温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2020年06月24日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十二 【完】


 『文豪たちが来遊した “山の中の温泉場” 』

 <太宰君は人に恥をかかせないように気をくばる人であった。いつか伊馬君の案内で太宰治と一緒に四万温泉に行き、宿の裏で私は熊笹の竹の子がたくさん生えているのを見て、それを採り集めた。そのころ私は根曲竹と熊笹の竹の子の区別を知らなかったので、太宰君に 「この竹の子は、津軽で食べている竹の子だね」 と云って採集を手伝ってもらった。太宰君は大儀そうに手伝ってくれた。>
 (井伏鱒二 『太宰君のこと』 より)

 昭和15(1940)年4月、作家の井伏鱒二は太宰治ら数名と、四万温泉(中之条町) に来遊した。
 このとき泊まった宿が、「四萬館」 だった。

 このあと井伏鱒二は、竹の子を家に持ち帰り、料理して食べてしまったという。
 師弟関係にある2人ならではのエピソードである。

 今でも文豪たちが投宿した部屋が、裏山の中腹に残されている。
 京都から移築された400年前(安土桃山時代) の建物は、現在、木工芸品の工房になっている。
 井伏鱒二らが宿泊した戦前は、四萬館の特別客室として四万川の対岸にあったが、昭和30年代になって2階部分だけが現在の場所に移築された。
 柱や梁、縁側部分は当時のままで、在りし日の文豪たちの面影を探して、全国から文学ファンが訪れている。

 太宰治は、四万来遊の翌年に小説 『風の便り』 を発表した。
 30代後半の作家が執筆に行き詰まり、敬愛する大先輩の作家に相談した手紙のやり取りを著したもの。
 主人公は上野駅から 「しぶかわ」 まで汽車で向かい、「山の中の温泉場」 にたどり着く。
 四万川の嘉満ケ淵を思わせる 「釜が淵」 など、四万温泉を彷彿させる地名が出てくる。

 この主人公が太宰治自身であり、先輩作家は井伏鱒二、温泉宿が四萬館ではないかと言われている。

 <2014年2月>


 長い間、「一湯良談」 をご愛読いただき、ありがとうございました。
 近日、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾をお届けします。
 ご期待ください。
  


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2020年06月22日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十一


 『幸運が舞い込む座敷わらしの宿』

 <旅の夫婦が大きな空き家に、一夜の宿を借りてから、そこに男の子が現れるようになったそうです。奥さんが、その男の子と遊んであげると、男の子は 「奥の座敷の床下を掘ってください」 と言ったそうです。言われたとおりに掘ってみると、なんとそこには大判小判の入った金瓶が埋まっていました。その後、夫婦はその家で暮らすようになり、座敷わらしに似た可愛い男の子をもうけ、末永く幸せに暮らしたそうです。>
 (猿ヶ京温泉の民話 『座敷わらしの家』 より)

 「私は、その夫婦から数えて18代目になります。今でも時々、座敷わらしが現れるんですよ」
 と、猿ヶ京温泉(みなかみ町) 「生寿苑」 の主人、生津秀樹さんは、いたずら小僧のような目で笑った。

 生津家は代々、この地で養蚕農家を営んでいた。
 昭和52(1977)年、先代が桑畑に古民家を移築して、団体客中心の大衆旅館を始めた。
 平成10(1998)年に 「猿ヶ京にない旅館にしたい」 と現主人が、庭園を眺める現在の平屋造りの旅館にリニューアルした。

 城郭を思わせる巨石が積まれた石垣、時代劇のオープンセットのような大門をくぐり、中庭へ入ると出迎えてくれる母屋。
 田舎の民家を訪ねたようで、とても懐かしい気持ちにしてくれる。
 大門の前には、伝説の金瓶を祀った石祠があり、拝むと願い事がかなうという。

 「座敷わらしは、どの部屋に現れるんですか?」
 「どの部屋といわず、いろいろな所で目撃されています。夜中に廊下で遊ぶ姿が多いですかね」

 湯床に天然石が敷き詰められた湯舟に身を沈めながら、昼間、主人と交わした言葉を思い出していた。
 座敷わらしを見た人は、幸運が舞い込んで来るという。
 その晩は寝ずに、男の子が現れるのを待つことにした。

 <2014年1月>
  


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2020年06月20日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十


 『源泉王と呼ばれる湯の達人』

 水上温泉郷(みなかみ町)、8湯の1つ。
 谷川岳登山口にある谷川温泉 「水上山荘」 の2代目主人、松本英也さんは、温泉ジャーナリストの故・野口悦男さんから、“源泉王” と呼ばれた湯の達人だ。

 館内にある男女別の内風呂と露天風呂、貸切風呂は、すべて源泉かけ流し。
 もちろん加水や加温は、一切していない。
 なのに一年中、沸かしも薄めもしないで、0.1度きざみで温泉の温度を調節しているという。
 さて、その秘密は?

