2022年11月16日
娘の気持ち
<父はお酒を飲むと、まるでたあいない子供になってしまう。そして酔っくると、次第にお酒をびしゃびしゃお膳にこぼしはじめ、それにつれてお菜を、膝の上から畳の上一面にこぼすのだった。だから父の立ったあとは、まるで赤ン坊が食べ散らかしたようなのであった。>
(『父・萩原朔太郎』 「晩酌」 より)
遅ればせながら、萩原葉子さんの 『父・萩原朔太郎』 を読みました。
初刊は昭和34(1959)年。
その後、各社から新版や文庫本も刊行されていますが、なぜか手にする機会を逸して、今日まで来てしまいました。
今回、読むきっかけとなったのは、2つ。
1つは、今年没後80年となった前橋市出身の詩人、萩原朔太郎 (1886~1942) をテーマとする共同企画展 「萩原朔太郎大全2022」 が全国の文学館などで開かれていること。
群馬県内でも10施設が参加、同時開催をしているため、ひまを見つけては足を運ぶようになったためです。
もう1つは今年、小学館の 「P+D BOOKS」 という安価なブックレーベルから同書が発刊されたこと。
「P+D」 とは、ペーパーバックとデジタルの略称で、現在、入手困難になっている作品を、B6判のペーパーバック書籍と電子書籍で、同時かつ同価格で発売・発信しています。
ペーパーバックはブックカバーのない、ソフトカバー本なので、持ち運びも便利で、気軽に読めるところが気に入っています。
萩原朔太郎については、さまざまな著書が刊行されているので、詩人としての作品や識者が評している人となりには触れることはできますが、“家庭人” としての朔太郎を知るには、やはり家族目線が一番リアルです。
しかも “娘” となれば、親きょうだい、妻から目線とは、かなり異なるのではないでしょうか?
同書には、こんなシーンが出てきます。
<父はある日私を見ると、ちょっと笑いながら 「喫茶店に行ったことあるか?」 と聞いた。
私は、喫茶店もバーも祖母のいうように、みんなこわい女のいるところだと思っていた。私が、ないというと、
「じゃ連れて行ってやろう」 といった。耳の悪い祖母は、へんなときによく聞こえるもので、隣の部屋からあわてて出てくると、
「女学生に喫茶店なんてところはもってのほかだよ」 と父に怒っていった。>
それでも2人は、夕方になり、カフェへ出かけて行きます。
<ボックスの向こう側にソフト (帽子) を脱いで坐った父は、まがわるそうに、たばこばかりのんでいた。私もどこを見てよいのか困った。こういう所で父と二人きりになるのが、妙にきまりわるくて嫌だった。>
そして、僕も何十年も前の、ある日のことを思い出していました。
長女と出かけたコンサートの帰り道。
コーヒーショップに入った夕暮れの風景を……
どんな会話をしたのだろうか?
たぶんコンサートの感想を話し合ったのだと思いますが、今は何一つ思い出せません。
娘とは、父親にとっては不思議な存在です。
息子とは男同士という共通点があるので、言葉を交わさなくても分かり合えることがあります。
でも娘は、違います。
小さいときは、自分の子どもだという意識があるのですが、思春期を迎えると、もうダメです。
父は、父として接しられなくなる瞬間が訪れるのです。
我が子であり、我が子ではないような。
娘であり、娘ではないような。
時には、恋人を見るような面映ゆい想いを抱くこともありました。
葉子さんの描写を通して、僕は、すでに巣立ってしまった娘たちの言動や行動を懐古しながら読み終えました。
はたして、僕の娘たちは、父をどのように見ていたのでしょうか?
また今は、どのように見ているのでしょうか?
訊いてみたいような、怖いような……
でも訊いてみたいような……
複雑な読後感を味わいました。
Posted by 小暮 淳 at 13:15│Comments(0)
│読書一昧