、
「呑み足りないんじゃないですか?(笑)」
「呑み足りない?」
「だって、これ、お酒を呑んでいる人の数値じゃないですよ」
「肝臓が丈夫ってことですか? 生まれながらの “酒呑み体質” っていうことだ(笑)」
その薬剤師が、あんまり褒めるので、隣にいた薬剤師までもが、資料を覗き込みました。
「小暮さん、お母様に感謝ですね。こんなにも健康な体に産んでくださったんですから」
もちろん、感謝はしています。
でも、その時、昨年相次いで亡くなった両親のことを思い出しました。
オヤジは94歳まで生きましたが、晩年の10年間は認知症でした。
オフクロは91歳まで生きましたが、最後の5年間は寝たきり生活でした。
いつか終わることとはいえ、先の見えない介護生活は、心身ともに疲れ果てました。
そう思うと、同じことを僕の息子や娘たちには、させたくないというのが本心です。
だから決して、“長生き=幸せ” だなんて思えません。
「105歳ですか?」
「ええ、保証しますよ(笑) うれしくないですか?」
「条件付きですね」
「条件付き?」
「ピンピンコロリなら、いいですけどね(笑)」
あと、43年もあるのか……
人生は、長いな~!
2020年08月28日
自分に 「様」 を付けたがる客
レジハラが止まりません。
レジハラとは、「レジハラスメント」 の略で、レジ袋の有料化により、スーパーやコンビニの店員に難癖を付ける客が急増している現象で、たびたびテレビのニュースやワイドショーで取り上げられています。
このブログでも以前、その現象に触れたことがあります。
(2020年8月7日 「不機嫌な大人たち」 参照)
レジハラは、レジ袋問題だけに、とどまらないようです。
連日、テレビで流されるスーパーでの防犯カメラ映像には、誰もが不快感を覚えているはずです。
レジで支払いを終えた初老の男性。
そのまま立ち去るのかと思えば、いきなり、レジ上に張られているコロナ感染防止用のビニールシートを引っ張り、壊してしまいました。
あ然とする店員……
またしても、不機嫌な客は “おじさん” でした。
どうして、このようなことをする不機嫌な客がいるのでしょうか?
以前、僕は、これは売る側と買う側という主従関係が生み出す “仮想支配” という勘違いではないか、と述べましたが、どうもこれは、日本人特有のハラスメント行為のようなのです。
先日、大変興味深いコラムを新聞で見つけたので、紹介します。
筆者は、ドイツでの生活が長った製造業の男性です。
<日本のサービスは海外の平均と比べると上回っていると思います。しかし、私がドイツから戻ってまず感じたことは、客側の態度のひどさです。店員に対して見ていて不愉快になるくらい、横柄な態度を取る人がいます。>
この状況について筆者は、「お客様は神様です」 という言葉の存在があると説きます。
<この言葉を聞いて 「俺は客だ! 神様だ‼」 という態度で来られる方がいます。ひどい時には大声でわめき散らすこともありますが、ここで勘違いが起きているのです。「お客様は神様です」 とは接客する側が言うせりふで、そのくらい感謝をして大切に対応しましょうという心構えのようなものです。>
僕も同感です。
この言葉を有名にした歌手の三波春夫さんも、同じようなことをおっしゃっていました。
「これは感謝の言葉」 なのだと。
決して客が偉いのではなく、ましては人の上下関係を表す言葉ではないことを。
でも、たまに居るんですよね。
お金や物を持っていると、他人を見下すような言動を発する人って。
でも、真の金持ちは、そんなことをしないですけどね。
ところが、こういう人たちは、たかが数百円の買い物でも、いっときの “仮想支配” に酔ってしまうんでしょうね。
不機嫌な大人たち!
勝手に、自分で自分に “様” なんて、付けないでくださいね。
あなたは、ただの “客” なのです。
2020年08月27日
消えゆく一軒宿
「先日は、お時間を作っていただき、ありがとうございました。確認したいことがありまして、お電話しました」
と、某新聞社の記者から丁寧な電話がありました。
今月のはじめ、「温泉の特集記事を組みたいので、話を聞かせてほしい」 との連絡があり、新聞社を訪ねたことがありました。
その時、3時間におよぶ取材の中で、現在の温泉地の現状について、たっぷり話をしてきました。
どうして、そんなにも長時間の取材を受けたのか?
それは、記者に情熱を感じたからに、ほかなりません。
若い男性記者は、「それは、どういうことですか?」 「教えてください」 と、とにかく真剣なんです。
そして、自分が納得するまで、質問をしてきます。
いいですね!
