温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2022年09月19日

ぐんま湯けむり浪漫 (21) 鎌田温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   鎌田温泉 (片品村)


  尾瀬の玄関口に湧いた美人の湯


 県の東北の端に位置し、新潟・福島・栃木に接する県境の片品村。
 本州最大の高層湿原を有する尾瀬、関東以北の最高峰である日光白根山をはじめ至仏山や武尊山といった 「日本百名山」 に選ばれた山々が連なり、丸沼や菅沼などの湖水美にも恵まれた自然豊かで風光明媚な観光地である。

 「尾瀬の玄関口」 ともいえる片品村の中心地が、鎌田である。
 国道沿いに食堂や商店が立ち並び、ハイカーやスキーヤーなど年間を通して多くの観光客が訪れる。
 現在、鎌田温泉には2軒の温泉宿と日帰り入浴施設がある。
 どこも昭和後期以降のボーリングにより誕生した歴史の浅い温泉だが、各々が自家源泉を保有している。
 肌にやさしい、しっとりとした浴感から 「美人の湯」 とも呼ばれ、観光以外にも湯治を目的とした温泉ファンが増えている。

 平成30(2018)年、「道の駅 尾瀬かたしな」 が鎌田にオープン、新しい村の観光スポットになった。
 敷地内の展望テラスには、源泉かけ流しの足湯もある。
 目の前に広がる片品の大自然を眺めながら、少し熱めの湯を楽しめる。


  旅人に愛され続ける街道の宿


 街道沿いに旅籠(はたご)の面影を残す白壁と格子窓、カラカラと音を立てる玄関の引き戸。
 館内の調度品の一つ一つにも、歴史と風情を感じる。

 「梅田屋旅館」 は、旅人とともに鎌田の移ろいを見つめてきた老舗宿。
 創業は明治44(1911)年。
 当時の中心地だった須賀川に、尾瀬や日光への行き帰りに投宿する料理旅館として開業した。

 明治時代に初めて入山し、尾瀬の景観の素晴らしさを広く世に知らせ、「尾瀬の父」 と呼ばれた植物学者の武田久吉は、この宿をこよなく愛していたという。
 現在の宿の上がり口には、大正時代に描かれた紀行文の一節が掲げられている。
 ≪親切な宿屋。寝具や浴衣の清潔な宿屋。(中略) 一言にして尽くせば感じのよい宿屋であった。私はこれを推奨するに躊躇(ちゅうちょ)しない。≫
 と絶賛している。

 廊下の壁には、数えきれないほどの色紙が飾られている。
 著名な映画監督や落語家、俳優、タレントばかり。
 極めつきは、広間のふすまに “なぐり書き” された落語家・立川談志の “書” だ。
 なんともユニークで愛情深い、師匠らしい言葉たちが躍っている。

 明治、大正、昭和、平成の旅人たちをもてなしてきた街道の老舗宿。
 その物語は、令和の世も語り継がれていく。


 <2019年8月号>
   


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2022年09月06日

ぐんま湯けむり浪漫 (20) 磯部温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   磯部温泉 (安中市)


  避暑地として栄えた屈指の温泉地


 温泉の発見は古く、鎌倉時代にはすでに湧出していたともいわれるが、諸説ある。
 一般には天明3(1783)年7月の浅間山の大噴火の際、大きな地鳴りとともに、恐ろしい音を立てながら数丈の高さに鉱泉を吹き上げたと伝わる。
 また浅間山の噴火による降灰で、それまで湧いていた泉口が埋まってしまい、その圧力で新しい源泉が噴出したともいわれている。

 当時、この付近一帯は碓氷川に沿った盆地状の湿地帯で、塩辛い水が湧き出ていたことから、この湯を 「塩湯」、地名は 「塩の窪(くぼ)」 と呼ばれていた。
 しかし浴用として使用されたのは後のことで、幕末になり小屋が建てられ、鉱泉を温めて湯治用にしたところ効験があったという。

 明治時代になると数軒の旅館経営が始まり、明治18(1885)年に高崎~横川間の鉄道 (現在の信越本線) が開通すると、東京方面からの利用客が増大し、群馬を代表する温泉地として発展した。
 まだ軽井沢の開発がされていない当時、環境の良さと交通の便利さが評判となり、都会の富裕層たちの別荘地となった。
 初代群馬県令の楫取素彦(かとりもとひこ)も、県の観光PRに力を入れていた。
 磯部温泉が避暑地として優れている点に着眼し、同じ長州藩 (山口県萩市) 出身の政治家・井上馨をはじめとする新政府の高官たちに呼びかけ、自身も別荘を建てた。

 しかし、のちに横川~軽井沢間が開通すると、軽井沢が避暑地としてクローズアップされるようになり、やがて磯部からは別荘が姿を消していった。


  日本で最初の温泉マーク


 昭和になり、温泉の起源について新たな史実が確認された。
 万治4(1661)年に記載された 『裁許絵図(さいきょえず)』 (磯部地区で起きた土地争いの判決文) が発見されたのだ。
 この判決文の絵図の中に描かれた2ヶ所の 「塩の窪」 に、現在の温泉マークに似た符号が記入されていたのである。
 これが磯部温泉が 「日本最古の温泉記号発祥の地」 といわれるゆえんである。

 磯部温泉組合では、温泉マークの湯気の部分を3つの 「2」 に見立て、2月22日を 「温泉マークの日」 として登録し、平成28(2016)年よりイベントを行っている。
 また同30年からは 「温泉マークカレー」 と名付けた、ご当地カレーライスを温泉街の飲食店で販売。
 ライスを温泉マークにかたどったユニークなデザインが、“インスタ映え” すると評判になっている。

 磯部温泉の昔ながらの名物といえば、鉱泉を利用した 「磯部せんべい」 だ。
 温泉街には今でも一枚一枚、手焼きの実演販売をする店が軒を連ねる。
 サクサクとした独特の歯ごたえがたまらない。
 戦時中は重曹の代わりに、この鉱泉が 「ふくらし粉」 として利用されたり、浅草の 「雷おこし」 が、ここで作られていたことは、あまり知られていない。

 平成8(1996)年、温度の高い新源泉が掘削され、現在、旅館と日帰り入浴施設、足湯などに供給されている。
 湧出量の少ない旧源泉は、せんべい専用に使用されている。


 <2019年6・7月号>
  


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2022年08月25日

ぐんま湯けむり浪漫 (19) 川古温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   川古温泉 (みなかみ町)


  偉人たちに愛された渓谷の湯治場


 猿ヶ京・三国温泉郷の一つ、川古(かわふる)温泉は赤谷川の渓谷にたたずむ一軒宿。
 古くから神経痛やリウマチなどの湯治と療養の名湯として知られてきた。

 湯の起源については不明だが、江戸の後期にはすでに温泉が存在し、大正時代には食料を持参で湯治客が入りに来る湯小屋があったという。

 大正5(1916)年、木材を切り出して酢酸などを造る旧日本酢酸製造赤谷工場が、温泉の下流に設立された。
 当時、酢酸は火薬の原料としても使われていたようだ。
 この工場に勤めていた現主人の祖父が、温泉の湯守(ゆもり)から仕事を引き継ぎ、旅館を創業した。


 川古温泉をこよなく愛した偉人の一人に、法学博士の廣池千九郎がいる。
 昭和5(1930)年8月に初めて入湯して以来、翌年にかけて4回、計139日間も滞在している。
 当時、千九郎は大病にかかり、発汗に苦しんでいた。
 その療養に通っていたようだ。

 また彫刻家で詩人の高村光太郎も昭和4(1929)年5月に訪れ、「上州川古 『さくさん』 風景」 という詩を残している。
 詩の中に登場する
 <ひつそりとした川古のぬるい湯ぶねに非番の親爺>
 とは、
 「私の祖父ではないか」
 と、3代目の林泉さんは言う。


  全身を泡の粒が包む新鮮な湯


 ≪川古のみやげは一つ杖を捨て≫
 と言われるほど、昔から湯治場として親しまれてきた。
 現在でも県内外から訪れる長期滞在の浴客が多い。

 温泉の温度は約40度。
 加温されないため、「持続浴」 と呼ばれるぬるい湯に長時間入浴する独特な入浴法が昔から続けられている。
 リウマチの療養に年4~5回来ては10日間滞在しているという老人は、
 「日に8時間、湯に浸かる」
 と言った。
 見れば、湯舟の中にペッボトル持参で、水分補給を欠かさない。

