2021年01月26日
温泉考座 (64) 「熱くてもクールな浴感」
川全体が野天風呂になっていることで有名な尻焼(しりやき)温泉 (中之条町)。
源泉の噴き出し口が長笹沢川の川床にあり、人が入れるだけの穴を掘り、裸になって座ると尻が焼けるように熱くなることから 「尻焼」 の名が付いたといわれています。
昔から痔(ぢ)の治療に効果があるとされてきました。
かつては 「尻焼」 の文字を嫌って、温泉名を 「尻明(しりあけ)」 「白砂(しらす)」 「新花敷(しんはなしき)」 などと呼んだ時代もありました。
この温泉の発見は古く、嘉永7(1854)年の古地図に温泉地として記されています。
村人たちが利用していたようですが、旅館が建ったのは昭和になってからのこと。
下流にある花敷温泉の旅館が、別館を建てて開業したのが始まりでした。
花敷温泉が古くから開けていたのに比べ、尻焼温泉の開発が遅れた理由は、道が急峻だったことと、温泉周辺におびただしい数のヘビが生息していて、人々を寄せ付けなかったからだといわれています。
現在、3軒の温泉宿があり、すべて異なる源泉を使用しています。
その中で唯一、自家源泉を所有する 「ホテル光山荘」 の湯は、不思議な浴感があることで知られています。
泉温は約54度。
加水をしていないので、浴槽の湯は、かなり熱めです。
すぐに体を沈めることはできません。
そこで役に立つのが、浴室に備えてある大きな 「湯かき棒」 です。
これでジャバジャバと豪快に湯をもんでやります。
すると今度は抵抗なく、スーッと体が湯の中へ入って行くのです。
もちろん、それでも熱いのですが、不思議とクールな浴感であることに気づきます。
まるでミントの入浴剤を入れた湯の中に入っているような清涼感があるのです。
その感覚は、湯から上がってからも変わりません。
あれほど熱い湯に入ったにもかかわらず、体がほてることなく、まったく汗が噴き出しません。
なんとも涼しい湯です。
私が訪ねたのは真夏でしたが、その晩は爽快な気分で床に就きました。
<2014年10月1日付>
2021年01月23日
温泉考座 (63) 「鎮魂の湯舟」
群馬県沼田市とみなかみ町の境にある三峰山(みつみねやま)の中腹。
関越自動車道をまたぎ、宿と向かい合う丘に、高さ約20メートルの白い塔が立っています。
月夜野(つきよの)温泉の一軒宿 「みねの湯 つきよの館」 の女将、都筑理恵子さんの父、理(おさむ)さんが平成元(1089)年に、異国の地に果てた戦友をしのんで建立した 「鎮魂之碑」 です。
旧オランダ領東インド (現インドネシア) のジャワ島で軍務についていた理さんは、終戦直後、旧日本軍の残留兵とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐって衝突した 「スマラン事件」 によって、多くの戦友を失いました。
「父は 『これは生き残った者の使命だ』 と言っていました。その父も5年前、86歳で戦友たちの元へ旅立ちました」
と女将は、塔を見上げながら話してくれました。
「鎮魂之碑」 建立の翌年、理さんは遠方から供養に訪れる遺族や関係者のためにと温泉を掘削し、旅館の営業を始めました。
生前、著書 『嗚呼スマランの灯は消えて』(広報社) の中で、<慰霊の園にふさわしい、自然の地形を生かした場所> と記しています。
ここは全国でも美しい地名で知られる 「月夜野」。
平安の昔、京の歌人、源順(みなもとのしたごう)が東国巡礼の途中に通り、三峰山から昇る月を見て 「よき月よのかな」 と深く感銘し、歌を詠んだことが地名の由来と伝わります。
その月夜野盆地を見渡す湯舟からは、左手に子持山から続く峰々を望み、正面に大峰山、吾妻耶山(あづまやさん)といった群馬の名峰が連なり、眼下には棚田が広がり、こんもりとした鎮守の森が、のどかな山里の風景を描いています。
極めつきは夕景の妙!
稜線をシルエットにして、鮮やかな緋色に燃え上がる夕焼けは、息をのむほどに美しい。
やがて、帳(とばり)が下りて、天空の主役が月に替わると、まさに温泉地名にふさわしい “月光の湯” を満喫することができます。
なぜ、ここに鎮魂之碑を建てたのか?
なぜ、ここに温泉宿を造ったのか?
答えは、この絶景にありました。
塔も宿も浴室も、すべて南方のジャワ島を向いて建てられています。
<2014年9月17日付>
2021年01月20日
温泉考座 (62) 「銭湯なのに温泉」
平成26(2014)年6月、「富岡製糸場と絹産業遺産群」 が世界遺産に登録され、群馬県内の観光は活気づいています。
大きな温泉地では県外からの誘客戦略として、富岡製糸場と温泉地をつなぐ観光バスの運行を始めたところもあります。
群馬の温泉が全国に知られる絶好のチャンスです。
これを機に、周辺の小さな温泉地や秘湯の一軒宿にも目を向けていただきたいと思います。
ところで、富岡製糸場から一番近い温泉地 (宿泊施設のある温泉) は、どこかご存じですか?