 初めて同館を訪ねた日に、そんなトンチのようなクイズを出された。
 熱交換式の装置を使っているのかと思ったが、それではあまりにも答えがありふれている。
 もっと単純明快な方法に違いない。

 ふと私は、以前にも同じような話を、ある湯守(ゆもり) としたことを思い出した。
 その温泉宿も湯量が豊富な自家源泉を数本所有していた。
 すぐさま 「温泉分析書」 をチェックすると、案の定、ここも3本の源泉から給湯している。
 総湯量は毎分520リットル。
 しかも3本の源泉の温度は、31.8度、45.5度、54.4度と異なる。

 答えは明白である。
 3本の温度の違う源泉を混合することにより、季節や天候に左右されることなく、適温に調節しているのだろう。
 そう、答えを告げると、
 「さすがですね。お見事です。300人に1人の正解率ですよ」
 と主人に、お褒めの言葉をいただいた。

 昭和50年代のこと。
 好景気の温泉ブームに乗って旅館を大きくして、浴槽数を増やそうと考えた時期があったという。
 「でも、夢枕に温泉の神様が現れて言ったんですよ。『湯は足りるのか?』 ってね。ブームに乗って浴槽の数を増やしたら、温泉を水増しすることになり、結果、お客様をだますことになる。だから、与えられた湯量に合った浴槽を造ることにしました」

 主人の選択は、正しかったようだ。
 さすが、“源泉王” と呼ばれる湯の達人である。

 <2013年12月>
  


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2020年06月18日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十九


 『祖父との約束を守り継いだ湯』

 高崎市吉井町、牛伏山のふもと。
 明治時代には、すでに自然に湧き出ている鉱泉があったという。

 「皮膚病や胃腸病に効く水として、長い間、地域で大切に守られてきた源泉です。『誰かが温泉宿をやれよ』 と地元の人たちから声が上がり、料理人だった祖父が昭和46(1971)年に宿を始めました」
 と3代目主人の桑子済(とおる)さん。
 「お前が高校を卒業するまでは頑張るから、後は頼む」
 と話していた祖父は、済さんが高校2年の時に80歳で他界した。

 祖父の亡き後は、祖母が一人で商っていたものの高齢のために、平成18(2006)年からは休業したままだった。
 「父もいったんは宿に入りましたが、すぐに勤めに出てしまったため、祖父の遺言である私が継ぐしかありませんでした」
 と、高校卒業後は県内の結婚式場や温泉旅館で働きながら、宿の再開準備をしてきた。

 「知り合った時から主人は、『いつかは宿を開けたい』 と話していました。『やるなら最初から本気でやりましょう。もしダメだったら、その時は2人で勤めに出ればいい』 って、だいぶ私が背中を押しちゃいました」
 と笑う女将の真澄さん。
 高崎市の飲食店でアルバイトをしていいる時に済さんと出会い、20歳で結婚した。
 結婚後3年間は、真澄さんの実家に身を寄せながら、2人で再開に向けて施設の設計や資金繰りなどを話し合ってきた。

 昨年6月、本館の新築と宿泊棟の改築をし、6年ぶりに湯端温泉 「湯端の湯」 の営業を再開した。
 本館の1階には内風呂と日帰り入浴客用の休憩室を兼ねたカフェスペース、夏にホタルが観賞できるウッドデッキのテラスを設置した。
 ネットによる口コミで噂が広がり、すぐにかつての常連客や温泉ファンが全国からやって来たという。

 リニューアルオープンから4ヶ月後の今年10月、祖母は90歳で天寿をまっとうした。
 誰よりも宿の再開を喜んだ人だった。
 きっと遠い空から祖父と一緒に、孫夫婦の奮闘ぶりを見守っていることだろう。

 <2013年11月>
  


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2020年06月16日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十八


 このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画として、2012年4月~2014年2月まで高崎市のフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に連載された 『小暮淳の一湯良談』(全22話) を不定期にて紹介しています。
 温泉地(一湯) にまつわるエピソード(良談) をお楽しみください。


 『ご先祖さまの言いつけを守って』

 「今の人たちは、温泉を勝手に使っているよね。でも本来温泉は、人間が使わせていただいている、ありがたいものなんだよ」
 そう言ったのは、群馬県最西端の一軒宿、鹿沢(かざわ)温泉(嬬恋村) 「紅葉館(こうようかん)」 の4代目主人、小林康章さんだった。

 長野県東御(とうみ)市新張(みばり) から群馬県境の地蔵峠を越えて約16キロ、道の端に100体の観音像が安置されている。
 昔、この道は 「湯道」 と呼ばれ、湯治場へ向かう旅人たちの安全祈願と道しるべを兼ねて、江戸末期に立てられたものだという。
 そして百番目の観音像が、紅葉館の前に立っている。

 宿の創業は明治2(1869)年。
 往時は10軒以上の旅館があり、にぎわっていたが、大正7(1918)年に温泉街を大火が襲い、全戸が焼失してしまった。
 多くの旅館は再建をあきらめ、数軒が約4キロ下りた場所に引き湯をして新鹿沢温泉を開き、湯元の紅葉館だけが、この地に残って源泉を守り続けている。

 湯治場風情が残る同館の浴室は、昔ながらの木枠の内風呂が男女1つずつあるだけ。
 源泉は宿より高い場所にあり、階下の浴槽へ自然流下で引き入れている。
 湯元であり、豊富な湧出量からすれば、もっと大きな浴槽や露天風呂があっても、よさそうなもの。
 しかし、小林さんは、
 「大切な湯の鮮度を考えれば、これ以上、浴槽を大きくすることはできません。先祖からも湯に手を加えるなと、代々言い継がれていますから」
 と言う。

 その湯は、やや熱めで、強烈な存在感をもって力強く、グイグイと体を締めつけてくる。
 が、やがてスーッと、しみいるように馴染んでくるのが分かる。

 今年6月、老朽化のため本館が建て替えられたというので、1年ぶりに同館を訪ねてみた。
 「ご先祖さまの言いつけを守り、湯も風呂も、そのままの形で残しました」
 と5代目を継いだ昭貴さんが、誇らしげに出迎えてくれた。

