2021年12月30日
おやじの湯 (7) 最終回 「“還暦温泉”っていうんだ。何でか分かるかい?」
湯宿温泉 「ゆじゅく 金田屋」 みなかみ町
金田屋の創業は明治元(1868)年。
ロビーの右奥に、歌人・若山牧水 (1885~1928) が草鞋(わらじ)を脱いだ土蔵の白壁が、せり出している。
約60年前の本館改築の際に、一続きにした。
上がり框(かまち)の暖簾(のれん)をくぐり、急な階段を上がると、宿泊した蔵座敷が 「牧水の間」 (8畳) として残る。
「時代でいえば、2代目と3代目の頃。私の曽祖父と祖父がもてなしたと聞いています」
と、5代目主人の岡田洋一さん。
その晩は、釣り名人といわれた祖父が釣ったアユの甘みそ焼きに舌鼓を打ち、あまりのおいしさに2匹を平らげたという。
若い頃の洋一さんも牧水のように旅をした。
大学時代は社会人の山岳会に入り、日本中の山に登った。
卒業後、作家・小田実のベストセラー旅行記 『何でも見てやろう』 に感化され、単身で米国に渡った。
8ヶ月後、妻で女将の孝子さんが合流し、4年間の夫婦での海外放浪生活が始まった。
「言葉が通じないので仕事がなかなか覚えられず、いくつも職を替えました。若かったからできたことです」
孝子さんは、当時を述懐する。
カナダや米国を点々とし、ホテルやレストランでコックの手伝いやウエーターの仕事をした。
アルゼンチンにある南米最高峰の山、アコンカグア (標高6,960m) の登頂を夢見た。
気がつくと、手元にまとまった現金ができた。
アコンカグア行きはやめ、「この金で世界一周をしよう」 と、イギリス、フランス、イタリアと欧州をめぐり、アフリカ、アジアの国々も旅した。
2人は29歳で一度、群馬に戻ったが、再び東京に出た。
洋一さんは、その後、四万温泉 (中之条町) の温泉旅館の営業支配人を経験し、郷里の旅館を継いだのは39歳だった。
「ビンの中にハエを入れて育てると、ハエがだんだん小さくなっていくという。人間も同じで、小さな島国の中で暮らしていると、精神的に小さな人間になっちゃうんじゃないかって思ったんですよ」
と、世界を旅した理由を話した。
その洋一さんも今は、すっかり湯守(ゆもり)の顔だ。
「湯宿の湯は、“還暦温泉” っていうんだ。何でか分かるかい? それは60年前に降った雨が今、湧き出しているからなんだ。温泉って不思議だよね」
源泉と周辺環境を守ろうと、仲間とみなかみ町を流れる赤谷(あかや)川上流域の森林自然を復元する官民の 「赤谷プロジェクト」 も立ち上げた。
型破りな主人と話がしたくて、やって来る常連客は多い。
<2013年3月13日付>
このカテゴリーでは、2012年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』 の番外編 『おやじの湯』 を不定期にて掲載いたしました
ご愛読いただき、ありがとうございました。
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2021年12月29日
おやじの湯 (6) 「歴史のある宿と温泉がなくなるのを、このまま見過ごしていいのか」
沢渡温泉 「まるほん旅館」 中之条町
沢渡(さわたり)温泉は、皮膚を刺激する草津の湯の帰り道につかると、つるつるの肌になることから、草津温泉の 「なおし湯」 「仕上げ湯」 と呼ばれたきた。
鎌倉幕府を開いた源頼朝が、イノシシ狩りの際に発見したと伝わる。
「まるほん旅館」 は、元禄時代に旅人に自炊させて泊めた木賃宿から始まった。
しかし、9年前、後継者がいなくなり、閉鎖の瀬戸際に立った。
その窮状を救ったのが、当時、群馬銀行中之条支店の行員として沢渡温泉を担当していた16代目主人の福田智さんだ。
渉外係として、まるほん旅館にもたびたび訪れ、先代の勲一さんの人柄に惚れ込んでいた。
平成15(2003)年秋、その勲一さんが突然、
「自分も歳だし、後継ぎがいないので宿を閉めようと思う」
と切り出した。
