温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2022年12月20日

ぐんま湯けむり浪漫 (最終回) 尻焼温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   尻焼温泉 (中之条町)


  ボコボコと湧く熱い湯が尻を焼く


 バスの終点、「花敷(はなしき)温泉」 から渓谷沿いの道を歩くこと約10分。
 長笹沢川に架かる橋を渡る。
 親柱には 「しりあけばし」 と刻まれている。
 かつて 「尻焼」 の文字を嫌って、温泉名を 「尻明」 「白砂」 「新花敷」 などと称した時代があった。
 この橋は、その頃の名残である。

 泉源は長笹沢川の川床にあり、かつては人が入れるだけの穴を掘り、裸になって入ると尻が焼けるように熱くなることから 「尻焼」 の名が付いたという。
 昔から痔(ぢ)の治療に効果があるとされてきた。

 温泉の発見は古く、地元に残る嘉永7(1854)年の 「入山村古地図」 に温泉名が記されている。
 川の中の野天風呂として村人たちが利用していたらしいが、旅館が立ったのは昭和元(1926)年のこと。
 花敷温泉で経営していた旅館が別館として新築開業したのが始まりだった。
 この地の開発が遅れた理由は、花敷からの道が急峻だったことと、温泉の周辺におびただしい数のヘビが生息していて、人々を寄せ付けなかったことによるといわれている。

 その後、数軒の宿が開業し、戦後は高度経済成長の波とともに、にぎわった。
 しかし、バブル崩壊後は経営を断念する旅館が続き、現在は3軒の温泉宿が川沿いにひっそりとたたずんでいる。
 群馬を代表する秘湯の温泉場として、根強い温泉ファンに愛されている。


  温泉と生きる 「ねどふみの里」


 旧六合(くに)村 (中之条町) の温泉は尻焼に限らず、どこも歴史が古く、その利用は入湯 (湯治) が目的ではなかった。
 この土地に生える菅(すげ) や茅(かや)、藁(わら) などを温泉に浸し、やわらかくして筵(むしろ) を織ったり、草履(ぞうり) を編むために利用していた。
 この作業は、湯の中で草を足で踏むことから 「ねどふみ」 と呼ばれている。
 「ねど」 とは、温泉に草を “寝かせる所” の意味だという。

 野天の川風呂がある長笹沢川から直線にして350メートルほどの山を上がった根広(ねひろ)地区に、「ねどふみの里」 がある。
 屋内には数々の伝統工芸品が展示、販売されている。
 また集落では 「ねどふみの里保存会」 をつくり、昔ながらの技術の継承と保存のために実演や体験などの活動も行っている。

 ねどふみ細工の代名詞といえば、「こんこんぞうり」 だ。
 布を巻きつけた藁と、なった菅を木型を当てながら編んだ草履で、最後に木づちでたたいて形を整えるときに 「コンコン」 と音がすることから、この名が付いたという。
 色とりどりでカラフルな草履は、丈夫でかわいいと観光客に人気だ。
 温泉を利用した先人たちの知恵が、脈々と今でも息づいている。


 「泉質は同じなのに源泉によって、においや肌触りが違うんです」
 と、尻焼温泉で唯一自家源泉を保有する老舗宿 「ホテル光山荘」 のオーナーは言う。
 川底から湧出する源泉の温度は約54度。
 浴槽に届くまでに多少温度は下がるものの、加水されずに注がれているため、それでも熱い。
 到底すぐには沈めないが、浴室にある 「湯かき棒」 で湯をもんでやると、不思議とスーッと体が湯の中に入って行くのである。

 熱いのにクールな浴感、湯上がりも清涼感があり、体がほてらず汗も出ない。
 尻を焼くほどに熱い湯は、肌にやさしい爽快な湯であった。


 <2020年4月号>

 ご愛読、ありがとうございました。
  


Posted by 小暮 淳 at 12:18Comments(0)湯けむり浪漫

2022年11月27日

ぐんま湯けむり浪漫 (26) 妙義温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   妙義温泉 (富岡市)


  修験者が集まる霊峰の麓


 上毛三山の一つ、妙義山 (1104m) は、言わずと知れた群馬を代表する名山だ。
 白雲山、金剛山、金鶏山の三峰からなり、その山容は中国の水墨画を思わせるような奇岩や奇石が連なる独特の景色をつくり上げている。
 香川県の寒霞渓(かんかけい)、大分県の耶馬渓(やばけい)とともに日本三大奇勝に選ばれている。

 「妙義」 の名の由来といわれている妙義神社が主峰、白雲山の東麓に鎮座する。
 創建は宣化天皇2(537)年と伝わり、平安、鎌倉時代は波己曾(はこそ)神社と称していた。
 元禄15(1702)年の 『妙義大権現由来書』 によれば、「寛弘3(1006)年に比叡山十三代座主尊意僧正がこの山に住み、悪魔を降伏し仏法を守って衆生を済度するために妙義権現と名付けた」 とある。
 以後、この山は 「妙義」 とされ、修験道の山として広く崇敬されるようになった。

 妙義山は奇岩の山ゆえ、修験者のみならず、諸大名や文人墨客らも訪れるようになった。
 門前の参道脇には宿屋やみやげ物屋が立ち、現在でも観光客やハイカーたちが訪れている。

 かつて昭和の時代、ここには鉱泉が湧いていた。
 登山口、ハイキングコースの起点ということもあり、往時は多くの登山者でにぎわった。


  名峰と平野を望む美肌の湯


 妙義温泉は平成時代に、妙義山東麓で掘削により湧出した温泉である。
 現在、2つの施設が営業をしている。

 「妙義グリーンホテル&テラス」 の創業は、平成6(1994)年。
 併設されているゴルフ場の宿泊施設としてオープンした。
 「ゴルフをされるお客さまの宿泊は3割、7割は温泉目当てのお客さまです」
 と、支配人の鬼形正人さん。
 オープンから温泉の評判が広まり、今では “西上州の名湯” との呼び声まである。
 富岡市や安中市などの近隣からのリピーターが多いことでも人気のほどが分かる。
 また一昨年、屋外にテントを張ったプライベートな宿泊スペース 「グランピング」 が誕生。
 大自然が味わえると、都会から若者やファミリー層がやって来るようになった。

 源泉は、ナトリウムイオンが海水の10倍という二酸化炭素を含む炭酸水素塩・塩化物温泉。
 美肌効果があるとされるトロリとした独特の浴感が、愛され続けている理由のようだ。
 なによりも奇岩が林立する妙義山の絶景を眺めながらの入浴は、ここでしか味わえない唯一無二の時間といえるだろう。


 一方、平成12(2000)年にオープンした 「妙義ふれあいプラザ もみじの湯」 は、日帰り入浴施設。
 「妙義山パノラマパーク」 と呼ばれる360度の大パノラマで妙義山を望める人気のエリアにあり、周辺には妙義神社、道の駅、美術館などが点在する。

 ここの売りは、妙義山を背に眼下に広がる関東平野を一望する景観にある。
 ロビーや露天風呂からは富岡や安中の市街地はもとより、高崎観音山や群馬県庁、遠く筑波山までを見渡すことができる。
 富岡製糸場をイメージしたレンガ調の浴室と、妙義山の岩肌をイメージした白亜の浴室は、週ごとに男女が入れ替わる。
 山桜、新緑、紅葉と四季折々に装いを変える妙義山。
 訪れるたびに、自然の美しさに気づかされる。


 <2020年2・3月号>
   


Posted by 小暮 淳 at 17:13Comments(0)湯けむり浪漫

2022年11月05日

ぐんま湯けむり浪漫 (25) 宝川温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   宝川温泉 (みなかみ町)


  霊験あらたかな伝説の湯


 宝川温泉の開湯は古く、神話の時代にさかのぼる。

 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の折、武尊山(ほたかさん)に登り、奥利根の山々の美しさを愛でたという。
 ところが、この山を登ったことにより、極度の疲労を覚え、病気を発してしまった。
 お供の者たちは手当てをしようとしたが、深い山の中で手のほどこしようがなかった。
 途方に暮れていると、はるか下界の谷間より一羽の白いタカが空高く舞い上がり、天空で輪を描いた。
 不思議に思って谷間をのぞき込むと、湯煙が立ち昇っていた。

