温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2021年11月21日

湯守の女房 (39) 最終回 「やるなら最初から本気でやりましょう」


 湯端温泉 「湯端の湯」 高崎市


 高崎市吉井町の牛伏山(うしぶせやま)のふもと。
 湯端(ゆばた)温泉の歴史は古く、明治時代にはすでに自然に湧き出ている鉱泉があったという。

 初代女将の桑子よねさんが高齢のため、平成18(2006)年から休業していたが、孫で3代目主人の済(とおる)さんと妻で現女将の真澄さんの2人が昨年6月、6年ぶりにリニューアルオープンした。

 真澄さんは、高崎市で飲食店アルバイトをしていた時に、結婚式場に勤めていた済さんと出会い、21歳で結婚した。
 3年間は東吾妻町の真澄さんの実家で暮らした。
 済さんは町内の温泉旅館で修業をしながら、湯端温泉再開に向け、施設設計や資金繰りなどを真澄さんと話し合ってきた。

 「知り合ったときから夫は、いつかは宿を開けたいと話していました。私も接客業は嫌いではありませんから、『やるなら最初から本気でやりましょう。もしダメだったら、その時は2人で勤めに出ればいい』 って、だいぶ背中を押しちゃいました」
 と屈託のない笑顔を見せる。


 改築した本館は玄関に 「湯端温泉」 の看板がかかる。
 木造2階建てで、1階に内風呂やカフェスペース、ウッドデッキのテラスを設置した。
 テラスからは夏、矢田川を飛び交うホタルを観賞できる。
 旧館の宿泊棟、離れの浴室もリニューアルした。

 「オープンしたら、すぐにかつての常連客や温泉ファンが全国から来てくださいました。ネットによる口コミで噂が広まったようです」
 と済さんが言えば、真澄さんは
 「近くにこれといった観光地がないので、仕事で利用する人がメインになるのかと思っていましたが、小さな子ども連れの若い夫婦が多いんですよ」
 と意外な客層に驚いている。
 女将も4歳と1歳の子育て中。

 「お風呂は貸し切りだし、うちにも小さい子どもがいるので、気をつかわなくてすむのかもしれませんね」


 塩辛い泉だったことから、地域で大切に守られてきた。
 「誰かが温泉宿をやれよ」
 と地元から声が上がり、料理人だった祖父の清さんが昭和46(1971)年に始めた。
 済さんは小さい頃から祖父に可愛がられて育ったという。

 「お前が高校を卒業するまでは頑張るから、後は頼む」
 と話していたが、済さんが高校2年の時に80歳で他界した。


 祖母のよねさんは、リニューアルオープンから4ヶ月後の昨年10月、90歳で天寿をまっとうした。
 誰よりも孫夫婦が宿を継ぐ日を楽しみにしていた。
 遠い空から清さんと一緒に、若い2人の奮闘ぶりを見守っていることだろう。


 <2013年3月27日付>


 このカテゴリーでは、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載してまいりました。。
 ご愛読いただき、ありがとうございました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:17Comments(0)湯守の女房

2021年11月15日

湯守の女房 (38) 「お湯だけは胸をはって自慢ができます」


 尻焼温泉 「関晴館」 中之条町


 尻焼(しりやき)温泉のお湯は、新潟県境に近い旧六合村 (中之条町) を流れる長笹沢川の川床から湧いている。
 川の一角を仕切り、プールのようにした野天の川風呂につかると、吹き上げる熱い湯で、お尻が焼けそうになるというのが名前の由来だという。
 昔から痔(ぢ)の治療に効果があるとされてきたが、なるほど、そんな格好になる。

 近くの花敷(はなしき)温泉が古くから開けていたのに比べ、尻焼温泉は道が険しく、周辺にたくさんのヘビが生息していて人を寄せつけなかったため、温泉宿ができるのが遅れたといわれている。


 尻焼温泉に3軒ある旅館の中で最も古い 「関晴館(せきせいかん)」 の開館は、昭和元(1926)年。
 花敷温泉に明治34(1901)年創業の 「関晴館本館」 があったので “別館” を名乗っていたが、本館が廃業したため別館の名をはずした。

 「ここは昔も今も変わりません。山深くて、まわりには何もなく、寂しくてホームシックにかかったこともありました」
 と3代目女将の関ますみさん。
 群馬県長野原町生まれ。
 6年前に他界した主人の守さんとは、昭和48(1973)年に見合い結婚。
 それまでは前橋市内の特別支援学校で寮母をしていた。

 「旅館の仕事は、毎日が同じことの繰り返し。お客さまを迎え、もてなし、見送る。まったく知らない世界だったので、仕事を覚えるのに無我夢中でした」
 と振り返る。
 折しも高度経済成長の波に乗った温泉ブームで、連日連夜、満員のにぎわいだったという。


