2015年10月02日
猪ノ田温泉 「久惠屋旅館」⑧
<県道からはずれて山道に差しかかった途端、ひんやりと空気が変わる。標高はさほど高くないが、それほど藤岡市の猪ノ田(いのだ) 地区は深い森に囲まれている。:>
これは2011年2月から2年間にわたり、朝日新聞の群馬版に連載した 『湯守の女房』 というエッセイの第1回の冒頭部分です。
県道からわずか5分、山道を走っただけで、急に空気は冷たくなります。
それもそのはずで、旅館は渓流、猪ノ田川のほとり、うっ蒼とした森の中にポツンと1軒だけ建っているのです。
車から降りると、僕は大きく深呼吸をしました。
ツーンと染み入る空気と、サラサラと間断なく聴こえるせせらぎの音。
僕の大好きな場所です。
春先に訪ねたときは、庭一面に咲くカタクリの花に迎えられました。
秋に来た時は、部屋の窓を覆うほどの深紅のモミジ。
そして今回は、オレンジ色の可憐な花をたわわに咲かせたキンモクセイの香りに包まれました。
昨日は、取材とお見舞いを兼ねて、久しぶりに久惠屋旅館に泊まって来ました。
「よく来てくれましたね」
そう言って主人の深澤宣恵さんが、僕の手を強く握ってくれました。
「元気そうで安心しましたよ。知らせを聞いたときはビックリしました」
今年の5月、ご主人が階段から落ちて、入院したと聞いていたのです。
その時、頭部を強打し、軽い脳出血を起こしたといいます。
直後は手足に障害が出たそうですが、3ヶ月間のリハビリの成果により、完全に快復しました。
「良かったですね。その程度で済んで。打ち所が悪かったら今日僕は、ご主人に会えなかったかもしれないんですよ」
そう言うと、ご主人は、
「そうかもしれないね。再会を祝って、今晩は一緒にやりましょう。一番うまい酒を用意しますよ」
ですって。
「大丈夫なんですか?」
と心配すれば、
「ああ……、ちょっと真似だけね」
と、嬉しそうに笑うのでした。
そんなご主人の僕への気配りに、ちょっぴり目頭が熱くなってしまったのです。
そうと決まれば、取材を早めに済ませてしまおう!と、お決まりの入浴シーンの撮影へ。
もう、今さらここで言うこともありませんけれど、源泉名の「絹の湯」 とおりのトロンと肌にまとわり付く浴感は、何度入っても飽きることがありません。
その効能も素晴らしく、医者に見放された患者たちが、遠方からわざわざやって来るほど。
特に皮膚病に特効があり、源泉を詰めたペットボトルや源泉入りの石けんを全国から取り寄せる人たちが後を絶ちません。
実際に僕も長年、源泉水を使っています。
これからの季節、乾燥肌のかゆみも、これがあれば安心して眠ることができます。
なんでも、皮膚科や小児科のお医者様までもが取り寄せているとのことでした。
「カンパーイ!」
「退院、おめでとうございます」
ご主人が用意してくれた辛口の地酒で、夕げの膳を囲みながら、ささやかな快気祝いが始まりました。
思えば10年以上前に、雑誌の連載取材で訪れたのが、ご主人との最初の出会いです。
それ以来、ご主人の温泉復活に賭けた情熱的な人生と男のロマンに、僕はすっかり惚れ込んでしまったのです。
ご主人がいなかったら、猪ノ田温泉は45年前に消えたままだったのですから……。
※(詳しくは、僕の著書をお読みください)
Posted by 小暮 淳 at 22:00│Comments(0)
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