それは富岡市内にある 「大島鉱泉」 です。
鏑川(かぶらがわ)の支流、野上川沿いの山里にひっそりたたずむ一軒宿で、煙突から立ちのぼるけむりが秘湯情緒をかもし出しています。
地元では 「榊(さかき)の湯」 と呼ばれ親しまれています。
大正初期のこと。
村人たちが共同で井戸を掘ったところ、ゆで卵のようなにおいのする水が湧き出しました。
温めて浴すると腫れ物が治り、飲めば胃腸病に効くといわれ、長い間、地元の人たちに利用されていました。
戦後になり、先代が公衆浴場の許可を申請し、この井戸水を利用した銭湯を始めました。
昭和42(1967)年に現主人が旅館を併設して、3代目を継ぎました。
銭湯と旅館の玄関は分かれていますが、2棟は渡り廊下で続いています。
浴室の入り口にはのれんが掛かり、番台こそないものの雰囲気は銭湯そのもの。
総タイル張りの浴室には定番の富士山が描かれていて、桶もカランも町の銭湯と変わりありません。
でも、ここが他の銭湯と違うのは、湯が天然温泉であること。
県内で唯一、温泉を利用した銭湯として、全国から温泉ファンのみならず、銭湯マニアたちも訪れています。
湯は無色透明ですが、ほんのりと硫黄 (硫化水素) の香りがします。
アルカリ度を示す水素イオン濃度はpH9.2と高く、ツルッとした感触で肌にまとわりつきます。
現在の温泉法では、25度未満の冷鉱泉でも含有成分を満たしていれば “温泉” と表記できます。
なのに、あえて “鉱泉” と名乗っているところに、大正、昭和、平成と守り継いできた主人たちの湯守(ゆもり)としてのこだわりを感じます。
<2014年9月10日付>
2021年01月15日
温泉考座 (61) 「ダムに沈んだ温泉地」
八ッ場(やんば)ダムの計画が浮上したのは昭和27(1952)年。
以来、住民たちの生活は翻弄され続けてきました。
ダム湖に水没する川原湯温泉 (長野原町) にとっては、温泉の存続を賭けた闘いの半世紀でした。
しかし、長い苦悩の日々も、終わりを迎えようとしています。
今秋にはダム本体工事が始まります。
すでに数軒の旅館は高台の代替地へと移転して、新たな温泉地の歴史を歩み出しました。
※(八ッ場ダムは2020年3月に完成しました)
群馬県内には、同じくダム湖に沈み、移転地で再開した温泉地があります。
昭和33(1958)年、赤谷川を堰き止めた相俣ダム (旧新治村) の建設で、人造湖の赤谷湖が誕生しました。
これにより 「湯島」 「笹の湯」 という2つの温泉地が水没。
4軒あった旅館は代替地へ移転し、新たな源泉を掘削して猿ヶ京温泉 (みなかみ町) として生まれ変わりました。
翌年、国道17号の三国トンネルが開通。
その2年後には苗場国際スキー場 (新潟県) がオープンし、大勢のスキー客が押し寄せるようになりました。
旅館も増え、農家はこぞって民宿経営に乗り出しました。
スキーブーム、マイカーブームも追い風となり、湖を見下ろす高台の温泉地は、群馬を代表する温泉地へと発展しました。
「猿ヶ京」 という地名の由来には、こんな伝説があります。
永禄3(1560)年、上杉謙信が越後から三国峠を越えて関東に出陣の折、現在の猿ヶ京である宮野の城に泊まり、不思議な夢を見ました。
宴席で膳に向かうと箸が1本しかなく、ごちそうを食べようとするとポロポロと歯が8本抜け落ちました。
嫌な夢を見たと思い、このことを家臣に告げると、「これは関八州 (関東一円) を片端 (片箸) から手に入れる夢なり」 と答えたので、謙信は大いに喜び 「今年は庚申(かのえさる)の年で、今日も庚申の日。出陣の前祝いに、宮野を 『申が今日』 と名付ける」 と申し渡したといいます。
移転した4軒のうち2軒は廃業しましたが、旧湯島温泉の長生館と桑原館 (現・猿ヶ京ホテル) が歴史を守り継いでいます。
水没から半世紀以上経った今でも、渇水時には湖底から湧出する温泉の湯けむりを見ることができるといいます。
<2014年9月3日付>
2021年01月12日
温泉考座 (60) 「忘れたころに猛威をふるう」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
(一部、加筆訂正をしています)
平成26(2014)年6月、埼玉県内の日帰り温泉施設に入浴した60~80代の客3人がレジオネラ菌に感染し、うち同県在住の60代の男性が死亡しました。
男性は同施設に複数回入浴し、発熱の症状を訴え、レジオネラ肺炎と診断されていました。
その3年前にも群馬県北部の温泉旅館で、同様の死亡事故が起きています。
いったい、いつになったら現代人は、レジオネラ菌から身を守ることができるのでしょうか?
レジオネラ菌は、自然界の土中や河川に生息している菌です。
従来のような放流式 (かけ流し) の浴槽では、たとえ菌が入っても繁殖する前に流されてしまいました。
ところが、循環式の浴槽の登場により、菌が爆発的に繁殖するようになりました。
レジオネラ菌の繁殖を防ぐには、2つの方法があります。
1つは、浴槽の湯を換水して、徹底した清掃をすること。
もう1つは、浴槽内の湯を殺菌消毒することです。
湯量が豊富な放流式の場合は、前者で繁殖を防ぐことができます。
しかし、湯量が少ない場合は、循環式の浴槽に頼るしかありません。
この場合、清掃もさることながら、後者の殺菌消毒が不可欠となります。
では、なぜ同じような死亡事故が起きてしまうのでしょうか?