この取材姿勢、共感を覚えます。
ネット社会の昨今、情報は必要過多に氾濫しています。
にもかかわらず、手を抜かず、“生の声” を聞こうとする姿勢に、僕自身が引き込まれました。
「あれから、小暮さんに教えていただいた温泉宿を回りました。どこの宿のご主人も、親切に応対してくださいました。ありがとうございました」
と、気持ちの良い青年であります。
「で、あの時、お話していただいた、消えた10軒の宿について、もう一度、確認したいのですが、よろしいでしょうか?」
“消えた10軒” とは、2009年に出版した拙著 『ぐんまの源泉一軒宿』(上毛新聞社) に掲載されている50軒の一軒宿のうち、現在も営業している宿は40軒で、この11年間に10軒もの宿が廃業してしまったという事実です。
源泉を保有する一軒宿の廃業は、すなわち、イコール、“温泉地の消滅” を意味します。
僕は、ことあるごとに、「群馬県内には約100の温泉地 (宿泊施設のある温泉) があります」 と言い続けています。
でも、それは、あくまでも “約” であり、現実には、年々、その数字は減少しているのです。
正確な数字は把握していませんが、もしかすると90を割っているかもしれませんね。
なにも、この “一軒宿の減少” は、群馬に限ったことではありません。
全国で同時進行している危機的な現象です。
そして今年、コロナが温泉地を直撃しています。
大きな観光を抱える温泉地は、国や県のキャンペーンにより、それなりの集客が望めるかもしれませんが、一軒宿の温泉地は、協会や組合に属さない “一匹狼” の家族経営の宿がほとんどです。
このコロナ飢饉に耐えられるか、心配です。
そんな危惧する現状を、若き記者は探ろうとしています。
僕は、心より応援しています。
※掲載日が分かりましたら詳細を、ご報告いたします。
2020年08月26日
温泉考座 (22) 「本当の “ごちそう” とは?」
海辺の民宿に泊まった晩のこと。
新鮮な海の幸に舌鼓を打っていた時でした。
私が群馬から来たと知った女将が、こんなことを言いました。
「温泉が好きだから、ときどき群馬へは行くのよ。でもね、あの紫色したマグロだけは、いただけないわ」
まさに、痛いところを突かれました。
海なし県の悲しい性(さが)で、昔から群馬では、マグロの刺し身を出すことが最高の “もてなし” だと勘違いしているのです。
旅に出たら、その土地の物を食べるのが基本です。
群馬にも、おいしいものが、たくさんあります。
でも旅の目的は、決して、おいしいものを食べることではありません。
ふだん食べられない地(じ)の物をいただくことに、旅する意味があるのだと思います。
下仁田温泉(下仁田町) の一軒宿 「清流荘」 では、約7,000坪という広大な敷地に、自家農園やヤマメ池、シカ園、キジ園、イノシシ牧場があり、米以外は、すべて自給自足をしています。
「地産地消なんて言葉がない頃から、うちは敷地内 “地産地食” だよ」
と先代の清水幸雄さんが、畑仕事をしながら話してくれたことがありました。
2,400坪を超える農地では、名産の下仁田ネギやコンニャクをはじめ、随時20種類以上の野菜が無農薬で栽培され、創業以来、「地元の食材を提供するのが本来のもてなしの姿」 と、自家製食材にこだわった料理を出しています。
宿の名物の 「猪鹿雉(いのしかちょう)料理」 は、この地に伝わる祝い事に欠かせない郷土料理です。
もちろん食材のイノシシ、シカ、キジは、すべて敷地内で飼育されています。
その他、下仁田ネギのかき揚げ、コンニャクの刺し身、コイのあらい、ヤマメの炭火焼きなど、自家製で手作りの山と里の料理が並びます。
「ごちそう」 という言葉は、大切な人のために走り回って、おいしい物を探すことから 「ご馳走」 の字が当てられたと聞いたことがあります。
海に行ったら海の物を、山へ行ったら山の物を。
奇をてらうことなく、土地の物を 「ご馳走」 することが、本来の “もてなし” の姿だと教えられました。
<2013年9月18日付>
2020年08月25日
完全防備のソーシャル・トーク
こんな体験は、初めてです。
なんとも不思議な空間で、講話をしてきました。
新型コロナウイルス感染が拡大し始めた3月以降、それまで入っていた講演、講座の予定は、すべて中止か延期になってしまいました。
この半年間、不特定多数の人たちに会わず、講話もせずに、本業であるライターの仕事だけを細々とこなして生きてきました。
講演活動を続けて、十数年……
こんな年は、初めてです。
でも、いるんです!
いち早く、“ウイズコロナ” の時代を察知して、前向きに活動を続けようとする人たちが!
6月あたりから電話が鳴り始めました。
勇気ある講演依頼の電話です。
もちろん、“ただし付き” ではあります。
コロナの蔓延状況によっては、中止になることもあるとのこと。
また開催されるにしても、当日は、いくつものチェック項目があります。
■次の場合には参加することができません。
・来館前に検温で37度以上、または平熱比1度以上の発熱があった場合
・息苦しさ(呼吸困難)、強いだるさや軽度であっても咳、のどの痛みなどの症状の場合
・過去2週間以内に感染が拡大している国、地域へ訪問歴がある場合
■参加する場合は感染防止対策のため必ず行ってください。
・マスクを着用してください。
・手洗い、手指の消毒を行ってください。
・人と人との距離を最低2m以上取ってください。
・間近での会話や発声は避けてください。
との書類が、開催前に送られてきました。
そして昨日、まだコロナ禍ではありますが、待ちに待った講演が県内の某公民館にて開催されました。
会場は、一番大きな会議室です。
定員は半数以下に縮小され、対象もシニアから一般へと年齢が引き下げられました。
僕は職員との打ち合わせのため、開講の1時間前に会場に入りました。
入って、ビックリ!
頭の中で想像していたイメージを、はるかに超える徹底ぶりです。
まず、演台の前には、飛沫防止の大きな透明のビニールが張られた衝立(ついたて)があります。
この裏側に立ち、マスク姿のまま、マイクで話すことになります。
聴講席を見渡すと、テーブルとテーブルの間は優に2メートル以上あり、さらに1テーブルに1人、しかも前後の聴講者が重ならないように、交互に着席するよう配列されています。
もちろん、受付には、アルコール消毒液が設置されています。
完全防備であります!
「講演中は、換気のため窓を開けますので、暑くなると思います。先生は、こちらをお使いください」
と、職員が演台の脇に、僕専用の扇風機を1台、持ってきてくださいました。
そして、エアコンはついているのに、窓は開けられているという、なんとも非効率的な空間の中で、開講しました。
今回の演題は、『民話と伝説の舞台』 であります。
一昨年に出版した同タイトルの著書に基づきながら、群馬県内にまつわる民話や伝説、言い伝えなどを面白おかしく話させていただきました。
やりづらかったか?
