2022年09月24日
焼身自殺の真実
≪男性、焼身自殺図る≫
≪国葬 「断固反対」 の紙≫
9月21日午前6時50分頃、東京都千代田区霞が関3丁目の路上で、男性が焼身自殺を図りました。
男性は70代、全身にやけどを負って病院に搬送されましたが、意識はあるとのことです。
現場からは油を入れたとみられる焼けたペットボトルと、安倍晋三元首相の国葬について 「私個人は断固反対」 と書かれた紙が見つかったといいます。
起こるべくして起きた事件といえるかもしれません。
でも自分の意義主張を世に知らしめる手段は、あまたとあるのに、なぜ男性は “焼身自殺” を選んだのでしょうか?
僕は、「焼身自殺」 と聞くと、在りし日のオヤジを思い出します。
昭和58(1983)年のことですから、僕が、ちょうど夢破れて東京から群馬の実家に帰って来た頃です。
オヤジは、県や国に対して、いきどおりを感じながら、着々と活動を進めていました。
そして、ある日、
「もし、ダメだったら俺は、赤城山で灯油をかぶって死んでやる!」
そう家族に、言い放ったのです。
オヤジは晩年、自然保護活動に心血をそそいでいました。
きっかけは、昭和22(1947)年9月に日本列島を直撃したキャサリン台風だったといいます。
群馬県内だけでも592人の死者が出た戦後最大の自然災害でした。
赤城山に降った雨は、一気に下流へと流れ込み荒砥川が氾濫。
当時、オヤジが暮らしていた大胡町 (現・前橋市) は、一瞬にして土石流にのみ込まれました。
オヤジは濁流に流されながらも、銀行の鉄格子にしがみつき、九死に一生を得たといいます。
小さな大胡町だけでも100棟が流出し、77人の尊い命が失われました。
その中には、オヤジの親戚や同級生が何人もいました。
「山の開発は、下流の住民に聞け!」
これがオヤジの口ぐせでした。
戦時中の赤城山の森林伐採により、保水力を失った山肌に降った雨が山津波となり、下流の町を襲ったのです。
「なのに県と国は、いまだに自然破壊を続けている」
オヤジは、未来の命を守るために赤城山開発への反対運動を続けていました。
そんな赤城山の度重なる開発が危ぶまれていた昭和58(1983)年。
朝日新聞が 『21世紀に残したい日本の自然100選』 という企画を発表しました。
「この100選に赤城山が入れば、開発の手を止めることができる」
と考えたオヤジは、自分が経営していた英語塾の生徒たちを総動員して、朝日新聞当てに “赤城山” と書かせたハガキを送らせたのでした。
結果、見事、「赤城山の荒山高原」 が100選入りを果たしました。
そしてオヤジが危惧していた開発も中止となり、数年後には一帯が県立森林公園に指定されました。
よって、オヤジの焼身自殺は未遂に終わったのであります。
昨日は彼岸の中日でした。
僕は線香と花束を持って、オヤジとオフクロが眠る霊園を訪ねました。
「オヤジ、あのとき100選に選ばれなかったら、本当に焼身自殺をするつもりだったの? もしかして、あれってハッタリだった?」
返事はありませんでしたが、笑い声が聞こえたような……
遺言通り、オヤジは大好きだった赤城山の中腹に眠っています。
Posted by 小暮 淳 at 11:39│Comments(0)
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