温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2012年05月16日

ムカデ、むかで、百足三昧


 以前、僕が伝説 「赤城と日光の神戦」 について調べていることを書きました。

 一般的には、赤城山の神様はムカデで、日光二荒山(男体山) の神様はヘビということになっています。
 ところが、赤城山北麓の老神(おいがみ)温泉だけは、赤城の神がヘビとして祀られているのです。

 なぜ、入れ替わってしまったのか?
 その真相を探るべく、今日は、赤城東南麓に残る根強い “百足(むかで)信仰” を追ってきました。
 (「赤城と日光の神戦」については、当ブログの2012年4月25日「入れ替わった神様」参照)


 午前10時、前橋市内をスタートして、まずは全国に334の分社を持つ赤城神の総本社、前橋市三夜沢の「赤城神社」へ参拝。
 取材の安全と無事を祈願しました。

 通称、南面道路(R353)を走り、旧新里村(桐生市新里町)板橋にある「赤城の百足鳥居」へ。
 この鳥居は、赤城山の東南の参道として天明2年(1782)に建てられた、安山岩製の稲荷鳥居です。
 社殿はなく、赤城山を御神体としています。
 で、この鳥居には、ムカデの彫刻が施されているのです。
 そして、この周辺の人たちは、神の使いであるムカデを決して殺すことはなかったと伝えられています。

 次に向かったのは、同じく旧新里村山上にある「山上城跡公園」です。
 この公園には、とても珍しいムカデとヘビのレリーフがあります。
 かつての城の構造が描かれた案内板の隣には、
 “むかしむかし、赤城山の神様の大むかでと日光男体山の神様の大蛇(おろち)とが争いましたとさ”
 と書かれ、からみ合う大きなムカデとヘビが石に刻まれています。
 (ヘビの目は×印になっていて、赤城山の神のほうが強いことを表しています)

 午後は太田市へ移動し、西矢島の「赤城神社」へ。
 ここには、本殿の扉の左右に、ムカデが描かれているといいます。
 が、行ってみると、氏子がいるのかいないのか、社殿は荒れはてていました。
 また、社殿周りには、それらしきムカデ絵は見当たりません。

 僕とカメラマンの行動を不審に感じたのか、敷地内の公民館にいたオジサンたちが3人出てきました。
 「これこれ、しかじか、なんですよ」
 と僕が説明すると、
 「確かに、ムカデを祀っているという話しは聞いたことはあるが、そんな絵は見たことないな~」と、3人が3人とも地元で生まれ育ったが、知らないと言います。

 「もしかしたら、“扉絵”というんだから、本殿の中かもしれんぞ」
 と言って、社殿の入口を開けてくださいました。
 僕に続いて、カメラマンが入ります。
 中は荒れ放題で、砂ぼこりが舞い上がります。

 奥に本殿が鎮座しています。
 近寄って扉を見ると・・・
 「これかな……、うん、ムカデに見えるよ」と僕。
 「そーですね。だいぶ風化して色が落ちていますが、ムカデのようですね」とカメラマン。
 絵が薄過ぎて、写るかどうか分かりませんが、とりあえず写真を撮ってもらいました。

 氏子(?)らに、お礼を言い、太田市を後にしました。
 正直言って、ちょっとガッカリです。
 保存状態が、悪過ぎました。


 日が西に傾き出すころ、僕らは館林市に着きました。
 今度こそは、スクープを!
 オイラの心のド真ん中に、強烈なストレートパンチが欲しいものです。

 はやる気持ちを抑えつつ、ファイナルステージの館林市足次の「赤城神社」へ。
 ここには、“むかで絵馬” が奉納されています。

 社殿を覗き込むと、確かに社内の壁には、ムカデが描かれた大きな絵馬がかかっていました。
 絵馬は、①「ムカデはお足(お金)が多いので、お金が貯まるように」、②「ムカデは子どもをたくさん産むので、子宝に恵まれるように」 との願いが込められています。

 そして、社殿の胴回りや梁(はり)には、いくつもムカデの彫刻が施されていました。
 それはそれは、見事な “むかで彫刻” であります。

 「これならバッチリですよ」と、夢中になってカメラマンはシャッターを切っていました。
 「ああ、立派なムカデの彫刻だね~」と、僕も大満足です。


 赤城山東南麓の人たちは、昔からムカデが出ると、
 「赤城のお山へ、お帰り」 と言って、家の外へ逃がしてやるそうです。
 また赤城神社の周辺には、「百足塚」も多く見られます。


 さて、赤城の神は、ムカデか、ヘビか?

 いよいよ、真相に迫ります!
 (6月22日発行の「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に掲載予定)
    


Posted by 小暮 淳 at 22:08Comments(0)取材百景

2012年04月25日

入れ替わった神様


 高崎市内に無料配布されているフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) の4月6日号に、謎学の旅② 「なぜ下仁田ネギは『上毛かるた』に描かれなかったか?」というエッセーを書いたところ、とても反響をいただきました。
 直接、感想を発行元へ電話で告げてきた読者もいたそうで、筆者としては嬉しい限りであります。

 また、このブログでも告知したものですから、僕に 「ちいきしんぶん、あります? 下仁田ネギのことが気になってしまって」 という人が何人もいました。
 みなさん、ありがとうございます。
 今後も、謎学の旅をよろしくお願いいたします。

 僕は現在、ちいきしんぶんに、このほか 『小暮淳の一湯良談』 と 『民話と伝説の舞台』 というコラムとエッセーを連載しています。
 今日は朝から、6月に掲載予定の 『民話と伝説の舞台』シリーズ13 の取材で、老神(おいがみ)温泉へ出かけてきました。


 みなさんは、「赤城と日光の神戦」 という話を知っていますか?