 草花を愛し、ドライフラワー作りで寂しさを紛らわしてきた。
 ホオズキ、ツルウメモドキ、ベニバナ……。
 ロビーには、地元で採れたさまざまな草花が飾られている。

 その中に、「日本秘湯を守る会」 と書かれた大きな提灯が目を引く。
 同会設立の昭和50(1975)年からの会員宿である。
 高度成長期、バブル経済の温泉ブームが去った後、同館を支えているのは、真の温泉ファンという。

 「秘湯好きの人たちは、景気不景気に関係なく来ていただけますからね」


 内風呂と長笹沢川に臨む露天風呂からは、惜しみなくザーザーと滝のように湯があふれ流れている。
 真冬のこの時季に加温をせずに、かけ流せるのは、源泉の温度が高く、湯量が豊富な証拠である。

 「建物は古いし、サービスも行き届かない面もあります。でも、お湯だけは胸をはって自慢ができます」

 女将の言うとおり、この湯と風光明媚な景色があれば、ほかに何もいらない。
 そう思えてくる秘湯の宿である。


 <2013年2月27日付>

 ※「関晴館」 は廃業しました。現在は経営者が変わり、旅館名も変わっています。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:25Comments(0)湯守の女房

2021年11月09日

湯守の女房 (37) 「この “家” には思い出がいっぱいで、気がついたら離れられなくなっていたんです」


 うのせ温泉 「旅館 みやま」 みなかみ町


 うのせ温泉は、水上温泉のすぐ上流にある。
 みなかみ町内の18温泉地の一つだ。

 戦前は 「鵜の瀬の湯」 と呼ばれていた。
 かつて、カワウが飛来していたからとの説もあるが、バス停の表記は 「宇野瀬」 だ。
 温度の低い温泉が湧いたため、地元では 「ぬる湯」 とも言われ、古くから湯治客が訪れていた。
 戦後、スキーブームになると近くの大穴スキー場にあやかり 「大穴温泉」 と名乗ったことも。


 「旅館みやま」 の館内を見渡すと、黒光りする太い梁(はり)や柱、時を刻んだ調度品が、歴史の証人のように、じっとたたずんでいた。

 女将の松本勝江さんは、
 「昔から掃除だけは、徹底してやっているんです。古くてボロでも、きれいにしてあれば、お客さんは喜んでくれますから。毎日毎日、『ありがとう』 って感謝を込めて磨いているので、愛着も湧く。この “家” には思い出がいっぱいで、気がついたら離れられなくなっていたんですよ」
 と笑顔で話す。


 建物のルーツは、沼田城下の庄屋さんのお屋敷である。
 大正期には 「鳴滝」 という旅館にしていたらしい。

 歌人の若山牧水は、大正11(1922)年の上州への旅を著書の 『みなかみ紀行』 にまとめている。
 その中の10月21日の項で、牧水が朝、四万温泉を出発し、夜は沼田の 「鳴滝」 という宿屋に泊まったと記している。

 沼田の 「鳴滝」 は、その後、廃業したが、昭和初期に元水上町長の高橋三郎氏が建物を購入して、みなかみ町大穴に移築し、旅館 「鳴滝」 として営業を再開した。


 女将は、生まれも育ちも、みなかみ町大穴。
 「父と高橋さんが知り合いだったこともあり、子どもの頃から、よく 『鳴滝』 に遊びに行きました」
 と話す。
 朝、旅館で温泉に入ってから登校したこともあったという。

 定時制高校に進学し、昼は 「鳴滝」 で働き、夜、勉強した。
 卒業したら東京で美容師になろうと思っていた。
 しかし、親に反対されたため、そのまま旅館に勤めた。


 昭和41(1966)年、経営主体が農協になり、農協の研修施設 「みやま荘」 となった。
 同57(1982)年に現オーナーに替わって、また旅館に戻り、松本さんは女将になった。
 高校時代から勤めて50余年。
 経営者は3回替わったが、松本さんが旅館を離れることはなっかった。

 「この “家” に執着があるんでしょうね。だって、物心がついた時から見てきたし、自宅よりも家族よりも長い時間、ここにいるんですから」
 そう言って、目を細めた。


 <2013年2月13日付>

  


Posted by 小暮 淳 at 12:42Comments(0)湯守の女房

2021年10月27日

湯守の女房 (36) 「群馬県人より群馬県人ぽいって言われるんです」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。
 その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 温川温泉 「白雲荘」 東吾妻町


 高崎市から草津街道 (国道406号) を北上する。
 東吾妻町に入り国定忠治の処刑場跡を過ぎ、忠治が捕まった大戸関所跡前の交差点を左折して須賀尾峠方面へ向かうと、左手に 「浅間隠(あさまかくし)温泉郷」 と書かれた標識が見える。