ええ、まあ、最初のうちだけですけどね。
衝立から、はみ出すたびに、「ソーシャルディスタンス!」 と言いながら立ち位置を直していましたが、だんだん話が白熱して来ると、いつものように演台から飛び出して、身振り手振りで説明をしてしまいました。
ただ一つ、難があったとすれば、マスクをしたまま話していると、お茶を飲むタイミングが取りづらいということぐらいでしょうかね。
それ以外は、いつも通りで、講話を楽しんで来ました。
公民館の職員のみなさん、そして暑い中、足を運んでくださった聴講者のみなさん、お疲れさまでした。
ありがとうございました。
やっぱりライブは、いいですね。
まだまだコロナ禍は続きそうですが、全国のライブ関係のみなさん、知恵を絞って、少しずつ、感動を呼び戻しましょう!
2020年08月23日
温泉考座 (21) 「いい温泉より好きな温泉」
私は平成21(2009)年からNHK文化センター前橋支社が主催する 「野外温泉講座」 の講師をしています。
この講座は毎月1回、JR前橋駅と高崎駅からバスを出して、群馬県や隣県の温泉地を日帰りで訪ねます。
よく 「どんなことを教えているのですか?」 と聞かれますが、一切、難しい話はしていません。
そもそも温泉は学ぶものではなく、楽しむものです。
歴史がどうの、泉質がどうの、効能がどうのという話は最小限にして、それよりも “いかにして温泉を楽しむか!” について、受講生たちと一緒に話し合い、体験するようにしています。
たとえば、「今日の温泉は、男性的な湯でしたか? 女性的な湯でしたか?」 と、浴感を話し合います。
「筋肉質の男に羽交い絞めされているようだった」 とか、「絹の衣を身にまとっているようだった」 など、その人の主観を大切にしています。
それは、なぜか?
この主観にこそ、私が、この講座の講師を引き受けた一番の理由があるからです。
言うならば、“自分の好きな温泉探し” のお手伝いをしたいのです。
今の時代、テレビでもネットでも、あり余るほどの情報が氾濫しています。
「どうせ行くなら、いい温泉に行きたい」 という気持ちは分かるのですが、せめて私の講座では、“いい温泉” というカテゴリーから抜け出して、一つでも多くの “好きな温泉” に出合ってほしいのです。
群馬県内には約100ヶ所の温泉地があり、約460本もの源泉が湧いています。
その一つひとつが、泉質も温度も異なります。
サラリとした軽い湯もあれば、トロリと肌にまとわりつく重い湯もあります。
無色透明に澄んだ湯もあれば、乳白色や茶褐色ににごった湯もあります。
群馬には、どんな湯があるのだろうか?
そして自分は、どんな温泉が好きなのか?
毎月、温泉探しの旅を楽しんでいます。
「この間の温泉が気に入って、あれからまた家族を連れて行ってきましたよ」
受講生から、そんな話を聞くと、「ああ、この講座の講師をやっていて良かった」 と冥利に尽きるのです。
<2013年9月11日付>
2020年08月22日
鎮守の杜のビアガーデン
みなさんは、覚えていますか?
散歩の途中で出合う、2匹の犬の話を……
その2匹の犬は、今時、珍しく、屋外で飼われている番犬なのです。
しかも、土手沿いの路地のような小さな道をはさんで、はす向かいの犬小屋に、それぞれが暮らしています。
2匹の名前は分かりません。
ので僕は勝手に、白毛の犬を 「チロ」、茶毛の犬を 「チャッピー」 と名付けて、声をかけています。
※(当ブログの2020年4月26日 「チロとチャッピー」 参照)
この猛暑続きの毎日です。
散歩が、おっくうなこともあり、このところ、日課のウォーキングをおこたっていました。
でも急に、2匹のことが気になったのです。
連日、35度以上になる炎天下でも、あいつらは、屋外で暮らしているのだろうか?
夏バテ、夏ヤセはしてないだろうか?
心配になり、昨日の夕方、合いに行ってきました。
いました!
2匹とも元気でしたが、ジーっとしていました。
そして、変化が!
2匹とも、床屋に行ってきたようです。
きれいに毛が刈られて、涼しそうなショートヘアになっていました。
そして、さらなる共通点が!
2匹とも、小屋の横に大きな穴を掘って、その中で、うずくまっていました。
動物の知恵なんですね。
土の中は、冬は温かく、夏は涼しいことを本能で知っているのですね。
僕は、テレビニュースで見た奈良公園のシカを思い出しました。
映像の中のシカたちは、まるで防空壕に身を隠すように、道路脇の側溝に身を沈めて、猛暑から避難していました。
「チロ、チャッピー、もう少しの辛抱だよ。すぐに秋が来るからね」
と声をかけて、また僕は歩き出しました。
日は傾いているとはいえ、まだまだ30度以上はありそうです。
汗が噴き出して、一向に止まりません。
ならば、僕も動物たちのように涼を探して、一服しようじゃないか!
いつもならコンビニで缶ビールを手にすると、近場の緑地帯や公園のベンチで休むのですが、日影が小さいことに気づきました。
ならばと、少し先の小さな神社まで足を延ばしました。
地元の氏神様です。
境内には、大きなクスノキが枝葉を広げています。
「おお、涼しい~!」
思わず声に出すほど、ヒンヤリとした空気に包まれました。
さすが、鎮守の杜は、天然のクーラーです。
僕は氏神様に参拝してから、木陰のベンチで、豪快に水分補給をしました。
しばらくは、ここが僕の “プライベート・ビアガーデン” になりそうです。
2020年08月21日
温泉考座 (20) 「裸の取材スタイル」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
(一部、加筆訂正をしています)
私は新聞や雑誌の連載、著書も含めて、すべての温泉記事に、私自身が入浴している写真を掲載しています。
「オジサンの裸なんか見たくない」 「なんで女性のモデルを使わないのか?」 という声も聞くのですが、長年、このスタイルで取材を続けています。
それは、なぜか?