 <2013年10月>
  


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2020年06月11日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十七


 『牧水が泊まった幻の名旅館』

 <沼田駅に着いたのは七時半であった。(中略) 電車から降りると直ぐに郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受け取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊るかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出してその旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。宿屋の名は鳴滝といった。>
 (『みなかみ紀行』より)

 大正11(1922)年10月21日。
 歌人の若山牧水は、四万温泉(中之条町) の宿を出て、中之条から電車に乗って、午後、渋川に着いた。
 駅前の小料理屋で食事をとった後、ふたたび電車に乗り、沼田まで足を延ばした。
 その晩、泊まった宿が 「鳴滝」 である。

 その後、鳴滝は廃業したが、昭和20年代に元水上町長が建物を購入し、水上温泉郷の1つ、うのせ温泉(みなかみ町) に移築され、「鳴滝旅館」 として営業を始めた。
 昭和40年代には一時、農協の研修施設として使用されたこともあったが、昭和57(1982)年に現在のオーナーが買収し、ふたたび旅館として営業を再開した。
 少しずつ増改築を施しながら平成14(2002)年に修繕工事が完了し、「旅館みやま」 としてリニューアルした。

 外観はすっかり変わってしまったが、それでも本館のそこかしこに、当時の面影が残っている。
 黒光りした太い梁や大黒柱、時を刻んだ屏風絵など、歴史の証人のように昔と変わらぬ姿でたたずんでいる。

 高台に建つ露天風呂からは、かつて 「鳴滝」 があった沼田方面が見渡せる。
 もし牧水が生きていて、あのとき泊まった町の旅館が、今は温泉宿になっていることを知ったなら……。

 温泉好きの牧水のことである。
 さぞかし喜んで、訪ねて来たことだろう。

 <2013年9月>
  


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2020年06月08日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十六


 『名物が語る牧水ゆかりの宿』

 <湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年に別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
 (『みなかみ紀行』 より)

 大正11(1922)年10月23日。
 歌人の若山牧水は法師温泉の帰り道に、湯宿(ゆじゅく)温泉(みなかみ町) に投宿している。
 著書 『みなかみ紀行』(大正13年) に屋号は記されていないが、このときの宿屋が明治元(1868)年創業の 「金田屋」 だった。

 「時代でいえば2代目と3代目の頃です。私の曽祖父と祖父が、もてなしたと聞いています。先生が泊まられた部屋は、こちらです」
 と5代目主人の岡田洋一さんが、現在は本館から一続きになっている土蔵の中へ案内してくれた。

 上がりかまちの暖簾をくぐり、ひんやりとした空気と重厚な白壁に囲まれた急な階段を上がる。
 床の間の横に座卓が置かれた蔵座敷が 「牧水の間」 として残されていた。

 <一人になると、一層疲労が出て来た。で、一浴後直ちに床を延べて寝てしまった。>

 旅の疲れから早々に床に就いた著しているが、宿には、こんなエピソードも残されている。

 「その晩は、釣り名人といわれた祖父が釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ったと聞いています。先生はアユがお好きなようで、ペロリと2匹を平らげたそうです」
 と、主人が焼きたてのアユを出してくれた。
 この料理は 「牧水焼き」 と名付けられ、現在でも宿の名物になっている。

 香ばしいみそのにおいが食欲をそそる逸品だ。
 さぞかし歌人も、酒がすすんだことだろう。

 <2013年8月>
  


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2020年06月05日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十五


 『温泉街を見守る天狗堂』

 沢渡温泉(中之条町) の開湯は建久2(1191)年、源頼朝が浅間山麓でイノシシ狩りをした際に発見したと伝わる。
 「一浴玉の肌」 と呼ばれるアルカリ性のやさしい湯が、酸性度の強い草津の湯ただれを癒やす 「なおし湯」 として、明治時代までは草津帰りの浴客でにぎわっていた。

 しかし、昭和10(1935)年の水害による山津波、同20年の山火事から温泉街が全焼するという度重なる災厄に遭い、壊滅的な打撃を受けた。

 「昔から地元には守り神として天狗の面が祀られていたのですが、子どもがいたずらして、鼻を折ってしまったらしいんです。だから2度も災いが起きたのではないかと、父は裏山に天狗堂を建て、また平穏に暮らせるようにと願いを込めて新たな天狗面を奉納しました」
 そう言って、「龍鳴館」 の3代目女将、隅谷映子さんは、お堂へ案内してくれた。

 父の都筑重雄さん(故人) は終戦後、町工場に勤めていたが、ある日、「お天狗様」 と呼ばれる地元の占い師から 「北北西の沢渡へ行け」 と告げられ、昭和24年に親戚が営んでいた龍鳴館の2代目を継いだ。
 前身は 「正永館」 といい、大正時代に歌人の若山牧水が立ち寄っている。

 山道を登ること約5分。
 温泉街を見下ろす高台に、小さなお堂が建っていた。
 同56年の建立以来、毎年、大火があった4月16日に僧侶を招いて、お天狗様の祭りを行っているという。

 「温泉と天狗堂を守ることが、私が父から受け継いだ湯守(ゆもり) の仕事です。
 そう言って、女将はお堂の中から木彫りの面を取り出した。
 ところが、その天狗の鼻は、途中から白く変色していた。