 と思えば、石を枕に昼寝をする人や、本を持ち込んで読書をする人の姿も……。
 思い思いの入浴スタイルで、現代の湯治を楽しんでいた。


 熱い湯は自律神経系の交感神経を刺激するため覚醒作用があるが、逆にぬるい湯は副交感神経に働くのでリラックス効果があるという。
 また長時間湯に入っていられるため、薬効成分が肌から吸収されやすく、皮膚病などに効能があるとされる温泉が多い。
 なによりも、
 「ふだんの生活から離れ、自然環境に恵まれた温泉場に滞在することにより、心と体のバランスが整えられる」
 と林さんは、温泉の持つ “転地効果” の魅力を語る。

 浴槽の底に小石が敷きつめられた内風呂に身を置いてジッとしていると、数分で全身に小さな泡の粒が付き出した。
 足元から源泉を出しているため、空気に触れる前に人肌に触れるので、露天風呂に比べて泡の付きがいい。
 湯が新鮮な証拠である。


 <2019年5月号>
  


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2022年08月13日

ぐんま湯けむり浪漫 (18) 小野上温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳の ぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   小野上温泉 (渋川市)


  草むらに眠っていた湯前薬師石堂


 JR吾妻線、小野上温泉駅に降り立つと、背後に奇岩が林立する峰がそびえている。
 岩井堂山 (459m) と古城台 (508m) である。
 岩井堂山は地元では岩井堂砦(とりで)と呼ばれ、その昔、白井城の関門として支城が置かれていた。
 戦国時代、上杉と武田の両勢力が互いに動向を見定める絶好の場所として、激しい奪い合いが繰り返されたという。

 一方、古城台は、なだらかな丘陵である。
 それでも登山ルートのあちらこちらに奇岩が多く、低山ながら稜線からは榛名山や赤城山、遠く浅間山、草津白根山まで望む、ハイカーに人気の山だ。
 そのため、下山後に温泉で汗を流すのを楽しみに訪れる浴客も多い。


 駅から吾妻川へ向かい歩くと、キラキラとした水面が出迎えてくれる。
 ここは桜の名所でもあり、桜並木の前に全国でも日帰り温泉施設の草分けと称される 「さちのゆ」 がある。
 駐車場脇には、薬師如来を祀った湯前薬師石堂があり、こんな一文が添えられている。

 <小野上村大字村上字塩川内、国道353号沿いに古来より温泉が湧出し、その泉源地にこの石堂がありました。(中略) 草むらの中に眠らせて置くことは何としても残念なことであるため、小野上村商工会の村おこし事業で移築しました。>


  塩川温泉から小野上温泉への変遷


 小野上温泉 (渋川市) は、かつては塩川鉱泉といった。
 歴史は古く、湯前薬師の石堂には寛文4(1664)年に創建されたことが刻まれている。
 昭和初期までにぎわっていたが、戦後になってからは湯量の減少や交通の不便さなど、さまざまな事情から衰退の一途をたどってしまった。

 昭和53(1978)年、旧小野上村が新たな源泉を掘削したところ、毎分270リットル、約45度の温泉が湧出。
 浴槽と建物を造り、入浴施設をオープンさせた。
 宿泊施設のない、大広間で休憩するヘルスセンター方式の温泉は、当時はまだ珍しく、またたく間に評判は広まり、村内外から大勢の人がやって来た。

 村は利用客からの要望を受け、より規模の大きい施設を計画し、湯量を得るために新源泉の掘削を行ったところ、毎分550リットル、約50度の温泉が湧出。
 同56(1981)年3月、「小野上村温泉センター」 が誕生した。

 大露天風呂、カラオケステージ付きの休憩室、食堂や個室までもが設置された。
 現在では当たり前の設備だが、当時は全国でも公共の日帰り温泉施設は珍しく、利用客は年間20万人を超える大盛況となった。

 これを機に周辺の旅館や民宿にも分湯され、新たな温泉地としての歴史が始まった。
 いつしか人々は 「塩川温泉 小野上村温泉センター」 を略して、「小野上温泉」 と呼ぶようになっていた。
 その人気のほどは、平成4(1992)年にJR吾妻線、小野上温泉駅が開設されたことでも分かる。


 同11(1999)年、源泉名と温泉地名を正式に 「小野上温泉」 と改名。
 同20(2008)年には温泉センターが全面改装され、「さちのゆ」 としてリニューアルオープンした。

 トロンと肌にまとわり付くアルカリ性の湯は 「美人の湯」 として知られ、現在でも県内外から多くのファンが訪れている。


 <2019年4月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 13:58Comments(0)湯けむり浪漫

2022年08月01日

ぐんま湯けむり浪漫 (17) 高崎観音山温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   高崎観音山温泉 (高崎市)


  時の要人たちに愛された高級旅館


 平成の大合併までは、高崎市で唯一の温泉宿であった。

 市街地とは烏川をはさんだ目と鼻の先。
 それなのに観音山丘陵の中腹にたたずむ 「錦山荘(きんざんそう)」 は、竹林と赤松林に囲まれた静寂に包まれている。
 その名のとおり、錦織り成す自然美の中にある風光明媚な宿は、昔より時の要人たちが足を運び、「高崎の奥座敷」 として利用されてきた。
 新渡戸稲造や犬養毅なども訪れたという。

 観音山山頂へ向かう羽衣坂を上り始めると、やがて左手に 「錦山荘」 と書かれた黒い大きな門が見えてくる。
 門をくぐる手前で、小さな橋を渡る。
 橋のたもとには、昔ここにあった旧橋の親柱が残されていて、こう刻まれている。

 <錦山荘橋 昭和六年四月廿九日開通>
 <高崎館 田中富貴壽架橋>

 高崎館とは、明治から昭和初期まで高崎駅前にあった旅館である。

 錦山荘は昭和4(1929)年、「鉱泉旅館割烹 高崎館別館」 という高級料亭旅館として創業。
 それ以前は、大正時代に開湯した清水(きよみず)鉱泉と呼ばれる共同浴場があり、地域の人たちに親しまれ、大変にぎわっていたという。


  市街地を見渡す絶景の展望風呂


 昭和63(1988)年に改築され、錦山荘は現在の展望風呂を持つ温泉旅館としてリニューアルオープンした。
 現在は宿泊客のみならず、日帰り入浴や食事、宴会ができる地元の人たちの憩いの場として利用されている。

 創業当時をしのぶ客室が、本館の2階に残されている。
 「桐」 「竹」 「桜」 「楓(かえで)」 の間には、室名どおりの銘木をぜいたくに使った長押(なげし)や回り縁、網代(あじろ)天井など、日本建築の粋を極めた内装が施されていて、歴史の重みが感じられる。
 古き良き時代の息吹と昭和のロマンが漂う客室は今でも人気があり、あえて指名して宿泊するファンも少なくない。

 宿自慢の展望風呂は、昔ながらの丸太を組んだ湯小屋風。
 全面ガラス張りの大きな窓からは、眼下に高崎の街を一望することができる。
 烏川越しに高崎市役所、その奥に群馬県庁舎がそびえる。
 そして借景として、あたかも屏風絵(びょうぶえ)のように長く裾野を広げる赤城山の雄姿を見渡す。
 何度訪れても、飽きることのない絶景である。


 <2019年2・3月号>
 ※錦山荘は現在、休業中です。
  


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2022年07月25日

ぐんま湯けむり浪漫 (16) 草津温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   草津温泉 (草津町)


  偉人たちの開湯伝説

 草津白根山の麓、標高1,200メートルの高地に開けた高原の町、草津。
 国内有数の温泉地として、昔から湯治客や観光客に親しまれてきた群馬を代表するリゾート地である。
 その歴史は古く、室町時代の古文書に “草津湯” の記載があるが、湯の起源は定かではない。

 しかし温泉の発見には、こんな偉人たちの開湯伝説がある。
 『古事記』 『日本書紀』 に登場する英雄、日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) が東国征伐の折に発見した説。
 奈良時代の僧侶、行基が各地で布教活動を行ううちに山深い草津にいたり、霊気にあふれたところを祈祷すると温泉が湧き出した説。