 お供の者たちは 「これも神明のご加護か」 と喜び、日本武尊を霊泉まで案内した。
 そして湯につかると、病はただちに全快して、また旅を続けることができたと伝わる。
 そのため宝川温泉は、古くは 「白鷹(はくたか)の湯」 と呼ばれていた。
 いまでも敷地の入り口には、温泉発見の始祖として日本武尊の像が祀られ、かたわらには霊泉へと導いた白いタカが寄り添っている。


 江戸時代には、すでに湯小屋があり、皮膚病や子どもの疳(かん)の虫に効果があるとされ、馬や駕籠(かご)で湯治客がやって来たという。
 宿の創業は大正12(1923)年。
 宝川のほとりに旧館が建ち、温泉旅館としての営業が始まった。
 その後、昭和になってから別館、本館、東館と増設され、現在の 「汪泉閣(おうせんかく)」 が構成されている。

 広大な庭園には大黒堂や座禅堂、山荘、散歩コースなどが配され、一軒宿とはいえ日がな一日、飽きることがない。


  秘湯に息づく日本の魅力


 昭和30~40年代、宝川温泉が全国的に有名になったことがあった。

 戦後間もない頃、親を亡くした2頭の子グマを、宿主が手塩にかけて育て上げた。
 ある夏の盛りのこと。
 子グマを露天風呂へ連れて行くと、最初は前足でピチャピチャとお湯をたたいて面白がっていたが、そのうちスーッと温泉に入って泳ぎ出したという。
 それからクマと一緒に温泉に入ると、泊まり客が大喜びし、大騒ぎとなった。

 やがて露天風呂に入る 「入浴熊」 のうわさは広まり、当時、テレビや新聞、雑誌等に取り上げられ、宝川温泉は千客万来の大盛況となった。
 現在は条例により禁止されているため、クマの入浴を見ることはない。


 ところが今、ふたたび宝川温泉が脚光を浴びている。
 インバウンドと呼ばれる外国人観光客の増加である。
 数年前、海外の旅行ガイドに、関東の観光名所として日光と並んで紹介されたのが、ブームのきっかけとなった。
 旅行サイトの人気投票でも 「外国人が最も注目した日本の観光スポット」 として、常に上位にランキングされている。

 なんといっても圧巻は、天下一を誇る巨大な露天風呂だ。
 川と見まがう4つの露天風呂の総面積は、約470畳。
 温泉評論家が選ぶ 「全国露天風呂番付」 で、“東の横綱” の地位に輝いたこともある。

 すべての露天風呂を源泉かけ流しにできるのも、毎分約1,800リットルという恵まれた湯量があるからこそで、まさに名実ともに “天下一” といえるだろう。
 群馬が全国に、いや世界に誇れる日本の秘湯である。


 <2020年1月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:57Comments(0)湯けむり浪漫

2022年10月23日

ぐんま湯けむり浪漫 (24) 赤城温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   赤城温泉 (前橋市)


  千年の時を経て湧く薬湯


 赤城山の南麓、標高約900メートル。
 荒砥川の上流の山深いところに湧くいで湯で、昔から 「上州の薬湯」 として知られていた。
 旧宮城村大字苗ヶ島湯之沢にあることから、古くは 「湯之沢温泉」 といい、赤城山麓では、ただ一つの温泉だった。
 現在、3軒の温泉宿が渓谷に寄り添うようにたたずむ。

 湯の起源は古く、古墳時代との説もあり、すでに奈良時代の書物には 「赤城に霊泉あり、傷病の禽獣集まる」 と記されている。
 また裏山の薬師堂近くの洞窟に、応仁元(1467)年の作である石像 「湯の沢薬師地蔵」 (前橋市指定文化財) が残っていることから、少なくとも室町時代には温泉が存在したことになる。

 赤城山は、かつてより山岳宗教の霊山であったため、修験者が傷を癒やすために湯に入ったのが、温泉の始まりともいわれている。
 修験者が里に下りて、その効能を人々に伝えたことにより 「上州の薬湯」 として広く知れ渡れることになったようだ。
 かの新田義貞や国定忠治も湯につかり、心身の傷を癒やしたとも伝わる。


 江戸時代に入り、元禄元(1688)年には前橋藩主によって湯権が認められ、温泉宿の営業が始まった。
 数軒の湯小屋と宿屋のほか、湯治客のための雑貨屋や仕出し屋、豆腐屋などもあり、赤城神社に詣でた参拝客が足を延ばすなど、盛時には日に数百人の湯客でにぎわっていたという。

 ところが江戸から明治時代にかけて、たびたび火災に見舞われ、そのたびに著しく衰退し、再建の歴史をくり返してきた。
 幾多の困難を乗り越えながらも、何百年と守り継がれてきたことが、名湯と呼ばれる証しである。


  浴槽に漂う白い石灰華


 悠久の時を超えて湧き続ける湯は、茶褐色をしたにごり湯。
 時間の経過とともに、さまざまな変化を見せる不思議な湯だ。

 湧出時は無色透明だが、鉄分をはじめカルシウム、ナトリウム、マグネシウムなどを多く含むため、空気に触れると沈殿物を生成し、茶褐色のにごり湯となる。
 濃厚な湯の色もさることながら、湯が注ぎ込まれる湯口や浴槽の縁、洗い場の床の変形にも驚かされる。
 黄土色の析出物が堆積して、まるで鍾乳石のように幾何学模様を描いている。

 また露天風呂では、さらに不思議な光景を見ることができる。
 より外気に触れるせいだろうか、温泉のカルシウム成分が白く固まり、無数の突起物を持つ析出物が、浴槽の縁に張り付いて、あたかもサンゴ礁のようだ。

 そして、この湯は温泉ファンの間では、「石灰華(せっかいか)」 と呼ばれる現象が起こることでも有名。
 時間の経過とともに温泉の中の炭酸カルシウムが主成分となり、湯葉のような白い膜が湯面を覆う。
 なんとも神秘的な光景である。


 「温泉の成分が濃いため、排水管に析出物がたまり、すぐに詰まってしまいます」
 と話す赤城温泉ホテルの10代目主人で、赤城温泉観光協同組合長の東宮秀樹さん。
 それゆえ年2回、パイプを取り外し、中に付着した温泉成分の結晶を削り取る作業が欠かせないという。
 にごり湯ならではの湯守(ゆもり)の苦労がある。

 いにしえの旅人たちも、この濃厚なにごり湯につかっていたかと思うと、壮大な歴史のロマンを感じる。


 <2019年12月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 13:17Comments(0)湯けむり浪漫

2022年10月17日

ぐんま湯けむり浪漫 (23) 相間川温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』 (全27話) を不定期にて掲載しています。
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   相間川温泉 (高崎市)


  七色に変化する虹色の湯


 榛名山の西麓を流れる相間川(あいまがわ)の奥地。
 旧倉渕村が都市生活者のために遊休農地を整備して貸し出している市民農園 「クラインガルテン」 が広がる。
 クラインガルテンとは、ドイツ語で 「小さな庭」 の意味。
 本場ドイツにならい都市農村交流を目的として、平成4(1992)年に日本で初めてオープンした本格的農園である。
 約1万3000坪の敷地内には農園のほか、ログハウスやバーベキュー場、体育館など、スポーツやアウトドアを滞在しながら楽しめる施設が併設されている。

 温泉が湧いたのは平成7(1995)年3月のこと。
 源泉の温度は約62度と高温で、湧出量も毎分約200リットルと豊富だった。
 何よりも関係者を驚かせたのは、温泉の色だった。

 湧出時は無色透明だが、時間の経過とともに赤褐色に変わり、レンガの粉のような析出物が大量に沈殿した。
 鉄分を多く含んでいる証拠だった。
 さらに高濃度の塩分を含み、大量の油分も含んでいた。

 油分は太古の地層から抽出されたもの。
 地下に閉じ込められていた海水内の微生物が、地熱と地圧により変化したものと考えられている。
 原油が生成される原理と同じとのこと。
 湯からは、ほのかに石油のようなにおいが漂う。

 時に、この油分が湯面に膜を作る。
 日光に照らされると七色に変化することから、温泉ファンの間では 「虹色の湯」 とも呼ばれている。


  長湯禁物!湯あたり注意!!