 標識前の分岐を左に行くと、薬師温泉と鳩ノ湯温泉。
 右に進むと温川(ぬるがわ)温泉。
 浅間隠温泉郷とは、この3つの温泉地の総称である。

 すべての温泉地が源泉一軒宿。
 中でも最も小さい宿が、温川温泉の 「白雲荘」だ。


 温川温泉は江戸時代中期に発見された。
 当時、囲炉裏や炊事の煙に悩まされていた村の女性たちが、この湯で目を洗ったことから 「目の湯」 と呼ばれるようになった。
 確かに源泉には、目薬の成分として知られるホウ酸カルシウムが多く含まれている。

 「最近も源泉を持ち帰って目を洗ったら、目が良くなったとお礼の手紙が来ました」
 と女将の葉木愛子さんは話す。


 盛岡市生まれ。
 30年前、盛岡の温泉宿で仲居をしていた時、群馬から来ていた客に誘われて、伊香保温泉で働くようになった。
 その後は、薬師温泉に移り、当時の白雲荘の支配人から誘われ、平成10(1998)年に女将として白雲荘に入った。

 「群馬の人は言葉がきつい感じなので、最初はやって行けるか心配でした。でも、みな腹の中は悪くない。慣れてくると面倒見がいい人が多いんですよね」
 と笑う。


 温川温泉の源泉は、明治22(1889)年に浅間隠山の大洪水で一度水没したが、昭和38(1963)年に掘削され、よみがえった。

 「ここは昔ながらの湯治宿ですから、連泊される方が、ほとんどです。お客さまの健康を考え、料理もすべて地場産品を使い、手作りしています」

 県内の温泉地は、どこも県外客で占められているのに対して、温川温泉を訪れる客は8割が県内からのリピーター。
 それも、ほとんどが湯治目的の連泊者だ。
 5人以上のグループなら、マイクロバスで県内どこでも送迎する。


 露天風呂へは、宿から歩いて2~3分。
 温川沿いの敷地に湯小屋が立っている。
 湯小屋の隣には、簡単な食事ができる休憩所もある。
 ここを預かっている唐沢貴子さんは、白雲荘のオーナーの長女。
 白雲荘を建てたのは、祖父にあたる。


 湯はぬるめで、肌にやさしく長湯ができる。
 入浴中に、体に小さな泡の粒が付くのが特徴だ。

 「今では群馬県人より群馬県人ぽいって言われるんですよ」
 と底抜けに明るい女将の笑顔を、湯舟の中で思い出した。


 <2013年1月30日付>
 ※「白雲荘」 は廃業しました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:17Comments(2)湯守の女房

2021年10月22日

湯守の女房 (35) 「小さくても都会ではかなわない夢が見られる場所」


 四万温泉 「なかざわ旅館」 中之条町


 四万(しま)温泉は、エメラルドグリーンの水面をたたえる四万川沿いに宿が連なる。
 5地区に分かれ、温泉街のある中心地が新湯(あらゆ)地区。
 みやげ物屋や飲食店、カフェが並ぶ目抜き通りを見下ろす高台に、わずか7部屋の 「平成の旅籠(はたご) なかざわ旅館」 が立つ。

 「これからは小さくてもプライバシーが保て、人とのぬくもりも感じられる宿が求められるはずです」
 と2代目女将の中沢まち子さん。
 高度成長期やバブル経済期は大きな旅館やホテルが人気で、小さな宿はどこもコンプレックスがあったという。


 平成7(1995)年、全面改装を機に、宿名に “平成の旅籠” を冠した。
 「温故知新といいます。昔と今の良い所を併せ持った宿でありたいと名付けました」
 と話す。

 昭和48(1973)年、東武バスの運転手だった父の孫市さんと看護師をしていた母の千世子さんが、四万温泉の老舗旅館 「積善館」 の当時の女将から勧められ、自宅を改築して 「民宿なかざわ」 を始めた。


 女将は2人姉妹の長女。
 「私も妹も小さい頃から家業を手伝っていました。大人になったら、私が宿を継ぐものだと思っていました」

 経営がわかる女将になろうと、短大の経営学科に進んだ。
 帰郷後は経理を実地で学ぶため、中之条町の税理士事務に就職した。
 
 昭和59(1984)年、学生時代から交際を続けていた東吾妻町出身の浩さんと結婚。
 出産を機に退職し、実家の宿を継いだ。


 四万温泉の魅力について、こう話す。
 「奥深い山に囲まれた小さな世界だからこそ、お客さま一人ひとりの個性を受け止め、その可能性を引き出してくれる。小さくても都会ではかなわない夢が見られる場所。それが四万です」

 商店主や旅館の女将ら約20人でつくる四万温泉協会の 「地域づくり委員会」 の委員長を務める。
 名勝 「摩耶の滝」 の散策路の清掃活動や空き店舗の活用、温泉街活性化のための飲食店スタンプラリー 「和洋スイーツめぐり」、四万温泉のテレビや映画のロケ地などを案内する 「四万温泉ガイド」 などを企画してきた。