 また鎌倉幕府を開いた武将、源頼朝が建久4(1193)年に浅間山で狩りを行った折に草津まで足を延ばし、湯を発見したとも伝わる。
 これが白旗源泉で、湧出地の囲いの中には石宮があり、頼朝が腰かけた場所と伝えられ、「御座之湯」 (江戸時代にあった共同浴場 「草津五湯」 の1つ) の由来にもなっている。
 源泉名は、源氏を象徴する白い旗から名付けられた。

 町内のいたるところに湧き出る源泉は、大小100カ所あり、総湧出量は毎分約3万2千リットル。
 自然湧出泉としては、日本一の湯量を誇る。
 代表的な6つの源泉の温度は、万代源泉が約95度ともっとも高く、他も50度前後と高温。
 そのため熱交換式により源泉を薄めることなく冷まし、熱交換によって温められた温水は、家庭やホテル、旅館、飲食店などに供給されている。


  湯畑に刻まれた百人


 戦国時代には武将たちが傷を癒やしに、泰平の世には文人たちが物見遊山にと、多くの人々に愛されてきた草津温泉。
 そんな歴史に名を残す偉人たちの名前がひと目で分かる場所がある。
 開湯伝説の3人をはじめ、高野長英、佐久間象山、田山花袋、志賀直哉、若山牧水、斎藤茂吉、与謝野晶子、竹久夢二ら百人の名前が、湯畑を囲む石柵に刻まれている。
 なかには田中絹代や石原裕次郎、渥美清など昭和のスターの名前も。
 ちなみに現在の湯畑の形は、芸術家の岡本太郎監修によって昭和50(1975)年に設計された。

 草津のシンボル、湯畑も源泉の一つで、毎分約4千リットルの温泉が自然湧出している。
 柵内には7本の湯樋があり、ここから土産物の 「湯の花」 を採取している。
 湯畑の名称も、湯の花を採取するための畑という意味で名付けられたという。

 また宿へ温泉を配湯する技術がなかった時代、多くの浴客は湯畑周辺で温泉が湧出し、流下している場所に造られた湯屋で入浴していた。
 これが共同浴場 (外湯) である。
 現在でも町内には19カ所の共同浴場があり、多くは町民が利用する施設だが、いくつかは観光客にも開放されている。

 また 「千代の湯」 と 「地蔵の湯」 では、草津温泉独特の入浴法 「時間湯」 (※) を体験することができる。
 湯長 (※) の指導の下、集団で決められた時間、数回を入浴する湯治法で、入浴前には温度を下げ湯をやわらかくする 「湯もみ」 を行う。
 この湯もみを行う際に調子を取るために歌われるのが、草津節などで知られる 「湯もみ唄」 である。

 数々の温泉地人気ランキングで、常に全国上位に君臨する草津温泉。
 その魅力は千数百年の歴史に培われた文化と、変わらぬ草津の湯本来の力にありそうだ。
 近年は噴火による風評被害もあったが、徐々に人々も戻ってきている。
 さすが群馬が誇る日本一の温泉地である。


 <2019年1月号>
 ※現在、「湯長」 制度は廃止され、名称も 「時間湯」 から 「伝統湯」 に変更されています。
   


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2022年07月14日

ぐんま湯けむり浪漫 (15) 湯宿温泉


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   湯宿温泉 (みなかみ町)


  真田一族ゆかりのいで湯


 かつて三国街道の宿場町だった温泉街には、往時をしのぶ古い町並み残されている。
 石畳の小道、白壁の土蔵、黒い板塀……。
 そぞろ歩くたびに、古き良き湯治場の風情がよみがえってくる。

 湯宿(ゆじゅく)温泉の開湯は1,200年前(平安時代)と伝わる。
 仁寿2(852)年、須川村 (現・みなかみ町) の弘須法師が岩穴にこもって、大乗妙典を読誦(どくじゅ)したところ、その功徳により温泉が湧き出したという。


 また初代沼田城主の真田信幸が関ケ原の合戦の後、戦の疲れを癒やすために須川の湯 (現在の湯宿温泉) を訪れている。
 それをきっかけに、2代目信吉、3代目熊之助、4代目信政らも下屋敷 (別荘) として好んで入浴した。
 なかでも最後の城主、5代目信直は持病の痔 (ぢ) に苦しんでいたため、館を構えて湯治に専念した。
 見事に根治したため、お礼にと裏山に薬師如来堂を建立して寄進した。

 これらのことは、現主人で21代目を数える老舗旅館 「湯本館」 の蔵から見つかった 『湯宿村温泉記録』 という古文書に記載されている。


  熱くて清々しい湯宿の湯


 <湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処(そこ)で二人の青年に別れて、日がまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
 (『みなかみ紀行』 より)

 大正11(1922)年10月、歌人の若山牧水は信州から日光までの群馬県を横断する旅をした。
 法師温泉 (みなかみ町) の帰り道、湯宿温泉に投宿した牧水は、その晩、主人の釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ち、あまりのおいしさに、おかわりをしたという。
 今でも 「ゆじゅく金田屋」 の土蔵には、宿泊した 「牧水の間」 が当時のまま残されている。


 漫画家のつげ義春も湯宿温泉を愛した作家の一人である。

 <今度また湯宿に来てしまった。これが二度目ではない。もう何度も来ているのだ。何を好んでといわれても答えようがない。ふと思い出すと来てしまうのだ。>
 (『上州湯宿温泉の旅』 より)

 つげ義春は昭和40~50年代にかけて、たびたび訪れ、いくつかの旅館を泊まり歩いている。
 代表作の 『ねじ式』 や 『ゲンセンカン主人』 なども、湯宿温泉が舞台だといわれている。


 文人たちが好んだ湯は、良質な硫酸塩温泉。
 湯量豊富な5本の源泉は約60度と温度が高いため、加温することもなく、どこの宿でもかけ流しのスタイルを守っている。

 地元では 「熱くなけりゃ、湯宿の湯じゃねえ」 と言われるくらい熱いのだが、これが、いったん沈んでしまうとクセになる心地よさ。
 清涼感があり、湯上がりは汗をあまりかかずに、よく温まる。


 <2018年12月号>
  


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2022年07月08日

ぐんま湯けむり浪漫 (14) 霧積温泉


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   霧積温泉 (安中市)


  避暑地を襲った山津波を逃れて


 碓氷峠へ向かう国道18号の旧道から離れ、山深い曲がりくねった山道を車で進むこと約30分。
 長野県境にそびえる鼻曲山 (1,655m) の登山口駐車場に出る。

 車道ができる昭和45(1970)年までは、信越本線の横川駅から3時間以上もかけて歩いたという。
 ここからは車を降りて、「ホイホイ坂」 と呼ばれるつづら折りの登山道を、さらに約30分歩くことになる(宿泊者は送迎あり)。
 まさに群馬を代表する “秘湯” だ。


 霧積(きりづみ)温泉の一軒宿、「金湯館(きんとうかん)」 の創業は明治17(1884)年。
 当時は旅館が5~6軒と別荘が40~50棟建ち並び、9年後に信越本線が全線開通するまでは避暑地として軽井沢よりも栄えていたといわれている。
 ところが明治43(1910)年、山津波が一帯を襲い、金湯館以外の建物は泥流にのみ込まれてしまった。

 昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電にて営業を続けてきた。
 電気と電話が通じたのは、昭和56(1981)年のことだった。

 「男は燃料や薪(まき)を担ぎ山道を登り、女は洗濯や火鉢の炭おこしに一日中追われていた」
 と3代目女将の佐藤みどりさんは、当時を述懐する。

 昭和30年代から親族が1キロ下った場所で旅館を開業していたが、7年前に廃業したため、金湯館は、また一軒宿になってしまった。


  泡の出る湯が全身を包み込む


 伊藤博文、勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら、政治家や文人も多く訪れている。
 旧館の2階には明治憲法の草案が作られたというケヤキ造りの部屋が残り、今でも指名して予約する宿泊客が多いという。

 昭和52(1977)年、作家、森村誠一のベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積温泉が一躍ブームとなった。

 《母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? えゝ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ》