 宿泊棟を併設した 「ふれあい館」 は、登山客やアウトドアを楽しむファミリー層に人気が高い。
 平成8(1996)年のオープン時は、口コミでうわさが広がり、山道が渋滞して交通整理が必要なほどだったという。
 その “うわさ” とは、湯の色とにおいだった。

 同12(2000)年には、旧倉渕村の福祉センターとして日帰り入浴施設 「せせらぎの湯」 がオープン。
 合併後の現在でも市内者割引があるため、利用客の9割を高崎市民が占めている。
 憩いの場として、平日でも朝からにぎわっている。


 「ふれあい館」 副支配人の秋山博さんは話す。
 「温泉法で10年に一度の分析検査が定められていますが、10年前の検査より成分が全体的に濃くなっています」

 濃いにごり湯のため、足元が見えない。
 恐る恐る、ゆっくりと湯底を足で確かめながら入った。
 うわさどおり、においも金気臭にまざって油臭がする。
 かなり個性的な湯であることが分かる。

 体の位置を変えようと、手をついた瞬間だった。
 フワリと尻が浮いてしまった。
 それほどに塩分が濃い、塩辛い湯である。


 浴室には、こんな貼り紙がされている。
 ≪カップラーメン お湯を注いで3分 相間川の温泉(おゆ) 入っても7分! これ以上は、のびるだけ≫

 塩分と鉄分の多い温泉は、実際の温度よりも体感温度が低く感じられるといわれている。
 そのため、ついつい長湯をしてしまい、のぼせてしまう客が多いのだそうだ。
 入浴の際は、くれぐれも湯あたりには注意をしていただきたい。


 <2019年10・11号>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:00Comments(2)湯けむり浪漫

2022年10月03日

ぐんま湯けむり浪漫 (22) 高山温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   高山温泉 (吾妻郡高山村)


  村民待望の天然温泉が湧いた!


 四方を緑の山々に囲まれ、雄大な自然と大地の恩恵に育まれてきた高山村。
 戦国時代には交通の要所として各所に城が築かれ、近世になると越後と江戸を結ぶ三国街道の宿場として大いににぎわった。
 明治22(1889)年、中山村と尻高村が合併して、現在の高山村が誕生した。

 近年は、村内を横断する国道145号が 「日本ロマンチック街道」 に設定されたこともあり、観光エリアとしての発展が目覚ましい。
 県立ぐんま天文台やゴルフ場、キャンプ場など、自然と調和した多くのリゾート施設に、四季を問わず県内外から観光客が訪れている。


 多くの施設がある高山村だが、温泉はなかった。
 待望の天然温泉が湧いたのは平成になってから。
 国の 「ふるさと創生資金事業」 により掘削したところ、泉温約65度、毎分約50リットルの無色透明の温泉が湧出した。
 村民からの要望を受け、平成4(1992)年、村営温泉施設 「いぶきの湯」 がオープンした。

 建物は木造平屋建て、約170平方メートル。
 浴室は内風呂のみだが、天窓のある吹き抜け構造になっているため、開放感がある。
 何よりも泉質の良さが評判になった。
 「よく温まり、アトピー性皮膚炎や腰痛に効く」
 と口コミで広まり、村内はもとより隣接地域からのリピーターが年々増え、最初の5年間で37万人以上の入場者があったという。

 まだ県内でも日帰り温泉施設が少なかった時代のこと。
 その評判は県境を越えて、遠方からも多くの浴客が訪れるようになった。


  温泉施設がある人気の 「道の駅」


 山間の小さな施設は、ひと昔前の共同湯の面影を残している。
 入り口前には飲泉所があり、湧き出したままの熱い源泉を飲むことができる。
 泉質は、ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉。
 口に含むと、かなり塩辛い。

 「熱くないと、常連さんに叱られます」
 と、古参の従業員が笑った。
 浴槽の湯の温度は、常に43度を保っている。
 この入った時に、ガツンとくる浴感が、高山温泉の魅力なのだという。

 また、その効能の多さから 「病も治す神の霊泉」 とまで呼ばれ、地元の人たちに愛され、憩いの場として親しまれている。


 平成8(1996)年7月、住民の福祉向上と村の観光の目玉にすることを目的に、「いぶきの湯」 から源泉を引いた日帰り温泉施設 「ふれあいプラザ」 が新たにオープンした。
 一風変わったとんがり屋根の建物は、「日本ロマンチック街道」 にちなんだ洋風なデザイン。
 外壁は石造りという珍しさも手伝って、たちまち評判になった。
 隣接地には、宿泊施設としてのコテージも増設された。

 平成26(2014)年には温水プールを農産物の直売所に全面改築し、道の駅 「中山盆地」 としてリニューアルオープン。
 その後、大型遊具や健康器具が設置された公園や絶景の足湯も施設内に完成し、子どもから大人まで楽しめる施設になった。

 「景色が素晴らしく、温泉施設が充実している」
 という利用者の意見が多く、関東甲信越の 「道の駅」 173駅の中で、2018年度は人気投票15位に選ばれた。
 平成にできた新しい温泉は、雄大な自然の下、歴史を刻んでいく。


 <2019年9月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:55Comments(0)湯けむり浪漫

2022年09月19日

ぐんま湯けむり浪漫 (21) 鎌田温泉


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   鎌田温泉 (片品村)


  尾瀬の玄関口に湧いた美人の湯


 県の東北の端に位置し、新潟・福島・栃木に接する県境の片品村。
 本州最大の高層湿原を有する尾瀬、関東以北の最高峰である日光白根山をはじめ至仏山や武尊山といった 「日本百名山」 に選ばれた山々が連なり、丸沼や菅沼などの湖水美にも恵まれた自然豊かで風光明媚な観光地である。

 「尾瀬の玄関口」 ともいえる片品村の中心地が、鎌田である。
 国道沿いに食堂や商店が立ち並び、ハイカーやスキーヤーなど年間を通して多くの観光客が訪れる。
 現在、鎌田温泉には2軒の温泉宿と日帰り入浴施設がある。
 どこも昭和後期以降のボーリングにより誕生した歴史の浅い温泉だが、各々が自家源泉を保有している。
 肌にやさしい、しっとりとした浴感から 「美人の湯」 とも呼ばれ、観光以外にも湯治を目的とした温泉ファンが増えている。

 平成30(2018)年、「道の駅 尾瀬かたしな」 が鎌田にオープン、新しい村の観光スポットになった。
 敷地内の展望テラスには、源泉かけ流しの足湯もある。
 目の前に広がる片品の大自然を眺めながら、少し熱めの湯を楽しめる。


  旅人に愛され続ける街道の宿


 街道沿いに旅籠(はたご)の面影を残す白壁と格子窓、カラカラと音を立てる玄関の引き戸。
 館内の調度品の一つ一つにも、歴史と風情を感じる。

 「梅田屋旅館」 は、旅人とともに鎌田の移ろいを見つめてきた老舗宿。
 創業は明治44(1911)年。
 当時の中心地だった須賀川に、尾瀬や日光への行き帰りに投宿する料理旅館として開業した。

 明治時代に初めて入山し、尾瀬の景観の素晴らしさを広く世に知らせ、「尾瀬の父」 と呼ばれた植物学者の武田久吉は、この宿をこよなく愛していたという。
 現在の宿の上がり口には、大正時代に描かれた紀行文の一節が掲げられている。
 ≪親切な宿屋。寝具や浴衣の清潔な宿屋。(中略) 一言にして尽くせば感じのよい宿屋であった。私はこれを推奨するに躊躇(ちゅうちょ)しない。≫
 と絶賛している。

 廊下の壁には、数えきれないほどの色紙が飾られている。
 著名な映画監督や落語家、俳優、タレントばかり。
 極めつきは、広間のふすまに “なぐり書き” された落語家・立川談志の “書” だ。
 なんともユニークで愛情深い、師匠らしい言葉たちが躍っている。

 明治、大正、昭和、平成の旅人たちをもてなしてきた街道の老舗宿。
 その物語は、令和の世も語り継がれていく。


 <2019年8月号>
   


Posted by 小暮 淳 at 10:50Comments(0)湯けむり浪漫

2022年09月06日

ぐんま湯けむり浪漫 (20) 磯部温泉


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   磯部温泉 (安中市)


  避暑地として栄えた屈指の温泉地


 温泉の発見は古く、鎌倉時代にはすでに湧出していたともいわれるが、諸説ある。
 一般には天明3(1783)年7月の浅間山の大噴火の際、大きな地鳴りとともに、恐ろしい音を立てながら数丈の高さに鉱泉を吹き上げたと伝わる。
 また浅間山の噴火による降灰で、それまで湧いていた泉口が埋まってしまい、その圧力で新しい源泉が噴出したともいわれている。