都会の日帰り温泉施設ですから、循環式風呂であったはずです。
だとすれば、必ず消毒剤を投入しています。
清掃も保健所の指示により適切に行われていたことでしょう。
事実、毎月行っている水質検査では異常がなかったといいます。
ただ、最近は消毒剤の臭いを嫌う客が増えているといいます。
「塩素臭い」 「プールのような臭いがする」 などの苦情が寄せられるため、消毒剤の投入を控える施設もあるようです。
その結果、浴槽内の塩素濃度の管理が不十分となり、殺菌力が低下する可能性があります。
かけ流し風呂にせよ、循環式風呂にせよ、消毒剤だけに頼るのではなく、徹底した清掃を心がけてほしいものです。
レジオネラ菌は、忘れたころに猛威をふるいます。
<2014年8月13日付>
2021年01月09日
温泉考座 (59) 「入れ替わった神様」
毎年5月9~10日の両日、沼田市の老神(おいがみ)温泉で開かれる赤城神社の例大祭 「大蛇まつり」。
「セイヤー、セイヤー」 と威勢の良いかけ声とともに、巨大なヘビが夜の温泉街を練り歩く勇壮な祭りです。
その昔、赤城山の神 (ヘビ) と日光男体山の神 (ムカデ) が戦った折、傷ついた赤城の神が矢を地面に突き立てると、湯が湧き出しました。
その湯につかり傷を癒やした赤城の神は陣を立て直し、日光の神を追い返したことから 「追神」、それが転じて 「老神」 と呼ぶようになったといいます。
しかし、一般に伝わる伝説は、日光の神がヘビで、赤城の神はムカデです。
例外もあるかと調べてみましたが、アニメ 『まんが日本昔ばなし』 をはじめ、すべて日光がヘビ、赤城がムカデでした。
日光側に残る伝説も同様で、ムカデを1匹殺すと男体山登拝と同じ御利益があるとまで言われています。
赤城山東南麓から平野部にかけての一帯では、昔からムカデは赤城神社の使いといわれ、殺すとたたりがあるとされています。
旧新里村 (桐生市) には、赤城山を御神体しと、ムカデの彫刻を施した 「百足鳥居(むかでとりい)」 が立っています。
「私のおばあちゃんは、昔は赤城様の祭りでヘビのみこしなんて担がなかったと言っています」
と、温泉街で働く20代の女性。
また、「祭りにヘビが登場したのは、昭和30年代になってからでは」 と教えてくれた初老の男性は、「どこでヘビとムカデが入れ替わっちゃったんかねぇ」 と言って笑いました。
昔、老神温泉では旧暦の4月8日は赤城の神が入浴して傷を癒やした日として、湯壺 (ゆつぼ) の周りにしめ縄を張って、一般の入浴を禁じていました。
また、大きなワラ人形を作り、「オタスケ!」 と叫びながら村人が、竹槍 (たけやり) で突いたともいいます。
そのワラ人形が日光の神で、赤城の神への助勢だとしたら……。
いつしか突いていた日光の神を担ぐようになったと考えられなくもありません。
赤城の神はヘビなのか? ムカデなのか?
今となっては、神のみぞ知ることです。
<2014年8月6日付>
2021年01月05日
温泉考座 (58) 「タダほど良い湯はない」
「料金の高い宿は、お湯も良いのですか?」
よく聞かれる質問です。
高級な料亭や寿司屋が値段の高いぶん、それだけ新鮮で良いネタを使っているように、温泉宿の湯の質も料金に比例すると思われているようです。
もちろん、高級旅館や高価な入浴施設で、湯の素晴らしいところはあります。
ただ私の経験からすると、反対に料金の安いところに良い温泉が多いことに気づきます。
そもそも温泉とは、地中から自然に湧き出してくるものです。
ですから 「自然湧出」 「自然流下」 「完全放流(かけ流し)」 の温泉ならば、コストはさほどかかりません。
しかし、これが地中を掘削して、動力により汲み上げ、タンクに貯湯し、加水や加温をしながら循環ろ過装置を使って、温度を一定に保ちながら消毒をしていれば、設備費や光熱費、人件費がかかってきます。
当然ですが、その経費は宿泊料金や入浴料金に上乗せされます。
またサウナやジェットバスなどの諸施設、エステやアロマなどの入浴後のサービスを充実させていることが、料金にはね返っている場合もあります。
逆に料金が安いということは、人の手が加わらない自然に近い温泉に出合える確率が高くなります。
「外湯」 と呼ばれる共同湯のある温泉地へ行けば、一目瞭然です。
湯量が豊富だからこそ、無料の入浴施設があるのです。
ほとんどの場合が無人で、地元や湯治客が自由に利用しています。
そして浴槽には、「自然湧出」 「自然流下」 「完全放流」 による極上の湯が満たされています。
タダほど新鮮で良い湯はありません。
温泉旅館や入浴施設に求めるものは、人それぞれだと思います。
便利な施設や豪華な料理、徹底したサービスを楽しみにしている人も多いことでしょう。
でも、それらの付加価値は、わざわざ温泉地まで行かなくても、都会でも十分体験することができます。
そこが温泉地である以上、料金に関係なく、第一に求めるものは、“温泉” であってほしいものです。
<2014年7月30日付>
2020年12月28日
温泉考座 (57) 「牧水と温泉宿(下)」
<沼田町に着いたのは七時半であった。指さきなど、痛むまでに寒かった。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受け取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊まるかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出して、その旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。宿屋の名は鳴滝と云った。>
(『みなかみ紀行』より)
大正11(1922)年10月21日。