記事の臨場感を出すために、ほかなりません。
筆者自身が温泉に入っているという、文章と写真のドキュメント性を高めるために、必ずカメラマンと組んで取材に出かけます。
最近は、カメラマンと2人で取材を受けることに、驚かれる旅館もあります。
たいがいは記者が1人で来て、カメラマンも兼ねて取材をしていくからです。
「まだ来てくれるのはマシなほうです。電話で取材をして、旅館の外観と風呂の写真をメールで送ってくれ、というのがザラですよ」
という話を、よく聞きます。
このご時世ですから、どこの雑誌社もライターとカメラマンを取材に送り込む余裕がないのでしょう。
でも、それでは読者に真の情報は伝わりません。
旅館側が発信する、都合のいい情報に限られてしまいます。
私は今年(2013年)の3月まで2年間、朝日新聞群馬版 に 『湯守 (ゆもり) の女房』 という温泉記事を連載していました。
偶然にも他の新聞に、私が取材した同じ温泉宿が、同時期に掲載されたことがありました。
当然、朝日新聞の記事では、温泉に入った裸の私が写っています。
一方、他紙の記事は、旅館の外観と料理と無人の露天風呂が写っているだけです。
記事の内容も、宿の歴史と料理と主人のコメントを載せているだけで、温泉の泉質や浴感については触れていません。
温泉の記事を書くのに、なぜ温泉に入らないのでしょうか?
「そうなんですよ。取材に来て、話だけ聞いて、温泉に入らないで帰ってしまいました」
と、主人も残念そうでした。
この宿は、何よりも源泉かけ流しの風呂が自慢なのです。
温泉へ行って、温泉に入らないとは、なんてもったいない話でしょうか。
寿司屋へ行って、寿司を食べに帰ってしまうようなものです。
<2013年9月4日付>
2020年08月20日
ウナギと茶柱の共通点
昨日の続きです。
言い伝えとは、先人たちが知恵の文化を後世に伝えたいという思いを込めた口承であり、すべての言い伝えには意味があることを書きました。
しかし中には、意図的に作られた “やらせ” や “でっちあげ” も、ままあるようです。
有名なものでは、「夏の土用の丑の日」 にウナギを食べるという風習。
諸説あるようですが、一般的には江戸時代の蘭学者、平賀源内の発案だったと伝わります。
本来、ウナギの旬は、秋から冬。
産卵前の脂ののった、味が濃くて、こってりしている旬のウナギに対して、夏のウナギは人気がありませんでした。
そこで、ウナギ屋が知恵者である平賀源内に相談したところ、「丑の日だから “う” のつくものを食べると縁起がいい」 という語呂合わせを提言したといいます。
すると大盛況となり、ウナギは暑い夏のスタミナ源として、夏の土用に欠かせないものとなったとのことです。
一種の販売戦略だったのですね。
私たちが、よく知っている言い伝えの中にも、商人が考え出した名コピーが存在します。
「茶柱が立つと縁起がいい」
最近は、インスタントのティーパックやペットボトルでお茶を飲む人が、ほとんどなので、ピンとこない人もいるかもしれませんが、急須に茶っ葉を入れて飲むのが当たり前だった時代には、頻繁に使われた言葉です。
子ども心にも、湯のみ茶碗の中で、ピンと一本だけ立っている茶柱を見た時は、「これは、いいことがあるぞ!」 とわけもなく喜んだものでした。
ところが、この “茶柱が立つ” という現象を吉兆と結びつけたは、商人の苦肉の策だったという説があります。
誰もが知っているように、お茶は最初に摘み取った 「一番茶」 が、一番おいしいのです。
そのため、後から摘んだ 「二番茶」 のお茶は、売れ残りました。
そこで、お茶の産地である静岡の商人が、「どうすれば、この二番茶が売れるか?」 と思案した結果、この名コピーが生まれたといいます。
上質の一番茶に比べると、二番茶は必然的に茎の部分が入り込みやすくなります。
ですから安いお茶ほど、茶柱が立ちやすくなるわけです。
静岡の商人は、これを逆手にとって、売りさばいたのです。
まさに、現代でいう名コピーライターよる演出だったんですね。
現代でも、似たようなことは、多々あります。
バレンタインデーやホワイトデーしかり、各業界が 「〇〇の日」 を設定して、あの手この手で商品を売ろうとしています。
一発当たり、定着すれば、その業界は何百年と安泰となります。
コロナ禍のおり、いかがですか?
不況に頭を抱えているだけではなく、時代を超える名コピーを考えてみては!
2020年08月19日
臍隠して指隠さず
♪ 夕立 そこまで来ている 雷ゴロゴロピカピカ
情け容赦ないみたいだ
誰もが一目散へと どこかへ走る
カエルはうれし鳴きをしている
(井上陽水 「夕立」 より)
ザーッと、ひと雨くれば、いいのですが……
僕が子供の頃は、毎日決まって夕方になると、通り雨のような夕立が来ました。
広場や神社の境内で遊んでいると、急にモクモクと入道雲が湧き上がって、田んぼのカエルが一斉に鳴き出します。
やがて、ポツポツと大粒の雨が降り出し、突然、ザーッと激して雨が子供たちを襲います。
追って、耳をつんざくような雷鳴がとどろき、僕らは一目散に木陰や民家の軒下に逃げ込んで、まるで鬼の過ぎるのを待つみたいに、ジーっとしているのでした。
それでも20~30分もすると、雨は止み、また青空が顔を出します。
そして僕らは、また遊び出しました。
夕立の後は、気温が下がり、しのぎやすかったことを覚えています。
なのに今は、まったく夕立が来ません。
たまに来ても、それは夕立ではなく、集中豪雨です。
なんだか地球が、おかしなことになっているようです。
雷といえば、子供の頃、よく親に 「雷が鳴ったらヘソを隠せ」 なんて言われました。
なんで、そんなことを言うんだろう?
雷様は、ヘソが好物なのかな?