 当時、この付近一帯は碓氷川に沿った盆地状の湿地帯で、塩辛い水が湧き出ていたことから、この湯を 「塩湯」、地名は 「塩の窪(くぼ)」 と呼ばれていた。
 しかし浴用として使用されたのは後のことで、幕末になり小屋が建てられ、鉱泉を温めて湯治用にしたところ効験があったという。

 明治時代になると数軒の旅館経営が始まり、明治18(1885)年に高崎~横川間の鉄道 (現在の信越本線) が開通すると、東京方面からの利用客が増大し、群馬を代表する温泉地として発展した。
 まだ軽井沢の開発がされていない当時、環境の良さと交通の便利さが評判となり、都会の富裕層たちの別荘地となった。
 初代群馬県令の楫取素彦(かとりもとひこ)も、県の観光PRに力を入れていた。
 磯部温泉が避暑地として優れている点に着眼し、同じ長州藩 (山口県萩市) 出身の政治家・井上馨をはじめとする新政府の高官たちに呼びかけ、自身も別荘を建てた。

 しかし、のちに横川~軽井沢間が開通すると、軽井沢が避暑地としてクローズアップされるようになり、やがて磯部からは別荘が姿を消していった。


  日本で最初の温泉マーク


 昭和になり、温泉の起源について新たな史実が確認された。
 万治4(1661)年に記載された 『裁許絵図(さいきょえず)』 (磯部地区で起きた土地争いの判決文) が発見されたのだ。
 この判決文の絵図の中に描かれた2ヶ所の 「塩の窪」 に、現在の温泉マークに似た符号が記入されていたのである。
 これが磯部温泉が 「日本最古の温泉記号発祥の地」 といわれるゆえんである。

 磯部温泉組合では、温泉マークの湯気の部分を3つの 「2」 に見立て、2月22日を 「温泉マークの日」 として登録し、平成28(2016)年よりイベントを行っている。
 また同30年からは 「温泉マークカレー」 と名付けた、ご当地カレーライスを温泉街の飲食店で販売。
 ライスを温泉マークにかたどったユニークなデザインが、“インスタ映え” すると評判になっている。

 磯部温泉の昔ながらの名物といえば、鉱泉を利用した 「磯部せんべい」 だ。
 温泉街には今でも一枚一枚、手焼きの実演販売をする店が軒を連ねる。
 サクサクとした独特の歯ごたえがたまらない。
 戦時中は重曹の代わりに、この鉱泉が 「ふくらし粉」 として利用されたり、浅草の 「雷おこし」 が、ここで作られていたことは、あまり知られていない。

 平成8(1996)年、温度の高い新源泉が掘削され、現在、旅館と日帰り入浴施設、足湯などに供給されている。
 湧出量の少ない旧源泉は、せんべい専用に使用されている。


 <2019年6・7月号>
  


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2022年08月25日

ぐんま湯けむり浪漫 (19) 川古温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   川古温泉 (みなかみ町)


  偉人たちに愛された渓谷の湯治場


 猿ヶ京・三国温泉郷の一つ、川古(かわふる)温泉は赤谷川の渓谷にたたずむ一軒宿。
 古くから神経痛やリウマチなどの湯治と療養の名湯として知られてきた。

 湯の起源については不明だが、江戸の後期にはすでに温泉が存在し、大正時代には食料を持参で湯治客が入りに来る湯小屋があったという。

 大正5(1916)年、木材を切り出して酢酸などを造る旧日本酢酸製造赤谷工場が、温泉の下流に設立された。
 当時、酢酸は火薬の原料としても使われていたようだ。
 この工場に勤めていた現主人の祖父が、温泉の湯守(ゆもり)から仕事を引き継ぎ、旅館を創業した。


 川古温泉をこよなく愛した偉人の一人に、法学博士の廣池千九郎がいる。
 昭和5(1930)年8月に初めて入湯して以来、翌年にかけて4回、計139日間も滞在している。
 当時、千九郎は大病にかかり、発汗に苦しんでいた。
 その療養に通っていたようだ。

 また彫刻家で詩人の高村光太郎も昭和4(1929)年5月に訪れ、「上州川古 『さくさん』 風景」 という詩を残している。
 詩の中に登場する
 <ひつそりとした川古のぬるい湯ぶねに非番の親爺>
 とは、
 「私の祖父ではないか」
 と、3代目の林泉さんは言う。


  全身を泡の粒が包む新鮮な湯


 ≪川古のみやげは一つ杖を捨て≫
 と言われるほど、昔から湯治場として親しまれてきた。
 現在でも県内外から訪れる長期滞在の浴客が多い。

 温泉の温度は約40度。
 加温されないため、「持続浴」 と呼ばれるぬるい湯に長時間入浴する独特な入浴法が昔から続けられている。
 リウマチの療養に年4~5回来ては10日間滞在しているという老人は、
 「日に8時間、湯に浸かる」
 と言った。
 見れば、湯舟の中にペッボトル持参で、水分補給を欠かさない。

 と思えば、石を枕に昼寝をする人や、本を持ち込んで読書をする人の姿も……。
 思い思いの入浴スタイルで、現代の湯治を楽しんでいた。


 熱い湯は自律神経系の交感神経を刺激するため覚醒作用があるが、逆にぬるい湯は副交感神経に働くのでリラックス効果があるという。
 また長時間湯に入っていられるため、薬効成分が肌から吸収されやすく、皮膚病などに効能があるとされる温泉が多い。
 なによりも、
 「ふだんの生活から離れ、自然環境に恵まれた温泉場に滞在することにより、心と体のバランスが整えられる」
 と林さんは、温泉の持つ “転地効果” の魅力を語る。

 浴槽の底に小石が敷きつめられた内風呂に身を置いてジッとしていると、数分で全身に小さな泡の粒が付き出した。
 足元から源泉を出しているため、空気に触れる前に人肌に触れるので、露天風呂に比べて泡の付きがいい。
 湯が新鮮な証拠である。


 <2019年5月号>
  


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2022年08月13日

ぐんま湯けむり浪漫 (18) 小野上温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   小野上温泉 (渋川市)


  草むらに眠っていた湯前薬師石堂


 JR吾妻線、小野上温泉駅に降り立つと、背後に奇岩が林立する峰がそびえている。
 岩井堂山 (459m) と古城台 (508m) である。
 岩井堂山は地元では岩井堂砦(とりで)と呼ばれ、その昔、白井城の関門として支城が置かれていた。
 戦国時代、上杉と武田の両勢力が互いに動向を見定める絶好の場所として、激しい奪い合いが繰り返されたという。

 一方、古城台は、なだらかな丘陵である。
 それでも登山ルートのあちらこちらに奇岩が多く、低山ながら稜線からは榛名山や赤城山、遠く浅間山、草津白根山まで望む、ハイカーに人気の山だ。
 そのため、下山後に温泉で汗を流すのを楽しみに訪れる浴客も多い。


 駅から吾妻川へ向かい歩くと、キラキラとした水面が出迎えてくれる。
 ここは桜の名所でもあり、桜並木の前に全国でも日帰り温泉施設の草分けと称される 「さちのゆ」 がある。
 駐車場脇には、薬師如来を祀った湯前薬師石堂があり、こんな一文が添えられている。

 <小野上村大字村上字塩川内、国道353号沿いに古来より温泉が湧出し、その泉源地にこの石堂がありました。(中略) 草むらの中に眠らせて置くことは何としても残念なことであるため、小野上村商工会の村おこし事業で移築しました。>


  塩川温泉から小野上温泉への変遷


 小野上温泉 (渋川市) は、かつては塩川鉱泉といった。
 歴史は古く、湯前薬師の石堂には寛文4(1664)年に創建されたことが刻まれている。
 昭和初期までにぎわっていたが、戦後になってからは湯量の減少や交通の不便さなど、さまざまな事情から衰退の一途をたどってしまった。

 昭和53(1978)年、旧小野上村が新たな源泉を掘削したところ、毎分270リットル、約45度の温泉が湧出。
 浴槽と建物を造り、入浴施設をオープンさせた。
 宿泊施設のない、大広間で休憩するヘルスセンター方式の温泉は、当時はまだ珍しく、またたく間に評判は広まり、村内外から大勢の人がやって来た。

 村は利用客からの要望を受け、より規模の大きい施設を計画し、湯量を得るために新源泉の掘削を行ったところ、毎分550リットル、約50度の温泉が湧出。
 同56(1981)年3月、「小野上村温泉センター」 が誕生した。