 昔、日光二荒山(男体山)の神と赤城山の神が、中善寺湖の水をめぐって争いになりました。
 日光の神はヘビに、赤城の神はムカデに姿を変えて戦い、傷ついた赤城の神が逃げ帰り、刺さった矢を引き抜き地面に立てたところ、湯が湧き出たといいます。
 その湯に浸かり、傷を治した赤城の神は、ふたたび日光の神に襲いかかり、追い返したことからこの地が「追い神」→「老神」と呼ばれるようになったということです。

 これが一般的に伝わる伝説です。
 テレビの「まんが日本むかし話」でも、このストーリーでした。
 また、栃木県の日光側でも、日光の神はヘビで、赤城の神はムカデとなっています。

 ところが・・・

 老神温泉では、神様がまったくの逆なんですね。
 赤城の神がヘビで、日光の神がムカデです。
 毎年5月7~8日(今年から第2金~土曜日に変更)に開催されている老神温泉最大のイベント「大蛇まつり」でも、老神の鎮守様である赤城神社の御神体の大蛇が、温泉街を練り歩きます。

 と、以上までの内容は、当ブログのカテゴリー「謎学の旅」にも書きました。
 でもね。どうしても僕は納得がいかないのですよ。

 なぜ老神では一般の伝説どおりに、赤城の神がムカデにはならなかったのか?
 いったい、いつから神様が入れ変わってしまったのか?

 そのナゾを探るべく、老神温泉の人たちから話しを聞いてきたのであります。

 で ーーーーっ ! ! ! !

 「おばあちゃん(80歳)の子供の頃には、赤城さま(赤城神社)の祭りにヘビはいなかったといいます」
 「初めて祭りにヘビが登場したのは、昭和30年代になってからですね」
 などなど、新しい事実がポンポンと拾えたのであります。

 さらにーーーっ ! ! ! !

 驚愕の事実が!
 な、な、なんと、温泉街を見下ろす片品川をはさんだ対岸には、敵である日光の神様「二荒山神社」 が祀られていたのです。
 これは、どういうことでしょうか?

 赤城の神は、ヘビか? ムカデか?
 さて、真相はいかに・・・

 来月は、ムカデ伝説が残る赤城山麓へ取材に出かけます。
 乞う、ご期待ください。
   


Posted by 小暮 淳 at 22:13Comments(4)取材百景

2012年04月05日

犬はミスを犯さない


 人生は時おり、思わぬことが起きるものです。
 長い、ライター人生でも、こんなことは初めてでした。

 群馬県が発行している観光情報誌から、人物の取材依頼がありました。
 県内の達人を紹介するコーナーです。
 で、依頼された取材相手の名前を聞いて、ビックリ~~~ッ!

 友人だったのです。
 それも、ただの知り合いではない。
 小学校1年生からの竹馬の友!
 しかも、バンド仲間!
 おまけに、いつもは僕と組んで仕事をしているカメラマン!
 それも、拙著 『あなたにも教えたい 四万温泉』(上毛新聞社) の表紙およびグラビア、プロフィール写真を撮った、そう、あの酒井寛君であります。

 えっ、なんで?

 と思われる人もいるかもしれませんが、彼は昨年、ディスクドッグの世界大会で日本代表として出場し、世界15位にランキング!
 しかも、最もパフォーマンスに優れたプレーヤーに贈られる審査員特別賞の 「フェイバリットエンターテイナー賞」 を受賞しているのです。
 (詳しくは、当ブログの2011年10月27日「ドッグアーティストって何?」、2012年2月4日「胡散臭いって素晴らしい!」 参照)

 もちろん友人ですから、僕だって彼の活躍は知っていましたよ。
 でもね、まさか僕が彼を取材するとは、夢にも思いませんでした。

 さて、困った。
 取材をするには、親し過ぎます。
 「取材、いらないんじゃないの?」 とか 「好き勝手に書いたら?」 とか、周りの人には言われましたが、プロとして記事を書く以上、そうは行きませんって。
 で、今日、彼の家へ行って、話を聞いてきました。

 いつもはバンド練習とか、遊びでしか訪ねない彼の家です。
 ひと足先に、カメラマンのF君が着いていました。

 これも、ヘンなものです。
 本来なら、僕と酒井君が組んでやっている仕事ですよ。
 でも、仕方ありませんよね。
 自分で自分の写真を撮るわけにはいきませんから、別のカメラマンに来てもらいました。

 それにしても、やりづらい!
 酒も飲まずに、身内を取材するなんて!
 照れてしまいます。
 それでも、ふと、思ったのですよ。
 考えてみたら、46年も付き合っていて、どうして彼が犬を好きになって、ディスグドッグのプレーヤーになったかなんて、考えたことも、聞いたこともなかったと・・・

 そう思ったら、ライターとしてではなく、友人として無性に理由(わけ)を知りたくなったのであります。


 一昨年、初めて日本代表としてアメリカの大会に出場した彼は、世界のレベルの高さと雰囲気にのまれてしまい、惨敗をしてしまいました。
 その時、彼が師と仰ぐプレーヤーから、こんな言葉が贈られたと言います。

 「犬はミスを犯さない。ミスするのは人間だ」 と。

 犬は、人間に従順な動物なので、人間の指示通りに動く。
 もし、犬がミスしたのであれば、それは人間のミスである。

 以後、彼は 「犬と、どう接するか」 を考えるようになり、自分のスキル向上に努めたといいます。
 結果、1年後の昨年10月、世界の舞台で好成績を残しました。


 僕は、この話を聞いたとき、温泉のことを考えていました。
 以前、四万温泉の老舗旅館 「積善館」 の19代目主人、黒澤大二郎さんを取材した時のことです。
 黒澤さんは、こんなことを言いました。