なんて思っていましたが、大人になったら、その意味が分かりました。
雷が発生して、にわか雨が降ると、急激に気温が下がるからなんですね。
だから寝冷えをしたり、風邪を引かないようにと、腹巻をして寝たんですね。
昔の人たちの知恵です。
言い伝えとは、必ず、意味が隠されているということです。
隠すといえば、「霊柩車を見たら親指を隠せ」 とも言われました。
「なんで?」 と大人たちに問えば、「親の死に目に遭えなくなるから」 と教わりました。
「ウソだい。ただのジンクスだよ」 と思いながらも、子供たちは、霊柩車を見ると親指を掌の内側に入れて、隠したものでした。
この言い伝えの謎は、ただ大人になっただけでは解けませんでした。
ここからは、僕が民話や伝説を取材しながら拾った雑学です。
霊柩車は、“死” を意味します。
死は不吉なものであり、不浄なものと考えられていました。
この死者の霊を入り込ませないようにする “おまじない” だったと考えられます。
では、なんで親指なのか?
昔、疫病や悪霊は、親指の爪の間から入り込むと信じられていたようです。
たぶん、これに起因して、霊柩車を見たら親指を隠すようになったと思われます。
そして、親指と親をかけたのでしょうね。
もちろん、霊柩車は現代に置き換えた言葉です。
昔は 「葬列に出遭ったら」 だったに違いありません。
言い伝えって、面白いですね。
現代では、雷が鳴っているさ中、ヘソを出している人なんて、滅多にいません。
でも、霊柩車を見て、親指を隠す人は、どれだけいるのでしょうか?
僕は、ちゃんと親指を隠していましたよ。
だから両親の死に目に遭えました。
2020年08月18日
温泉考座 (19) 「まず宿に着いたら」
宿に着くと、すぐに浴室へ向かう人がいますが、ほめられた行動ではありません。
はやる気持ちは分かるのですが、宿に着いたら、まずは一服して体を休めてください。
温泉地に着くまでに、長時間のドライブ、もしくは電車やバスを乗り継ぐ長旅で、体は疲れています。
心拍数も上がっていることでしょう。
温泉では、さらに体力を消耗することになります。
1回の温泉浴で、約16キロカロリーを消耗するといわれています。
これは縄跳びを5分間続けた消費カロリーに相当します。
旅館の客室には必ず、お茶とお菓子が用意されていますが、これには理由があります。
お客様への健康を気づかった 「お疲れさまでした。旅装を解いて、ひと息ついてください」 という宿側の心配りなのです。
甘いお菓子は、血糖値を上げて、疲れを癒やしてくれます。
お茶は、これからの温泉浴での発汗に備えた水分補給になります。
また空腹のまま温泉に入ると貧血を起こしやすく危険なため、小腹を満たすという役割も果たしています。
ひと息ついたら、いよいよ入浴です。
でも、ここでも注意してほしいことがあります。
空腹時だけでなく、食後すぐの入浴も避けてください。
これは入浴時の発汗により体内の塩分が失われ、胃液の分泌が減少するためです。
血液が体の表面に集まってしまい、内臓への血液量が減ってしまうために消化器官の働きが鈍くなり、消化不良を起こす原因となります。
これは目安ですが、入浴は食事の1時間前、または2時間後と覚えておいてください。
そして、1日の入浴は健康な人でも2~3回。
1回の入浴時間は、熱めの湯で約10分、ぬるめの湯で約30分くらいが適当です。
また、動脈硬化症や高血圧症、心臓病の人は、42度以上の高温浴は避けてください。
入浴中は血管が拡張し、急激に血圧が下がります。
入浴前の降圧剤の服用も控えてください。
そして入浴後は、水分補給を忘れずに!
できれば生ビールよりも、体を冷やさないために温かいものか、常温のものをおすすめします。
しかし残念ながら、これだけは私も守れていません。
<2013年8月14日>
2020年08月17日
素敵な4日間
お盆中に友人から、こんなメールが届きました。
<夏は、死者と生者が出逢える素敵な季節ですね>
昨日、無事に盆送りを済ませました。
昨年の2月と5月に他界したオヤジとオフクロは、2度目の来盆。
9月に旅立った愛犬のマロは、新盆でした。
13日の早朝、キュウリの精霊馬に乗って、真っ先にやって来たのは、マロでした。
マロは僕の姿を見るなり、飛びついて、さっそく大好物だったおやつのジャーキーを、おねだりしました。
なんでも、あの世には食事は無くて、お腹も空かないのだといいます。
ところが、この世に戻った途端、食欲が出たみたいです。
昼近くなって、やっとオヤジとオフクロが、やって来ました。
マロが話してくれたように、あの世には “病気” が存在しないようです。
オヤジもオフクロも、ステッキや車イスなしで、かくしゃくと精霊馬から降りて、歩いて来ました。
オヤジの第一声は、「キャラメルが食べたい」 でした。
もちろん僕は、生前、オヤジが大好きだった森永のミルクキャラメルを、ちゃんと用意しておきましたよ。
嬉しそうににキャラメルを、ほおばるオヤジの笑顔……
久しぶりに見れました。
心配性のオフクロは、相変わらずです。
会う早々、「お前、少しやせたんじゃないかい?」 とか、「ちゃんと食べてるの?」 とか、「睡眠はとれているのかい?」 と、質問攻めです。
そして、お決まりの常套句まで。
「徳を積んでいるかい?」
熱心な仏教徒だったオフクロには、子どもの頃から何かにつけ、この言葉を言われました。
「徳を積みなさい。必ず、仏様は見ているからね」
いつだったか、僕がイジケて、ヤケになって、
「神様も仏様も、いるもんか! 全然、イイことなんて、ないじゃないか!」
と自暴自棄になって、オフクロに食ってかかったことがありました。
でも、その時だってオフクロは、
「ちゃんと、見てますよ。もし、それをお前が感じられないのであれば、まだまだ徳が足りないんだよ」
と返すだけでした。
還暦を過ぎても、まだ感じられない僕は、大バカ者なのかもしれませんね。
かーちゃん、ゴメン!
