2022年07月08日
ぐんま湯けむり浪漫 (14) 霧積温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
霧積温泉 (安中市)
避暑地を襲った山津波を逃れて
碓氷峠へ向かう国道18号の旧道から離れ、山深い曲がりくねった山道を車で進むこと約30分。
長野県境にそびえる鼻曲山 (1,655m) の登山口駐車場に出る。
車道ができる昭和45(1970)年までは、信越本線の横川駅から3時間以上もかけて歩いたという。
ここからは車を降りて、「ホイホイ坂」 と呼ばれるつづら折りの登山道を、さらに約30分歩くことになる(宿泊者は送迎あり)。
まさに群馬を代表する “秘湯” だ。
霧積(きりづみ)温泉の一軒宿、「金湯館(きんとうかん)」 の創業は明治17(1884)年。
当時は旅館が5~6軒と別荘が40~50棟建ち並び、9年後に信越本線が全線開通するまでは避暑地として軽井沢よりも栄えていたといわれている。
ところが明治43(1910)年、山津波が一帯を襲い、金湯館以外の建物は泥流にのみ込まれてしまった。
昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電にて営業を続けてきた。
電気と電話が通じたのは、昭和56(1981)年のことだった。
「男は燃料や薪(まき)を担ぎ山道を登り、女は洗濯や火鉢の炭おこしに一日中追われていた」
と3代目女将の佐藤みどりさんは、当時を述懐する。
昭和30年代から親族が1キロ下った場所で旅館を開業していたが、7年前に廃業したため、金湯館は、また一軒宿になってしまった。
泡の出る湯が全身を包み込む
伊藤博文、勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら、政治家や文人も多く訪れている。
旧館の2階には明治憲法の草案が作られたというケヤキ造りの部屋が残り、今でも指名して予約する宿泊客が多いという。
昭和52(1977)年、作家、森村誠一のベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積温泉が一躍ブームとなった。
《母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? えゝ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ》
学生時代 (昭和20年代) に霧積温泉を訪れた森村誠一は、宿でもらった弁当の包み紙に印刷されていた西条八十の詩に深い感銘を受け、のちに取材に来て小説を書き上げた。
映画は歌手、ジョー山中が歌う主題歌とともに大ヒットした。
当時は国道から霧積までの山道が渋滞するほどに混雑したという。
湯元として代々守り継いできた源泉は約39度とぬるく、炭酸を含んでいるため泡の粒が体中に付くのが特徴。
昔から切り傷ややけどに特効があるといわれている薬湯である。
かの勝海舟も皮膚病の治療に来ていたらしい。
体を湯に沈めた途端、プチプチとくすぐったいほどの気泡が背中を伝い出し、あれよのうちに全身が泡だらけになった。
昔から “泡の出る湯は骨の髄(ずい)まで温まる” といわれるだけあり、ぬる湯ながら、湯上りはいつまでも体が火照(ほて)っていた。
<2018年10・11号>
Posted by 小暮 淳 at 13:13│Comments(0)
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