2020年05月19日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十
『温泉に“いい湯”も“悪い湯”もない』
「県庁を辞めて、旅館に入る」
あの時、誰もが無謀だと思った。
将来が約束された人生を棒に振ってまで、湯守(ゆもり) の世界へ飛び込んだ男がいた。
元禄4(1691)年に建てられた日本最古の湯宿建築 「本館」(県指定重要文化財) をもつ四万温泉(中之条町) 屈指の老舗旅館 「積善館」。
19代亭主の黒澤大二郎さんと私は古い音楽仲間で、かれこれ25年のつきあいになる。
彼は24年間の県庁勤務を突然退職して、平成10(1998)年に積善館に入った。
当時、交流のあった若女将から 「旅館の立て直しに力を貸してほしい」 との誘いがあったからとのことだが、「形にとらわれない自分の自由さを生かした仕事がしたかった」 というのも、もう一つの理由だった。
「温泉は生き物だね。赤ん坊と同じで、手をかけて、あやして、面倒をみてやらないと、人間を湯に入れてくれない。人間が温泉に合わせなくてはならないんだよ」
大正ロマネスク様式を用いた昭和5(1930)年建築の湯殿 「元禄の湯」 の湯舟の中で、彼は語り出した。
「320年続いた老舗旅館には、歴史と文化、名声、地位といった良い面もあるけど、反面、伝統に縛られ過ぎてしまい、なかなか新しい考え方や経営ができないというマイナス面もある。今は全国の老舗旅館が過渡期を迎えている」
と、彼らしい発想で常に新しい事へのチャレンジを忘れない。
亭主自らが案内役となって宿泊客と館内をめぐる 「歴史ツアー」 や、宮崎駿監督のアニメ映画 『千と千尋の神隠し』 のモデルになったとされる同館のエピソードを紹介する 「アニメツアー」 などを行っている。
「温泉のことを “いい湯” とか “悪い湯” と言う人がいるけど、それではお湯が可哀相だ。悪いのはお湯でなく、利用している人間のほうなんだから。湧き出した温泉を最良の状態で湯舟に注ぎ込めるよう、お湯の立場になって考えることが、湯守の役目だと思う。人間にそれができないのなら 『鳥や獣たちに温泉を返しなさい』 と言いたいね」
旧知の仲、裸の付き合いをすると、本音の話が次々と飛び出してきた。
<2013年2月>
Posted by 小暮 淳 at 12:32│Comments(0)
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