 「人は温泉のことを、“いい湯” とか “悪い湯” というが、それでは温泉がかわいそうだ。悪いのは温泉ではなく、利用している人間のほうなんだから」

 そう、地上へ湧き出てきた温泉は、みんな “いい湯” なのです。
 それを人間の都合で、勝手に手を加えてしまう。
 お湯の立場になって、温泉を考えるのが湯守(ゆもり) の仕事なのである。
 「人間にそれができないのなら、鳥や獣に温泉を返しなさい」 とまで、黒澤さんは言いました。


 どの世界でも、“本物” を極める人は、奥の深い言葉を残しますね。
   


Posted by 小暮 淳 at 21:40Comments(5)取材百景

2012年02月10日

取材拒否の宿


 昨日、取材拒否をされてしまいました。


 情報誌の編集をしていた頃なら、別段珍しくないことなのですが、ここ数年ではなかったことなので、少々へコんでしまいました。

 取材拒否とは、読んで字のごとく 「取材」 を 「拒否」 することです。
 たいがいは取材される側が使う言葉ですが、その逆も取材拒否ということがあります。
 取材する側が拒否することです。

 「乗車拒否」 といえば、乗せる側の拒否を言う場合が多いですね。

 で、雑誌の場合は、圧倒的に取材される側が拒否する場合が多いのですが、大別すると2パターンあります。
 ① 行列のできる店などの繁盛店で、取材を受けることによって、これ以上お客に迷惑をかけたくない場合。
   または、経営者が根っからのメディア嫌い。
 ② 取材を受けたことがなくて、“取材 = 広告” と勘違いしている場合。
   話を聞く前に 「うちは結構です」 と、にべもなく断られる。

 ま、①の場合は稀な店で、ほとんどは②のパターンとなります。
 その原因として、媒体の知名度が関係してきます。

 「月刊○○ですけど・・・」 の○○が、初めて聞いた名前だと、先方も警戒します。
 これが 「△△新聞です」 となると、相手の対応が変わってきます。

 “雑誌=広告” であり、“新聞=記事” のイメージが強いようですね。

 では、これが温泉旅館になると、どのように変化するのか?
 やはり、媒体名を名乗る限り同様であります。

 しかし、本の出版となると話は別です。
 媒体名がありませんので、著者の名前と出版元の名前を言うしかありません。
 しかも、宿泊取材を申し入れることもありますから、その交渉はさらに難易度を増します。

 現在は、過去の実績があるため比較的スムーズに取材交渉が行われています。
 また僕との間に、温泉協会や観光協会などが入って、交渉の代理を行ってくれることもありますので、取材拒否というのはほとんどなくなりました。
 ただ、最初は苦労しましたよ。
 実績もないし、名前も通っていないし、信じてもらうまでが大変でした。


 で、昨日の取材拒否です。
 今までのパターンとは、まったく別の理由での拒否でした。
 しかも、初めて取材する宿でもありません。
 過去に何回も僕は取材をして、雑誌や本に旅館の記事を書いている宿なのです。
 なのに……

 理由は、たった1つ、写真でした。

 これだけは、説得をしても、納得していただけませんでした。
 宿の取材ではなく、女将さん自身の取材ですから、女将さんの写真を撮らないわけにはいきませんものね。
 「いやいやいや、私なんて」 と、結局、こちらが降りるしかありませんでした。

 確かに、名前と写真が公にされるわけですから、嫌がる人がいても当然です。
 電話を切ったあと、少しだけへコんだのですが、すぐに気を取り直して、次の取材先に電話を入れました。

 何が難しいかって、人の取材が一番難しいんですね。
 でも、そのぶん、やりがいと喜びもひとしおなのであります。
   


Posted by 小暮 淳 at 18:44Comments(0)取材百景

2012年01月30日

ふたたび 「下仁田ねぎ」 を追って


 「下仁田ねぎのナゾ」(1月20日の当ブログ参照) は、深まるばかりです。

 『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』(群馬県発行) には、上毛かるたの絵札に下仁田ねぎが描かれていない理由として、以下のように記載されています。

 <「上毛かるた」が作られた当時は、店で見かけることもできなかったので、絵札にはイメージした形で描かれています>

 本当でしょうか?
 いくら当時、市場に出回っていなかったといえ、作画を担当した画家は、実物を見ずして本当に “イメージだけ” で描いたのでしょうか?

 仮に、初版(昭和22年)の絵札は、そうだったとしましょう。
 しかし、昭和43年に絵札は、画家の要望により、全札が描きかえられています。
 「ね」 の絵札も新しくなりましたが、依然として描かれているネギは、下仁田ねぎではありません。
 この間(21年間) に、「絵札が違う!」 との声は上がらなかったのでしょうか?


 前回までの取材で、上毛かるた競技会委員や下仁田町の生産農家、下仁田町役場の人たちからの声を拾ってきました。
 中には、「知らなかった」「初めて聞いた」 という人もいましたが、下仁田町の人たちは、ほとんどが 「カルタの札の絵が違うことは知っていた」 と言います。

 では、なぜ、その声は届かなかったのでしょうか?

 初版当時は、GHQ(連合国軍総司令部) の支配下という時代で、厳しい検閲を受けたといいます。
 なにか、下仁田ねぎの形状に問題があったのでしょうか?
 または、特定の団体や組織から、下仁田ねぎの絵を公表することに対して、多大なる圧力がかけられたのでしょうか?