 いつからか、古い面の折られた鼻と同じところから色が変わってしまったという。

 <2013年7月>  


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2020年06月02日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十四


 『太宰ファンが集う山のいで湯』

 <水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。(中略) 山上の谷川温泉まで歩いていけるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起こした。>

 国道から離れ、温泉街へ向かう山道の途中に、太宰治の文学碑がある。
 ここ谷川温泉(みなかみ町) を舞台にした小説 『姥捨(うばすて)』 の一節が刻まれている。
 また 「旅館たにがわ」 の駐車場にも、記念碑が立つ。

 昭和11(1936)年8月、太宰治は川端康成に勧められ、療養のために約1ヶ月間、川久保屋に滞在した。
 このとき執筆した 『創生記』 は、のちの代表作 『人間失格』 を書くきっかけとなったといわれている。
 そして、この滞在経験をもとに2年後、『姥捨』 を発表した。
 川久保屋は、のちに経営者が代わって 「谷川本館」(現・旅館たにがわ) となり、その後、建物は取り壊され、現在の駐車場となった。

 「太宰文学研究家の長篠康一郎先生(故人) が訪ねて来るまでは、私どもも太宰治と旅館の関係は知りませんでした」 と、2代目女将の久保容子さん。
 長篠氏が谷川温泉を訪れたのは昭和50年代のこと。
 温泉地内を歩き回って取材をし、「旅館たにがわ」 の前身である 「川久保屋」 に太宰が滞在したことを確認。
 自身の著書に発表した。

 文豪が愛した湯は、今もこの地で、こんこんと湧き続けている。
 無色透明の弱アルカリ性単純温泉。
 肌にやさしくまとわりつく、独特な浴感がある。
 太宰治は、滞在中に芥川賞の落選を知った。
 さぞかし悲痛な思いで、この湯に身を沈めたことだろう。

 今年も6月19日の命日 「桜桃忌」 には、全国から太宰ファンが集まる。
 館内にはミニギャラリーが設けられ、生前に長篠氏から寄贈された太宰治の初版本や写真、遺品など約50点が展示されている。

 <2013年6月>
  


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2020年05月31日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十三


 『裸の大将が愛した湯』

 大正13(1924)年のこと。
 谷川岳を望む利根川沿いの田んぼに、冬でも雪解けが早く、稲が枯れる場所があった。
 不思議に思った初代の深津謙三さんが原因を探ろうと掘ったところ、温泉が湧き出たという。
 湯小屋を建て、しばらくは無料で村人に開放していたが、昭和2(1927)年に 「辰巳館」 を開業した。
 現主人の深津卓也さんで4代目になる、上牧(かみもく)温泉(みなかみ町) で一番古い旅館だ。

 源泉の温度は約41度。
 ややぬるめだが、弱アルカリ性の湯が肌にサラリとまとわり付く。
 泉質はナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物温泉。
 保温と保湿に優れているため 「化粧の湯」 と呼ばれ、昔から美肌効果のある温泉として親しまれてきた。

 ここに名物風呂がある。
 何が名物かといえば、“裸の大将” で知られる放浪の画家、山下清の絵が浴室の壁一面に描かれているのだ。
 上牧温泉という自然に恵まれた静かな土地に、清の素朴で素直な人柄が、ぴったり合ったのだろう。
 昭和30年代に何度となく、辰巳館を訪れている。

 同36(1961)年の春。
 大峰山の大峰沼に出向いて下絵を描き、2ヶ月かけて貼り絵を仕上げた。
 その原画をもとに、特殊なモザイクガラスを使い作製した大壁画が 『大峰沼と谷川岳』 である。
 完成時には、清自身が署名部分のタイルを貼った。
 自らの視力の低下と闘いながら、情熱を傾けて完成させた本邦唯一の作品で、晩年の傑作といわれている。

 見れば見るほど、不思議な絵である。
 大峰沼にあるはずのないボートや居るはずのない釣り人の姿が描かれている。
 また紅葉に包まれた晩秋の山の中なのに、描かれている人たちは、みんな半袖の夏服を着ている。
 これらはすべて、清独自のユニークな発想によるものだ。

 さらに、この壁画の中には、清自身が描かれているという。
 やさしい化粧の湯に抱かれながら、裸の大将を探してみるのも一興である。

 <2013年5月>
   


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2020年05月27日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十二 


 『湯守が守り続けるもの』

 何軒も宿のある温泉地では、1つの源泉から各宿へ分湯している場合が多いので、必ずしも宿の主人が湯の管理をしているとは限らない。
 しかし一軒宿と呼ばれる小さな温泉地のほとんどは、自家源泉を保有しているので、湧出地から温泉が宿の浴槽へたどり着くまでの一切の面倒を宿の主人が見ている。
 読んで字のごとく、「湯守(ゆもり)」 のいる宿である。

 法師温泉(みなかみ町) の一軒宿 「長寿館」 は、全国でも1%未満という浴槽直下の足元から源泉が湧く珍しい温泉。
 足元湧出温泉は、湧き出した湯が直接、人肌に触れるため、熱過ぎても、ぬる過ぎても存在しない。
 なかでも入浴に適温とされる41~42度の源泉が湧出する温泉は、まさに “奇跡の湯” だ。