 短大時代に経営学の講義で学んだ言葉 『弱点は戦略になる』 をいつも思い出す。
 「山奥の温泉地、わずか7部屋の小さな旅館。でも、それがうちの最大の魅力だと思います」
 そう言って陽気に笑う女将は、生粋の “四万っ子” だ。


 <2012年11月28日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 10:16Comments(0)湯守の女房

2021年10月14日

湯守の女房 (34) 「お客さまは笑顔で接しない限り、笑顔を返してはくれません」


 湯宿温泉 「太陽館」 みなかみ町


 かつて三国街道の宿場町だった湯宿(ゆじゅく)温泉は、旅人や湯治客で大変にぎわっていたという。
 戦前までは20軒近くの宿があったが、現在は6軒(※)の旅館が共同で源泉を守りながら商いを続けている。

 昔から湯量が豊富なことで知られ、旅人たちの疲れた体を “春の日だまりの太陽” のように芯から温めたことから 「太陽館」 と呼ばれたという。
 筋肉痛や疲労回復に効果があるとされ、アスリートからも愛されてきた。


 太陽館には、マラソンの瀬古利彦氏が早大競走部時代の昭和52(1977)年から毎年、合宿に訪れた。
 「中村清監督 (故人) は 『将来、彼は日本を代表する選手になる』 と言っていましたが、そのとおりになりましたよね」
 と4代目女将の林せつ子さん。
 宿には、瀬古氏から贈られた思い出の品が残っている。
 なかでもロス五輪 (1984) への出場時、現地での練習で履いたというシューズは、宝物として大切にしている。


 旅館の創業は明治初期。
 初代が 「すみよしや」 という屋号で開業した。
 「太陽館」 を名乗るようになったのは祖父の代から。
 4代目主人の賢一さん (故人) が、兵庫県篠山市出身のせつ子さんと結婚したのは、昭和44(1969)年のこと。
 「姉が川場村 (群馬県) の酒蔵当主と結婚したので、酒造りの手伝いに来ているときに知り合ったのよ」
 と、馴れ初めを語ってくれた。

 一方、若女将の翠(みどり)さんは、千葉県安浦市出身。
 短大時代にアルバイトをした浦安市内の料理屋で、板場の修業をしていた5代目主人の正史(まさふみ)さんと出会った。
 その後、翠さんは都内で就職。
 郷里に戻って旅館を継いだ正史さんと、5年間の交際を経て平成17(2005)年に結婚した。

 「それまで群馬県へは一度も来たことがありませんでした。聞いたことがある温泉地は、草津と伊香保だけ」
 と笑う。
 「接客が好きだから、旅館の仕事は大変だけど苦ではありません」
 と、6歳を筆頭に3人の子育てをしながら旅館業を手伝っている。


 「私たちは、お客さまの笑顔が何よりの喜びです。でも、お客さまは私たちが笑顔で接しない限り、笑顔を返してはくれません。その点、若女将はお客さまに大変人気があるんですよ」
 せつ子さんが、そう言うと、
 「いえ、私なんて、まだまだ。常連さんは、みなさん女将に会いに来られますから。でも最近、私に会いに来てくれるお客さんができたんですよ。やっぱり千葉県の人でした」

 照れながら見せた若女将の笑顔が、とても印象的だった。


 <2012年11月14日付>

 ※現在は5軒になりました。
  


Posted by 小暮 淳 at 10:55Comments(0)湯守の女房

2021年10月07日

湯守の女房 (33) 「人生はなるようになる。流れに任せるのが信条なの」


 湯ノ小屋温泉 「清流の宿 たむら」 みなかみ町


 水上温泉から利根川の源流沿いを車でさかのぼること約30分。
 湯ノ小屋温泉は、新潟、福島両県境に近い、群馬県最北端の温泉地である。

 一帯の藤原湖周辺は、万葉集に 「葉留日野(はるひの)の里」 と詠まれた奥深い山里で、奥州藤原氏の落人伝説が残る。
 「湯ノ小屋」 の名は、その昔、付近に罪人を山流しにした際、番人が小屋を建てて住んだので付いたとも言われている。


 「私は南国育ちですから、最初は、あまりの雪深さに驚きました」
 と女将の田村妙恵さんは、湯ノ小屋温泉の初印象を振り返る。

 鹿児島県・奄美大島の生まれ。
 中学まで島で過ごし、高校から鹿児島市に移り住んだ。
 市内の農協に就職し、その農協に勤務していたみなかみ町出身の主人の今朝雄さんと出会った。
 8年間の交際を経て、昭和59(1984)年に結婚。
 主人の郷里に近い前橋市内の企業に別々に再就職して、新居を構えた。