 謎は謎を呼び、そのナゾは深まるばかりです。

 きっと、これには下仁田ねぎの歴史が関係しているはずだ!
 これはライターの勘であります。
 徹底的に、調べるしかありません。

 今日、僕は、ふたたび下仁田町へ行ってきました。


 訪ねたのは、『下仁田ネギ -ネギの来歴を追って-』 の著者である里見哲夫先生です。
 ご自宅にお邪魔して、膨大な資料と共にお話を聞いてきました。

 まず、ネギは 「葉ネギ」 と 「根深ネギ」 に大別されること。
 白根はあまり伸びず葉のやわらかな葉ネギは西日本で多く栽培され、白根が長くなる根深ネギは東日本に多いこと。
 そして、下仁田ねぎは、根深系ネギの一変種であることがわかりました。

 下仁田ねぎに関する最も古い文書は、江戸時代の文化2(1805)年に、江戸幕府城内から地元名主へ送られた「葱200本至急送れ」という手紙です。

 その後、天保3~4(1832~1833)年の「高崎藩御書留」 には、高崎藩の殿様が諸国大名へ年末年始の贈答品として送ったことが書かれています。

 明治16(1883)年の小学教科書「群馬県地誌略巻之上」にも、「下仁田町ノ葱ハ最モ著名ナルモノニシテ」 の記述があります。


 以上のように、一般に流通されていなかったとはいえ、当然、「上毛かるた」 が作られた昭和20年代、そして絵札が改定された昭和40年代には、すでに下仁田町および近隣では、名産として認知されていたことが分かります。

 では、なぜ、下仁田ねぎは、カルタには描かれなかったのでしょうか?

 里見先生は僕に、1つ手がかりをくださいました。
 それは、「下仁田葱発祥の地」 があること。
 そして、その碑が立っている場所は、現在の下仁田ねぎの生産拠点である馬山地区ではないこと。

 そこへ行けば、何かが分かるかもしれない・・・

 僕は、その足で、先生に教えていただいた下仁田町内のS地区を訪ねました。
 そこは、下仁田町でも長野県境に近い、山間の集落でした。
 山肌に石垣が積まれた段々畑が連なる山村です。

 で、あったんですよ!

 こんな山の中に!

 「下仁田葱発祥の地」 の立て札がーーーーぁ ! ! ! !


 さっそく僕は、看板の立つ畑の地主を探して訪ねました。
 すると、そこの主人が見せてくれましたよ。
 先祖代々、作り続けている “下仁田ねぎ” というヤツを!


 怖気立つとは、このことです。
 全身に鳥肌が走りました。

 そのネギは、長ネギでも、僕らが知っているずんぐりとした下仁田ネギでもなかったのです!



 いよいよ、真実にたどり着いたようです。
   


Posted by 小暮 淳 at 18:55Comments(5)取材百景

2012年01月20日

下仁田ねぎのナゾ


 僕は、仕事の内容によって、肩書きを使い分けています。

 温泉の記事を書いたり、温泉関係で取材を受けたり、講演や講座を依頼されたときは 「温泉ライター」 と名乗ります。
 ただし、自分から名乗るのはそこまでであって、勝手に先方が都合の良い肩書きを付けてしまうこともあります。
 「温泉評論家」「温泉研究家」「温泉作家」「温泉ルポライター」「温泉ジャーナリスト」 など、書きたい放題です。

 でも、そもそも肩書きなんて、自分で付けるものでなく、仕事相手が決めるものだと思っていますから、いつもおまかせしています(自分で肩書きを付けると、「自称」 になりかねませんから)。

 ただ、温泉以外の取材や執筆のときは、「フリーライター」 と名乗ります。
 とても幅が広くて、便利な肩書きなので、ふだんは、ほとんど 「フリーライター」 を使っています。
 ですから僕の名刺は、ただ 「writer」 とだけ印刷されているんですよ。
 これなら、「温泉ライター」 でも 「フリーライター」 でも、TPOに合わせて自由に名乗れますからね。


 で、今日は雪の中、フリーライターとしての取材に、西毛地区(群馬県西部) を飛び回ってきました。

 読者の皆さんは、覚えていますか?
 以前、僕が群馬名産 「下仁田ねぎ」 のことをブログに書いたことを・・・。
 (12月18日の 『寝ずに今夜は下ネタねえさん』 参照)

 このとき、ブログに、さる方がコメントをくださいました。
 「上毛かるたの札に描かれているネギの絵は、下仁田ねぎではない」 と!
 確かに、そーなのですよ。
 あんなにも特徴的な形をした下仁田ねぎなのに、スラ~ッとした長ネギが描かれているんですね。

 なぜ?
 どーして?

 もしかして、これって、“謎学の旅” の始まり?

 と、いうことで、僕の頭の中は、昨年の暮れから 「下仁田ねぎ」 で、いっぱいになってしまったんです。

 ネット検索はもちろんのこと、図書館に通い文献の収集、下仁田生産農家へのインタビュー、上毛かるた競技会へのコメントとり・・・

 とにかく、なんで、上毛かるたの 「ね」 の札 『ねぎとこんにゃく下仁田名産』 には、下仁田ねぎが描かれていないのだーーーーっ!!!
 責任者、出て来ーーーい!

 と、日々、東奔西走して、地道に取材活動を続けていたのであります。
 そして、今日。
 いよいよ、掲載が決まった某誌の編集長と連れ立って、本丸へと乗り込みました。

 1人は、ベストセラー 『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』 の企画・編集にたずさわった某学芸員を直撃!
 もう1人は、下仁田役場の農林建設課の某職員を奇襲!

 ついに核心に触れる真実をつかんでまいりましたよ。
 なぜ、「上毛かるた」 に下仁田ねぎは描かれなかったのか?

 そして、本当の下仁田ねぎ発祥の地は、どこなのか?