もっと、徳を積みます。
4日間なんて、あっという間に過ぎてしまいました。
オヤジと一緒に焼酎を呑んで、オフクロとは和菓子を食べながらお茶をして、マロとは猛暑の中、散歩に出かけました。
なんて素敵な4日間だったのでしょう!
昨日の夕方、2人と1匹は、ナスで作った精霊牛に乗って、ゆっくりゆっくりと帰って行きました。
ありがとう……
僕は、ナスの牛が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振っていました。
今から来年の夏が待ち遠しくて、仕方がありません。
2020年08月16日
戦争を知っている温泉たち (下)
戦時下の温泉地とは、どのような状況だったのでしょうか?
昭和52(1977)年に四万温泉協会(中之条町) が発行した 『四万温泉史』 の中に 「戦時下の四万」 という項目がありますので、引用し、紹介します。
<昭和十七(1942)年八月四日、東条首相が沢田村(現・中之条町) 奥反下(おくたんげ) の炭焼く部落を訪問した。上沢渡製炭現場まで、車をおりて約二キロの山路をのぼり組合の長老飯塚金十郎さんを先頭に十八人を激励した。その夜は四万温泉積善館の山荘にとまった。>
とあります。
その時の様子は、関怒涛著 『風雪三十年』(西毛新聞) の中にも、こう記されています。
<(前略) 知事はかけつける。それ出迎え、歓迎準備など大騒ぎである中に自動車でのりつける。(中略) 首相は軍服、随行の人たちと、前橋から駈けつけた報道陣の人たちも上衣を脱ぐわけにはいかない。ぐっしょり汗にまみれてる。>
とユーモラスに伝えています。
この時、首相は、このように激励の訓示を述べています。
「わが国は今、のるかそるかの大戦争を戦っている。このとき人里離れた山奥で、人知れず苦労をつづけ、不平もぜいたくも言わず努力していることに対し、まことに感謝のほかない。諸君の奮斗に対し、政府も国民も感謝している。(後略)」
では、なぜ東条首相は、群馬の山奥まで、来られたのでしょうか?
その理由については、同じ中之条町の沢渡温泉組合が平成20(2008)年に発行した 『沢渡温泉史』 に詳しく書かれています。
●戦時下の沢渡 「東条英機首相の来村」 より
<開戦の当初十二月八日、ハワイ真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を奇襲して勝利をおさめてその後、マレー沖海戦でもアメリカ海軍に打撃を与えた。日本は南太平洋に戦場を拡大して行った。日本の生産力は、年次を重ねる毎に低下し、軍需品の生産に重点を置いた政府は、戦いを進めながら増産に力を入れている。>
<戦いのため、軍需産業の原料である金属類が不足してきたため、国民に対して金属類の供出を求め、寺の釣鐘までその対象となった。吾妻郡六合(くに)村(現・中之条町) の群馬鉄山の鉄鉱石を川崎重工まで運搬することになった。そのため早急に鉄道が敷設されたのが吾妻線である。製鉄のために木炭が必要であり、昭和十七年八月東条英機首相が、反下の製炭現場を増産激励に来村している。>
このとき、県道では沢田小学校の生徒たちが校門前に整列して迎えたといいます。
そして首相は現地で激励の後、天皇陛下万歳を村人たちと共に三唱しました。
その後、戦争の激化とともに、食糧不足と戦災による被害から子供たちを守るため、都市の児童を地方に疎開される動きが活発化します。
両温泉史によれば、四万温泉は滝野川区(旧東京府東京市35区の1つ、現在の北区南部) の滝野川第五小学校、沢渡温泉は田端新町国民学校(現・東京都北区) の児童を疎開先として受け入れました。
終戦から75年の夏、少しだけ温泉地の戦時下のようすを紐解いてみました。
みなさんは、どう感じられたでしょうか?
2020年08月15日
戦争を知っている温泉たち (上)
♪ 戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
(ジローズ 『戦争を知らない子供たち』 より)
今日は、「終戦記念日」 です。
戦後、75年が過ぎました。
ということは75歳未満の人は、みんな “戦争を知らない子供たち” であります。
もちろん、僕も……
新聞やテレビでは、“戦争を知らない子供たち” へ向けて、記憶が風化せぬよう特集記事や特別番組が組まれています。
そこで、ふと僕は思いました。
当時、戦時下の温泉地は、どのような状況だったのだろうか?