 6年後、湯ノ小屋温泉で民宿を営んでいた今朝雄さんの姪が結婚することになり、夫婦で民宿を継ぐことになった。

 「私はずっと事務職でしたから、接客も料理も大の苦手でした。ですから、ずぶの素人が民宿を引き継いでしまったんですよ」
 と笑う。
 しかし、負けず嫌いで向上心旺盛な性格。
 「引き継いだからには、途中で投げ出したくはない」 と、料理の勉強を始めた。

 折しも時代は、ネット社会へと向かっていた。
 すぐにパソコンを購入して、独学でホームページを立ち上げた。
 当時はまだ、独自のホームページを持っている宿は珍しく、みなかみ地域の民宿やペンションの組合からも講習会の講師を頼まれるようになった。


 「私が鹿児島出身ということをホームページで知った首都圏在住の鹿児島県人の方々も、訪ねてきてくれました」

 宿の名物は、女将手作りの 「薩摩鶏のたたき」。
 鹿児島の実家から特別のルートで取り寄せたさまざまな芋焼酎が飲めるのも魅力だ。


 「私は根っからの楽天家。人生はなるようになる。流れに任せるのが信条なの」
 そう言って、快活に笑ってみせた。
 何よりも南国の太陽のようなカラッとした女将の明るさが、一番の名物である。


 <2012年10月31日付> 
  


Posted by 小暮 淳 at 09:50Comments(0)湯守の女房

2021年09月30日

湯守の女房 (32) 「女将とは、着物の半襟のようなもの」


 伊香保温泉 「和心の宿 オーモリ (大森)」 渋川市


 「いろはかるた」 の上毛かるたは、その一番目の札で 『伊香保温泉 日本の名湯』 とうたう。
 箱詰めした時に 「ら」 とともに一番上に出る赤札だ。

 敗戦で荒廃した日本が元気を取り戻す活力を群馬から発信しようと、昭和22(1947)年につくられた。
 「日本の名湯」 との表現にも、日本立て直しへの思いが込められている。


 「うちは主人で3代目になります」
 と言う女将の大森典子さんは、渋川市街地の生まれ。
 主人の隆博さんとは、親同士が知り合いだったこともあり、子どものころから家族ぐるみの付き合いをしていた。

 「主人のことは 『お兄ちゃん』 と呼んで、いつも慕っていましたから、旅館の女将になることへの不安はありませんでした」


 大正8(1919)年、隆博さんの祖父、繁さん (故人) が 「大森旅館」 として開業した。
 それ以前は、駕籠(かご)と馬により伊香保の往来交通を担い、馬の預かり所も営んでいた。
 ところが、明治43(1910)年に開通した渋川と伊香保を結ぶ 「伊香保電気軌道」 の登場で、職業替えを余儀なくされた。


 昭和62(1987)年に22歳で結婚。
 ところが、結婚式の6日後に先代女将のとし子さんが突然、59歳で他界してしまった。

 「これから色々なことを教えていただこうと思っていましたから、まさに青天の霹靂(へきれき)。天から地に落とされた気分でした」
 と当時を述懐する。
 「緊張のあまり気丈に振る舞うしかなく、鎧(よろい)を身に着けているような毎日を送っていた」
 という。
 女将業がつらくて、旅館を飛び出したこともあった。


 人生の転機は、3年後に訪れた。
 長男の出産を機に、同じ境遇で子育ての悩みを持つ伊香保温泉の若女将たちとの交流が始まった。
 旅館組合婦人部が母体となってできた 「お香女(かめ)会」 の一員として、石段でのお茶入れサービスや女将が夜の石段街を案内する 「提灯ウォーク」 などのイベントやPR活動をしてきた。

 結婚した時、ある人から 「女将とは、着物の半襟のようなもの」 と言われた。
 無いと着物として成立しないが、出過ぎると下品になる、という意味だという。

 「旅館に入って25年が経った今、まさにその通りだと思えるようになりました。そしてこれからも、そうありたいと思っています」

 今日も満面の笑みをたたえながら、日本の名湯を訪れる人たちを出迎えている。


 <2012年10月3日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:49Comments(2)湯守の女房

2021年09月24日

湯守の女房 (31) 「何度も泊まりに来てくれる方が増えました」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。


 北軽井沢温泉 「御宿 地蔵川」 (長野原町)


 生誕100年を迎える木下恵介監督による日本初の長編カラー映画 『カルメン故郷に帰る』(1951) が8月31日 (日本時間9月1日)、イタリアのベネチア国際映画祭のクラシック部門で上映された。

 高峰秀子が主役のストリッパーを演じたコメディー映画。
 そのロケ地の一つが、旧草軽電気鉄道の北軽井沢駅だった。
 新軽井沢~草津温泉間の55.5キロを結んでいたが、昭和37(1962)年に全面廃止。
 旧駅舎は、平成18年(2006)年に国の登録有形文化財になった。
 「御宿(おやど) 地蔵川」 の近くに残っている。


