2022年10月23日
ぐんま湯けむり浪漫 (24) 赤城温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
赤城温泉 (前橋市)
千年の時を経て湧く薬湯
赤城山の南麓、標高約900メートル。
荒砥川の上流の山深いところに湧くいで湯で、昔から 「上州の薬湯」 として知られていた。
旧宮城村大字苗ヶ島湯之沢にあることから、古くは 「湯之沢温泉」 といい、赤城山麓では、ただ一つの温泉だった。
現在、3軒の温泉宿が渓谷に寄り添うようにたたずむ。
湯の起源は古く、古墳時代との説もあり、すでに奈良時代の書物には 「赤城に霊泉あり、傷病の禽獣集まる」 と記されている。
また裏山の薬師堂近くの洞窟に、応仁元(1467)年の作である石像 「湯の沢薬師地蔵」 (前橋市指定文化財) が残っていることから、少なくとも室町時代には温泉が存在したことになる。
赤城山は、かつてより山岳宗教の霊山であったため、修験者が傷を癒やすために湯に入ったのが、温泉の始まりともいわれている。
修験者が里に下りて、その効能を人々に伝えたことにより 「上州の薬湯」 として広く知れ渡れることになったようだ。
かの新田義貞や国定忠治も湯につかり、心身の傷を癒やしたとも伝わる。
江戸時代に入り、元禄元(1688)年には前橋藩主によって湯権が認められ、温泉宿の営業が始まった。
数軒の湯小屋と宿屋のほか、湯治客のための雑貨屋や仕出し屋、豆腐屋などもあり、赤城神社に詣でた参拝客が足を延ばすなど、盛時には日に数百人の湯客でにぎわっていたという。
ところが江戸から明治時代にかけて、たびたび火災に見舞われ、そのたびに著しく衰退し、再建の歴史をくり返してきた。
幾多の困難を乗り越えながらも、何百年と守り継がれてきたことが、名湯と呼ばれる証しである。
浴槽に漂う白い石灰華
悠久の時を超えて湧き続ける湯は、茶褐色をしたにごり湯。
時間の経過とともに、さまざまな変化を見せる不思議な湯だ。
湧出時は無色透明だが、鉄分をはじめカルシウム、ナトリウム、マグネシウムなどを多く含むため、空気に触れると沈殿物を生成し、茶褐色のにごり湯となる。
濃厚な湯の色もさることながら、湯が注ぎ込まれる湯口や浴槽の縁、洗い場の床の変形にも驚かされる。
黄土色の析出物が堆積して、まるで鍾乳石のように幾何学模様を描いている。
また露天風呂では、さらに不思議な光景を見ることができる。
より外気に触れるせいだろうか、温泉のカルシウム成分が白く固まり、無数の突起物を持つ析出物が、浴槽の縁に張り付いて、あたかもサンゴ礁のようだ。
そして、この湯は温泉ファンの間では、「石灰華(せっかいか)」 と呼ばれる現象が起こることでも有名。
時間の経過とともに温泉の中の炭酸カルシウムが主成分となり、湯葉のような白い膜が湯面を覆う。
なんとも神秘的な光景である。
「温泉の成分が濃いため、排水管に析出物がたまり、すぐに詰まってしまいます」
と話す赤城温泉ホテルの10代目主人で、赤城温泉観光協同組合長の東宮秀樹さん。
それゆえ年2回、パイプを取り外し、中に付着した温泉成分の結晶を削り取る作業が欠かせないという。
にごり湯ならではの湯守(ゆもり)の苦労がある。
いにしえの旅人たちも、この濃厚なにごり湯につかっていたかと思うと、壮大な歴史のロマンを感じる。
<2019年12月号>
Posted by 小暮 淳 at 13:17│Comments(0)
│湯けむり浪漫