温泉を愛する者として、取材の中から拾った資料をもとに、少し紹介したいと思います。
昭和58(1983)年3月に発行された水上温泉 (みなかみ町) 旅館協同組合創立50周年記念誌 『みなかみ』 に、「戦時中の水上」 という項目があり、座談会の中で、前水上町長で元観光協会長の国峰勝治氏 (奥利根館社長) が語っている文章を引用いたします。
<昭和十六年の大東亜戦争の開戦間際までは、旅館業は物資がひっ迫してもどうにかやっていたんです。むしろ当時とすれば都会が非常に食糧事情が悪いために、田舎へ来れば白いご飯が食べられるというわけですね。なにしろこの地は越後に近いから、そんな事情もよく分かるんですよ。>
温泉地は田舎の中でも、さらに山深い里。
空襲の心配もなく、さほど変化はなかったようです。
逆に、戦争が功を奏した出来事もあったと、国峰氏は言います。
<私共としては、営業はそれほどやりにくくなかった。ただ酒も配給、何もかも配給になってしまって、その点に関しては困難なこともあったようですが、結構営業はできたようです。それと、これは私の父からの話なんですが、戦争になって逆に気が楽になったことは、旅館同士の建築競争ができなくなったことだそうです。全部統制になったから各旅館の建築が一斉に停止になってしまい、そのために建築競争もなく、従って旅館同士の過当競争がなくなったわけです。>
ただし、困ったこととして、供出 (民間の物資や食料などを政府に売り渡すこと) という名目で、旅館の布団や室内電話機を強制的に出すように言われたとも、語っています。
そして開戦から2年後の昭和18年夏頃からは、学童疎開の受け入れが始まります。
<育ち盛りの子供達だから、やはり食糧集めに苦労しましたね。配給ではとても足りないので、授業を教える先生と買い出し専門の先生に分かれてやっていましたね。毎日だから大変で、時々交代してしていました。>
<それと、薪(まき)がないので、天気の日には川原へくり出して生徒に流木を一本ずつ拾わせる、百人いれば百本集まるからなかなか集まりがよかったです。>
水上へは板橋 (東京都) の小学校の児童が来ていたようです。
記念誌には、各旅館の受け入れ人数なども、事細かに記されています。
学童疎開について、羽根田冨士雄氏 (菊富士ホテル社長) も、こんなエピソードを述べています。
<食料は毎日大豆入りのご飯と味噌汁、それに野菜が少しで、栄養失調にもなりかねない食事でした。ある日、渋川に葱(ねぎ)があるというので一〇〇人くらいつれて先生と一緒に渋川まで汽車で出て、さらに三、四〇分歩いて農家に行き、各生徒に葱を背負わせて帰ったこともあります。途中、敷島 (渋川市) で空襲にあいましてね、二時間も立ち往生しましたよ。>
<水上は温泉だから、疎開児童は毎日風呂に入るのですが洗濯するものがなく、それで虱(しらみ)がわいて、シャツをみるとまるで胡麻(ごま)をふりかけたほど虱がたかっていた生徒もおりました。まったく気の毒な話です。>
明日は、四万温泉 (中之条町) の戦時下のようすを紹介いたします。
2020年08月14日
墓場のダックスフンド
昨日は、盆の入り。
昨年、相次いで両親を亡くした僕は、2人が眠る赤城山中腹の霊園へ、墓参りに行って来ました。
行ったのは昼近く。
すでに兄夫婦が来たようで、墓石の周りはキレイに掃除がされていて、みずみずしい生花が活けられていました。
園内の東屋がある水場で、水桶とひしゃくを借り、線香に火を点けていた時です。
東屋の中で涼をとる婦人に気づきました。
婦人の足元には、黒い犬が、うずくまっていました。
「あれ、かわいい子がいますね」
ダックスフンドです。
見るからに、かなり高齢だと分かりました。
「おいくつですか?」
「13才なんですよ」
「でも、元気そうですね」
僕は昨年、見送ったマロの面影を重ねつつ、ダックスフンドに近づきました。
「腰が悪いんですよ。医者には 『家から出すな』 と言われているんですけどね。この子を一人にできなくて、連れてきちゃいました」
それから、僕と婦人の立ち話が始まりました。
去年の9月に、愛犬のマロ (チワワ) が死んだこと。
13年一緒に暮らしていたこと。
最期は腰が悪くて、歩けなくなったこと……
今度は婦人が、僕の話と目の前の老犬を重ね合わせていたようです。
見る見るうちに、悲しそうな顔になり、
「ショックだったでしょう?」
と、僕を思いやり始めました。
「ええ……、まさか、こんなにも引きずるとは思いませんでした。いまでも、似た犬を見ると、胸を締め付けられます」
すると婦人は、老犬をなでながら、
「13才って、寿命なんですか?」
「うーん、個体差があると思いますよ。うちの子は、ちょっと早かったかな」
「ちょっとなの? 寿命って、どのくらいなんですか?」
「小型犬の場合、15才ぐらいだと聞いていますけど……」
そう言った途端、婦人は、ますます悲しそうな顔になり、涙さえ浮かべ始めました。
「だったら、あと2年じゃないですか……」
僕は、いたたまれなくなって、
「バイバイ、元気でね!」
そう言って、ダックスフンドの頭をなでると、水桶と線香を手に、ふたたび両親の眠る墓所へと向かいました。
オヤジ、オフクロ、ごぶさた。
早いもので、2度目のお盆だね。
マロが、そっちへ行ったんで、驚いたと思うけど、可愛がってやってくれよな。
次は秋の彼岸に来るから、マロのこと、よろしく頼んだよ。
東屋に水桶とひしゃくを返しに行くと、もう、そこに、婦人とダックスフンドの姿はありませんでした。
2020年08月13日
マロの独白 (黄泉編) 新盆でやんす!
こんにちワン! マロっす。
ここんちの飼い犬、チワワのオス、享年13才2ヶ月と7日です。
お久しぶりでやんす!
読者のみなさんは、お元気でした?
オイラ、新盆なので帰って来やした。
最後に書いたブログが、この世を去った昨年の9月20日ですから、約11ヶ月ぶりなんですね。
お懐かしゅうごいます。
あれから何をしていたかって?
あの世って、けっこう忙しいんですよ。
オイラには、別れ際に、ご主人様と交わした “約束” がありましたからね。
それは、あの世へ行っても大主人様と大奥様に使えること!
とはいっても、黄泉の国は広いんです。
しかも人間様と我々動物とでは、居住エリアが分かれていて、簡単には会えません。
のでオイラ、あの手この手を使って神様に取り入って、なんとか人間エリアに入り込めたのは半年後の今年の春。
そうです、大主人様と大奥様の一周忌が過ぎてからなんです。
でも人間エリアも広いんですよ。
没年ごとに居住エリアが分かれているんですが、大主人様と大奥様は昨年、一緒に逝かれたので、一番新しいエリアで仲良く暮らしていました。
最初にオイラに気づいたのは、大奥様でした。
「大奥様、お懐かしゅうございます。マロです!」
オイラが飛びつくと大奥様は、たいそう驚かれましたが、
「えっ、マロかい? 本当にマロなの! でも、ここに居るっていうことは、お前も死んじゃったのかい?」
「はい、大奥様。オイラは大奥様を追って4か月後に、こちらに参りました」
大奥様は、とても若返って見えました。
最期の数年間は寝たきりだったのに、今は少女のようにお花畑を歩き回っています。
「マロや、お父さんもいるんだよ。今、呼んで来るからね。おとーさーーーん!!」
そして、やって来た大主人様を見て、ビックリ!