 掲載日が決定しましたら、ご報告します。

 謎学の旅は、つづく・・・
  


Posted by 小暮 淳 at 18:02Comments(7)取材百景

2011年10月21日

巨大舌切バサミ


 今週は、東奔西走しています。
 昨日に引き続き、今日も向かったのは、西上州。
 磯部温泉であります。

 とは言っても、温泉取材ではありません。
 ということは、風呂にも入っていません。
 温泉地へ行って、温泉に入らずに帰ってくるのは、僕としては大変珍しいことです。

 訪ねたのは、“舌切雀のお宿” で有名な 「磯部ガーデン」 であります。

 では、温泉も入らずに、何をしに行ったのか?
 はい、「ハサミ」 を見にであります。
 大きな “舌切バサミ” を、 この目で確かめに行ってきたのです。

 実は、僕は長年、趣味の範疇で、群馬県内の民話や伝説を調べています。
 ところが、いつしか調べるだけでは物足りなくなってしまい、「なぜ、その民話が生まれたのか?」「実は、史実があって、事実に基づいているのではないか?」「今でも主人公の子孫がいるのではないか?」 などなど、興味は好奇心となって、気が付いたら仕事になっていたのです。

 数年前は、情報誌に 「編集長がゆく」 と題して、県内の謎を旅したコラムを連載していました。
 (※当ブログ内、カテゴリー「謎学の旅」参照)

 で、現在は、高崎市のフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に、『民話と伝説の舞台』 と題して、群馬県内が舞台の民話をほじくり出しては、その真偽を検証したエッセーを連載しています。

 で、今回は、日本の五大昔話の1つに数えられている 『したきりすずめ』 にスポットを当てて、そのお伽話の発祥の地とされている磯部を訪ね、取材をしてきました。


 えー、えー、今回も荒唐無稽な爆笑ネタをたくさん拾ってきましたよ!

 おじいさんが可愛がっていた “ちゅん” という雀の舌を、おばあさんが、ちょん切ったという大きなハサミが・・・
 長さ30センチ×幅27センチの、それはそれは大きなハサミです。
 あまりに大き過ぎて、おばあさんが持てないんじゃないの? と突っ込みを入れたくなるような立派なハサミです。

 と、思えば、欲張りばあさんが担いできたという、大きな葛籠(つづら) もあります。
 でも、こんなのは、まだまだ序の口なんです!

 あんなモノやこんなモノなど、これでもかっ!というくらい、お伽話発祥の地をアピールしています。

 でも、そこには、“なぜ、ここが 「舌切雀のお宿」 なのか?” という真実までもが隠されていたのです。


 いゃ~、民話って、面白いですねぇ~!
 これだから、民話探訪&検証あそびは、やめられませんって。


 ※『民話と伝説の舞台』 第12話、「舌切雀のハサミ」(仮) は、12月2日発行の「ちいきしんぶん」 にて掲載されます。
   


Posted by 小暮 淳 at 18:46Comments(2)取材百景

2011年10月13日

雪のつくりびと


 今日は珍しく、早起きをして(と、いっても6時ですが)、旧六合村(中之条町)の入山地区まで、ひとっ走りしてきました。

 でも、走ったのは僕でも、僕の車でもなく、F君の車です。
 F君は、6年前まで僕が編集人をやっていたタウン情報誌の編集で、お世話になっていたカメラマンです。
 先月、再会をし、今回、久しぶりにコンビを組んで、取材に出かけました。

 僕が昨年の春からタッチしている県の情報誌の中の 「つくりびと」 シリーズの第5話であります。
 「山のつくりびと」「里のつくりびと」「川のつくりびと」「空のつくりびと」 に続く次回冬号のテーマは、「雪のつくりびと」 です。

 みなさんは、「雪のつくりびと」 と聞いて、どんな人を思い浮かべますか?

 雪の彫刻家?
 スキー場で人工雪を降らしている人?
 でも、これでは、あまりにもストレート過ぎますよね。

 ちなみに過去の 「つくりびと」 シリーズは……
 「山」 は、幻のきのこ “黒まいたけ” の栽培人。
 「里」 は、ブランド米 “雪ほたか” の生産農家。
 「川」 は、ブランド鱒 “ギンヒカリ” の養殖人。
 「空」 は、巨大凧の製作者。
 でした。

 さてさて、今回は?

 はい、雪国の冬の風物詩 “凍(し)み豆腐” であります。

 いゃ~、この凍み豆腐の「つくりびと」っていうのが、群馬県内にいそうでいないんですよ。
 「以前は作っていた」 という人はいるんですが、現在現役で、しかも、すべて昔ながらの手作りで、販売までしている豆腐屋さんというと、たぶん、この人だけではないでしょうかね。

 僕が長年通っている旧六合村の 「喜久豆腐店」 の山本ゆき子さんです。
 偶然にも、「雪のつくりびと」 が “ゆき子” さんだなんて、ちょっと出来過ぎですけどね。

 凍み豆腐の手作りだなんて言うと、高齢の腰の曲がったおばあちゃんをイメージしていませんか?
 それが、ゆき子さんは、まだ若くておキレイな奥様なんですよ。
 なのに、たった一人で山奥で、豆腐店を営んでいるんです。

 ただ、それだけで感動してしまいます。

 群馬県産の大豆を使い、六合の天然水に浸けて、大正時代からの石臼で挽いて、豆腐を作ります。
 この豆腐を1㎝厚に切り、板の上に並べて、屋外で一晩凍らせます。
 入山地区の冬は、マイナス15℃になります。
 これをスゲで1つ1つ編んで、軒下にすだれのように吊るして、約2週間干します。

 寒ければ寒いほど、冷え込めば冷え込むほど、キメの細かい美味しい凍み豆腐になると言います。

 なんとも、気の遠くなるほどの手間とヒマをかけた、伝統食であります。

 いゃ~、日本人って素晴らしいですね~!


 久々のF君とのコンビで、いい仕事をしてきました。
 それだけで、今日は朝から気分がいいのです。

 F君、今日は大変お疲れさまでした。
 また、次回もよろしくお願いしますね。
 楽しい仕事をしましょう!
   


