2016年05月30日
記憶のゆくえ
「昔、ここはドブだったよな?」
「そうだよ」
「誰か、落ちたよな。お前だっけ?」
「そうだよ、オレだよ」
散歩に出かけるたび、毎回決まってオヤジは、実家の前の道の端を指差して、そう言います。
僕が小学校に入学した年のこと。
一学期最初の登校日の朝。
家の前で手を振る両親に、僕も満面の笑みをたたえ、手を振りながら歩いていたのです。
そしたら……、ドボ~ン!
オヤジは満91歳、体力の衰えとともに、認知症も進んでいます。
今日のことは何一つ覚えていませんが、50年前のことは毎日でも思い出してくれます。
先週、オフクロが89回目の誕生日を迎えました。
認知症はありませんが、脳梗塞と心筋梗塞、脳出血を繰り返しているため、下半身と左半身に障害があり、車イスの生活をしています。
その日、両親がデイサービスから帰って来るのを待って、アニキと2人でサプライズパーティーを開くことにしました。
「カンパイ! オフクロ、お誕生日おめでとう!」
「カンパイ! ばあちゃん、おめでとう!」
ビールとジュースのグラスを手に、4人だけで、ささやかなお祝いをしました。
「ありがとうね、ありがとうね。わたしゃ、こんなに生きられるとは思わなかったよ」
「なに言ってるんだい。もっともっと長生きしてくれよ」
「そうは、いかないよ。2人に迷惑ばかりかけているから……」
この時ばかりは、アニキと2人で見合ってしまいました。
「さあ、食べよう! ばあちゃんの好きな太巻き寿司があるよ」
と、小皿に取り分けようと大皿を見ると、
ギェッ!
すでにオヤジが箸を使わず、手づかみでアナゴの握りにパクついています。
「じいさん! 今日は誰の誕生日か分かってるの?」
「誕生日? 今日は誰かの誕生日なのかい?」
「今日は5月27日です。さーて、誰の誕生日でしょうか?」
「……」
オヤジは少し考えていましたが、すぐに、
「ああ、H (オフクロの名前) の誕生日じゃないか!」
すると、
「そーですよ、おとうさん。わたしの誕生日ですよ」
とオフクロは、オヤジが覚えていてくれたことが、よっぽど嬉しかったようで、大粒の涙を流し出しました。
「いくつになったんだい?」
「89歳になりました」
「えっ、それじゃあ、オレは90歳を過ぎているのか?」
「そうですよ」
結局は、オヤジのボケに振り回されてしまうのです。
そして極めつけは、
「H の誕生日なら、お祝いをしなくっちゃな?」
「だから、今しているの!」
「なーんだ、これが、そうなのか」
でもね、しばらくすると、
「今日は、誰の誕生日だっけ?」
となり、この珍問答は、オヤジが眠りに就くまでエンドレスに続くのでした。
Posted by 小暮 淳 at 12:48│Comments(0)
│つれづれ