 木下監督ら映画のロケ隊が宿泊したのは、昭和17(1942)年に創業した前身の 「地蔵川旅館」。
 2代目当主の土屋勝英さんの母が、材木業を営んでいた夫を早く亡くし、5人の子どもを育てるために営み始めたという。
 「地蔵川」 は北軽井沢の旧地名だ。

 長野県生まれの大女将の民子さんが勝英さんと結婚したのは、草軽電鉄廃止の2年後のこと。
 それでも高度経済成長期のレジャーブームに乗り、60~80年代はマイカーで訪れる観光客でにぎわった。
 「とくに夏は、目が回るほどの忙しさでした。避暑を求める観光客をはじめ、テニスやゼミ合宿などに来る学生らでいっぱいでした」。
 宿名も 「地蔵川ホテル」 に改名した。


 転機は平成5(1993)年。
 敷地内の井戸水に析出物が見られることから 「もしかしたら温泉かもしれない」 と検査したところ、天然温泉の成分があると判明。
 許可を取って温泉のあるホテルとし、日帰り入浴客も受け入れた。


 女将の幸恵さんは岐阜県生まれ。
 3代目の基樹さんと8年前に結婚した。
 当時、別荘やキャンプ場からの日帰り入浴客が急増し、ホテルではなく、日帰り入浴施設と間違われることもあった。
 2人は 「このままだと宿泊客がお湯にゆっくり浸かれない」 と考え、5年前、和風旅館に改装し、宿名を 「御宿 地蔵川」 に変えた。

 「宿泊のお客さまのことを第一に考え、思い切って改装して良かった。何度も泊りに来てくれる方が増えましたから」
 と女将の幸恵さん。

 大女将の民子さんは、
 「夫は 『先の見えない時代で、宿の経営は大変だから自分の代で終わってもかまわない』 と話していました。それでも2人が立派に継いでくれました」
 と笑顔で返す。
 そして、
 「一度言い出したら頑固な息子ですけど、幸恵さん、どうかついて行ってあげてね」
 と付け加えた。


 <2012年9月19日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 09:59Comments(0)湯守の女房

2021年09月16日

湯守の女房 (30) 「これからは、また本来の温泉地の姿に戻るだけです」


 水上温泉 「ひがきホテル」 (みなかみ町)


 夏の水上温泉周辺は、ラフティングやキャニオニング、バンジージャンプなどのアウトドアスポーツを楽しもうと、都会から車で駆けつける若者たちでにぎわう。
 その中にあって、温泉街は昔ながらの落ち着いた湯の町風情が、あちこちに残っている。
 なんと言っても草津、伊香保、四万と並ぶ群馬の “四大温泉地” の1つなのだ。

 「ひがきホテル」 は射的、スマートボールなどの遊戯場やみやげ物屋が点在する目抜き通りの一角に建っている。

 「ホテルも私も昭和27(1952)年の生まれ。ともに還暦になります」
 と、ほほ笑む3代目女将の日垣由美さんは富山県生まれ。
 父親は旧国鉄マンだ。
 大学卒業後、郷里で英語塾を開いていた。
 26歳の春、高崎市の叔父に連れられてホテルを訪ね、3代目主人の博史さんと出会った。
 遠距離恋愛の末、1年後に結婚した。

 「私はよそから来た、まったくの素人だったので、旅館業というものが分かりませんでした。だから、すべて自分流なんです。妻として、母として、何役もこなしたい。女将も自分の顔の1つだと思っています。」

 由美さんの名刺には、ひらがなで 「おかみ」 と書いてある。
 「“女の大将” なんて、なんだか偉そうで」


 宿は、魚の行商で兵庫から群馬に来た博史さんの祖父、浅次郎さんが、世話人から水上温泉を紹介され、「ひがき旅館」 を開業したことに始まる。
 交通の便が良く、経済が右肩上がりの高度成長期、バブル経済期には企業や団体の慰安旅行客でにぎわい、温泉地は隆盛の一途をたどった。

 しかしバブル崩壊後、様相は一変した。
 水上温泉だけでなく、全国の大温泉地が今、あり方を模索している。

 「男性客中心の温泉場遊びの時代は、とうの昔に終わりました。これからは、また本来の温泉地の姿に戻るだけです。いつの時代でも変わらないもの、決して変わってはいけないことがあります。日本の料理、調度、もてなしの良さを伝えることが、旅館の役目と思っています」


 7年前、東京でサラリーマンをしていた息子の雄亮さんが会社を辞めて、ホテルに入った。
 4代目の社長となり、若女将の沙織さんとともに、次世代の水上温泉を見すえている。

 「これから、温泉地は絶対に変わります。20年後の水上温泉と息子夫婦のゆくえが楽しみですね」
 そう言って、4代目にエールを送った。


 <2012年9月5日付>

 ※ 「ひがきホテル」 は廃業しました。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:04Comments(0)湯守の女房