歌人の若山牧水は、四万温泉の宿を出て、中之条から電車に乗り、午後、渋川に着きます。
駅前の小料理屋で食事をとった後、ふたたび電車に乗り、沼田まで足を延ばします。
その晩に沼田で泊まった宿が、「鳴滝(なるたき)」 でした。
「鳴滝」 は沼田城下の庄屋屋敷で、大正時代に旅館となりました。
昭和初期に廃業しましたが、その後、元水上町長の高橋三郎氏が建物を購入して、水上温泉郷の一つ、うのせ温泉(みなかみ町) に移築し、「旅館 鳴滝」 として営業を再開しました。
昭和40年代には一時、農協の研修施設として使用されたこともありましたが、同57年に現在のオーナーが買収して、ふたたび旅館として営業を再開。
少しずつ増改築を施しながら、平成14(2002)年に、現在の 「旅館みやま」 がリニューアルオープンしました。
外観はすっかり変わってしまいましたが、それでも本館のそこかしこに当時の面影が残されています。
黒光りした太い梁や大黒柱、時を刻んだ調度品が、歴史の証人のように昔と変わらぬ姿でたたずんでいます。
これらの資材を当時、沼田から馬で運んで来たというのですから、その桁外れの財力と労力に、ただただ感心させられます。
高台に建つ露天風呂からは、かつて 「鳴滝」 があった沼田方面が見渡せます。
もし牧水が生きていて、あのときの沼田で泊まった旅館が、今は温泉宿になっていることを知ったなら……。
温泉好きの牧水のことです。
さぞかし大喜びで、訪ねて来たことでしょう。
<2014年7月9日付>
2020年12月24日
温泉考座 (56) 「牧水と温泉宿(上)」
<湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年に別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
(『みなかみ紀行』より)
大正11(1922)年10月23日。
歌人の若山牧水は、法師温泉の帰り道に湯宿(ゆじゅく)温泉 (みなかみ町) に投宿しています。
著書 『みなかみ紀行』(大正13年) に屋号は記されていませんが、このときの宿屋が明治元(1868)年創業の老舗旅館 「ゆじゅく金田屋」 でした。
「時代でいえば2代目と3代目の頃です。私の曽祖父と祖父が、もてなしたと聞いています。牧水さんが泊まられた部屋は、こちらです」
そう言って5代目主人の岡田洋一さんが、現在は本館から一続きになっている土蔵へ案内してくれました。
上がり框(かまち)の暖簾(のれん)をくぐり、ひんやりとした空気と重厚な白壁に囲まれた急な階段を上がると、床の間の横に座卓が置かれた蔵座敷 「牧水の間」 が残されています。
<一人になると、一層疲労が出て来た。で、一浴後直ちに床を延べて寝てしまった。一時間も眠ったと思う頃、女中が来てあなたは若山という人ではないかと訊く。不思議に思いながらそうだと答えると一枚の名刺を出してこういう人が逢いたいと下に来ているという。>
当時は、まだ宿に内湯のない時代です。
当然、牧水は外湯 (共同湯) へ湯を浴(あ)みに行ったことでしょう。
その後、旅の疲れから早々に床に就きますが、すぐに来客があり起こされます。
宿には、こんなエピソードが残っています。
「その晩は、釣り名人と言われた祖父が釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ったと聞いています。牧水さんはアユがお好きなようで、ペロリと2匹を平らげたそうです」
と、主人が焼きたてのアユを出してくれました。
この料理は 「牧水焼き」 と名付けられ、宿の名物になっています。
香ばしいみそのにおいが食欲をそそる一品です。
さぞかし歌人も、酒がすすんだことでしょう。
<2014年7月2日付>
2020年12月20日
温泉考座 (55) 「温泉は生きている」
私は 「一軒宿」 と呼ばれる小さな温泉地に魅せられ、群馬県内の取材を続けてきました。
そこには大きな温泉地のように、歓楽施設やみやげ物屋はありません。
山の中や渓谷のほとりに、一軒の宿がポツンとたたずんでいます。
一軒宿のほとんどは、自家源泉を保有しています。
そして何十年、何百年と湧き続ける源泉を守り継いでいる 「湯守(ゆもり)」 がいます。
たった一軒で湯と歴史と温泉名を守っている姿に、私は本来の温泉地の有り様を見いだしています。
しかし 「一軒宿」 ならではの問題も抱えています。
何軒も宿のある温泉地ならば、一軒が廃業しても温泉地自体が無くなることはありません。
ところが一軒宿の温泉地は、その宿が廃業してしまうと、温泉地までもが地図から消えてしまうことになります。
一軒宿の温泉地は、絶滅の危機に瀕しているといえます。
私は2009年に 『ぐんまの源泉一軒宿』(上毛新聞社) という本を出版しました。
取材し、掲載した宿は50軒。
数軒に取材を断られたものの、県内の一軒宿をほぼ網羅しています。
その5年後のこと。
たかが5年の間に、4軒の宿が廃業していることに気づきました。
経営不振、後継者不在など理由は様々ですが、年々、一軒宿の温泉地が減っているのは確かです。
明治25(1892)年に発行された群馬の温泉分析書 「上野鉱泉誌」 には、74ヶ所の温泉地が掲載されています。
この中で現存する温泉地は、わずか30ヶ所。
120年の間に40ヶ所以上の温泉地が消えたことになります。
当時は、まだ現代のように地中深く機械で掘削して温泉をくみ上げる技術のなかった時代です。
となれば消えた温泉は、すべて自噴泉だったことになります。
2014年4月、私は再度、県内の一軒宿を取材して 『新ぐんまの源泉一軒宿』(同) を出版しました。
消えた温泉がある一方で、後継者が現れて営業を再開した宿もありました。