Posted by 小暮 淳 at 22:11Comments(6)取材百景

2011年08月10日

空のつくりびと


 昨年の4月に創刊した群馬県の観光情報誌 『ググっと ぐんま』 。
 創刊号から毎号、編集にかかわっています。

 この雑誌は、現在開催中の「群馬DC(デスティネーションキャンペーン)」 に合わせて発行されたのですが、開催が終わってからも発行されることになったようで、現在、秋号の制作に取り組んでいます。

 昨年の秋号から僕が担当しているページに、「つくりびと」シリーズがあります。
 1回目が 「山のつくりびと」、2回目が 「里のつくりびと」、3回目が 「川のつくりびと」 と題して、それぞれの群馬の風土に根付いた土地で、モノづくりをしている人たちを追いかけて取材をしています。

 僕は、この 「つくりびと」 という言葉が、大好きなんですね。
 子どもの頃から、モノづくりにあこがれていましたから、今でも “職人” という響きと、職業にあこがれてしまいます。
 こう見えて、一時は僕も、木工職人を 「目指そうかなぁ~」 と思ったことがあるんですよ。
 でも 「目指そうかな」 くらいの甘い考えですから、すぐに挫折しましたけどね。

 生まれ変わったら、今度は真面目に “ザ・職人” の道を必ず目指します!(キッパリ宣言)


 で、次回の 「つくりびと」 は、「空のつくりびと」です。
 山は、きのこ栽培人。里は、ブランド米生産人。川は、ブランド魚養殖人でしたが、では空ってナニ?って思われますよね。
 でも、群馬にはいるんですよ、すごい 「空のつくりびと」 が!

 と、いうことで今日、僕はその「空のつくりびと」 に会ってきました。

 「赤城凧(たこ)の会」代表の狩野友義さんです。

 狩野さんは、旧赤城村(現・渋川市)で、25年前から大凧の制作と飛揚を行っている人です。
 毎年、2月に前橋市の利根川河川敷で開催されている 『上州空っ風凧揚げ大会 in 前橋』 の目玉で上がる大凧と言えば、知っている人も多いと思います。
 あの凧が、25.5畳です。
 50人がかりで上げるそうです。

 実は、もっと大きい幻の巨大凧というのがあるんです。
 102畳という、とてつもない大きさゆえ、作ったものの、一度も大空を飛んだことのない凧です。
 まず揚げられる広さの場所が群馬にはないこと、また揚げるには莫大な保険料が必要で、個人の団体では不可能とのことでした。

 でも、この巨大凧、一度だけお披露目されたそうです。
 2001年に開催された 『第16回 国民文化祭』 の、旧赤城村上三原田歌舞伎舞台で行われた「農村歌舞伎 in あかぎ」本公演にて、展示されたそうです。
 その時の写真を見せていただきましたが、いやぁ~! ただただデカイの一語です。
 でも、もし飛んだら圧巻でしょうなぁ~。

 狩野さんとお話をしていたら、こっちまで気分が舞い上がってきましたよ。


 「どうして、凧を作って、揚げようと思ったんですか?」 と僕。

 すると狩野さんは、瞳をキラキラさせながら、
 「だって、ずーっと子どもの頃から、空はあこがれでしたから」
 とは、んーーーん、カッチョいい!

 やっぱ、カッコイイおやじは、飛んでるぜぃ!
 それも大凧に乗って、悠々と大空を飛び回っているのだ!

 だんだん、狩野さんが 「仮面の忍者 赤影」 の白影さまに見えてきたのであります(ちょっと古過ぎましたかね)。
  


Posted by 小暮 淳 at 23:18Comments(4)取材百景

2011年07月13日

ファイナル取材、ついに完了!


 長い長い取材活動でした。

 昨年の10月、四万温泉協会事務局を訪ね、出版会議に参加してから丸9ヵ月が経ちました。
 打ち合わせを重ね、本格的に取材を始めたのが12月の中旬。
 あれから毎月毎月、四万温泉を訪ね、泊り込み、人と会い、資料を集め、長い長い取材活動を続けてきました。

 出動回数18回、延べ日数36日間。

 本の出版の仕事を着手するたび、「この仕事には、終わりがあるのだろうか……」と、毎回不安にかられます。
 でも、終わりのない旅はないのですね。

 昨日、ついに最後の取材を完了しました!(よくやった! ←自分でほめる)

 四万温泉にある37軒の宿(旅館・ホテル・民宿) の全風呂 + 6つの外湯(共同湯) +43本の源泉を、すべて制覇しました。
 で、なんだか今は、達成感より、脱力感に見舞われています。
 しばらくボーっとして暮らしたいのは山々なのですが、ライターはこれからが勝負です。

 8月15日の完全入稿(すべての原稿が入り、デザイナーのもとからデータとなって印刷所へ入る)まで、あと約1ヶ月間。
 僕は、受験生のように「必達目標」をかかげて、ねじり鉢巻にて、連日連夜、原稿書きに明け暮れる毎日と闘わなくてはなりません。
 今日の脱力感なんて、つかの間の休息なのであります。
 だから今日くらいは、のんべんダラリと過ごさせてください。


 と、いうことで、昨日は昼からディレクター兼カメラマンのK氏とともに、最後の取材に四万温泉へ入りました。

 「やったー!」
 37軒目の宿の取材を終えて、ガッツポーズの僕。
 「じゃあ、とりあえず祝杯を挙げますか?」とK氏。

 いいですねー、そー来なくっちゃ!とばかり、酒屋へ直行。
 缶ビールを抱えて、清流・四万川のほとりへ。

 「S君も呼んであげましょうよ」と、ケータイにて連絡を。
 そうです、今日もひと足先に現地入りして、グラビアカメラマンのS君が、四万川に腰まで浸かって、水中写真を撮っているのです。