 大露天風呂、カラオケステージ付きの休憩室、食堂や個室までもが設置された。
 現在では当たり前の設備だが、当時は全国でも公共の日帰り温泉施設は珍しく、利用客は年間20万人を超える大盛況となった。

 これを機に周辺の旅館や民宿にも分湯され、新たな温泉地としての歴史が始まった。
 いつしか人々は 「塩川温泉 小野上村温泉センター」 を略して、「小野上温泉」 と呼ぶようになっていた。
 その人気のほどは、平成4(1992)年にJR吾妻線、小野上温泉駅が開設されたことでも分かる。


 同11(1999)年、源泉名と温泉地名を正式に 「小野上温泉」 と改名。
 同20(2008)年には温泉センターが全面改装され、「さちのゆ」 としてリニューアルオープンした。

 トロンと肌にまとわり付くアルカリ性の湯は 「美人の湯」 として知られ、現在でも県内外から多くのファンが訪れている。


 <2019年4月号>
  


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2022年08月01日

ぐんま湯けむり浪漫 (17) 高崎観音山温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   高崎観音山温泉 (高崎市)


  時の要人たちに愛された高級旅館


 平成の大合併までは、高崎市で唯一の温泉宿であった。

 市街地とは烏川をはさんだ目と鼻の先。
 それなのに観音山丘陵の中腹にたたずむ 「錦山荘(きんざんそう)」 は、竹林と赤松林に囲まれた静寂に包まれている。
 その名のとおり、錦織り成す自然美の中にある風光明媚な宿は、昔より時の要人たちが足を運び、「高崎の奥座敷」 として利用されてきた。
 新渡戸稲造や犬養毅なども訪れたという。

 観音山山頂へ向かう羽衣坂を上り始めると、やがて左手に 「錦山荘」 と書かれた黒い大きな門が見えてくる。
 門をくぐる手前で、小さな橋を渡る。
 橋のたもとには、昔ここにあった旧橋の親柱が残されていて、こう刻まれている。

 <錦山荘橋 昭和六年四月廿九日開通>
 <高崎館 田中富貴壽架橋>

 高崎館とは、明治から昭和初期まで高崎駅前にあった旅館である。

 錦山荘は昭和4(1929)年、「鉱泉旅館割烹 高崎館別館」 という高級料亭旅館として創業。
 それ以前は、大正時代に開湯した清水(きよみず)鉱泉と呼ばれる共同浴場があり、地域の人たちに親しまれ、大変にぎわっていたという。


  市街地を見渡す絶景の展望風呂


 昭和63(1988)年に改築され、錦山荘は現在の展望風呂を持つ温泉旅館としてリニューアルオープンした。
 現在は宿泊客のみならず、日帰り入浴や食事、宴会ができる地元の人たちの憩いの場として利用されている。

 創業当時をしのぶ客室が、本館の2階に残されている。
 「桐」 「竹」 「桜」 「楓(かえで)」 の間には、室名どおりの銘木をぜいたくに使った長押(なげし)や回り縁、網代(あじろ)天井など、日本建築の粋を極めた内装が施されていて、歴史の重みが感じられる。
 古き良き時代の息吹と昭和のロマンが漂う客室は今でも人気があり、あえて指名して宿泊するファンも少なくない。

 宿自慢の展望風呂は、昔ながらの丸太を組んだ湯小屋風。
 全面ガラス張りの大きな窓からは、眼下に高崎の街を一望することができる。
 烏川越しに高崎市役所、その奥に群馬県庁舎がそびえる。
 そして借景として、あたかも屏風絵(びょうぶえ)のように長く裾野を広げる赤城山の雄姿を見渡す。
 何度訪れても、飽きることのない絶景である。


 <2019年2・3月号>
 ※錦山荘は現在、休業中です。
  


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2022年07月25日

ぐんま湯けむり浪漫 (16) 草津温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   草津温泉 (草津町)


  偉人たちの開湯伝説

 草津白根山の麓、標高1,200メートルの高地に開けた高原の町、草津。
 国内有数の温泉地として、昔から湯治客や観光客に親しまれてきた群馬を代表するリゾート地である。
 その歴史は古く、室町時代の古文書に “草津湯” の記載があるが、湯の起源は定かではない。

 しかし温泉の発見には、こんな偉人たちの開湯伝説がある。
 『古事記』 『日本書紀』 に登場する英雄、日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) が東国征伐の折に発見した説。
 奈良時代の僧侶、行基が各地で布教活動を行ううちに山深い草津にいたり、霊気にあふれたところを祈祷すると温泉が湧き出した説。

 また鎌倉幕府を開いた武将、源頼朝が建久4(1193)年に浅間山で狩りを行った折に草津まで足を延ばし、湯を発見したとも伝わる。
 これが白旗源泉で、湧出地の囲いの中には石宮があり、頼朝が腰かけた場所と伝えられ、「御座之湯」 (江戸時代にあった共同浴場 「草津五湯」 の1つ) の由来にもなっている。
 源泉名は、源氏を象徴する白い旗から名付けられた。

 町内のいたるところに湧き出る源泉は、大小100カ所あり、総湧出量は毎分約3万2千リットル。
 自然湧出泉としては、日本一の湯量を誇る。
 代表的な6つの源泉の温度は、万代源泉が約95度ともっとも高く、他も50度前後と高温。
 そのため熱交換式により源泉を薄めることなく冷まし、熱交換によって温められた温水は、家庭やホテル、旅館、飲食店などに供給されている。


  湯畑に刻まれた百人


 戦国時代には武将たちが傷を癒やしに、泰平の世には文人たちが物見遊山にと、多くの人々に愛されてきた草津温泉。
 そんな歴史に名を残す偉人たちの名前がひと目で分かる場所がある。
 開湯伝説の3人をはじめ、高野長英、佐久間象山、田山花袋、志賀直哉、若山牧水、斎藤茂吉、与謝野晶子、竹久夢二ら百人の名前が、湯畑を囲む石柵に刻まれている。
 なかには田中絹代や石原裕次郎、渥美清など昭和のスターの名前も。
 ちなみに現在の湯畑の形は、芸術家の岡本太郎監修によって昭和50(1975)年に設計された。

 草津のシンボル、湯畑も源泉の一つで、毎分約4千リットルの温泉が自然湧出している。
 柵内には7本の湯樋があり、ここから土産物の 「湯の花」 を採取している。
 湯畑の名称も、湯の花を採取するための畑という意味で名付けられたという。

 また宿へ温泉を配湯する技術がなかった時代、多くの浴客は湯畑周辺で温泉が湧出し、流下している場所に造られた湯屋で入浴していた。
 これが共同浴場 (外湯) である。
 現在でも町内には19カ所の共同浴場があり、多くは町民が利用する施設だが、いくつかは観光客にも開放されている。

 また 「千代の湯」 と 「地蔵の湯」 では、草津温泉独特の入浴法 「時間湯」 (※) を体験することができる。
 湯長 (※) の指導の下、集団で決められた時間、数回を入浴する湯治法で、入浴前には温度を下げ湯をやわらかくする 「湯もみ」 を行う。
 この湯もみを行う際に調子を取るために歌われるのが、草津節などで知られる 「湯もみ唄」 である。

 数々の温泉地人気ランキングで、常に全国上位に君臨する草津温泉。
 その魅力は千数百年の歴史に培われた文化と、変わらぬ草津の湯本来の力にありそうだ。
 近年は噴火による風評被害もあったが、徐々に人々も戻ってきている。
 さすが群馬が誇る日本一の温泉地である。


 <2019年1月号>
 ※現在、「湯長」 制度は廃止され、名称も 「時間湯」 から 「伝統湯」 に変更されています。
   


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2022年07月14日

ぐんま湯けむり浪漫 (15) 湯宿温泉


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   湯宿温泉 (みなかみ町)


  真田一族ゆかりのいで湯


 かつて三国街道の宿場町だった温泉街には、往時をしのぶ古い町並み残されている。
 石畳の小道、白壁の土蔵、黒い板塀……。
 そぞろ歩くたびに、古き良き湯治場の風情がよみがえってくる。

 湯宿(ゆじゅく)温泉の開湯は1,200年前(平安時代)と伝わる。
 仁寿2(852)年、須川村 (現・みなかみ町) の弘須法師が岩穴にこもって、大乗妙典を読誦(どくじゅ)したところ、その功徳により温泉が湧き出したという。


