2021年11月06日
先輩と風少女
<風の音が聞こえないのは、たぶん、高架になった新しい駅舎のせいだ。駅前から繫華街に向かってまっすぐのびる道の両側に沿って、葉の落ちきった欅(けやき)の黒い街路樹がつき抜け、遠く赤城山の頂上付近からは民家の明かりが、たよりなく揺れながら届いている。繫華街から離れた前橋駅のまわりは、この時間になると、自分の溜息が聞こえそうなほどに静かになる。>
( 『風少女』 より)
今週、突然、訃報が飛び込んで来ました。
作家の樋口有介さんが亡くなられました。
71歳でした。
樋口さんは、群馬県前橋市の出身。
そして、僕と同じ高校の卒業生です。
だいぶ歳が離れているので、お会いしたことはありませんが、先輩には違いありません。
ですから樋口さんが作家デビューした処女作からのファンであります。
1988年の青春ミステリー 『ぼくと、ぼくらの夏』 で、第6回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞。
以後、数々の名著を世に出し、その作品は映画やテレビドラマになりました。
中でも印象深いのは、なんといっても2作目の 『風少女』 でしょう!
この作品は、第103回直木賞候補にもなりました。
っていうか、“前橋っ子” には、たまらない小説なのです。
だって、冒頭の前橋駅のシーンから始まり、全編舞台が前橋市内なんです!
利根川や広瀬川はもちろん、大渡橋、新前橋駅、県庁、市立図書館……
前橋市民ならば誰でも知っている場所やマニアックな地名が、ページをめくるたびに出てくるのですからたまりませんって!
しかも、そんな平和でのどかな前橋市で、殺人事件が起こるのです。
前橋市民必読の書であります。
まだの人は、ぜひ一読を!
それにしても71歳は、まだまだお若い!
断筆するには、若すぎます!
残念でなりません。
先輩のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
※(関連記事は当ブログの2012年12月28日 「60年代の子どもはシェー!」 参照)
2021年11月05日
ようこそ、ほっこり温泉へ
「1年間のご無沙汰です。今年もやってまいりました。わたくし、ほっこり温泉 小山旅館 の番頭の小暮でございます」
そんな前説から始まりました。
昨日は、小山市立中央公民館 (栃木県小山市) にて、2時間の講義をしてきました。
講義名は、「ほっこり温泉講座」。
昨年 (2回) に引き続き、今回で3回目の講座になります。
前回は、「神のいる湯」 というテーマでの講義でした。
今回は 「湯守のいる宿」 という、より具体的なテーマで、2時間たっぷりとお話しをさせていただきました。
前回の応用編で、「神のいる湯」 には、必ず湯守がいて、湯を守っているという話です。
では、どのように、湯守のいる宿を見分けるのか?
そんな内容の講義をしてきました。
講義が終われば、一目散に駅へと向かいます。
講演・講座の会場が県内の場合は車で行きますが、県外の場合は必ず鉄道を利用しています。
すなわち、家に帰るまで我慢することはありません!
何を?
そりゃ~、決まってるじゃありませんか~!
ということで、県外出張のご褒美として、僕は必ず帰りは、電車に乗る前に駅前の居酒屋で、少し遅いランチ (かなり早い晩酌) をとることにしています。
これが、たっぷり喋って、カラカラに渇いたノドにしみるのであります。
これぞ、達成感と充実感を感じる瞬間なのだ!
小山市のみなさん、ありがとうございました。
ということで、県外どこへでも行きますので、主催者のみなさん、ご連絡をお待ちしております。
2021年11月03日
しゃべくり三昧
昨日、大泉町文化むら小ホール (群馬県邑楽郡大泉町) にて、午前と午後の2回講演を行ってきました。
昨年1年間、フリーランスの僕は、仕事を完全に干されてしまいました。
ライターという人と接触する仕事が、“3密” に値するからのようであります。
さらに、不特定多数の聴衆を相手に行なう講演・セミナー・講座などの活動もコロナ禍においては、“もってのほか” ということで、すべて延期または中止となりました。
ところが、どうしたことでしょうか?