2021年09月08日

湯守の女房 (29) 「温泉水で顔を洗うだけ。化粧水も乳液も付けたことはありません」


 老神温泉 「牧水苑」 沼田市


 「牧水苑(ぼくすいえん)」 の名は、旅を愛し、各地で歌を残した歌人の若山牧水 (1885~1928) からとった。
 牧水の著書 『みなかみ紀行』 などによると、牧水は大正11(1922)年10月、老神(おいがみ)温泉を訪れ、1泊している。

 「この時、牧水さんを案内したのが、旅館を経営していた私の曽祖父でした」
 と、女将の桑原球(たまき)さんは話す。
 当時、3軒の宿があったが、内湯はなく、湯治客は片品川の河原の野天風呂に入ったという。

 球さんの父母は、「あわしま荘」(現・吟松亭あわしま) を創業し、次女の球さんは高校卒業後、母のもとで若女将として修業した。
 ご主人の朝吉さんは20代の頃、森林組合担当の県職員で、球さんの父が村の森林組合長をしていたため、仕事でよく 「あわしま荘」 に泊まった。
 その縁でお見合いをし、昭和50(1975)年に結婚した。
 朝吉さんは県を退職し、同57年に球さんと 「牧水苑」 を立ち上げた。


 老神温泉は 「脚気(かっけ)川場に瘡(かさ)老神」 と言われ、皮膚病に効くとされる。
 「アトピー性皮膚炎に効果があるともいわれます」
 肌の美容にもいいようで、
 「毎晩、化粧を落とした後は、温泉水で顔を洗うだけ。化粧水も乳液も付けたことはありません。私の肌が証明しています」
 と笑った。

 伝承にもお湯の効果がうたわれる。
 昔、赤城山の神 (ヘビ) と日光男体山の神 (ムカデ) が戦い、追われた赤城山の神が、体に受けた矢をこの地に突き刺すと、お湯が湧いた。
 その湯に体を浸すと傷はたちまち治り、男体山の神を日光に追い返した。
 このため、この地を 「追い神」 と呼ぶようになり、「老神」 になったといわれる。


 泉質は弱アルカリ性の単純温泉。
 女将13人でつくる 「老神温泉女将の会」 は、温泉水を配合したクレンジングウォーターやスキンローションの企画開発も手がける。
 会は平成14(2002)年に 「女将と踊る盆踊りで温泉街を盛り上げよう」 と発足した。
 「盆踊りは観光客との交流の場なんです」


 牧水苑のロビーでは牧水の掛け軸や写真、関連書籍などを展示している。
 「何年か前に、東京在住の牧水さんのお孫さんが訪ねて来られました。思いがけなく祖父の足跡をたどることができたと言って、涙をこぼされていたのが印象的でした」

 ファンならずとも、群馬を愛し、上州路を歩きつづけた歌人の足跡に触れると、改めてその偉業に魅せられる。


 <2012年7月25日付>

 ※「牧水苑」 は2020年5月に廃業しました。
   


Posted by 小暮 淳 at 13:04Comments(0)湯守の女房

2021年09月02日

湯守の女房 (28) 「よその温泉に入ると、水っぽくて物足りないと感じてしまいます」


 新鹿沢温泉 「鹿の湯 つちや」 嬬恋村


 「気が付いたら姉も妹も家を出てしまっていて、結局、私が旅館を継ぐことになっちゃいました」
 5代目女将の土屋実千子さんは、屈託のない笑顔を見せる。

 4人姉妹の三女として、新鹿沢(しんかざわ)に生まれ育った。
 主人の實さんは、長野県の生まれ。
 旧本州四国連絡橋公団や名古屋市役所の職員をしていたが、親戚の紹介で女将と知り合い、30年前に結婚して旅館に入った。


 私が女将に会うのは2年ぶりになる。
 以前にも感じたが、色白で肌に張りがあり、年齢よりも、だいぶ若々しく見える。

 「産湯から温泉につかっていますからね。やっぱり源泉がいいんですよ。よその温泉に入ると、水っぽくて物足りないと感じてしまいますもの」


 新鹿沢温泉のルーツは、鹿沢温泉にある。
 大正7(1918)年に大火が温泉街を襲い、全戸が焼失してしまった。
 多くの旅館は再建をあきらめたが、「つちや」 と他2軒が4キロ下がった現在地へ移転し、源泉を引き湯しながら新鹿沢温泉として営業を再開した。
 湯元の 「紅葉館」 だけが鹿沢温泉に残った。


 鹿沢温泉の発見には、こんな伝説がある。
 今から1300年以上も前のこと。
 白雉(はくち)元(650)年、猟師が山中で全身白色のシカと出あった。
 追いかけると突然姿が消え、熱湯が湧き出した。
 そして、湯煙の中に金色の薬師如来が現れて、
 「この地に湯を与え、多くの人々の病苦を救い、長寿に効く霊場にしたい」
 と告げたという。
 これが 「鹿の湯」 の由来となった。