一人息子を亡くし、親類からの後継者探しもうまくいかず、意気消沈していた。
半年間、銀行員として後継者探しに走り回った。
「県内の大温泉地の老舗が経営する」
「旅行作家の会が共同経営する」
そんな話が持ち上がっては消えた。
「歴史のある宿と 『一浴玉の肌』 と言われる温泉がなくなるのを、このまま見過ごしていいのか?」
宿に泊まり込んで、湯守(ゆもり)の実務を体験し、「自分でもできそうだ」 と思った。
そして、温泉宿の主人への転身を決意した。
「温泉宿は女将の役割が大きい」
勲一さんに言われ、最初は猛反対だった妻の節子さんを説得した。
当時の沢渡温泉源泉管理組合には、源泉の使用権は、相続人以外の第三者には譲渡できない規約があった。
そのため勲一さんと養子縁組をし、姓を田中から福田に変えた。
同14年1月、妻と当時小学生だった2人の子どもとともに宿に入った。
「それでも私に湯守が務まるかと不安でしたが、引き継いだ後も、この湯を目当てに、たくさんのお客さまが来てくださる」
一度だけ 「廃業」 という言葉が頭をかすめたことがあった。
平成23(2011)年3月11日の東日本大震災直後、源泉の湧出がピタリとと止ってしまったのだ。
あわてて福田さんは先代に電話した。
すると勲一さんは、「じきに湯は出る」 と動じなかった。
過去にも地震で湯が出なくなったことがあったという。
地中の圧力ガスが抜け、一時的に湯を押し上げられなくなったと推測する。
湯は3日目に戻り始め、4日目には元通りの湯量になった。
「先代には長年の経験と勘がある。まだ足元にもおよびません」
湯舟の中で、若き湯守は、そう言ってほほ笑んだ。
<2013年1月16日付>
2021年12月23日
おやじの湯 (5) 「現代医学が対応できない病気に悩む人たちが湯治に来ます」
このカテゴリーでは、2012年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』 の番外編 『おやじの湯』(全7話) を不定期にて掲載いたします。
源泉を守る温泉宿の主人たちの素顔を紹介します。
※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
川古温泉 「浜屋旅館」 みなかみ町
『川古(かわふる)のみやげは、一つ杖を捨て』 と言われるほど、昔からリウマチや神経痛に効く湯治場として親しまれてきた。
現在でも、県内外から訪れる長期滞在の湯治客が、約6割を占めている。
「医療の発達で温泉の目的が療養から観光へと変わりましたが、ストレスからくる心の病や現代医学が対応できない病気に悩む人たちが湯治に来ます」
と語る3代目主人の林泉さん。
20代の頃は、東洋史の学者を目指していた異色の経歴を持つ。
高校を卒業し、進学先の早稲田大で朝鮮古代史に関心をもった。
卒論のテーマには 「高句麗の対外関係史」 を選んだ。
さらに明治大大学院に移り、韓国への留学話も出たが、30歳の頃、研究者を断念し、帰郷した。
しかし、学問を志していた頃と同じ情熱で、地域を見つめてきた。
みなかみ町北部の赤谷(あかや)川流域の生物多様性の復元などを目的とした 「赤谷プロジェクト」 に林野庁、日本自然保護協会とともに取り組む地域協議会の代表幹事を平成15(2003)年の発足時から務めた。
同17年にみなかみ町の一部になった新治村の村誌編纂(へんさん)委員となり、法師、猿ヶ京、湯宿(ゆじゅく)、川古の旧村にある4温泉地の記述を担当した。
川古温泉の起源については、よく分かっていないが、江戸時代の後期には、すでに温泉があった。
大正時代には食料持参で湯治客が入りに来る湯小屋があったという。
大正5(1916)年、木材を切り出して酢酸(さくさん)などを造るため、旧日本酢酸製造赤谷工場が、温泉の下流に設立された。
酢酸は当時、火薬の原料になった。
この工場に勤めていた祖父、峰治さん (故人) が温泉の湯守(ゆもり)から仕事を引き継ぎ、浜屋旅館を創業した。
ちなみに 「浜屋」 とは、林家の屋号である。