また掘削技術の進歩により、新たに誕生した温泉宿もあります。
消える温泉、生まれる温泉。
そして、ふたたび息を吹き返す温泉。
「温泉は生きている」 と、つくづく感じます。
<2014年6月25日付>
2020年12月16日
温泉考座 (54) 「名は半出来、湯は上出来」
全国には約3,000もの温泉地があります。
秋田県の乳頭(にゅうとう)温泉や強首(こわくび)温泉、長野県の白骨(しらほね)温泉、岐阜県の下呂(げろ)温泉など、ユニークな名前の温泉は数ありますが、群馬県の半出来(はんでき)温泉 (嬬恋村) も、珍名温泉の上位にランキングされることでしょう。
JR吾妻線の無人駅、袋倉駅のホームに降り立つと、正面に <半出来温泉 徒歩8分> の看板があります。
坂道を下り、高架橋をくぐり抜けると、また小さな看板が立っています。
矢印と <足元にお気をつけください> の文字。
雑木林の中を吾妻川の河岸へと下りて行きます。
最後に、ゆら~り、ゆら~りと揺れる細くて長い吊り橋を渡れば、そこが半出来温泉の一軒宿 「登喜和荘」 です。
開湯は昭和48(1973)年。
地熱が高く、冬でも雪解けの早い場所があり、養鶏業を営んでいた先代が掘削したところ、温泉が湧き出したといいます。
「半出来」 とは、源泉が湧く土地の小字名。
由来には、作物が半分しか収穫できない荒れた土地だからという説がありますが、2代目主人の深井克輝さんは異を唱えます。
「“半” の字は 『ナカラ』 とも読みます。群馬の方言にも、“なかなか” とか “かなり” という意味を表す 『ナカラ』 という言葉があります。私は、かなり出来の良い土地のことだと解釈しています」
その出来の良い土地に湧いた湯は、地元の人たちに神経痛や腰痛に効く温泉として愛されてきました。
源泉の温度は約42度。
ややぬるめですが、そのぶん長湯をすることができます。
泉質は、ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉。
マグネシウムやカリウム、鉄分などのミネラルが豊富で、飲むと胃液の分泌を促す作用があることから 「胃腸の湯」 ともいわれています。
源泉の注ぎ口にコップが置いてあり、口に含むと塩味のきいた中華スープのような味がします。
炭酸を含んでいるため、湯の中でジッとしていると、体に小さな泡の粒が付き出します。
昔から泡の出る温泉は、骨の髄まで温まるといわれ珍重されてきました。
名前は半出来ですが、湯はかなり上出来な温泉です。
<2014年6月18日付>
2020年12月13日
温泉考座 (53) 「妊婦でも入浴OK!」
平成26(2014)年4月、環境省の有識者委員会で、入浴時の注意事項を定めた温泉法の基準見直し案が了承されれました。
これにより、温泉の入浴を避けるべき病気や症状を記載した 「禁忌症」 から “妊娠中” の文言が削除されました。
昭和57(1982)年に定められた、それまでの 「禁忌症」 には、次のような症状が記載されていました。
<急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、肝不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般的に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)>
挙げられている項目は、妊娠中を除けば一般に風呂に入るときに注意を要する病気の症状です。
なにも温泉に限ったことではありません。
ではなぜ、妊娠中のみが病気でもないのに記載されていたのでしょうか?
これが見直しの争点でした。
「根拠が不明」 との意見があり、専門家が改めて調査したところ、「温泉浴が流産や早産を招くといった医学論文や研究はなかった」 とのことでした。
私も以前から 「禁忌症」 の項目を見るたびに疑問に思っていました。
全国には妊婦の入浴や赤ちゃんの産湯に温泉を利用しているクリニックがあります。
我が家でも、妻が臨月の時に温泉へ連れて行きましたが、3人の子が自然分娩で生まれています。
禁忌症から “妊娠中” の文言が消えることで、妊婦も安心して温泉に行けるようになれば、温泉地にとっても朗報です。
見直しでは、「適応症」 にも新たな項目が追加されました。
適応症とは、効能があるといわれる病状のことで、一般には神経痛や筋肉痛、関節痛、五十肩、冷え性などの慢性病の類いが記載されています。
禁忌症同様、温泉の成分による効用というより、体を温めることによる “温浴効果” がほとんどです。
新たに加わったのは、睡眠障害、うつ症状、自律神経不安定性などです。
ストレスの多い現代社会を反映しています。
<2014年6月11日付>
2020年12月07日
温泉考座 (52) 「発見伝説➂ 源頼朝」
群馬の温泉発見人 「御三家」 、残る一人は鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝です。
全国の温泉地に発見伝説がありますが、なんといっても県内では草津温泉が有名です。
建久4(1193)年、鎌倉幕府が開かれた翌年のこと。
幕府の力を知らしめるために東国各地で狩りを行った頼朝は、浅間山麓での狩りの途中に、草津温泉の入り口にある白根大明神まで馬を乗り入れました。
この時、谷底に白煙が立ち昇っているのを発見したと伝わります。
これが 「白旗の湯」 です。
草津温泉へ行ったことのある人でも、白旗源泉の湧出地に気づく人は少ないようです。
草津のシンボル 「湯畑」 の西側に、もう一つ小さな湯畑があります。
木の囲いに覆われているので見過ごしがちですが、毎分約1,500リットルの湧出量を誇る草津を代表する源泉の一つです。