 学生時代 (昭和20年代) に霧積温泉を訪れた森村誠一は、宿でもらった弁当の包み紙に印刷されていた西条八十の詩に深い感銘を受け、のちに取材に来て小説を書き上げた。
 映画は歌手、ジョー山中が歌う主題歌とともに大ヒットした。
 当時は国道から霧積までの山道が渋滞するほどに混雑したという。


 湯元として代々守り継いできた源泉は約39度とぬるく、炭酸を含んでいるため泡の粒が体中に付くのが特徴。
 昔から切り傷ややけどに特効があるといわれている薬湯である。
 かの勝海舟も皮膚病の治療に来ていたらしい。

 体を湯に沈めた途端、プチプチとくすぐったいほどの気泡が背中を伝い出し、あれよのうちに全身が泡だらけになった。
 昔から “泡の出る湯は骨の髄(ずい)まで温まる” といわれるだけあり、ぬる湯ながら、湯上りはいつまでも体が火照(ほて)っていた。


 <2018年10・11号>
  


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2022年07月01日

ぐんま湯けむり浪漫 (13) 梨木温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   梨木温泉 (桐生市)


  鉄分を大量に含む人気のにごり湯


 赤城山の一峰、長七郎山の山ふところ。
 1200年以上もの昔から湯が湧いていたという梨木(なしぎ)温泉は、平安時代、時の征夷大将軍、坂上田村麻呂が赤城神社造営のおりに発見したと伝わる。

 渡良瀬川の支流、深沢川の奥深い谷間に、一軒宿の 「梨木館」 が建っている。
 創業は明治12(1879)年。
 それ以前は野天の湯屋があり、地元の人たちが入りに来る程度だったという。

 東上州では数少ない温泉だったということもあり、大正時代になり旧国鉄足尾線 (現・わたらせ渓谷鐵道) が開通すると、湯治場として大変にぎわった。
 しかし戦後は、台風による水害や火災で旅館が全焼するなど、度重なる不運を乗り越えてきた。


 「にごり湯は “汚い” と嫌われた時代もあり、湯をろ過して使おうと考えたこともありましたが、今となれば守り通して良かったと思っています。お客さまは 『この湯のにごりがいい』 と、やって来られますから」
 と、5代目女将の深澤正子さん。
 代々当主が守り継いできた湯は、鉄分を大量に含む黄褐色のにごり湯。
 成分が濃いために析出物が堆積して、湯の注ぎ口や浴槽の縁が変形してしまっている。
 これが正真正銘、天然温泉の証拠であり、遠方より温泉ファンがやって来る人気のゆえんでもある。


  湧出時は無色透明 時間とともに色を変える


 ♪ 梨木よいとこ 赤城のふもと 雲の中から お湯が湧く ♪

 こう歌われる 『梨木小唄』 は、西条八十(やそ)作詞、町田嘉章(よしあき)作曲。
 町田嘉章は伊勢崎市出身の作曲家で、民謡の研究家 “町田佳聲(かしょう)” としても知られる人物である。

 昭和の初め、町田嘉章は梨木館の主人の依頼を受けて、友人の西条八十と訪れ、この歌を世に残した。
 完成した小唄は、帝国劇場でも披露され、劇場には梨木館の緞帳(どんちょう)も飾られたという。


 「私の曽祖父、3代目直十郎(なおじゅうろう)の時代です。当家では代々直十郎の名を継ぐことになっています」
 と6代目主人の深澤幸司さん。
 「いずれ私も直十郎を襲名することになります」

 ロビーにセピア色した絵図が展示されている。
 「上野國赤城山梨木鑛泉之圖 明治四十年一月二十四日」
 とあり、木造3階建ての立派な旅館が描かれている。

 効能の欄には、胃弱、便秘、婦人生殖器病、皮疹、呼吸器病などが列記され、こんな一文が添えられていた。
 <当所へ差し出したる水は無色清澄にして極めて微かに酸味と臭へ且つ少し口中を刺激し共反応弱酸性を呈す。煮沸すると微か濁潤してアルカリ性に変す>
 そして文末に、「旅館梨木館 深澤直十郎」 と記されている。


 湧出時は無色透明だが、時間の経過とともに色を変える 「薬師の湯」。
 千余年の時を経て湧き続ける源泉を今も、たった一軒の宿で守り続けている。


 <2018年9月号>
  


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2022年06月24日

ぐんま湯けむり浪漫 (12) 谷川温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   谷川温泉 (みなかみ町)


  菩薩のお告げにより湧いた温泉


 水上温泉郷に点在する8つの温泉地の一つ。
 谷川岳の麓にあり、その登山口にあたる。
 水上温泉が温泉郷の表玄関とすれば、谷川温泉は奥座敷といえる。

 昭和3(1928)年の上越線開通以後、水上温泉は観光地化され、大きな旅館やホテルが増え続けた一方で、山懐に抱かれた静かな谷川温泉は、今でも昔と変わらぬいで湯の風情を残している。


 開湯の歴史は古く、約600年前。
 こんな伝説がある。

 その昔、谷川岳に白光が輝き、虹のように天に映えて美しく彩った。
 村人たちは驚いて、この不思議な現象を祈禱師に訊ねたところ、
 「冨士浅間大菩薩が山に飛来され、このあたりに福徳をお授けになる前兆である」
 と告げた。

 それからというもの、谷川の川岸に夜な夜な瑠璃色の光が立つようになった。
 ある夜、村人が不思議に思い近寄ってみると、美しい姫が川で身を清めていた。
 「これは冨士浅間菩薩の化身では」
 と、さらに近づくと姫は消え、岩間から温泉が湧き出した。

 この湯を浴(あ)むと、疲れも病もたちどころに癒えたため、村人たちは、
 「これは菩薩のお告げだ」
 と喜んだ。
 そして姫が裾を洗ったら湯に変じたことから 「御裳裾(みもすそ)の湯」 と名付けられたという。


  名作を書くきっかけとなった宿


 谷川温泉には昔から文人たちが訪れ、多くの作品を世に残している。
 大正7(1918)年11月、歌人の若山牧水は伊香保温泉、水上温泉 (旧湯原の湯)、湯檜曾(ゆびそ)温泉とめぐり、谷川温泉に3日間投宿し、29首の歌を詠んだ。

 <わがゆくは山の窪なるひとつ路 冬日光りて氷りたる路>

 これは湯檜曾温泉から谷川温泉に向かう途中に詠んだ歌で、直筆を拡大した書が、大正2(1913)年創業の老舗旅館 「金盛館」 に展示されている。


 太宰治も谷川温泉を愛した文豪である。
 昭和11(1936)年8月、川端康成に勧められて、約1ヶ月間、療養のため川久保屋 (廃業) に滞在した。
 のちに発表した小説 『姥捨(うばすて)』 では、谷川温泉が舞台となり、旅館の老夫婦が描かれている。

 また滞在中に太宰治は、芥川賞の落選を知る。
 そのとき執筆した 『創生記』 は、名作 『人間失格』 を書くきっかけとなった作品といわれている。

 現在、川久保屋の跡地である 「旅館たにがわ」 の駐車場には、太宰治の記念碑が立ち、毎年命日 (6月19日) には献花がされ、式典が行われている。
 また館内にはミニギャラリーがあり、研究者から寄贈された太宰治ゆかりの品々が展示されている。

 文人たちが愛した湯につかり、名作を読みふけるのも旅の一興である。


 <2018年8月号>
    


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2022年06月15日

ぐんま湯けむり浪漫 (11) 沢渡温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   沢渡温泉 (中之条町)


  頼朝が発見したと伝わる名湯


 沢渡(さわたり)温泉の歴史は古く、万葉集の中にも地名を詠んだ歌があり、湯は鎌倉時代に発見されたと伝わる。

 建久2(1191)年のこと。
 同4年に征夷大将軍となり、富士の裾野で大規模な巻き狩りをした源頼朝は、その2年前に浅間山麓で小手調べのイノシシ狩りをした。
 その際、酸性度の高い草津温泉につかり、湯ただれをおこした頼朝が、沢渡の湯に入ると、荒れた肌がきれいになったことから 「草津のなおし湯」 と呼ばれるようになったといわれている。

 しかし、沢渡が温泉場として知られるようになったのは、江戸時代以降のこと。
 草津温泉の繁栄とともに多くの浴客が訪れるようになり、湯治場としてのにぎわいは、昭和になってからも続いた。