 すぐに、渓流釣り用の腰まである長靴を履いたS君が川から上がって来ました。

 「カンパーイ!」

 うーーーっ、たまんないっすねぇ。
 平日の真っ昼間、仕事を終えた充足感に包まれながら、山深い温泉地の渓流のほとり。
 3人の怪しいオヤジたちは、豪快にビールをあおったのでありました。

 その晩。
 S君は、最後の仕事へ出かけました。
 肝心要の表紙撮影です。

 彼のすごいところは、川の中だろうが、夜の温泉街だろうが、何度でも出かけて、納得いく写真が取れるまで通い撮り続けることです。
 いえいえ、納得のいった写真が撮れて、ディレクターが「これで行きましょう」と言っても、「もっといい写真が取れるかもしれない」からと、夜となく、朝となく、光の加減で表情を微妙に変える被写体を撮影しに、何度でも出かけて行くのです。

 彼のような人を、本当の “プロカメラマン” って言うんでしょうね。


 で、酒を飲んでいるK氏を宿に置いて、僕もS君の撮影現場へ同行しました。

 ちょうど温泉街は、夕食を終えた宿泊客らが浴衣姿で夕涼みにそぞろ歩いています。
 また、地元の商店主たちは一日の仕事を終えて、タオルと桶を抱えて共同湯へと出かけて行きます。

 「なに、撮ってるの?」
 橋の上で撮影をしていると、浴衣姿の女性が数名、見物にやって来ました。

 これこれしかじか、本の表紙を撮っているのだと説明すると、その中の1人が、
 「えっ、小暮淳さんですか?」 と言ったのです。
 これには、ビックリ!

 「はい、そうですけど……」 と返事をするやいなや、「いつも読んでます~」 と握手をするわ、写メを撮るわ、大変なことになってしまいました。
 他の女性は、僕のことなど知らないようで、「誰? 有名人?」と訊いています。
 最初の女性が説明を始めると、途端に態度が変わり、次々と握手を求めだし、1人ずつ一緒に写真を撮るように要求され、ますます大変なことに……。

 浴衣姿の熟女たちに、体中を触られ、もみくちゃにされました(恐るべし、熟女パワー!)。

 「ははははっー、これは凄い! 淳ちゃん、いまや芸能人並みの人気だねぇ」
 とS君は、撮影を続けながら、その騒ぎを傍観していました。

 宿に帰ってからは、K氏に事の顛末を報告し、そのネタで盛り上がったことは、言うまでもありません。


 それにしても、どーして僕の読者って、オヤジとオバサンばっかりなのよ?

 まっ、いいか。
 あのオバサンたち、今度出る本は全員買ってくれるって言ってたものな。
  


Posted by 小暮 淳 at 18:23Comments(2)取材百景

2011年05月28日

茶釜の蓋はどこへ行った?


 今日は小雨のぱらつく中、館林市の茂林寺まで行ってきました。

 何をしにかって?
 もちろん「分福茶釜」を見にです。

 何で「分福茶釜」を見に行ったのかって?
 それは、蓋(ふた) を確認しにであります。


 みなさんは、昔話の「分福茶釜」の話は、知っていますよね?
 子供の頃、絵本で読んだと思います。
 茶釜から顔と手足を出したタヌキが綱渡りをする、あの「分福茶釜」であります。

 当然、お伽話でありますから、茶釜は踊りませんが、このお伽話には元になった別の話があるのです。

 今から約580年も昔、室町時代のことです。
 榛名山のふもと(たぶん伊香保温泉) で茂林寺の正通和尚は、茶釜を持った四角い顔の坊さんと出会い、寺へ連れて帰りました。のちに、この坊さんは、顔が四角いことから「守鶴」和尚と呼ばれるようになるのですが、持参した茶釜が実に不思議な茶釜だったのです。

 ある夏のこと。
 寺で千人法会があり、千人分のお茶を用意することになりましたが、守鶴和尚の茶釜だけは、湯が無尽蔵に沸いてなくなることがなかったといいます。

 寺に来て161年が経ったある日、守鶴和尚はこつ然と姿を消します(161年目にですぞ!)。
 後世、この守鶴和尚はタヌキの化身だと伝わり、この話を元に「分福茶釜」のお伽話が創られたといわれています。


 で、
 ならば、守鶴和尚は、どこから来たのか?
 はたまた、茶釜はどこから持ってきたのか?

 知りたいですよねぇ~?

 だから調べました!
 すると、あらららららら~、っとオッタマゲテしまうような守鶴和尚と茶釜の前世物語があったんですよ!

 それも、茶釜を持ち出すとき、茶釜の蓋を落としてしまった事実まで突き止めました。
 だから、もし、その前世物語が本当なら、現在、茂林寺に現存する茶釜の蓋は “ニセモノ” ということになりますよね。

 と、いうことで今日は、『民話と伝説の舞台』 を連載している「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) のY編集長とともに、茶釜の蓋を確かめに行って来たのであります。

 その結果、現存する茶釜には蓋があることにはあるのですが、これは誰が、どう見ても、合わせ物でした。
 では、ホンモノの蓋はどこに?

 それを探すのが、僕の仕事なのであります。

 この結末は、「ちいきしんぶん」に掲載されます。
 また、後々には、シリーズの出版化も予定されています。

 ご期待くだされ!
   