囲いの中には小さな石祠があり、頼朝公が祀られています。
ちなみに 「白旗」 とは、源氏を象徴する白い旗から名付けられました。
同時期に頼朝は、中之条町の沢渡温泉にも訪れていると伝わっています。
伝説によれば、酸性度の強い草津の湯で湯ただれをおこした頼朝が、沢渡の湯に入ると荒れた肌がきれいになったことから、草津の 「なおし湯」 とも 「ながし湯」 とも呼ばれるようになったといいます。
弱アルカリ性のやわらかい湯は 「一浴玉の肌」 といわれ、群馬を代表する “美人の湯” として親しまれています。
温泉街の中心、共同浴場に隣接する老舗旅館 「龍鳴館」 の浴室には、頼朝が入浴の際に腰掛けたといわれる 「源頼朝公の腰掛け石」 が残されています。
一見、何の変哲もない普通の石に見えますが、所々に傷があります。
これは昭和10(1935)年の水害による山津波と、同20年の山火事から温泉街を全焼した大火の被害を受けた跡だといいます。
信じるか信じないかは別として、800年以上も湧き続ける湯につかりながら石を眺めていると、いやが応でも壮大な歴史のロマンに思いがはせるというものです。
<2014年6月4日付>
2020年12月05日
温泉考座 (51) 「発見伝説② 弘法大師」
群馬の温泉発見人 「御三家」、2人目は国内の発見数最多を誇る弘法大師 (空海) です。
その数は、北海道を除く日本各地に約5,000湯もあるといわれています。
弘法大師といえば 「弘法水」 が有名です。
杖を突いたら泉が湧いて、井戸や池になったという伝説も、全国に1,000ヶ所以上あるといわれています。
弘法大師とは、どれほどの健脚の持ち主だったのでしょうか。
この数は歴史上の足跡をはるかに超えていますから、ほとんどは創話ということになりそうです。
弘法大師が発見したとされる温泉は、全国では静岡県の修善寺温泉や和歌山県の龍神温泉などが有名ですが、群馬県にも伝説が残る温泉がいくつかあります。
そのものズバリ名前の付いた法師温泉 (みなかみ町) は知られていますが、川場温泉 (川場村) にも、こんな伝説が残されています。
昔、川場の村は水不足に苦しんでいました。
ある日のこと、老婆が洗い物をしていると、一人の坊さんが訪ねてきて言いました。
「水を一杯、くださるまいか」
でも飲み水は、遠い沢からくんで来なければなりません。
それでも老婆は、困っている坊さんを放っておけず、親切に沢まで行って水を運んできて、差し上げました。
「おばあさん、このあたりは水が不自由なのかな?」
「はい、水もさることながら、もし、お湯が湧いたら、どんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」
「なるほど」 と、うまそうに水を飲み終わった坊さんは、やがて持っていた杖の先で大地を突きました。
すると不思議なことに、そこから湯けむりが上がり、こんこんとお湯が湧き出したといいます。
この坊さんが弘法大師だと知った村人たちは、湧き出る湯に 「弘法の湯」 と名付け、今でも尊像を安置した 「弘法大師堂」 を大切に祀っています。
これが川場温泉が 「脚気川場」 といわれるゆえんです。
古くから脚気患者が訪れる湯治場として栄えてきました。
<2014年5月28日付>
2020年12月02日
温泉考座 (50) 「発見伝説① 日本武尊」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
(一部、加筆訂正をしています)
古湯と呼ばれる歴史ある温泉地には、必ず発見伝説が残されています。
大きく分けて、鳥や獣が見つけたとされる 「動物発見伝説」 と、歴上の偉人が見つけたと伝わる 「人物発見伝説」 があります。
人物発見伝説には 「御三家」 と呼ばれる人たちがいます。
地域によって異なりますが、群馬の御三家といえば日本武尊(やまとたけるのみこと)、弘法大師(空海)、源頼朝の3人が有名です。
日本武尊は古代伝説上の英雄ですが、群馬県民がこの人の名前を聞いて、真っ先に思い浮かべるのが日本百名山の一座、武尊山(ほたかさん) ではないでしょうか。
その武尊山には、こんな伝説があります。
日本武尊が東国征伐の折り、武尊山に登り、奥利根の山々の美しさを愛でたといいます。
ところが、この山を登ったことにより、極度の疲労を覚え、病を発してしまいました。
お供の者たちは手当てをしようとしましたが、深い山の中で手のほどこしようがありません。
途方に暮れていると、はるか下界の谷間より1羽の白いタカが空高く舞い上がり、天空で輪を描きました。
不思議に思って谷間をのぞき込むと、湯けむりが立ち昇っています。
「これも神明のご加護か!」
とお供たちは喜び、日本武尊をその霊泉まで案内しました。
そして、湯につかると日本武尊の病はただちに全快して、また旅を続けることができたと伝えられています。
この湯が昔から 「白鷹 (はくたか) の湯」 と呼ばれている宝川温泉 (みなかみ町) です。
一軒宿の 「汪泉閣 (おうせんかく) 」 には、今でも温泉発見の始祖として日本武尊が祀られ、かたわらには日本武尊を霊泉へと導いた白鷹の像が立っています。
源泉の総湯量が毎分約1,800リットルあり、総面積約470畳分の巨大な露天風呂は、すべて源泉かけ流しです。
近年は海外のガイドブックやネットでも紹介され、外国人が訪れる日本の人気スポットにもなっています。
まさに名実ともに天下一を誇る、群馬を代表する秘湯です。
<2014年5月21日付>
2020年11月29日
温泉考座 (49) 「温泉に行く」
みなさんは 「温泉」 という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?