 また初代沼田城主の真田信幸が関ケ原の合戦の後、戦の疲れを癒やすために須川の湯 (現在の湯宿温泉) を訪れている。
 それをきっかけに、2代目信吉、3代目熊之助、4代目信政らも下屋敷 (別荘) として好んで入浴した。
 なかでも最後の城主、5代目信直は持病の痔 (ぢ) に苦しんでいたため、館を構えて湯治に専念した。
 見事に根治したため、お礼にと裏山に薬師如来堂を建立して寄進した。

 これらのことは、現主人で21代目を数える老舗旅館 「湯本館」 の蔵から見つかった 『湯宿村温泉記録』 という古文書に記載されている。


  熱くて清々しい湯宿の湯


 <湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処(そこ)で二人の青年に別れて、日がまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
 (『みなかみ紀行』 より)

 大正11(1922)年10月、歌人の若山牧水は信州から日光までの群馬県を横断する旅をした。
 法師温泉 (みなかみ町) の帰り道、湯宿温泉に投宿した牧水は、その晩、主人の釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ち、あまりのおいしさに、おかわりをしたという。
 今でも 「ゆじゅく金田屋」 の土蔵には、宿泊した 「牧水の間」 が当時のまま残されている。


 漫画家のつげ義春も湯宿温泉を愛した作家の一人である。

 <今度また湯宿に来てしまった。これが二度目ではない。もう何度も来ているのだ。何を好んでといわれても答えようがない。ふと思い出すと来てしまうのだ。>
 (『上州湯宿温泉の旅』 より)

 つげ義春は昭和40~50年代にかけて、たびたび訪れ、いくつかの旅館を泊まり歩いている。
 代表作の 『ねじ式』 や 『ゲンセンカン主人』 なども、湯宿温泉が舞台だといわれている。


 文人たちが好んだ湯は、良質な硫酸塩温泉。
 湯量豊富な5本の源泉は約60度と温度が高いため、加温することもなく、どこの宿でもかけ流しのスタイルを守っている。

 地元では 「熱くなけりゃ、湯宿の湯じゃねえ」 と言われるくらい熱いのだが、これが、いったん沈んでしまうとクセになる心地よさ。
 清涼感があり、湯上がりは汗をあまりかかずに、よく温まる。


 <2018年12月号>
  


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2022年07月08日

ぐんま湯けむり浪漫 (14) 霧積温泉


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   霧積温泉 (安中市)


  避暑地を襲った山津波を逃れて


 碓氷峠へ向かう国道18号の旧道から離れ、山深い曲がりくねった山道を車で進むこと約30分。
 長野県境にそびえる鼻曲山 (1,655m) の登山口駐車場に出る。

 車道ができる昭和45(1970)年までは、信越本線の横川駅から3時間以上もかけて歩いたという。
 ここからは車を降りて、「ホイホイ坂」 と呼ばれるつづら折りの登山道を、さらに約30分歩くことになる(宿泊者は送迎あり)。
 まさに群馬を代表する “秘湯” だ。


 霧積(きりづみ)温泉の一軒宿、「金湯館(きんとうかん)」 の創業は明治17(1884)年。
 当時は旅館が5~6軒と別荘が40~50棟建ち並び、9年後に信越本線が全線開通するまでは避暑地として軽井沢よりも栄えていたといわれている。
 ところが明治43(1910)年、山津波が一帯を襲い、金湯館以外の建物は泥流にのみ込まれてしまった。

 昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電にて営業を続けてきた。
 電気と電話が通じたのは、昭和56(1981)年のことだった。

 「男は燃料や薪(まき)を担ぎ山道を登り、女は洗濯や火鉢の炭おこしに一日中追われていた」
 と3代目女将の佐藤みどりさんは、当時を述懐する。

 昭和30年代から親族が1キロ下った場所で旅館を開業していたが、7年前に廃業したため、金湯館は、また一軒宿になってしまった。


  泡の出る湯が全身を包み込む


 伊藤博文、勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら、政治家や文人も多く訪れている。
 旧館の2階には明治憲法の草案が作られたというケヤキ造りの部屋が残り、今でも指名して予約する宿泊客が多いという。

 昭和52(1977)年、作家、森村誠一のベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積温泉が一躍ブームとなった。

 《母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? えゝ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ》

 学生時代 (昭和20年代) に霧積温泉を訪れた森村誠一は、宿でもらった弁当の包み紙に印刷されていた西条八十の詩に深い感銘を受け、のちに取材に来て小説を書き上げた。
 映画は歌手、ジョー山中が歌う主題歌とともに大ヒットした。
 当時は国道から霧積までの山道が渋滞するほどに混雑したという。


 湯元として代々守り継いできた源泉は約39度とぬるく、炭酸を含んでいるため泡の粒が体中に付くのが特徴。
 昔から切り傷ややけどに特効があるといわれている薬湯である。
 かの勝海舟も皮膚病の治療に来ていたらしい。

 体を湯に沈めた途端、プチプチとくすぐったいほどの気泡が背中を伝い出し、あれよのうちに全身が泡だらけになった。
 昔から “泡の出る湯は骨の髄(ずい)まで温まる” といわれるだけあり、ぬる湯ながら、湯上りはいつまでも体が火照(ほて)っていた。


 <2018年10・11号>
  


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2022年07月01日

ぐんま湯けむり浪漫 (13) 梨木温泉


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   梨木温泉 (桐生市)


  鉄分を大量に含む人気のにごり湯


 赤城山の一峰、長七郎山の山ふところ。
 1200年以上もの昔から湯が湧いていたという梨木(なしぎ)温泉は、平安時代、時の征夷大将軍、坂上田村麻呂が赤城神社造営のおりに発見したと伝わる。

 渡良瀬川の支流、深沢川の奥深い谷間に、一軒宿の 「梨木館」 が建っている。
 創業は明治12(1879)年。
 それ以前は野天の湯屋があり、地元の人たちが入りに来る程度だったという。

 東上州では数少ない温泉だったということもあり、大正時代になり旧国鉄足尾線 (現・わたらせ渓谷鐵道) が開通すると、湯治場として大変にぎわった。
 しかし戦後は、台風による水害や火災で旅館が全焼するなど、度重なる不運を乗り越えてきた。


 「にごり湯は “汚い” と嫌われた時代もあり、湯をろ過して使おうと考えたこともありましたが、今となれば守り通して良かったと思っています。お客さまは 『この湯のにごりがいい』 と、やって来られますから」
 と、5代目女将の深澤正子さん。
 代々当主が守り継いできた湯は、鉄分を大量に含む黄褐色のにごり湯。
 成分が濃いために析出物が堆積して、湯の注ぎ口や浴槽の縁が変形してしまっている。
 これが正真正銘、天然温泉の証拠であり、遠方より温泉ファンがやって来る人気のゆえんでもある。


  湧出時は無色透明 時間とともに色を変える


 ♪ 梨木よいとこ 赤城のふもと 雲の中から お湯が湧く ♪

 こう歌われる 『梨木小唄』 は、西条八十(やそ)作詞、町田嘉章(よしあき)作曲。
 町田嘉章は伊勢崎市出身の作曲家で、民謡の研究家 “町田佳聲(かしょう)” としても知られる人物である。

 昭和の初め、町田嘉章は梨木館の主人の依頼を受けて、友人の西条八十と訪れ、この歌を世に残した。
 完成した小唄は、帝国劇場でも披露され、劇場には梨木館の緞帳(どんちょう)も飾られたという。


 「私の曽祖父、3代目直十郎(なおじゅうろう)の時代です。当家では代々直十郎の名を継ぐことになっています」
 と6代目主人の深澤幸司さん。
 「いずれ私も直十郎を襲名することになります」

 ロビーにセピア色した絵図が展示されている。
 「上野國赤城山梨木鑛泉之圖 明治四十年一月二十四日」
 とあり、木造3階建ての立派な旅館が描かれている。

 効能の欄には、胃弱、便秘、婦人生殖器病、皮疹、呼吸器病などが列記され、こんな一文が添えられていた。
 <当所へ差し出したる水は無色清澄にして極めて微かに酸味と臭へ且つ少し口中を刺激し共反応弱酸性を呈す。煮沸すると微か濁潤してアルカリ性に変す>
 そして文末に、「旅館梨木館 深澤直十郎」 と記されている。


 湧出時は無色透明だが、時間の経過とともに色を変える 「薬師の湯」。
 千余年の時を経て湧き続ける源泉を今も、たった一軒の宿で守り続けている。


 <2018年9月号>
  


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2022年06月24日

ぐんま湯けむり浪漫 (12) 谷川温泉


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   谷川温泉 (みなかみ町)