源泉は40度弱と温度が低いため、高い療養効果が得られる “持続浴” と呼ばれる入浴法がとれる。
以前訪ねた時、日に8時間も入浴するお年寄りと会ったこともある。
内風呂の浴槽の底には、小石が敷かれている。
湯は無色透明だが、かすかに硫化水素の臭いがする。
ジッとしていると、数分で全身に小さな泡が付き出した。
湯が新鮮な証拠だ。
泡が付着して白くなった体を手で払うと、まるでサンゴの産卵のように無数の泡が一斉に舞い上がった。
「ふだんの生活から離れ、自然環境に恵まれた温泉場に滞在することにより、心と体のバランスが整えられていきます」
「命の洗濯」 という言葉がある。
現代人にとって温泉は、心の湯治場といえる。
<2012年10月17日付>
2021年12月14日
おやじの湯 (4) 「この泉の水を飲みながら畑仕事をすると、不思議と疲れないんだよ」
野栗沢温泉 「すりばち荘」 上野村
「これを飲めば、絶対に二日酔いはしないよ」
初めて泊まった晩に、主人の黒沢武久さんからコップ一杯の源泉を手渡された。
口にふくむと、かなり塩辛い。
高濃度の塩化物泉である。
翌朝5時に連れて行かれたのは、宿から3キロほど入った山の中。
大きな岩の間から源泉が湧き出ていた。
小屋の中で、息を殺して待つこと1時間。
パタパタと、かすかな羽音がしたかと思うと、突然、疾風が舞い、目の前の泉が何十羽という青い鳥に覆われた。
成分が海水に近いからだろうか。
毎年、夏になると、海水を飲むことで知られる鳥がやって来る。
限られた地域に分布する、青くて美しい羽を持つ 「アオバト」 だ。
日本では北海道から四国、伊豆七島などで繁殖し、積雪のない温暖な地で群れをなして冬を越す。
ここ上野村には5月~10月の半年間、その姿を見せる。
「今年は飛来する時期も遅いし、数も少ないね。いつもなら3千羽も来るのに、200羽くらいしか確認できてないよ。アオバトは頭がいいからね。地震が多いと来ないのかな」
主人は湯舟の中で、首をかしげた。
野栗沢(のぐりざわ)温泉は群馬県最南端の温泉地。
山ひとつ超えれば、埼玉県だ。
標高はさほど高くはないが、切り立った山々に囲まれたV字谷の奥。
宿名通りの “すり鉢” の底に一軒宿はある。
昭和58(1983)年に、黒沢さんが自ら泉の水をパイプで引いて開業した。
加温したヒノキ風呂の隣に小さな源泉風呂がある。
温度は約18度。
真夏でも、かなり冷たい。
「我慢して肩まで沈めば、湯上りはポカポカに体が温まる。毎日入っているおかげで俺は風邪ひとつ引きやしない」
そう主人に勧められ、意を決して入った。
最初は、ただの水風呂のようだが、やがて足の先から体がピリピリと、ほてり出してきた。
全国から乾燥肌やアトピー性皮膚炎が治ったと、感謝の便りが多く寄せられている。
ウルシのかぶれやハチ刺されは、源泉を小麦粉で練って、ガーゼに塗って貼ると治ってしまうという。
「昔から野栗沢の人たちは、湧き出る泉を飲みに青い鳥がやって来ることを知っていた。この泉の水を飲みながら畑仕事をすると、不思議と疲れないんだよ。まさに魔法の水だ」
湯舟の中、主人は得意げに笑った。
<2012年8月8日付>
※黒沢武久さんは2019年10月に78歳で亡くなられました。現在は長男の忠興(ただおき)さんが2代目を継いでいます。
2021年12月09日
おやじの湯 (3) 「温度、泉質、景色と三拍子そろっている温泉は、私の宝物です」
このカテゴリーでは、2012年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』 の番外編 『おやじの湯』(全7話) を不定期にて掲載いたします。
源泉を守る温泉宿の主人たちの素顔を紹介します。
※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
半出来温泉 「登喜和荘」 嬬恋村
ゆら~り、ゆら~り。
左右によく揺れる吊り橋だ。
「怖くて渡れない、と助けを呼ぶお客もいるけどね」
と2代目主人の深井克輝さんは笑う。