「温泉に入る」 と言えば、温泉水に入ることですし、「温泉に行く」 と言えば、温泉地や温泉施設へ行くことを意味します。
関西では、銭湯などの公衆浴場のことを 「温泉」 と呼ぶ人もいます。
日本語の 「温泉」 は、いくつかの違った意味合いで用いられる言葉であることが分かります。
温泉法では、<地中から湧出する温水、鉱水および水蒸気、その他のガス (炭化水素を主成分とする天然ガスを除く) のうち、「温度が25度以上あるもの」 または25度未満でも 「定められた物質が規定量以上含まれているもの」 を温泉> と認めています。
ですから “冷たい温泉” も存在するわけです。
しかし、温泉法には、さらに温度による分類があります。
<25度未満を 「冷鉱泉」、25度以上34度未満を 「低温泉」、34度以上42度未満を 「温泉」、42度以上を 「高温泉」 > と呼び分けています。
これによれば、やはり温泉は “温かい泉” ということになります。
なんとも、ややこしい法律です。
私は年間約100軒の温泉宿を訪ね、湯に入り、ご主人や女将さんから話を聞く取材活動を続けています。
もちろん、これが仕事ですから回数を自慢するつもりはありません。
温泉好きの中には、私以上に行っている人もいることでしょう。
先日、こんなことを私に言った人がいました。
「私も温泉が大好きでしてね。週に2~3回は行ってますよ」
一瞬、驚きましたが、話を聞いてみると、近所の日帰り温泉施設に通っているとのことでした。
確かに、街中にある入浴施設でも温泉水を利用していますから、「温泉」 には違いありません。
でも、そこには温泉地が長い間、大切に守り継いできた歴史や文化はありません。
やはり、「温泉に行く」 ということは、温泉水に入ることだけでなく、温泉地の持つ “温泉情緒” や “自然環境” の中に身を置くことだと思うのです。
<2014年5月14日付>
2020年11月26日
温泉考座 (48) 「復活した伝説の湯」
私は子どもの頃から、冬になると乾燥肌に悩まされていました。
風呂から上がり、布団に入ると、体中がかゆくて、なかなか寝つけません。
大人になってから仕事で温泉をめぐるようになり、皮膚病に効くといわれる温泉にいくつも入りましたが、なかなか自分の肌に合う温泉には出合えずにいました。
藤岡市下日野は、四方を深い森に囲まれた山の中。
標高はさほど高くないのですが、県道からはずれて山道に差しかかった途端、ひんやりと空気が変わります。
渓流の音だけが山あいに響く川のほとりに、猪ノ田 (いのだ) 温泉の一軒宿 「久惠屋 (ひさえや) 旅館」 が、たたずんでいます。
猪ノ田の湯は明治時代のはじめから 「皮膚病に効く」 という評判が高く、西上州で最も古い湯治場として、にぎわっていました。
当時は源泉の湧き口に野天の湯舟があるだけでしたが、大正時代になって旅館が建てられ、戦前までは大いに繁盛していたといいます。
しかし、戦後になり経営が悪化し、昭和40年代には廃業してしまいます。
惜しむ声はあっても、源泉は長い間、森の中で眠ったままでした。
その源泉が復活したのは昭和58(1983)年のこと。
藤岡市内で牛乳販売業を営んでいた前主人の深澤宣恵さん (故人) が、周囲の反対を押し切って旅館を開業しました。
「歴史と効能のある温泉を復活させ、貴重な地下資源をもう一度、世に出したかった」
といい、復活した伝説の湯に、再び全国から湯治客が訪れています。
源泉は、メタほう酸と硫化水素を含むアルカリ性の冷鉱泉。
独特の腐卵臭がするため、地元では 「たまご湯」 と呼ばれていました。
殺菌、浄化、漂白の作用があり、皮膚科や小児科の医者が患者のために源泉を取り寄せたこともありました。
宿では、源泉を詰めたペットボトルの販売もしています。
人によって効能に違いがあることはもちろんですが、私は毎年冬になると就寝前に、この源泉を肌に塗っています。
おかげで今年の冬も快適に過ごすことができました。
<2014年4月23日付>
2020年11月23日
温泉考座 (47) 「ありがたい温泉」
「今の人たちは、温泉を勝手に使っているよね。でも本来温泉は、人間が使わせていただいている、ありがたいものなんだよ」
こう言った秘湯の宿の主人がいました。
竹下内閣の政策として、昭和63(1988)年から町おこしのために全国の市町村に配られた 「ふるさと創生資金」。
1億円の使い道は、それぞれでしたが、温泉のない多くの自治体が温泉を掘削し、入浴施設を造りました。
ボーリング技術が飛躍的に進歩し、地質学者が 「出ない」 と明言していた平野部でも、温泉を掘り当てることが可能になったからです。
「我々の商売敵は、日帰り温泉施設です」
と言い切る温泉宿の主人もいます。
確かに平日の日帰り温泉施設をのぞいてみると、お年寄りたちがカラオケをしたり、飲食品を持ち込んだりして、朝から晩までくつろいでいる姿を見かけます。
その光景は、まさに街中に現れた “現代の湯治場” のようです。
嬬恋村にある県最西端の温泉地、鹿沢温泉 「紅葉館」 の創業は明治2(1869)年。
往時は10軒以上の旅館がありましたが、大正7(1918)年に大火が襲い、全戸が焼失してしまいました。