 ところが昭和10(1935)年の水害による山津波、同20(1945)年の山火事から温泉街が全焼するという災厄に遭い、壊滅的な打撃を受けた。
 しばらくは岩の割れ目から湧く温泉を数軒の宿で分湯していたが、湯脈が細って湯量が少なくなったため、同34(1959)年にボーリングを開始。
 翌年、高温で豊富な源泉が噴出した。
 これにより旅館も10数軒に増え、群馬県医師会による温泉病院も設立された。


 湯玉が肌を滑り落ちる


 大正11(1922)年10月、歌人の若山牧水は草津温泉から沢渡温泉へ向かう途中で、暮坂峠の素晴らしい景観に感動し、『枯野の旅』 を残した。
 また2年後に著した 『みなかみ紀行』 には、このように記している。

 <峠を越えて三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館 (ただしくは 正永館) というのの三階に上った。此処は珍しくも双方に窪地を持つような、小高い峠に湯が湧いているのであった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。>

 正永館は当時、現在の共同浴場の西隣にあったという。
 この時、牧水は沢渡温泉に泊まるか迷った末、昼食を終えると四万温泉へと旅立って行った。
 ほかにも十返舎一九 (戯作者) や高野長英 (蘭学者)、平沢旭山 (儒者)、野口常共 (漢学者) ら、多くの文人墨客が訪れている。


 「そこの石垣の間から温泉が湧いていてね。子どもの頃、ここでメンコやビー玉で遊んでいて、手が冷たくなると温めたものだよ」
 と共同浴場前の駐車場で、沢渡温泉組合長の林伸二さんは述懐する。
 「沢渡は2度の大きな災害に遭っているけど、昔も今も変わらないね。湯も人も、やさしいままだよ」

 湯は無色透明で、サラサラしている。
 湯舟から腕を上げると、コロコロと小さな湯玉が弾かれて、肌を滑り落ちるのがわかる。
 「一浴玉の肌」 と呼ばれる、元祖 “美人の湯” である。


 約50年前に降った雨が地中深く浸透し、長い間、有効成分を取り込みながら温められ、今、こうして温泉となって湧き出しているのだ。
 ほのかに香る温泉臭と、たゆたう白い湯の花に、身も心も癒やされていく。


 <2018年6・7月号>
  


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2022年06月08日

ぐんま湯けむり浪漫 (10) 伊香保温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   伊香保温泉 (渋川市)


  歴史と伝統が息づく石段街


 開湯の起源は不明だが、二ツ岳 (榛名山の外輪山) の噴火によるものと考えられるため、西暦600年前後であろうといわれている。

 「伊香保」 という名は、伊香保町という地名として残っているだけだが、万葉の時代には榛名山一帯を指していたようで、「万葉集」 巻14の東歌の中、上野国 (群馬県) の部には、「伊香保」 に関する歌が25首中9首も詠まれている。
 歌の内容を読み解くと、「イカホ」 の意味は 「沼」 や 「背」、「風」 であり、現在の温泉地に限定している地名ではなく、広域を示していたことがわかる。

 「イカホ」 の語源については諸説あるが、アイヌ語の 「イカ、ボップ (たぎる湯)」 から来ているとの説や、上州名物の 「いかづち (雷) 」 と燃える火 (ホ) との関連ではないかといわれている。


 伊香保温泉の象徴、石段街が形成されたのは天正4(1576)年、戦国武将の武田氏が町並みを整備したことから発展したと伝わる。
 当時、温泉街には大屋(おおや)と呼ばれる14軒の宿があり、年番で役を受け持っていた。
 延享3(1746)年、徳川家重の時代に12軒の大屋に 「子」 から 「亥」 までの十二支の名が割り当てられ、明治維新まで年番で名主や伊香保口留番所 (関所) の役人を務めた。
 その名残として、現在は石段の屋敷跡に十二支のプレートが埋め込まれている。


  守り継がれる二つの源泉


 伊香保温泉の源泉は、昔から小間口権 (引湯権) を持つ大屋たちにより守られてきた。
 小間口とは、源泉 (温泉) が流れる本線 「大堰」 より各源泉所有者 (旅館) への引湯の際に用いられる湯口のことで、今でも石段街の温泉の取入口として利用されている。
 この伝統ある源泉が、「黄金(こがね)の湯」 である。

 泉質は、高血圧や動脈硬化の予防に効果が高いといわれる硫酸塩温泉。
 鉄分が多いため空気に触れると酸化し、独特の茶褐色になる。
 ちなみに、この湯の色を模して造られたのが名物の 「湯の花まんじゅう」 であり、伊香保温泉が温泉まんじゅうの発祥の地といわれている。

 もう一つ、平成になってから湧出が確認された新しい源泉がある。
 湯の色が無色透明だったため 「白銀(しろがね)の湯」 と名付けられた。
 泉質は、メタけい酸含有泉。
 保湿力に優れていることから “美肌の湯” とも呼ばれている。


 伊香保温泉は昨年発表された 『温泉総選挙2017』 (うるおい日本プロジェクト主催) で 「チームで温泉活性化賞」 をはじめ、いくつもの賞を受賞した。
 歴史と伝統を重んじながらも、新しいイベントなどにも積極的に取り組んでいる。

 「インバウンドでは後発の温泉地です。外国人観光客は全体の1%に過ぎません。将来を見据えて、旅館経営者らと勉強会などを開いています」
 と渋川伊香保温泉観光協会長の大森隆博さん。
 今春、町内に台湾を総本山とする寺院の日本本山が開山した。
 信者は500万人ともいわれ、温泉街へのインバウンド効果が期待されている。

 ほぼ日本の真ん中に湧き、『上毛かるた』 の最初の札に詠まれている名湯、伊香保温泉。
 金と銀の湯舟にのって、いま、千年浪漫の旅へ。


 <2018年5月号>
  


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2022年06月04日

ぐんま湯けむり浪漫 (9) 鳩ノ湯温泉


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   鳩ノ湯温泉 (東吾妻町)


  傷ついたハトが教えた湯の効能


 東吾妻町には2つの温泉郷があり、現在、4軒の温泉宿が営業している。
 鳩ノ湯温泉は、浅間隠(あさまかくし)温泉郷にある一軒宿。
 近くを通る草津街道 (国道406号) は、昔から江戸と信州を結ぶ裏街道として多くの旅人たちに利用され、鳩ノ湯は 『草津入湯のただれには、一夜二夜にして歩行自由になること神妙のごとし』 といわれるほど、奥上州の素朴な湯治場として親しまれてきた。

 湯の歴史は古く、寛保年間 (1741~44) に旅の行者により発見されたと伝わる。
 当時は集落にある寺の持ち物で、上の薬師温泉は 「上の湯」、下の鳩ノ湯は 「下の湯」 と呼ばれ、村人たちの沐浴(もくよく)の場として開放されていた。


 また、こんな伝説もある。
 その昔、傷ついたハトが岩間に湧き出る湯に身を浸し、傷を癒やしていた。
 それを見て、効能を知った村人が 「鳩ノ湯」 と名付けたという。

 《鳩に三枝(さんし)の礼あり 烏に反哺(はんぽ)の孝あり》 

 子バトは親バトより3本下の枝に止まるという礼をわきまえ、カラスは親に養ってもらった恩に報いるために、大人になってからは歳をとった親ガラスの口にエサを含ませてやるという。
 宿名の 「三鳩樓(さんきゅうろう)」 は、この礼儀と孝行を重んじる教え 「三枝の礼」 に由来する。


  ごまかしのない本物の温泉


 「たぶん14代目か15代目だと思うんだけど、歴史が古過ぎて本当のところは分からないんだよ」
 と、現主人の轟徳三さんが囲炉裏の前で茶をすすりながら話す。
 玄関ロビーでは、古い柱時計が時を刻む。
 年代物の使い込まれた箪笥(たんす)が黒く光を放ち、『三鳩樓帳場』 と書かれた文字看板が掛かり、江戸時代より栄えて来た湯治宿の面影を今に伝えている。

 轟さんは昭和の終わりに脱サラをして、宿の経営を引き継いだ。
 あれから30年、バブル前の不景気と、バブル全盛の繁忙期を経験した。
 秘湯ブームも去り、真の温泉宿の価値が問われる時代がやって来たという。

 「今うちに来ている客は、湯を知っている人たちだよ。本物の温泉を求めているんだね」


 本館から板張りの床をきしませながら、長い渡り廊下を下る。
 源泉は浴室直下の温川(ぬるがわ)のほとりから湧いている。
 浴槽には、ごまかしのない上質な湯が、加水も加温もされず、惜しみなくかけ流されている。

 「不思議な湯でね。白くなったり、青くなったり、黄色くなったり、毎日色が変わるんだ。まれに透き通ることもある」
 と主人。
 季節や天候、時間帯によって色を変える “変わり湯” である。

 私が最初に泊まった晩は、茶褐色のにごり湯だった。
 一夜明けると鮮やかなカーキ色に変わっていて、驚いたことを覚えている。
 さて、今日の湯は?