だって、背筋は伸びてるし、ステッキは持っていないし、かくしゃくとして歩いて来るではありませんか!
「ほら、お父さん、マロが会いに来てくれましたよ」
「マロ? さて、誰だい?」
「いやですよ、ほら、ジュンの家にいた犬のマロちゃんですよ」
「犬? オレは犬は苦手だからな」
どうしたことでしょう?
あの世に来ても、まだ認知症が治ってないのでしょうか?
オイラが困っていると、大奥様が言いました。
「マロ、ごめんなさいね。お父さん、認知症になる前に戻っちゃったのよ」
ということは、オイラが小暮家に来る前の姿なんですね。
だから分からないんですね。
でも、良かった!
大主人様も大奥様も、あの世では病気をされる前の姿で、暮らされているのですね。
「マロ、今年の夏は、新盆でしょう?」
「新盆?」
「そう、亡くなってから最初の盆は、必ず帰らないとね」
「お二人は、行かれないのですか?」
「私たちは去年、済ませたからね。一応、お盆中には顔を出すけど、遠くから見守るだけなのよ」
「今年の盆ならオイラの姿が、見えるんですか?」
「そういうことよ。ジュンに会って、私たちが元気に暮らしていることを伝えてね。頼んだわよ」
「はい、大奥様!」
ということで、今朝早々に帰って来ました。
この世に居られるのは4日間だけです。
また、ご主人様と散歩に行きたいけど、相変わらず下界は暑いでやんすね。
では、これから、ご主人様に会ってきやす。
驚くだろうな~
そーっと、そーっと、近づいて……
「ご、しゅ、じ、ん、さまーーーーっ! マロっす!」
2020年08月12日
温泉考座 (18) 「0泊2食プラン」
「0泊2食」 という言葉を、ご存じですか?
これは温泉旅館が平日に行っている日帰りプランです。
きっかけは観光業の不況による平日の宿の稼働低下です。
打開策として考えられたのが、“泊食分離” でした。
温泉旅館は温泉に入って、食事をして、宿泊するところという考えにとらわれず、それぞれの機能を分離したサービスの提供です。
「温泉」 と 「食事」 と 「客室」 のバラ売りを始めたのです。
これが今、若い女性や主婦層に受けています。
「休みが1日しか取れない。でも温泉へ行きたい」 という忙しい現代女性に支持されたようです。
育児や介護など、もろもろの事情で夜は家を空けられない人でも、手軽に利用ができます。
一般的な例を挙げると、午前11時にチェックインをして、朝食をとり、午後は温泉に入り、散策や部屋で読書などをして自由に過ごします。
夕食後の午後9時までにチェックアウトとなります。
旅館やホテルによって、チェックインとチェックアウトの時刻は異なりますが、約10時間の滞在が可能です。
宿泊で一般的な午後3時チェックイン、翌日午前10時チェックアウトの場合、滞在時間は約19時間です。
夜間の睡眠時間を差し引けば、施設自体を利用する時間は、あまり変わらないことになります。
しかも料金は、どこも宿泊より安く設定されています。
また、0泊2食は昼食と夕食付きですから、料理の内容が充実しているというお得感もあります。
宿によっては、昼食か夕食のどちらかが付いた 「0泊1食」 など、さらに手軽な日帰りプランを展開しています。
県内には日帰り温泉施設が数多くありますが、どこも休憩所は大広間で、食事は麺類や丼物が中心です。
それに比べ温泉旅館の日帰りプランは、客室を利用でき、本格的な料理がいただけます。
何よりも日常生活から離れた自然環境へ出かけることにより、ストレス解消や精神疲労の回復効果が望めます。
温泉旅館のサービスは、私たちのライフスタイルに合わせながら進化しているのです。
<2013年8月7日付>
2020年08月11日
この木なんの木、日本一の木!
素晴らしい!
快挙です!
「ジュンさん、これなんですよ」
と言って、彼はスマホの画像を見せてくれました。
そこに写っていたのは、樹冠を青々と広げた立派な一本の巨木でした。
それから数日後の昨日、地元の新聞に大きく、彼と巨木の記事が載りました。
<前橋市小屋原町の桃ノ木川の河川敷に自生しているアカメヤナギ (別名マルバヤナギ) の幹周が、環境省の巨樹・巨木林データベースに登録された同種の樹木の中で最大となる10メートル97センチであることが分かった。自ら測定し、登録申請した渋谷和之さん (年齢・住所省略) は 「全ての樹木が載っているわけではないが、身近な場所に日本一の木があったとは」 と驚いている。>
(2020年8月10日付 上毛新聞より)
アカメヤナギは、ヤナギ科ヤナギ属で、河岸や池、湖などの岸辺に生える落葉高木。
枝葉はしだれず、垂直または斜めに伸び、葉は広い楕円形とのこと。
「ヤナギ」 と聞くと、風に揺れる細長い葉っぱをイメージしてしまいますが、葉が丸い種類も多いそうです。
記事によれば、このアカメヤナギは、高さ9メートル、上から見た枝の広がりは約26メートル。
幹周は48~235センチの計7本に分かれていて、その合計が約11メートルになるため “日本一” の登録となったとのことです。
「最初はさ、なんていう木かも全然、分からなったの。何回も通って、アカメヤナギだと分かったわけ」
それにしても、計測して、申請して、登録にこぎつくまでの労力は、なかなか凡人には真似できませんって!
測量業を生業にしている彼だからこそ達しえた、偉業だといえます。
ちなみに、これまでの最大は、2007年に確認された前橋市上泉町の 「桂萱 (かいがや) 小学校のアカメヤナギ」 の幹周約5メートル50センチでした。
もしかすると前橋市は、今後、“アカメヤナギの里” として有名になるかもしれませんね。
それにしても、アッパレ!
カズ君、やったね!