 宿の創業は明治8(1875)年。
 同28年に建てられた鹿鳴館風の湯殿は、本館、別館とともに国の登録有形文化財に指定されている。

 「温泉とは雨や雪が融けて地中にしみ込み、何十年という月日をかけてマグマに温められて、鉱物を溶かしながら、ふたたび地上へ湧き出したものです。でも地上へ出てきてからの命は、非常に短い。空気に触れた途端に酸化し、劣化が始まってしまう。湯守の仕事は、時間との闘いです。いかに鮮度の良い湯を提供するかなんです」
 と6代目主人の岡村興太郎さん。
 法師温泉の源泉は、約50年前に降った雨が湧き出しているという。
 「湯守は、温泉の湧き出し口(泉源) だけを守っていればいいのではない。もっとも大切なのは、温泉の源となる雨や雪が降る場所。つまり、宿のまわりの環境を守ることです」

 周辺の山にトンネルや林道などの土木工事をされれば、湯脈を分断される恐れがある。またスキー場やゴルフ場ができれば、森林が伐採されて山は保水力を失い、温泉の湧出量が減少する。
 いい温泉は、いい湯守により、代々守り継がれているのである。

 <2013年4月>
  


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2020年05月22日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十一


 このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画第2弾として、2012年4月~2014年2月まで高崎市のフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に連載された 『小暮淳の一湯良談』(全22話) を不定期にて紹介しています。
 温泉地(一湯) にまつわるエピソード(良談) をお楽しみください。


 『地産地食が本来のもてなし』

 数年前、海辺の民宿に泊まった晩に、エビやタイなどの海の幸に舌鼓を打っていたときだった。
 私が群馬から来たことを知った女将さんが、こんなことを言った。
 「温泉が好きだから、ときどき群馬へは行くのよ。でもね、あの紫色したマグロだけは、いただけないわ」

 まさに痛いところを突かれた。
 海なし県の悲しい性(さが)で、昔から群馬ではマグロの刺し身を出すことが、最大のもてなしだと勘違いしているのだ。

 旅に出たら、その土地のものを食べるのが基本である。
 とは言っても、決して美味しいものを食べることが目的ではなく、ふだん食せない地の物をいただくことに旅の意味があるのだと思う。

 下仁田温泉(下仁田町) の一軒宿 「清流荘」 では、約7,000坪という広大な敷地に自家農園やヤマメ池、シカ園、キジ園、イノシシ牧場があり、米以外はすべて自給自足を行っている。
 「“地産地消” なんて言葉がない頃から、うちは敷地内産地直送だよ」
 と先代の清水幸雄さんが、畑仕事をしながら話してくれた。
 2,400坪を超える農地では、名産の下仁田ネギやコンニャクをはじめ随時20種類の野菜が無農薬で栽培され、「地元の食材を提供するのが本来のもてなしの姿」 と昭和49(1974)年の創業以来、自家製食材にこだわった料理を提供している。

 宿の名物 「猪鹿雉(いのしかちょう)料理」 は、この地に伝わる祝事には欠かせないハレの膳。
 もちろん食材のイノシシ、シカ、キジは、すべて敷地内で飼育されている。
 その他、下仁田ネギの天ぷらやコンニャクの刺し身、コイのあらい、ヤマメの炭火焼きにいたるまで、山と里の食材に徹した素朴な味は、箸を置くまで飽きることがない。

 「本来の温泉宿の姿、日本人の心の中にある温泉のイメージを大切にしたい」
 と語った2代目主人、清水雅人さんの言葉が心に残った。

 <2013年3月>
  


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2020年05月19日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十 


 『温泉に“いい湯”も“悪い湯”もない』

 「県庁を辞めて、旅館に入る」
 あの時、誰もが無謀だと思った。
 将来が約束された人生を棒に振ってまで、湯守(ゆもり) の世界へ飛び込んだ男がいた。

 元禄4(1691)年に建てられた日本最古の湯宿建築 「本館」(県指定重要文化財) をもつ四万温泉(中之条町) 屈指の老舗旅館 「積善館」。
 19代亭主の黒澤大二郎さんと私は古い音楽仲間で、かれこれ25年のつきあいになる。
 彼は24年間の県庁勤務を突然退職して、平成10(1998)年に積善館に入った。
 当時、交流のあった若女将から 「旅館の立て直しに力を貸してほしい」 との誘いがあったからとのことだが、「形にとらわれない自分の自由さを生かした仕事がしたかった」 というのも、もう一つの理由だった。

 「温泉は生き物だね。赤ん坊と同じで、手をかけて、あやして、面倒をみてやらないと、人間を湯に入れてくれない。人間が温泉に合わせなくてはならないんだよ」
 大正ロマネスク様式を用いた昭和5(1930)年建築の湯殿 「元禄の湯」 の湯舟の中で、彼は語り出した。

 「320年続いた老舗旅館には、歴史と文化、名声、地位といった良い面もあるけど、反面、伝統に縛られ過ぎてしまい、なかなか新しい考え方や経営ができないというマイナス面もある。今は全国の老舗旅館が過渡期を迎えている」
 と、彼らしい発想で常に新しい事へのチャレンジを忘れない。
 亭主自らが案内役となって宿泊客と館内をめぐる 「歴史ツアー」 や、宮崎駿監督のアニメ映画 『千と千尋の神隠し』 のモデルになったとされる同館のエピソードを紹介する 「アニメツアー」 などを行っている。