 古沼のような深い緑褐色の湯をたたえていた。
 たぶん光の加減なのだろう。
 湯の中に沈むと、茶色や黒色の無数の析出物が漂っているのが分かる。
 訪ねるたびに色を変える、まるで万華鏡のような湯である。


 <2018年4月号>
  


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2022年05月29日

ぐんま湯けむり浪漫 (8) 鹿沢温泉


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   鹿沢温泉 (嬬恋村)


  吹雪をしのぐ間に作られた替え歌


 ♪ 雪よ岩よ われらが宿り 俺たちゃ町には 住めないからに ♪

 誰もが知っている昭和のヒット曲 『雪山賛歌』 だが、この歌が群馬の鹿沢(かざわ)温泉で誕生したことは、あまり知られていない。

 作詞は、後に第1回南極越冬隊長を務めた登山家で、京都大学理学部教授だった西堀栄三郎氏。
 大正15(1926)年1月、京大在学中に山岳部の仲間たちと鹿沢温泉でスキー合宿を行った。
 悪天候が続き、吹雪をしのぐために宿で待つ間、退屈まぎれに 「山岳部の歌」 を作ろうということになった。
 歌は、アメリカ民謡 『いとしのクレメンタイン』 の替え歌として作詞されたという。

 戦後になり、京大山岳部がこの歌を寮歌に加え歌っていたのが急速に広まり、一般にも愛唱されるようになったが、作者は不詳だった。
 のちに京大教授の桑原武夫氏が作詞の経緯を知り、著作権を登録し、この印税を同山岳部の活動の資金源とした。

 昭和46(1971)年、鹿沢温泉の一軒宿 「紅葉館(こうようかん)」 の脇に、西堀氏の直筆による碑が設置された。


  自然流下による ありのままの湯


 温泉の歴史は古く、白雉元(650)年と伝わる。
 村人が峰から光明が差しているので行ってみると、熱湯が湧き出しており、薬師如来が現れたという伝説が残っている。
 また猟師が湯につかっている傷ついたシカを目撃して以来、傷に効果があるという話が伝わり、いつしか 「鹿沢」 の字が当てられるようになったという説もある。


 宿の創業は明治2(1869)年。
 往時は十数軒の旅館があり、にぎわっていたが、大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまった。
 多くの旅館が再建をあきらめ、数軒は約4キロ下りた場所に新鹿沢温泉を開いた。

 湯元の 「紅葉館」 だけが、この地に残り、大切な源泉を守り続けている。
 このため鹿沢温泉は、地元では 「旧鹿沢温泉」 とも呼ばれている。


 「湯に手を加えるなというのが、先祖からの教えです。湯の鮮度を考えると、浴槽もこれ以上大きくできません」
 と4代目湯守(ゆもり)の小林康章さん。
 1時間で浴槽内の全ての湯が入れ替わるように、湧出量に見合った大きさを守っているという。

 露天風呂もなく、浴室にはカランやシャワーもない。
 昔ながらの湯治場の姿を守っている。

 自噴する源泉は宿より高い場所にあり、地形の高低差だけを利用して、自然流下により浴槽へと湯を引き入れている。
 その距離、わずか10メートル。
 源泉の温度は約47度。
 湯口に届くまでに2~3度下がるというが、それでも浴槽には常に熱めの湯が満たされ、惜しみなくかけ流されている。


 平成25(2013)年6月、老朽化のため本館が建て替えられた。
 「浴室と浴槽は、ご先祖さまの言いつけどおり、そのまま残しました」
 と長男の昭貴(てるたか)さん。
 5代目の湯守を継いだ。


 <2018年2・3月号>
  


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2022年05月25日

ぐんま湯けむり浪漫 (7) 川原湯温泉


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   川原湯温泉 (長野原町)


  頼朝が見つけた草津のあがり湯


 毎年1月20日の午前5時。
 極寒の中、紅白に分かれたふんどし姿の若衆が湯を掛け合う奇祭 「湯かけ祭り」。
 湯の神に感謝するこのユニークな行事には、こんないわれがある。

 昔、温泉が出なくなってしまい、村人たちは困り果てていた。
 ある日、村人の一人が温泉のにおいをかぐと、卵をゆでたにおいがしたため、ニワトリを生贄(いけにえ)にして祈願したところ、温泉が湧いたという。
 湯が再び出てきたので、村人たちは 「お湯が湧いた。お湯が湧いた」 と言って喜んでいたが、やがて 「お祝いだ、お祝いだ」 と言い合い、みんなで湯を掛け合うようになった。


 開湯は古く、800年以上前。
 建久4(1193)年年4月17日、源頼朝が浅間山に狩りに来た帰り際に、この地を通り、発見したと伝わる。
 その時、頼朝は草津の強い酸性の湯で肌にただれを起こしていたが、川原湯の優して湯につかり、完治したことから 「草津のあがり湯」 と呼ばれるようになった。

 江戸時代には旅館もでき、湯治場として栄えた。
 食料品などを携帯して、長期滞在する客が多かったという。

 松尾芭蕉や若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、土屋文明など文人らが訪れ、近くには画家や作家の別荘も多く、文化の薫り高い温泉街となった。


  湖を見渡す新天地に未来を託して


 昭和27(1952)年、のどかな温泉街に突然、八ッ場(やんば)ダム建設の計画が持ち上がった。
 いったんは中止となったが、同40(1965)年に国は計画を再開。
 ダムの高さ131メートル、供給水量は毎秒16トン (当時発表)。
 洪水を調節し、首都圏の生活・工業用水をまかなうというもので、全国的に見ても大型のダム計画だった。
 水没予定地区は5地区合計で340世帯にのぼり、うち川原湯地区は約3分の2を占めていた。

 計画から60余年。
 八ッ場ダム完成まで、あと2年となった。
 紆余曲折の長い闘争と翻弄の日々が終わろうとしている。


 旧温泉街を見下ろす山腹の代替地には、鉄道の駅舎ができ、橋が渡り、道路が通った。
 共同浴場の 「王湯」 をはじめ、すでに5軒の温泉宿が移転している。
 まだまだ温泉街と呼ぶには殺風景だが、一歩また一歩と湯の町風情を取り戻しつつある。
 「湯かけ祭り」 も、3年前から新天地に会場を移して開催されている。

 「以前の温泉街に比べると、ここは標高600メートルの高台です。風をさえぎる物がなく吹きさらしなので、気温はマイナス10度以下になります。ふんどしが凍りつく寒さです」
 と笑う、川原湯温泉協会長の樋田省三さん。
 “旧七軒” と呼ばれる老舗旅館の5代目でもある。

 「次世代を担う若い後継者が、帰って来ています。私たちは過去を引きずっていますが、彼らには未来しかない。新しい川原湯温泉に期待しています」

 3年もすると、旧七軒がそろうという。


 昔から神経痛やリウマチに効用があるといわれてきた奥上州の名湯である。
 浴衣姿の湯治客が通りを行きかう、かつてのにぎわいを取り戻してほしい。


 <2018年1月号>

 ※八ッ場ダムは令和2(2020)年4月1日より運用を開始しました。ダム湖は 「八ッ場あがつま湖」 と命名されました。
  


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2022年05月21日

ぐんま湯けむり浪漫 (6) 法師温泉


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   法師温泉 (みなかみ町)