今年になり異変が起きました。
下半期から延期されていた講演や新規の講座の依頼が次々と入って来たのです。
とはいっても世の中は、まだ緊急事態宣言下でした。
それでも収容人数を縮小して、徹底したコロナ対策のもと、粛々と開催されたのであります。
当然、スピーチをする講師の僕は、聴講者から距離を取った壇上に立ち、アクリル板の間仕切り越し、マスク着用の上、マイクを使用という徹底ぶりです。
聴講者は、広いホールの中で、十分なソーシャルディスタンスを取り、まばらにイスに座っています。
もちろん全員がマスク着用です。
コロナ以前では想像もつかない、なんとも異様な光景をつくり出していました。
緊急事態宣言が解除した先月からは、さらに依頼が増え、ほとんど毎週、県内のどこかで講演を行っています。
では、なぜ、急激に増えたのでしょうか?
実は、これ、増えたのではなく、“増やさざるをえなかった” のであります。
理由は、こうです。
1回の講演をコロナ前の定員では開催できないため、収容人数を半分 (または3分の1) に減らし、その代わりに同じ講演を2回 (または3回) 開催するという、主催者側の苦肉の策なのであります。
よって、講師によっては、同じ会場に何回も通い、同じ話を何回もするというコロナ前では考えられなかった事態が起きているのです。
えっ?
その分、ギャラは2倍なんだろうって?
そ、そりゃ~、同じだったら受けませんって!
いいじゃないですか、去年1年間、干されたんですから。
少しは僕にも、いい目を見させてくださいよ。
きっと、また、すぐに干されるんですから……
(フリーランスの悲しい性であります)
2021年11月01日
貸本屋のオババに愛をこめて
先週、漫画家の白土三平さんが亡くなられました。
白土さんといえば、昭和の戦後世代にとっては、子どもの頃に貸本漫画で活躍した漫画家です。
「カムイ伝」 や 「忍者武芸帳」 などは、まさに貸本文化を支えたヒット作でした。
※(当時を語る場合は 「マンガ」 ではなく 「漫画」 なんですね)
昭和30~40年代に少年期を過ごした僕ら世代にとって貸本屋は、駄菓子屋と並ぶ “二大娯楽の聖地” でした。
僕が生まれ育った旧街地には、たくさんの貸本屋があり、子どもが歩いて行ける町内だけでも2軒の貸本屋がありました。
書籍は図書館でも借りられましたが、漫画は置いてありません。
当時の漫画本 (単行本) は価格も高くて、子どものお小遣いでは買えませんから貸本屋は、ありがたい存在でした。
確か、1冊1日=10円だったと記憶しています。
放課後に友だちと一緒に10円玉を握りしめて、一目散に貸本屋へ走ったものです。
でも、ほとんどの子どもが1日10円の日払い制のお小遣いでしたから、1日1冊しか借りられません。
そのため、迷い迷い、なかなか借りる本を選べずにいると、
「何時間いるんだい! 決まらないんなら他の客の迷惑だから、さっさと帰んな!」
と、オババの怒声が飛んできます。
「やべ~、どうする?」
「あっちに行く?」
“あっち” というのは、町内のもう1軒の貸本屋です。
店主は男の人で、物静かで、子どもたちにも優しいのですが、どちらかというと大人向けの書籍が中心で、漫画本が少ないのです。
だから僕らは、いつも恐怖心を抱きながらも漫画本の多いオババの店に通っていたのです。
「ああ……、はい、すぐ決めます」
「僕は、これにします」
と毎度、あわてて10円玉を添えて、選びに選んだ1冊の漫画本をオババに手渡すのでした。
当時の子どもたちに一番人気だったのは、手塚治虫や水木しげるの作品。
僕はギャグ漫画が好きだったので、赤塚不二夫の 「ヒッピーちゃん」 がお気に入りでした。
それと、ホラー漫画もよく借りてました。
楳図かずおや日野日出志なんて、借りたのはいいものの夜には読めず、翌日の朝早く起きてから読んだものです。
あれから半世紀……。
ときどき自転車で貸本屋があった場所を通ることがあります。
おじさんの店があった場所は、一般の住宅になっています。
オババの店の跡地には、マンションが建っています。
いまはスマホで漫画が読める便利な時代です。
でも僕は、昭和という時代を振り返るたびに、いつも、こう思います。
「“不便” より “便利” のほうが良いに決まっているけど、不便だった世の中の方が、人が手をかけ工夫しながら生きていたな」 と。
半世紀後の世の中は、どんなふうに変わっているのでしょうか?
想像もつかない世の中なんでしょうね。