 「温泉のことを “いい湯” とか “悪い湯” と言う人がいるけど、それではお湯が可哀相だ。悪いのはお湯でなく、利用している人間のほうなんだから。湧き出した温泉を最良の状態で湯舟に注ぎ込めるよう、お湯の立場になって考えることが、湯守の役目だと思う。人間にそれができないのなら 『鳥や獣たちに温泉を返しなさい』 と言いたいね」

 旧知の仲、裸の付き合いをすると、本音の話が次々と飛び出してきた。

 <2013年2月>
  


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2020年05月16日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の九


 『戦友をしのぶ天空の湯舟』

 月夜野盆地を見下ろす三峰山の中腹。
 高速道路をはさんで宿と向かい合う丘に、高さ約20mの白い塔が立っている。
 平成元(1989)年に、月夜野温泉(みなかみ町) の一軒宿 「みねの湯 つきよの館」 の女将、都筑理恵子さんの父、理(おさむ) さんが、異国の地に果てた戦友をしのんで建立した 「鎮魂之碑」 である。

 旧オランダ領東インド(現インドネシア) のジャワ島で、軍務についていた理さんは、終戦直後、旧日本軍の残留兵とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐって衝突した 「スマラン事件」 によって、多くの戦友を失った。
 「父は 『これは生き残った者の使命だ』 と言っていました。その父も3年前に、戦友のたちの元へ旅立ちました」
 と、女将は塔を見上げながら、亡き父の思い出を語った。

 「鎮魂之碑」 建立の翌年、遠方から供養に訪れる遺族や関係者のために温泉を掘削し、旅館の営業を始めた。
 理さんは生前、著書 『嗚呼スマランの灯は消えて』(広報社) の中で、ここを <慰霊の園にふさわしい、自然の地形を生かした場所> と記している。

 月夜野盆地を見渡す湯舟からは、左手に子持山から続く峰々を望み、正面に大峰山、吾妻耶山(あづまやさん) といった群馬の名峰が連なる。
 眼下には棚田が広がり、こんもりとした鎮守の杜が、のどかな山里の風景を描いている。

 極めつけは、夕景美である。
 稜線をシルエットにして、鮮やかな緋色(ひいろ) に燃え上がる夕焼けは、一度眺めたら忘れられない。
 やがて、帳(とばり) が下りて、天空の主役が月に替わると、まさに温泉名の 「月夜野」 にふさわしい “月光の湯” を満喫することができる。

 そして、塔も宿も浴室も、すべて南方ジャワ島を向いている。

 <2012年12月>
  


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2020年05月13日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の八


 『半出来なれどナカラいい湯』

 JR吾妻線の無人駅、袋倉駅 (嬬恋村) のホームに降り立つと、正面に「半出来(はんでき)温泉 徒歩8分」 の看板が目に入る。
 坂道を下り、高架橋をくぐり抜けると、また小さな看板が立っている。
 矢印と、その下に 「足元にお気をつけください」 の文字。
 ここからは雑木林の中を歩き、吾妻川の河岸へと下りて行く。

 ユラ~リ、ユラ~リ揺れる、細くて長い吊り橋を渡れば、そこが半出来温泉の一軒宿 「登喜和荘(ときわそう)」 だ。

 「半出来」 とは、なんとも珍しい名だが、源泉が湧く土地の小字名とのこと。
 由来には、作物が半分しか収穫できない、やせた土地だからという説があるが、2代目主人の深井克輝さんは異論を唱える。

 「“半” という漢字は、『なから』 とも読みます。群馬の方言には、“なかなか” とか “かなり” という意味を表す 『なから』 という言葉があります。だから私は、かなり出来の良い土地と解釈しているんですよ」

 その、かなり出来の良い土地に湧いた湯は、昭和の頃より地元の人たちに神経痛や腰痛に効く温泉として愛されてきた。
 源泉の温度は約42度。
 泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物温泉。
 マグネシウムやカリウム、鉄分等のミネラルが多く、胃酸の分泌を促がす作用があることから 「胃腸の湯」 ともいわれている。
 湯口にコップが置いてあり、飲泉ができる。

 ややぬるめの湯は、炭酸を含んでいて、湯の中でジッとしていると体に小さな泡が付く。
 昔から泡の出る温泉は、骨の髄(ずい) まで温まるといわれ、珍重されてきた。

 「いろんな温泉に入ったみたけど、納得できる湯は少ないね。温度と泉質、そして、この景色。三拍子そろった温泉は、滅多にお目にかかれない。この湯は私の宝物なんだよ」
 と、主人は自慢げに笑った。

 名前は “半出来” なれど、“ナカラいい湯” である。

 <2012年11月>
   


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2020年05月10日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の七


 『師匠が愛した温泉宿』

 <人生なんて 知るもんか 勝手に生きりゃ それでいい>

 襖(ふすま) いっぱいに書かれたヤンチャな文字と、軽妙かつ辛辣(しんらつ) な言葉たちに、圧倒されてしまった。

 <酔うことよ 酒と煙草を止める奴ぁ 最も意志の弱い奴である>

 大広間に並ぶ8枚の襖に、これでもかと言わんばかりに次から次へと殴り書かれている。
 こんな破天荒なことをするのは誰かと思えば、書の主は、昨年の11月に他界した落語家の立川談志師匠だった。

 鎌田温泉(片品村) 「梅田屋旅館」 は明治44(1911)年創業。
 尾瀬や日光への行き帰りに投宿する街道筋の料理旅館として営業を続けてきた老舗だ。
 4代目女将の星野由紀枝さんによれば、一連の襖の文字は、落語が好きだった亡き主人が、高崎市で友人らと寄席を開いたとき、出演した談志師匠をお連れして酒を飲んだ夜に書かれたものだという。