  湯の歴史と文化が漂う秘湯の宿


 創業は明治8(1875)年。
 群馬と新潟県境の三国峠にほど近い、上信越高原国立公園特別地域に隣接する秘湯の一軒宿 「長寿館」。

 初代の岡村貢氏が私財を投じて、現在の本館を建てた。
 当時、法師温泉には4、5軒の宿があったという。
 戦後には、長寿館ただ一軒となってしまった。


 法師川に寄り添う細道は、昔から文化の懸け橋を担う人々が、三国峠を越える際に往来した。
 若山牧水、与謝野晶子、高村光太郎、直樹三十五、川端康成……。
 名だたる文人墨客たちが投宿しており、館内には写真や短歌、書画が数多く飾られている。

 また秘湯感あふれるロケーションから、戦後になってからは数々の映画やテレビCM、雑誌の撮影などが行われてきた。
 一躍、法師温泉の名を全国に広めたのが、旧国鉄 (現JR) が熟年夫婦を対象にした 「フルムーンキャンペーン」 のテレビCMとポスターだった。
 女優、高峰三枝子と俳優、上原謙の入浴シーンが、当時、大変話題になった。

 ほかにも小栗康平監督の県人口200万人記念映画 『眠る男』 や大林宣彦監督の 『彼のオートバイ 彼女の島』、最近では阿部寛と上戸彩主演の 『テルマエ・ロマエⅡ』 の舞台にもなった。


  有形文化財に登録された湯殿建築


 苔むす杉皮ぶきの屋根、かつての旅籠(はたご)の面影を残し、旅情ただよう玄関。
 引き戸を開けて土間に入ると、大きな吹き抜けロビーの続きに、炉が切られた部屋がある。
 いつ訪ねても薪がパチパチと爆(は)ぜ、鉄瓶がシュンシュンと鳴っている。
 そっと出される一服の茶に、旅装が解かれていく。

 「湯守(ゆもり)は、源泉の湧き出し口だけを守っていればいいのではありません。一番大切なのは、温泉の源となる雨や雪が降る場所、つまり宿の周りの環境を守ることなんです」
 と6代目主人の岡村興太郎さん。

 周辺の山でトンネル工事が行われると、湯脈を分断される恐れがある。
 スキー場やゴルフ場ができれば、森林が伐採されて山は保水力を失い、温泉の湧出量が減少するかもしれないという。


 代々、湯守が守り継いできた温泉は、全国でも1%未満しかないといわれる浴槽直下から源泉が湧く足元湧出泉。
 その温度は、入浴の適温とされる約42度。
 まさに “奇跡の湯” である。

 明治28(1895)年に建てられた混浴の大浴場 「法師乃湯」 は、本館、別館とともに国の有形文化財に登録されている。
 アーチ形の窓をしつらえた鹿鳴館風の湯殿は、太い梁(はり)をめぐらせた天井や壁、床、浴槽にいたるまで、すべてが木造り。
 湯舟は “田の字” に木枠で仕切られ、それぞれに丸太が掛け渡されている。

 丸太の枕に頭をのせて湯を浴(あ)んでいると、時おり、湯床に敷き詰められた小石の間からプクプクと湯玉が湧き上がり、背中をくすぐる。
 たった今、約50年前に降った雨が、温泉となって生まれ変わったのだ。



  《草枕手枕に似じ借らざらん 山乃いでゆ乃丸太のまくら》 晶子

 昭和6(1931)年9月4日、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻は三国路を訪れ、長寿館に3泊している。
 晶子の 『法師温泉の記』 によると、「この温泉を以前から高村光太郎さんが愛して度度行かれる。私達夫婦も高村さんに教へられて一昨年から遊びたいと思っていた」 とある。
 同館には、晶子が法師温泉から三国峠に、駕籠(かご)に乗って向かう様子を写した写真や宿泊した部屋が残されている。


 <2017年12月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:51Comments(0)湯けむり浪漫

2022年05月13日

ぐんま湯けむり浪漫 (5) 下仁田温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   下仁田温泉 (下仁田町)


  傷ついたイノシシが浴びた霊泉


 上信電鉄の終点、下仁田駅から徒歩で約20分。
 車なら5~6分の距離だ。
 なのに不思議と訊ねるたびに秘湯へたどり着いた気分になる。

 対面通行も困難な、ガードレールのない山道を行くからかもしれない。
 この道で、いいのだろうか?
 と、かすかに不安が脳裏をよぎった頃、左手に駐車場の看板が見えてくる。
 下仁田温泉の一軒宿 「清流荘」 は、ここから急坂を下った渓流沿いの森の中にある。

 清流、栗山川沿いに広がる敷地は、約7坪。
 池や小川が配され、その周りに本館と7つの離れ家、浴室棟、露天風呂が点在する。
 宿の裏手には2,400坪を超える自家農園があり、常時20種類もの野菜が完全無農薬で栽培されている。
 また敷地内にはシカ園やキジ園、イノシシ牧場もある。


 宿の創業は昭和49(1974)年。
 それ以前は、ヤマメやニジマスなどの川魚を養殖しながら飲食店を営んでいたという。
 約1キロ上流の湧出地から源泉を引いて温泉宿になったのは、創業から3年後のことだった。

 湯の起源は定かではないが、傷ついたイノシシが浴びているのを村人が発見したと伝わる。
 昔から山岳信仰の修験者が修行に使っていたといい、地元では皮膚病に効く霊泉として利用されてきた。


  手間をかけた唯一無二のもてなし


 「うちは米以外は、すべて自給自足。地産地消なんていう言葉ができる前から敷地内産地直送だよ」
 と、裏の畑で先代の清水幸雄さんがほほ笑んだ。
 「地元の食材を提供するのが、本来のもてなしの姿」
 と創業以来、自家製食材にこだわった料理を提供している。

 宿の名物として知られている 「猪鹿雉(いのしかちょう)料理」 は、この地に伝わる祝い事に欠かせない郷土料理。
 もちろん、すべての食材が敷地内で揃う。


 「イノシシ肉は豚肉に比べると硬いというが、それが日本古来の高級食材の味。下仁田ねぎも同じです。限られた農家が手間と時間をかけて作っている唯一無二の食材なんです」
 と、2代目主人の清水雅人さん。
 下仁田ねぎの主産地である馬山地区にある、先祖から受け継いだ畑を案内してくれた。
 清水家は、下仁田町認定の 「下仁田葱の会」 会員農家でもある。

 下仁田ねぎは、毎年10月頃に種をまいき、2回の移植と土寄せを行い、翌年の11月下旬から12月にかけて収穫をする。
 出荷までには15ヶ月もの月日を要する。
 しかも栽培に適した土壌と気候がある下仁田の特定地域でしか、おいしいネギにはならない。
 これが下仁田ねぎが “幻のネギ” と呼ばれるゆえんだ。

 この時季、生産農家の宿ならではの料理が並ぶ。
 鍋の具材としてはもちろんのこと、ネギぬた、ネギみそ、かき揚げとなって食膳に彩を添える。


  下仁田温泉 清流の湯

 泉質は全国の温泉の中で1%だけという珍しい炭酸泉。
 泡の出る入浴剤の150倍以上の二酸化炭素含む。
 湯は無色透明で、ほんのりと化粧乳液のような匂いがする。
 時間の経過とともに、湯舟に流氷のように白い泡のかたまりが漂うのが特徴。
 これはカルシウム成分で、皮膚の角質をやわらかくして、脂肪分や分泌物を洗い流す効果があるという。


 <2017年10・11月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 13:53Comments(0)湯けむり浪漫

2022年05月07日

ぐんま湯けむり浪漫 (4) 川場温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
 ※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


   川場温泉 (川場村)


  「脚気川場」 といわれるゆえん


 川場温泉の開湯は定かではないが、こんな発見伝説がある。

 昔、川場の村は水不足に苦しんでいた。
 ある日のこと、老婆が洗い物をしていると、一人の坊さんが訪ねて来て、言った。
 「水を一杯、くださるまいか」

 しかし、飲み水は遠い沢から汲んで来なければならない。
 それでも老婆は、困っている坊さんを放っておけず、わざわざ沢まで行って、水を汲んで来てあげた。

 「ばあさん、このあたりは水が不自由なのか?」
 「はい、水もさることながら、もし、お湯が湧いたらどんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」
 「なるほど」
 と、うまそうに水を飲み終えた坊さんは、やがて持っていた杖の先で大地を突いた。
 すると不思議なことに、そこから湯煙が上がり、こんこんと湯が湧き出したという。