  菩薩のお告げにより湧いた温泉


 水上温泉郷に点在する8つの温泉地の一つ。
 谷川岳の麓にあり、その登山口にあたる。
 水上温泉が温泉郷の表玄関とすれば、谷川温泉は奥座敷といえる。

 昭和3(1928)年の上越線開通以後、水上温泉は観光地化され、大きな旅館やホテルが増え続けた一方で、山懐に抱かれた静かな谷川温泉は、今でも昔と変わらぬいで湯の風情を残している。


 開湯の歴史は古く、約600年前。
 こんな伝説がある。

 その昔、谷川岳に白光が輝き、虹のように天に映えて美しく彩った。
 村人たちは驚いて、この不思議な現象を祈禱師に訊ねたところ、
 「冨士浅間大菩薩が山に飛来され、このあたりに福徳をお授けになる前兆である」
 と告げた。

 それからというもの、谷川の川岸に夜な夜な瑠璃色の光が立つようになった。
 ある夜、村人が不思議に思い近寄ってみると、美しい姫が川で身を清めていた。
 「これは冨士浅間菩薩の化身では」
 と、さらに近づくと姫は消え、岩間から温泉が湧き出した。

 この湯を浴(あ)むと、疲れも病もたちどころに癒えたため、村人たちは、
 「これは菩薩のお告げだ」
 と喜んだ。
 そして姫が裾を洗ったら湯に変じたことから 「御裳裾(みもすそ)の湯」 と名付けられたという。


  名作を書くきっかけとなった宿


 谷川温泉には昔から文人たちが訪れ、多くの作品を世に残している。
 大正7(1918)年11月、歌人の若山牧水は伊香保温泉、水上温泉 (旧湯原の湯)、湯檜曾(ゆびそ)温泉とめぐり、谷川温泉に3日間投宿し、29首の歌を詠んだ。

 <わがゆくは山の窪なるひとつ路 冬日光りて氷りたる路>

 これは湯檜曾温泉から谷川温泉に向かう途中に詠んだ歌で、直筆を拡大した書が、大正2(1913)年創業の老舗旅館 「金盛館」 に展示されている。


 太宰治も谷川温泉を愛した文豪である。
 昭和11(1936)年8月、川端康成に勧められて、約1ヶ月間、療養のため川久保屋 (廃業) に滞在した。
 のちに発表した小説 『姥捨(うばすて)』 では、谷川温泉が舞台となり、旅館の老夫婦が描かれている。

 また滞在中に太宰治は、芥川賞の落選を知る。
 そのとき執筆した 『創生記』 は、名作 『人間失格』 を書くきっかけとなった作品といわれている。

 現在、川久保屋の跡地である 「旅館たにがわ」 の駐車場には、太宰治の記念碑が立ち、毎年命日 (6月19日) には献花がされ、式典が行われている。
 また館内にはミニギャラリーがあり、研究者から寄贈された太宰治ゆかりの品々が展示されている。

 文人たちが愛した湯につかり、名作を読みふけるのも旅の一興である。


 <2018年8月号>
    


Posted by 小暮 淳 at 11:02Comments(0)湯けむり浪漫

2022年06月15日

ぐんま湯けむり浪漫 (11) 沢渡温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   沢渡温泉 (中之条町)


  頼朝が発見したと伝わる名湯


 沢渡(さわたり)温泉の歴史は古く、万葉集の中にも地名を詠んだ歌があり、湯は鎌倉時代に発見されたと伝わる。

 建久2(1191)年のこと。
 同4年に征夷大将軍となり、富士の裾野で大規模な巻き狩りをした源頼朝は、その2年前に浅間山麓で小手調べのイノシシ狩りをした。
 その際、酸性度の高い草津温泉につかり、湯ただれをおこした頼朝が、沢渡の湯に入ると、荒れた肌がきれいになったことから 「草津のなおし湯」 と呼ばれるようになったといわれている。

 しかし、沢渡が温泉場として知られるようになったのは、江戸時代以降のこと。
 草津温泉の繁栄とともに多くの浴客が訪れるようになり、湯治場としてのにぎわいは、昭和になってからも続いた。

 ところが昭和10(1935)年の水害による山津波、同20(1945)年の山火事から温泉街が全焼するという災厄に遭い、壊滅的な打撃を受けた。
 しばらくは岩の割れ目から湧く温泉を数軒の宿で分湯していたが、湯脈が細って湯量が少なくなったため、同34(1959)年にボーリングを開始。
 翌年、高温で豊富な源泉が噴出した。
 これにより旅館も10数軒に増え、群馬県医師会による温泉病院も設立された。


 湯玉が肌を滑り落ちる


 大正11(1922)年10月、歌人の若山牧水は草津温泉から沢渡温泉へ向かう途中で、暮坂峠の素晴らしい景観に感動し、『枯野の旅』 を残した。
 また2年後に著した 『みなかみ紀行』 には、このように記している。

 <峠を越えて三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館 (ただしくは 正永館) というのの三階に上った。此処は珍しくも双方に窪地を持つような、小高い峠に湯が湧いているのであった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。>

 正永館は当時、現在の共同浴場の西隣にあったという。
 この時、牧水は沢渡温泉に泊まるか迷った末、昼食を終えると四万温泉へと旅立って行った。
 ほかにも十返舎一九 (戯作者) や高野長英 (蘭学者)、平沢旭山 (儒者)、野口常共 (漢学者) ら、多くの文人墨客が訪れている。


 「そこの石垣の間から温泉が湧いていてね。子どもの頃、ここでメンコやビー玉で遊んでいて、手が冷たくなると温めたものだよ」
 と共同浴場前の駐車場で、沢渡温泉組合長の林伸二さんは述懐する。
 「沢渡は2度の大きな災害に遭っているけど、昔も今も変わらないね。湯も人も、やさしいままだよ」

 湯は無色透明で、サラサラしている。
 湯舟から腕を上げると、コロコロと小さな湯玉が弾かれて、肌を滑り落ちるのがわかる。
 「一浴玉の肌」 と呼ばれる、元祖 “美人の湯” である。


 約50年前に降った雨が地中深く浸透し、長い間、有効成分を取り込みながら温められ、今、こうして温泉となって湧き出しているのだ。
 ほのかに香る温泉臭と、たゆたう白い湯の花に、身も心も癒やされていく。


 <2018年6・7月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:00Comments(0)湯けむり浪漫

2022年06月08日

ぐんま湯けむり浪漫 (10) 伊香保温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   伊香保温泉 (渋川市)


  歴史と伝統が息づく石段街


 開湯の起源は不明だが、二ツ岳 (榛名山の外輪山) の噴火によるものと考えられるため、西暦600年前後であろうといわれている。

 「伊香保」 という名は、伊香保町という地名として残っているだけだが、万葉の時代には榛名山一帯を指していたようで、「万葉集」 巻14の東歌の中、上野国 (群馬県) の部には、「伊香保」 に関する歌が25首中9首も詠まれている。
 歌の内容を読み解くと、「イカホ」 の意味は 「沼」 や 「背」、「風」 であり、現在の温泉地に限定している地名ではなく、広域を示していたことがわかる。

 「イカホ」 の語源については諸説あるが、アイヌ語の 「イカ、ボップ (たぎる湯)」 から来ているとの説や、上州名物の 「いかづち (雷) 」 と燃える火 (ホ) との関連ではないかといわれている。


 伊香保温泉の象徴、石段街が形成されたのは天正4(1576)年、戦国武将の武田氏が町並みを整備したことから発展したと伝わる。
 当時、温泉街には大屋(おおや)と呼ばれる14軒の宿があり、年番で役を受け持っていた。
 延享3(1746)年、徳川家重の時代に12軒の大屋に 「子」 から 「亥」 までの十二支の名が割り当てられ、明治維新まで年番で名主や伊香保口留番所 (関所) の役人を務めた。
 その名残として、現在は石段の屋敷跡に十二支のプレートが埋め込まれている。


  守り継がれる二つの源泉


 伊香保温泉の源泉は、昔から小間口権 (引湯権) を持つ大屋たちにより守られてきた。
 小間口とは、源泉 (温泉) が流れる本線 「大堰」 より各源泉所有者 (旅館) への引湯の際に用いられる湯口のことで、今でも石段街の温泉の取入口として利用されている。
 この伝統ある源泉が、「黄金(こがね)の湯」 である。