 「でも師匠は、その次にお見えになったときに 『この間は酔っ払っていたから』 と、今度は隣の部屋に素面(しらふ) で書かれていかれました(笑)」
 そう言って開けた中広間には、さらに襖4枚ぶち抜きで書かれていた。

 <何ィ俺は素面だァ この野郎人生を何だと思ってやんでぇ 人生なんて全て成り行きだァな 決断なんて成り行きに押した印でしか過ぎない ウヒッィーーー>

 酔っていても、素面でも、変わらないところが師匠の凄いところだ。
 つくづく偉大な落語家が、また一人いなくなってしまったことに淋しさを感じる。
 こんな言葉も見つけた。

 <俺の人生 梅田屋程度で 充分なのだ>

 一見、侮蔑(ぶべつ) しているような言葉だが、くり返し声に出して読んでみると、なんとも温かい師匠の梅田屋への愛情が伝わってくるのである。

 <2012年10月>
  


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2020年05月08日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の六


 『青い鳥が見つけた魔法の泉』

 バタ、バタ、バタバタバタバタ……
 突然、すさまじい疾風が舞い、あっという間に目の前の泉が、何十羽という青い鳥の群れに覆われた。

 東南アジアのごく限られた地域に分布する 「アオバト」 という渡り鳥だ。
 海水を飲むことで知られる鳥で、日本では北海道~四国、伊豆七島などで繁殖し、積雪のない温暖地で群れをなして冬を越す。
 ここ上野村に姿をみせるのは、5月~10月の半年間。
 海なし県にもかかわらず、塩分の濃い、海水に似た湧き水を飲みに、毎年約3,000羽がやって来る。


 「ほれ、この水を飲めば、絶対に二日酔いしないよ」
 初めて野栗沢(のぐりざわ)温泉の一軒宿、「すりばち荘」 に泊まった晩に、主人の黒沢武久さんから源泉が入ったコップを手渡された。

 野栗沢の人たちは、昔から巨石の間から湧き出る泉を飲みに青い鳥がやって来ることを知っていた。
 産後の肥立ちが悪い婦人に、この鳥の肉を食べさせると、見る見るうちに体力が回復したという。
 また、この泉の水を飲みながら農作業をすると、疲れを知らずに仕事がはかどるので、大変珍重されてきた。

 昭和58(1983)年、黒沢さんが泉の水をパイプで引いてきて、旅館を開業した。
 温められた湯はやわらかく、肌に張りつくような浴感で、長湯をしても不思議とのぼせない。
 浸かれば浸かるほど、どんどん体が楽になっていくのが分かる。
 ヒノキ風呂の隣に、小さな源泉の浴槽がある。
 温度は夏でも冷たい約18度。
 意を決して肩まで沈むと、足の先から手の先までピリピリと、ほてり出した。


 「オレは毎日入っているから、風邪を引いたことがないね」
 と自慢する魔法の水には、乾燥肌やアトピー性皮膚炎の症状が良くなったとの感謝の便りが、全国から寄せられている。
 今でも地元の人たちは、やけどや切り傷は、この水を患部に浸して治すという。

 「うどん粉でねって、ガーゼに塗って、貼ってみな。ウルシのかぶれだって、虫刺されだって、一発で治っちまうから」
 そう言って、主人は得意気に笑った。

 <2012年9月>
  


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2020年05月06日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の五 


 このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画第2弾として、2012年4月~2014年2月まで 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) にて連載されたコラム 『小暮淳の一湯良談』(全22話) を不定期にて紹介しています。
 温泉地 (一湯) にまつわるエピソード (良談) をお楽しみください。


 『願いを叶えてくれる氏神様』

 初めて奥嬬恋温泉(嬬恋村) の一軒宿、「干川(ほしかわ)旅館」 に泊まった晩のこと。
 3代目女将の干川陽子さんから摩訶不思議な話を聞いた。

 同館では毎年、繁忙期になるとアルバイトを募集している。
 例年は断わるほどの募集があるのに、なぜかその年に限って一人の応募もなかった。
 困り果てた女将は、昔から頼りにしている信州のとある寺の僧侶に相談した。
 すると僧侶は、旅館の近くにある小さな神社の名を告げたという。
 さっそく女将は、僧侶に言われたとおりに酒と米を持って神社を詣で、願をかけた。
 すると翌日、一本の電話が鳴った。
 アルバイトを希望する若い女性からだった。

 「ビックリしました。でも昔から地元では、願い事が叶う氏神様として評判の神社なんですよ」
 と話してくれた。


 翌朝、さっそく私は同行のカメラマンとともに、神社を訪ねた。
 実は、近々、彼が手術を受けることになっていたのだ。
 それも、かなりの確率で後遺症が残るといわれている難しい手術だった。
 女将に教わったとおりの供物をして、2人で一心に手術の成功を祈った。

 後日、手術は無事に成功した。
 それも一切の後遺症を残さずに。
 実は知らないところで、奇跡が起きていたのである。
 手術直前になり、急きょ、ゴッドハンドといわれる名医が執刀をしてくれることになったのだった。


 私は以前、この話を雑誌に書いたことがあった。
 すると女将から電話があり、
 「神社が大変なことになっています。連日、大勢の人がやって来るので、役場の職員が出て、交通整理をしています」
 と大変な驚きようだった。