Posted by 小暮 淳 at 22:43Comments(0)取材百景

2011年04月15日

現場百遍 取材何遍

 「現場百遍」って言葉、好きなんですね。

 刑事ドラマなんか見ていると、捜査に行き詰っている若手刑事に、初老のベテラン刑事が良く言ってますよね。
 「現場百遍だ!行き詰ったら現場にもどれ!」
 なーんてね。

 実は、取材の現場も同じなんです。

 僕は以前、雑誌の編集人を何冊かやったことがあります。
 だから、スタッフの子たちには、良く似た言葉を言いました。

 「電話取材で済ませるな!」
 「直接会って話を聞いて来い!」
 「自分が納得するまで何度でも行って来い!」
 なーんてね。

 とは言っても、締め切りや予算の関係から、じっくりと手間隙かけてなんて雑誌は作っていられないんですけど。
 だから制約のある編集業から抜け出して、フリーランスの道を選んだのも理由の1つです。

 「現場百遍」ならぬ、取材が納得ゆくまで何遍でも通えるライターになろうと……

 広く浅くまとめてしまう雑誌編集に、嫌気が差したのが本音かな。
 狭くても深く知ることができる執筆活動に魅力を感じたのです。
 だから僕は、同じ温泉、同じ旅館に何度でも足を運び、ご主人や女将さんと何度も会い、何遍でも話を聞く取材スタイルを作りました。
 まずは自分が納得しなければ、読者は絶対読んでくれませんもの。


 で、今日は伊勢崎市宮子町にある「龍神宮」へ行って来ました。
 かつて何度も訪ねて、いくつかの媒体に記事を書いたことのある場所です。

 海なし県でありながら「浦島太郎伝説の地」と言われ、龍宮城へ続く入り口が今も存在する神社。
 ※詳しくは、当ブログのカテゴリー「謎学の旅」⑤「浦島太郎の墓」参照。

 最初に訪ねたのは6年前。
 当時、僕が編集していた雑誌に記事を書きました。
 「龍神宮を守る会」の井上清さんという方を訪ね、江戸時代中期に書かれた「口口相承龍宮本記」なる所蔵書を見せてもらいました。
 その書には、天文16年(1547)に浦島太郎のモデルとなった人物が龍宮城へ行って来たことが記されているのです。
 そして、そのとき持ち帰った玉手箱が、今でも存在することをつきとめました。

 3年後の2008年、今度は新聞の取材で訪れると、井上清さんは1年前に59歳という若さで亡くなっていました。
 残念ながらその時は、その後の新しい情報や会の活動の様子は誰にも聞けませんでした。

 そして今日、またまたフリーペーパーの依頼を受け、再三の現場取材を敢行してきました。

 井上清さんの死去により、実質「龍神宮を守る会」は消滅していましたが、清さんの従兄弟という人から話を聞くことができたのです。
 そして新たなる不思議を発見!

 龍宮城から持って帰った品は、玉手箱だけではなかったという事実。
 乙姫様から、あと2つの品をもらっていたのです。

 さて、それは何と何か?
 その品のゆくえは?
 今も存在するのか?

 あっという結末が、平成の現代にも残されていたのです。


 つくづく、取材は現場百遍なのだと思いました。

 ※この結末は、4月29日発行の高崎市のフリーペーパー「ちいきしんぶん」にて掲載されます。
  


Posted by 小暮 淳 at 21:01Comments(2)取材百景

2011年03月29日

うおっ、ギンヒカリ

 「ギンヒカリ」って、ご存知ですか?
 お米じゃありませんよ。魚の名前です。

 群馬県産の最高級ニジマスのことです。
 平成14年に商標登録された群馬の大型ブランド魚なのですが、当時は知名度も低く、まったく売れなかったと聞きます。
 ところが最近は、県の地産地消の推進を受けて、徐々に私たちの口にも入るようになりました。

 まだまだスーパーや一般の飲食店では見かけませんが(最高級魚ですから)、温泉旅館などでは、新しい群馬の食材として、食卓を彩っています。
 僕も何度か食べたことがありますが、「えっ、これがニジマス!?」とは思えない色と食感に驚かされます。

 通常、ニジマスの肉は白身ですよね。
 でもギンヒカリは鮮やかなサーモンピンク色なんです。
 生臭さがなく、刺身や切り身で食すところなど、川魚とは思えない食味であります。

 でも、食べたことはあっても、生きている姿を見たことがある人は、少ないんじゃないですかね。
 と、いうことで、僕は今日、そのギンヒカリに会いに行ってきました。


 長い自粛生活が続いていたので、実に久しぶりの取材であります。
 「ああ、この感じ~!」 たまりません!
 カメラマンと打ち合わせをしながら取材現場へ向かう、“この感じ” ですよ。

 僕が何十年と、雑誌の編集や執筆の仕事を飽きもせずに続けていられるのかといえば、それはズバリ!“取材が大好き” だからなんです。
 20数年前、この世界に入ったとき、取材の面白さを知ってしまったのです。
 知らない土地へ行ける、知らない人たちに会える、知らない事を知れる……
 このハラハラ、ドキドキ、ワクワク感がたまらんのですよ。

 で今回、訪ねたのは、吾妻郡東吾妻町の「あづま養魚場」です。
 ここでは、県内シェアの50%以上のギンヒカリを生産(養殖)しています。

 さっそく、ご対面!

 うおっっっ、と、でで、でっか~い!

 姿形はニジマスでありますが、大きさは優に30cm以上あります。
 体重が1kg以上あるものを「ギンヒカリ」と呼ぶとのこと。なかには2㎏を越えるものもあるとか。
 名前どおりの銀色の光沢が、美しいではありませんか!
 まさに、これは群馬を代表するブランド魚であります。

 池田社長の話にもありましたが、全国の大型ブランド鱒のなかでも「最高の味に仕上がった」絶品のニジマスとのことです。

 ぜひ、みなさん。
 まだ食されていない方は、群馬のブランド魚「ギンヒカリ」を一度召し上がれ!

 温泉とギンヒカリで、群馬のブランド力は、ますます向上しますよ。
 間違いなし!
   


Posted by 小暮 淳 at 21:28Comments(7)取材百景