 泉質は、高血圧や動脈硬化の予防に効果が高いといわれる硫酸塩温泉。
 鉄分が多いため空気に触れると酸化し、独特の茶褐色になる。
 ちなみに、この湯の色を模して造られたのが名物の 「湯の花まんじゅう」 であり、伊香保温泉が温泉まんじゅうの発祥の地といわれている。

 もう一つ、平成になってから湧出が確認された新しい源泉がある。
 湯の色が無色透明だったため 「白銀(しろがね)の湯」 と名付けられた。
 泉質は、メタけい酸含有泉。
 保湿力に優れていることから “美肌の湯” とも呼ばれている。


 伊香保温泉は昨年発表された 『温泉総選挙2017』 (うるおい日本プロジェクト主催) で 「チームで温泉活性化賞」 をはじめ、いくつもの賞を受賞した。
 歴史と伝統を重んじながらも、新しいイベントなどにも積極的に取り組んでいる。

 「インバウンドでは後発の温泉地です。外国人観光客は全体の1%に過ぎません。将来を見据えて、旅館経営者らと勉強会などを開いています」
 と渋川伊香保温泉観光協会長の大森隆博さん。
 今春、町内に台湾を総本山とする寺院の日本本山が開山した。
 信者は500万人ともいわれ、温泉街へのインバウンド効果が期待されている。

 ほぼ日本の真ん中に湧き、『上毛かるた』 の最初の札に詠まれている名湯、伊香保温泉。
 金と銀の湯舟にのって、いま、千年浪漫の旅へ。


 <2018年5月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:26Comments(0)湯けむり浪漫

2022年06月04日

ぐんま湯けむり浪漫 (9) 鳩ノ湯温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   鳩ノ湯温泉 (東吾妻町)


  傷ついたハトが教えた湯の効能


 東吾妻町には2つの温泉郷があり、現在、4軒の温泉宿が営業している。
 鳩ノ湯温泉は、浅間隠(あさまかくし)温泉郷にある一軒宿。
 近くを通る草津街道 (国道406号) は、昔から江戸と信州を結ぶ裏街道として多くの旅人たちに利用され、鳩ノ湯は 『草津入湯のただれには、一夜二夜にして歩行自由になること神妙のごとし』 といわれるほど、奥上州の素朴な湯治場として親しまれてきた。

 湯の歴史は古く、寛保年間 (1741~44) に旅の行者により発見されたと伝わる。
 当時は集落にある寺の持ち物で、上の薬師温泉は 「上の湯」、下の鳩ノ湯は 「下の湯」 と呼ばれ、村人たちの沐浴(もくよく)の場として開放されていた。


 また、こんな伝説もある。
 その昔、傷ついたハトが岩間に湧き出る湯に身を浸し、傷を癒やしていた。
 それを見て、効能を知った村人が 「鳩ノ湯」 と名付けたという。

 《鳩に三枝(さんし)の礼あり 烏に反哺(はんぽ)の孝あり》 

 子バトは親バトより3本下の枝に止まるという礼をわきまえ、カラスは親に養ってもらった恩に報いるために、大人になってからは歳をとった親ガラスの口にエサを含ませてやるという。
 宿名の 「三鳩樓(さんきゅうろう)」 は、この礼儀と孝行を重んじる教え 「三枝の礼」 に由来する。


  ごまかしのない本物の温泉


 「たぶん14代目か15代目だと思うんだけど、歴史が古過ぎて本当のところは分からないんだよ」
 と、現主人の轟徳三さんが囲炉裏の前で茶をすすりながら話す。
 玄関ロビーでは、古い柱時計が時を刻む。
 年代物の使い込まれた箪笥(たんす)が黒く光を放ち、『三鳩樓帳場』 と書かれた文字看板が掛かり、江戸時代より栄えて来た湯治宿の面影を今に伝えている。

 轟さんは昭和の終わりに脱サラをして、宿の経営を引き継いだ。
 あれから30年、バブル前の不景気と、バブル全盛の繁忙期を経験した。
 秘湯ブームも去り、真の温泉宿の価値が問われる時代がやって来たという。

 「今うちに来ている客は、湯を知っている人たちだよ。本物の温泉を求めているんだね」


 本館から板張りの床をきしませながら、長い渡り廊下を下る。
 源泉は浴室直下の温川(ぬるがわ)のほとりから湧いている。
 浴槽には、ごまかしのない上質な湯が、加水も加温もされず、惜しみなくかけ流されている。

 「不思議な湯でね。白くなったり、青くなったり、黄色くなったり、毎日色が変わるんだ。まれに透き通ることもある」
 と主人。
 季節や天候、時間帯によって色を変える “変わり湯” である。

 私が最初に泊まった晩は、茶褐色のにごり湯だった。
 一夜明けると鮮やかなカーキ色に変わっていて、驚いたことを覚えている。
 さて、今日の湯は?

 古沼のような深い緑褐色の湯をたたえていた。
 たぶん光の加減なのだろう。
 湯の中に沈むと、茶色や黒色の無数の析出物が漂っているのが分かる。
 訪ねるたびに色を変える、まるで万華鏡のような湯である。


 <2018年4月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:15Comments(2)湯けむり浪漫

2022年05月29日

ぐんま湯けむり浪漫 (8) 鹿沢温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   鹿沢温泉 (嬬恋村)


  吹雪をしのぐ間に作られた替え歌


 ♪ 雪よ岩よ われらが宿り 俺たちゃ町には 住めないからに ♪

 誰もが知っている昭和のヒット曲 『雪山賛歌』 だが、この歌が群馬の鹿沢(かざわ)温泉で誕生したことは、あまり知られていない。

 作詞は、後に第1回南極越冬隊長を務めた登山家で、京都大学理学部教授だった西堀栄三郎氏。
 大正15(1926)年1月、京大在学中に山岳部の仲間たちと鹿沢温泉でスキー合宿を行った。
 悪天候が続き、吹雪をしのぐために宿で待つ間、退屈まぎれに 「山岳部の歌」 を作ろうということになった。
 歌は、アメリカ民謡 『いとしのクレメンタイン』 の替え歌として作詞されたという。

 戦後になり、京大山岳部がこの歌を寮歌に加え歌っていたのが急速に広まり、一般にも愛唱されるようになったが、作者は不詳だった。
 のちに京大教授の桑原武夫氏が作詞の経緯を知り、著作権を登録し、この印税を同山岳部の活動の資金源とした。

 昭和46(1971)年、鹿沢温泉の一軒宿 「紅葉館(こうようかん)」 の脇に、西堀氏の直筆による碑が設置された。


  自然流下による ありのままの湯


 温泉の歴史は古く、白雉元(650)年と伝わる。
 村人が峰から光明が差しているので行ってみると、熱湯が湧き出しており、薬師如来が現れたという伝説が残っている。
 また猟師が湯につかっている傷ついたシカを目撃して以来、傷に効果があるという話が伝わり、いつしか 「鹿沢」 の字が当てられるようになったという説もある。


 宿の創業は明治2(1869)年。
 往時は十数軒の旅館があり、にぎわっていたが、大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまった。
 多くの旅館が再建をあきらめ、数軒は約4キロ下りた場所に新鹿沢温泉を開いた。

 湯元の 「紅葉館」 だけが、この地に残り、大切な源泉を守り続けている。
 このため鹿沢温泉は、地元では 「旧鹿沢温泉」 とも呼ばれている。


 「湯に手を加えるなというのが、先祖からの教えです。湯の鮮度を考えると、浴槽もこれ以上大きくできません」
 と4代目湯守(ゆもり)の小林康章さん。
 1時間で浴槽内の全ての湯が入れ替わるように、湧出量に見合った大きさを守っているという。

 露天風呂もなく、浴室にはカランやシャワーもない。
 昔ながらの湯治場の姿を守っている。

 自噴する源泉は宿より高い場所にあり、地形の高低差だけを利用して、自然流下により浴槽へと湯を引き入れている。
 その距離、わずか10メートル。
 源泉の温度は約47度。
 湯口に届くまでに2~3度下がるというが、それでも浴槽には常に熱めの湯が満たされ、惜しみなくかけ流されている。


 平成25(2013)年6月、老朽化のため本館が建て替えられた。
 「浴室と浴槽は、ご先祖さまの言いつけどおり、そのまま残しました」
 と長男の昭貴(てるたか)さん。
 5代目の湯守を継いだ。


 <2018年2・3月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:01Comments(0)湯けむり浪漫