それでも吾妻川の両岸の地区や湯治客には、悲願の吊り橋だった。
登喜和荘(ときわそう) は国道144号に面しているが、JR吾妻線で来た場合は、袋倉駅で降り、川を渡らねばならない。
昭和52(1977)の創業時は、橋がなく、人々は浅瀬を歩いて来た。
同54年に木橋を架けたが、台風で2回流された。
先代主人の利一さん (故人) が音頭をとって同58年、長さ約60メートル、高さ約10メートルの吊り橋を架け、当時の嬬恋村長が 「八十路(やそじ)つり橋」 と名付けた。
それ以来、川の増水で流されることはなくなった。
ここは地熱が高く、昔から真冬でも雪解けの早い場所があった。
養鶏業を営んでいた利一さんが掘削したところ、昭和48(1973)年に温泉が湧き出した。
“半出来(はんでき)” という珍しい名は、ここの小字名からとっている。
由来として、作物が半分しか収穫できないやせた土地だからといわれるが、深井さんには異論がある。
「“半” という漢字は、『なから』 とも読む。群馬には、“かなり” という意味の 『なから』 『なっから』 という方言がある。だから私は、出来の良い土地と解釈している。そもそも作物の育ちが悪いなんてことはない。地元の人が土地に、わざわざ悪い地名をつけるだろうか」
この “出来の良い土地” から湧く “上出来の温泉” は、神経痛や腰痛に効くと愛されてきた。
源泉の温度は約42度。
ややぬるめだが、そのぶん長湯ができる。
炭酸を含んでおり、湯の中でジッとしていると体に小さな気泡が付き出す。
昔から泡の出る温泉は、骨の髄まで温まると珍重されてきた。
源泉の注ぎ口にはコップが置いてあり、飲用もできる。
口にふくむと、塩気のきいた中華スープのような味がする。
ナトリウムやカルシウム、マグネシウム、カリウム、鉄分などのミネラルが豊富で、胃液の分泌を助ける作用があることから、「胃腸の湯」 とも言われる。
内風呂から混浴露天風呂へは、ツツジやアヤメ、オダマキなどの花々が咲く庭園の中を裸で歩いていく。
この開放感は、ほかでは味わえない。
「旅先で、いろいろな湯に入ってみたけど、納得できる温泉は少ないね。温度、泉質、景色と三拍子そろっている自分のとこの温泉は、私の宝物なんですよ」
豪快に笑った顔は、湯守(ゆもり)としての自信にあふれていた。
<2012年6月6日付>
2021年12月01日
おやじの湯 (2) 「ゆっくり入ってなよ。温泉水で、そばを打ってやるから、楽しみにしてない」
大塚温泉 「金井旅館」 中之条町
「動力なんて、一切使っていない。うちは源泉をそのまま、ぶん流しさ」
4代目主人の金井昇さんは、そう言って笑った。
“源泉かけ流し” のことを “ぶん流し” と豪快に表現するのが、金井さん流だ。
自慢する湯量は、毎分800リットルにものぼる。
温泉水を利用してティラピア (和名・イズミダイ) の養殖もしている。
水温が高いため、成長が速い。
シコシコとした歯ごたえは、マダイのような食感がある。
夕食時に注文すれば、生き造りを調理してくれる。
湯の起源は、平安時代前期と伝わる。
安土桃山時代、沼田城主の真田信幸の妻・小松姫の知行地となり、街道沿いの温泉としてにぎわった。
慶長12(1607)年、あまりの忙しさに不満がつのった下女が、馬の骨を湯の中へ投げ込んでしまった。
すると湯の守護神である薬師如来の怒りに触れ、湯がぬるくなってしまったと伝わる。
「ぬる湯は、心臓や肺に負担がかからないし、長時間入れるため温泉成分を吸収しやすく、皮膚病には特効がある」
と自慢する。
宿の創業は大正6(1917)年。
昇さんの曽祖父が中之条町伊勢町から移り住んで、温泉宿を始めた。
曾祖父の湯を継いだのが父の四平さん (故人) だった。
曽祖父が夢見た熱い湯の湧出を目的に、昭和49(1974)年にボーリングをした。
噴き出した湯は、工事の足場を吹き飛ばすほどの湯量だったというが、湯の温度は相変わらずぬるかった。
源泉の温度は約34度、体温より低い。