 この坊さんが弘法大師 (空海) だと知った村人たちは、湧き出る湯に 「弘法の湯」 と名付け、尊像を安置した弘法大師堂を祀った。
 これが昔から 「脚気川場」 といわれるゆえんである。


  龍の彫刻が美しい湯前薬師堂


 武尊(ほたか)神社は、享保3(1718)年に薬師如来を祀る川場温泉の湯前薬師堂として建てられた。
 屋根は銅板ぶき入り母屋造りで、三間四面造りの勾欄(こうらん)=(反り曲がった欄干) を四面に回した堂造り。
 千鳥破風(ちどりはふ)=(屋根の斜面に取り付けた三角形の装飾板) の正面に、向拝(ごはい)=(張り出したひさし) は唐破風(からはふ)=(曲線上の装飾板) 付きという変わった構造の建築様式である。

 社殿の内外部に施された木彫は見ごたえがあり、特に向拝の紅梁(こうりょう)=(反り返った化粧梁) に絡みつくように掘られた龍の彫刻は、精緻かつ華麗で、息をのむほどに美しい。
 建築装飾という枠を超えて、彫刻そのものとしての価値が高く評価されている芸術品である。

 宝暦5(1755)年に修復が行われ、享和4(1804)年に現在の本殿が完成した。


 源泉は今でも神社のすぐ脇に湧いている。
 その湯は無色透明で、ほのかに硫黄 (硫化水素) の匂いがする。
 脚気患者が少なくなった現代では、神経痛やリウマチ、腰痛、関節の痛みに効き目があるといわれている。


 <2017年9月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:52Comments(0)湯けむり浪漫

2022年05月03日

ぐんま湯けむり浪漫 (3) 野栗沢温泉


 このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
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   野栗沢温泉 (上野村)


  霊験あらたかな 「子宝の湯」


 群馬県最南端の村、上野村。
 国道299号から神流川沿いに村道を南下し、さらに支流の野栗沢川を行くと、やがて前方のV字谷の底に一軒の宿が見えてくる。
 宿を過ぎて、さらに上流を500メートルほど進むと、分校跡を示す石碑が立っている。
 かつて、ここには上野村立東小学校野栗沢分校があり、通称 「すりばち分校」 と呼ばれていた。

 昭和23(1948)年から24年間、この分校に代用教員として赴任した山田修先生の奮闘記は、NHKのラジオドラマにもなり、幾多の著書とともに 「すりばち分校」 の名は全国に広まった。
 現在、校舎は取り壊されてしまったが、跡地に建てられた集会所には、当時の教室が再現され、教材や資料などが展示されている。

 昭和58(1983)年、山田先生の教え子である黒沢武久さん (故人) は、全国から 「すりばち分校」 へやって来る人たちのためにと、山から温泉を引いて旅館 「すりばち荘」 を開業した。

 「この水を飲んでみろ! 絶対に二日酔いしないから」
 と、最初に泊まった晩に主人に勧められて飲んだ温泉は、かなり塩辛い高濃度の塩化物泉。
 地元では 「子宝の湯」 と呼ばれ、子どもが授からない女性に飲ませると、たちまち妊娠したと伝わる “魔法の水” だった。


  全国からやって来る湯治客


 上野村には、昔から夏になると青い鳥が飛来していた。
 遠く東南アジアの限られた地域に分布する、緑色の羽を持つ 「アオバト」 である。
 海水を飲むことで知られ、日本では北海道~四国、伊豆七島などで繁殖し、積雪のない温暖地で冬を越す。
 ここ上野村には5~10月の半年間、約3千羽がやって来る。

 野栗沢の人たちは、山奥の巨石の間から湧き出る泉の水を飲みに、青い鳥がやって来ることを知っていた。
 産後の肥立ちが悪い婦人に、この鳥の肉を食べさせると、見る見るうちに回復したという。
 また、泉の水を飲みながら農作業をすると、疲れを知らずに仕事がはかどるということで、大変珍重されてきた。


 旅館の開業以来、温泉の数々の効能が知れ渡り、全国から湯治客が訪れるようになった。
 水を持ち帰った人たちからは、痛風やアトピーなどの皮膚炎が治ったとの感謝を伝えるお礼の手紙やファックスが多く寄せられている。

 「本当に不思議な水なんだよ。ウルシのかぶれやハチ刺されなんて、この水を塗るだけで治っちまうんだから」
 と、主人は得意気に話す。
 この源泉で地粉を練り、主人が手で打つ 「すりばちうどん」 は、上野村特産の 「イノブタ鍋」 とともに宿の名物料理である。


 <2017年8月号>
  


Posted by 小暮 淳 at 10:08Comments(0)湯けむり浪漫

2022年04月29日

ぐんま湯けむり浪漫 (2) 老神温泉


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   老神温泉 (沼田市)


  効能を求めて患者が殺到


 国道120号は尾瀬・日光方面へ通じる県内屈指の観光ルートである。
 しかし、その途中にある椎坂(しいさか)峠は、山道特有の急カーブや急坂が続き、冬季は積雪や凍結により交通の難所となっていた。
 平成25(2013)年、この難所に悲願のトンネルが開通した。
 これにより走行時間が平常時で約10分、積雪時で約20分も短縮された。

 トンネルを抜けて、最初に旅人を迎える温泉が 「老神(おいがみ)温泉郷」 である。
 なぜ、“郷” の字が付いているのか?

 温泉郷は片品川沿いに細長く、「老神」 「大楊(おおよう)」 「穴原(あなはら)」 の3つの地区にまたがり、昭和初期までは、それぞれ老神温泉、大楊温泉、穴原温泉と呼ばれていた。
 昭和10(1935)年4月、3つの温泉地は統合され、「老神温泉郷」 として生まれ変わり、老神温泉旅館組合が発足した。
 これにより従来の湯治場から群馬を代表する温泉地へと発展していったのである。


 昭和20(1945)年、老神温泉の湯が傷に効果があるとして、沼田陸軍病院老神分院の建設が計画されたが、準備中に終戦を迎えた。
 しかし、全国的にまん延した疥癬(かいせん)という伝染性の皮膚病により、県内外から患者が殺到し、一躍、老神の名は広まった。

 利根地方には 「脚気(かっけ)川場に瘡(かさ)老神」 という言葉がある。
 瘡とは今でいう皮膚病のこと。
 昔から、おできや腫(は)れ物に効くことで有名な湯治場だった。


  日光の神を追い返した赤城の神


 その昔、上野国(こうずけのくに/群馬県) の赤城山の神 (ヘビ) と、下野国(しもつけのくに/栃木県) の二荒山(ふたあらさん/日光男体山) の神 (ムカデ) が仲たがいをし、共にゆずろうとはしなかった。
 争いは日増しにエスカレートし、多くの神々が二手に分かれて加勢し、激しい戦いがくり返されていた。

 あるとき、油断した赤城の神は敵の矢に当たり、負傷してしまった。
 なんとか赤城山のふもとまで逃げ帰ることができたが、二荒の神の軍勢は、すぐそこまで追いかけて来ていた。
 その時、傷ついた赤城の神が矢を抜き、地面に突き刺すと、不思議なことに湯が湧き出した。
 この湯を浴びると、たちまち傷は治り、陣を立て直して二荒の軍勢を追い返したという。

 このことから 「追い神」 が転じて 「老神」 と呼ぶようになったと伝わる。
 近隣には 「追い返す」 を意味する 「追貝(おっかい)」 や、「追い払う」 を意味する 「大原(おおはら)」 などの地名が残っている。


 しかし一般的に伝わる 「日光と赤城の神戦」 の話は、日光の神がヘビで、赤城の神がムカデである。
 なぜ老神温泉だけ伝説の神様が入れ替わってしまったのかは不明だが、地名のいわれについては、こんな説もある。

 現在の温泉街の小字名が 「湯の上(ゆのうえ)」 であり、かつては 「ゆのかみ」 と呼ばれていた。
 やがて、「おゆかみ」 「おいがみ」 となり、「老神」 の文字が当てられたのではないかという。


 <2017年6・7月号>
   


Posted by 小暮 淳 at 12:44Comments(2)湯けむり浪漫