数軒が約4キロ下りた場所に引き湯をして新鹿沢温泉を開き、湯元の紅葉館だけが源泉を守り続けています。
平成25(2013)年6月、老朽化のため本館が建て替えられましたが、湯治場風情が残る昔ながらの内風呂が男女一つずつあるだけ。
豊富な湯量からすれば、もっと大きな浴槽や露天風呂があってもよさそうですが、
「大切な湯の鮮度を考えれば、これ以上浴槽を大きくすることはできません。先祖からも湯と浴槽に手を加えるなと、代々言い継がれていますから」
と5代目主人の小林昭貴さんは話します。
源泉の湧出地と浴槽の距離は、わずか数メートル。
加水も加温もしません。
湯は熱めで、最初は強烈な存在感をもってグイグイと体を締めつけてきますが、やがてスーッとしみ入るように馴染んでくるのが分かります。
人間が使わせていただいていることを実感できる “ありがたい” 温泉です。
<2014年4月16日付>
2020年11月20日
温泉考座 (46) 「熱くなれりゃ、湯宿の湯じゃねえ」
かつて三国街道の宿場町だった湯宿(ゆじゅく)温泉 (みなかみ町) には、たくさんの宿屋が軒を連ね、旅人や湯治客でにぎわっていたといいます。
戦前までは20軒ほどあった旅館も、現在は5軒が湯を守りながら商いをつづける小さな温泉地です。
湯宿温泉は昔から湯量が豊富な温泉として知られ、5本ある源泉は高温のため加温されることもなく、どの旅館でもかけ流しのスタイルを守っています。
また石畳のつづく温泉街には、「竹の湯」 「松の湯」 「窪湯」 「小滝の湯」 の4つの外湯 (共同湯) があります。
なぜ小さな温泉地に、こんなにも外湯があるのでしょうか?
それは温泉が地元住民の共有の財産だからです。
今でも風呂のない家が多く、「共同湯維持会」 に参加する約120戸は、それぞれ外湯のカギを持っていて、いつでも入浴できるようになっています。
地元民以外の人もカギが開いていれば、誰でも自由に利用することができますが、各湯に 「善意の箱」 が置かれており、維持管理費として100円以上の謝恩金が必要です。
「窪湯」 の手前に、黒塀と古木に囲まれた湯宿温泉最古の旅館 「湯本館」 があります。
開湯は約1200年前と伝わっています。
同館に残る古文書には、初代沼田城主の真田信之が関ケ原の合戦の後、戦の疲れを癒やすために訪れたことが記されています。
「たぶん、私は21代目だと思います」
と現主人の岡田作太夫さん。
あまりにも歴史が古すぎて、
「正確なことは分からない」
と言います。
裏庭に湧く源泉の温度は約62度。
湧き出した湯を敷地内の高低差を利用して、冷ましながら浴槽へ流し入れていますが、それでも約45度とかなり熱めです。
私は毎回、水道のホースを抱えながら入っていますが、地元の人たちは、
「熱くなけりゃ、湯宿の湯じゃねえ」
と言って、さっさと湯に入っていきます。
情けない話ですが、私は湯本館の湯に限らず、外湯にしても、水で薄めずに肩まで沈めたためしがありません。
<2014年4月9日付>
※宿泊者に外湯のカギを貸し出している旅館もあります。
2020年11月13日
温泉考座 (45) 「幻の西長岡温泉」
やぶ塚温泉 (太田市) は、群馬県最東端の温泉地。
丘陵と田園に囲まれた平野に湧く、東上州では数少ない温泉の一つです。
歴史は古く、天智天皇 (626~671) の時代に発見されたと伝わり、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、傷ついた兵士をこの湯で癒やしたという伝承から 「新田義貞の隠れ湯」 とも言われてきました。
天保2(1831)年創業の老舗旅館 「開祖 今井館」 の9代目主人、今井和夫さんによれば、かつて、この地には 「湯の入」 「滝の入」 と 「西長岡」 の3つの湯が湧いていたといいます。
「湯の入」 と 「滝の入」 は、やぶ塚温泉の源泉ですが、「西長岡」 の湯だけは丘陵一つ越えた離れた所に湧き、一軒宿があったとのことです。
旧 「藪塚本町誌」 にも <明治22年にはすでに創業、「長生館」 という宿があった。昭和32年12月に焼失> の記載があります。
これが温泉ファンの間で “幻の温泉” と言われ、復活を望む声が上がっている西長岡温泉です。
自然主義の小説家、田山花袋は温泉好きとしても知られ、全国の温泉をめぐり多くの紀行文を残しています。
大正時代に発表した 『温泉めぐり』 という著書の中で、こう記しています。
<その西長岡の温泉に初めて私の出かけて行ったのは、そのあくる年の二月のまだ寒い頃であった。(中略) 位置としては藪塚よりも深く丘陵の中にかくれたようになっていて、一歩一歩入って行く心持が好かった。(中略) 此処もやはり旅舎は一軒しかない。>
花袋は胃腸に効くこの温泉を大変気に入り、<いろいろな人に紹介した> とも言っています。
また、西長岡温泉を舞台にした小説 『野の道』 を書きました。
「私が小学生の頃でした。山の向こうが真っ赤に染まり、とても怖かったことを覚えています」
と今井さんは、当時を述懐します。
もし、あの火災がなかったら……。
群馬の最東端温泉地は、やぶ塚温泉ではなかったかもしれませんね。
<2014年4月2日付>