ぬる湯に長くつかる 「微温浴」 「持続浴」 で、血行が良くなり、老廃物や疲労物質が排出されるため、精神の鎮静作用が高い。
ヒステリーや不眠症、うつ病にも効能があるといわれている。
露天風呂に一緒に入ったら、
「ほれ、これを見てみい」
と、湯舟の中から右足を上げて見せた。
若い頃、やかんの熱湯をかぶって大やけどをしたが、跡形もなく消えてしまったという。
「ゆっくり入ってなよ。温泉水で、そばを打ってやるから、楽しみにしてない」
そう言って、主人は先に湯舟から上がって行った。
男女別の内風呂が一つずつと混浴の内風呂、それと混浴露天風呂がある。
もちろん、すべて “ぶん流し” だ。
この日も数人の常連客が、長湯を楽しんでいた。
日に8時間以上湯につかる人はざらで、なかには連泊して15時間以上入り続ける湯治客もいる。
1年半前から独学で始めたという主人の打つそばは、どんな味がするのだろうか。
楽しみが、また一つ増えた。
<2012年4月11日付>
2021年11月24日
おやじの湯 (1) 「お湯の立場になって最良の状態で湯舟に注ぎ込めるようにするのが湯守の役目だ」
このカテゴリーでは、2012年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』 の番外編 『おやじの湯』(全7話) を不定期にて掲載いたします。
源泉を守る温泉宿の主人たちの素顔を紹介します。
※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
四万温泉 「積善館」 中之条町
元禄4年(1691)年に建てられた日本最古の湯宿建築の 「本館」 (県指定重要文化財) をもつ 「積善館(せきぜんかん)」 は、四万(しま)温泉のシンボルである。
19代目亭主 (社長) の黒澤大二郎さんとは、24年の付き合いになる。
バンジョーを愛し、私のアマチュアバンドとも共演する。
“生まれたばかりの湯” が満ちた 「元禄の湯」 に2人で久しぶりに浸かった。
大正ロマネスク様式を用いた昭和5(1930)年建築の湯殿だ。
アーチ形の窓と左右対称に並ぶ5つの湯舟が美しい。
「温泉は生き物。赤ん坊と同じで、手をかけて、あやして、面倒をみてやらないと、人を入れさせてくれない。人間が温泉に合わせなくてはならない」
が、黒澤さんの持論だ。
彼は異色の経歴を持つ。
24年間の県庁勤務を経て、平成9(1997)年に退職し、積善館に入った。
当時、若女将 (18代目関善平の長女) が、旅館の立て直しに苦労している姿を黙って見ていられなかったという。
「形に捕らわれない自分の自由さを生かした仕事がしたかった」
というのも旅館に入った理由だ。
黒澤さんは、四万の良さを再発見するシンポジュウムや展覧会、音楽ライブなどを催し、創業約320年の老舗に新風を吹き込み続けた。
渓谷の斜面に並ぶ3つの宿泊施設のうち、最も高台にあるのが昭和61(1986)年に建てられた 「佳松亭(かしょうてい)」。
真ん中が同11(1936)年に建てられた桃山様式の 「山荘」 で、本館の向かいの 「元禄の湯」 が入る 「前新(まえしん)」 とともに国の登録文化財である。
本館と山荘の間には細長いトンネルがある。
本館前の四万川の支流、新湯(あらゆ)川には赤い欄干の 「慶雲橋(けいうんばし)」 が架かる。
宮崎駿監督のアニメ映画 『千と千尋の神隠し』 に登場する不思議な町に入るトンネル、巨大な湯屋の前の赤い橋など、作画のヒントになったと思われる場所が随所にある。
宮崎監督も積善館に数回宿泊したという。
黒澤さんが案内役となって、宿泊客と館内をめぐる 「歴史ツアー」 「アニメツアー」 も人気だ。
「湧き出した温泉をあまりいじらず、お湯の立場になって最良の状態で湯舟に注ぎ込めるようにするのが、湯守(ゆもり)の役目だ。それができないのなら 『鳥や獣に温泉を返しなさい』 と言いたい」
久しぶりに裸の付き合いをすると、歯切れのよい言葉が次々と飛び出してきた。
熱い湯談議が楽しい。
<2012年2月1日付>