 でも女将は、こんなことも言った。
 「おかげさまで、旅館の宿泊者が増えました。先日は 『あの神社にお参りをしたら、子どもの病気が治ったので、今日はお礼を言いに来ました』 と、また家族で泊まられたお客様がいたんですよ。本当に願い事を叶えてくれる神様なんですね」。

 今でも願をかけにやって来る宿泊者が、後を絶たないという。

 <2012年8月>
  


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2020年05月03日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の四


 『薬師像が見守る女将の奮闘』

 倉渕温泉(高崎市) の一軒宿、「長寿の湯」。
 渓流をはさんだ宿の対岸に、大きな源泉櫓(やぐら) が立っている。
 櫓の下にはお堂があり、薬師如来像が祀られている。
 約300年前、霊験著しい湯の御利益に対して、旅人たちが感謝を込めて安置した 「湯前(ゆぜん)薬師」 だといわれている。

 「雪解けが早い場所がある。薬師像もあり、地元では昔から “たまご湯” と呼ばれる幻の名湯が湧いていたと伝わる。ここは絶対に温泉が出る」
 と、東京でボーリング会社を営む川崎秀夫さんは丸3年間通い続けて、温泉の掘削に成功した。
 しかし平成3(1991)年に念願の温泉旅館をオープンしたものの、経営を他人に任せていたため乱脈経営が発覚。
 さらにバブルが崩壊し、あわや廃業という窮地に追い込まれてしまった。

 「私がやるしかなかったのよ。だって温泉旅館は、おとうさんの夢なんだもの。絶対に手放すわけにはいかなかった」
 と女将の節子さんは、東京に夫と子どもたちを残して、湯と宿を守るために単身で群馬にやって来た。
 平成15年の秋のことだった。

 最初は、「東京の奥様に何ができる」 と周りからは陰口をたたかれた。
 それでも夫の夢のために孤軍奮闘しながらも、「頑張るしかなかった」 と言う。
 営業の形態を、それまでの宿泊メインから女将の郷里である山梨県で見かける日帰り入浴客も受け入れるスタイルに移行し、積極的に湯の良さをアピールした。
 その甲斐もあり、口コミで噂を聞いたリピーターが増えた。
 いつしか 「女将さんのやっていることが評判を呼ぶよ」 と、地元の人たちも応援するようになった。

 「結局さ、私は群馬の人たちに助けられて生きているんだよね。群馬の人は口が悪いけど、そのぶん腹を割って付き合うと、とことん面倒見がいいんだよね。今じゃ、すっかり私も上州人になっちゃった。ハッハハハ」
 と、豪快に苦労を笑い飛ばす。

 渓流を望む露天風呂からは、源泉櫓とお堂が見える。
 お堂の中では薬師様が、今も昔と変わらずに旅人の安全と健康を見守っている。
 もちろん、見知らぬ土地で奮闘を続ける女将の姿も見守っているに違いない。

 <2012年7月>
  


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2020年04月28日

一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の三


 『古湯を復活させた男のロマン』

 古来、沸かしてまで浴した冷鉱泉には、病気の治療効果が高い薬湯が多い。

 源泉の温度は約13度。
 猪ノ田(いのだ)温泉(藤岡市) の湯は、明治時代の初めから 「皮膚病に効く」 という評判が高く、群馬県内でも最も古い湯治場としてにぎわっていた。
 当時は、源泉の湧き出し口に野天の湯小屋があるだけだったが、大正時代には旅館が建てられ、戦前までは大いに繁盛した。
 しかし戦後になり経営は悪化し、昭和40年代に廃業してしまった。
 惜しむ声はあっても、源泉は長い間、森の中で眠ったままだった。

 「歴史と効能のある温泉を、どうしても復活させたかった。金儲けのためなんかじゃない。男のロマンっていうやつだよ」
 と、主人の深澤宣恵(のぶやす) さんは笑う。

 久惠屋(ひさえや)旅館の創業は、昭和58(1983)年。
 藤岡市内で牛乳販売業を営んでいた深澤さんは、「貴重な地下資源をもう一度、世に出したい」 と周囲の反対を押し切り、湯権者との交渉に奔走し、10年の歳月をついやして念願の温泉を復活させた。

 「主人は、一度言い出したら絶対に聞かない人。『この湯は、すごい!』 って言いながら、何度も源泉を汲んで来ては、温めて入っていました」
 と女将の信子さんは、当時を振り返る。
 長年、病弱だった女将が健康を取りもどせたのも、この温泉のおかげだという。

 源泉はメタホウ酸と硫化水素を含むアルカリ性の冷鉱泉。
 無色透明だが独特の腐卵臭がするため、地元では 「たまご湯」 と呼ばれ親しまれてきた。
 殺菌・浄化・漂白の作用があることから、皮膚科や小児科の医者が患者のために源泉を取り寄せることもある。
 宿では、その源泉を詰めたペットボトルやメーカーと共同開発した温泉水入りの石けんなども販売している。

 宿に残る明治19(1886)年の温泉分析表には、こんな一文が記されている。
 『猪田鉱泉ハ古来ヨリ猪田川ノ川辺二湧出シ薬師ノ湯ト称ス』

 男のロマンを賭けた情熱が復活させた伝説の温泉には、ふたたび平成の世でもアトピー性皮膚炎をはじめ皮膚病に効く名薬湯として、医者から見放された患者たちが遠方より訪ねている。

 <20012年6月>

  


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