 その効能は多岐にわたり、飲泉すれば胃腸病や貧血にも特効がある、といわれている。
 マグネシウムやナトリウムを多く含む炭酸水素塩温泉は、皮膚の角質 (表層) をやわらかくし、肌をスベスベにする効果があるため、「美人の湯」 とも呼ばれる。


 「冬はスキー、夏は登山。ここは昔から、鹿沢の自然が好きな人たちに愛されてきた静かな山の温泉地です。これからも庶民的な温泉旅館でありたい」


 以前、長年子どもができなかった夫婦が住み込みで働きに来たところ、すぐに子どもを授かったという。
 「だから、ここの湯は 『子宝の湯』 とも言うのよ」
 と、笑顔を見せる。
 この女将の底抜けに明るい人柄に惹かれて通って来る常連客も多い。

 2年前、長男の智さんが、調理師の修業を終えて帰ってきた。
 「あとは、若女将が来てくれるだけです」
 と、6代目湯守の女将へバトンを手渡す日を夢見る。


 <2012年7月4日付>
  


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2021年08月28日

湯守の女房 (27) 「毎日、あの山に感謝しています」


 谷川温泉 「旅館たにがわ」 みなかみ町


 「旅館業は、良いことも悪いことも、すぐにお客さまから反応が返ってくる仕事。お客さまの 『また来るよ』 の言葉に支えられて、今日までやって来ました」。
 2代目女将の久保容子さんは、そう言って、手が届きそうなほど近くに見える谷川岳を客室の窓から見つめた。

 「谷川岳あっての谷川温泉です。毎日、あの山に感謝しています」


 高崎市の旅館の三女に生まれた。
 宿主人の富雄さんとは、高校から大学まで同級生。
 学生時代に友人らと富雄さんの実家がある谷川温泉を訪れ、谷川岳の雄大な景色を見た。
 「群馬にも、こんなに素晴らしいところがあったのか」 と感動した。

 田舎暮らしにあこがれていたこともあり、卒業後の昭和44(1969)年に結婚。
 数軒の宿が並ぶ、小さな谷川温泉に来た。


 <水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった>

 国道291号から離れ、温泉街へ向かう道の途中に作家、太宰治 (1909~48) の文学碑がある。
 ここ谷川温泉を舞台にした小説 『姥捨(うばすて)』 の一節が刻まれている。
 「旅館たにがわ」 の駐車場にも、太宰の記念碑が立つ。

 昭和11(1936)年8月、太宰治は療養のため約1ヶ月間、この旅館の前身の 「川久保屋」 に滞在した。
 このとき執筆した 『創生記』 は、代表作 『人間失格』 を書くきっかけになったといわれる。
 ここでの滞在経験をもとに2年後、『姥捨』 も発表。

 川久保屋は昭和20年代に経営者が代わり、その後、取り壊され、「旅館たにがわ」 の駐車場となった。


 太宰との関係は、昭和50年代に太宰治研究家の故・長篠康一郎氏が訪ねて明らかにした。
 長篠氏は、川久保屋に太宰が滞在したことを確認し、著書に発表した。
 「長篠さんは何日か宿泊して、温泉街を歩き回って取材していました」
 と女将は振り返る。


 昔、神の化身の美しい娘が川で身を清め、裾を洗うと温泉が湧き出したという伝説から、源泉は 「御裳裾(みもすそ)の湯」 と名付けられ、薬師堂が祀られている。

 その湯は無色透明の弱アルカリ性単純温泉。
 やや熱めで、肌にやさしくまとわり付く独特な浴感がある。

 太宰は、あこがれの芥川賞の落選を、川久保屋滞在中に知った。
 さぞかし悲痛な思いで、湯に身を沈めたことだろう。


 今年も太宰治の命日である6月19日の 「桜桃忌」 には、女将や従業員ら約10人が、道端の文学碑と駐車場の記念碑に白菊を供えた。
 館内にはミニギャラリーが設けられ、長篠氏から寄贈された太宰の初版本や写真、遺品など約50点が展示されている。


 <2012年6月20日付> 
  


Posted by 小暮 淳 at 12:49Comments(0)湯守の女房

2021年08月23日

湯守の女房 (26) 「宿泊客に健康になって帰ってほしいとの願いを込めているんです」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。



 猿ヶ京温泉 「猿ヶ京ホテル」 みなかみ町


 猿ヶ京ホテルのロビーラウンジからは、ガラス窓越しにエメラルドグリーンに水面を染める赤谷湖(あかやこ)が、よく見える。
 「四季折々に色を変える山と湖。一年中、私たちを楽しませてくれ、元気をもらえます」
 と、3代目女将の持谷美奈子さん。

 秋田県小坂町生まれ。
 大学卒業後、銀行の横浜支店で同僚だった主人の明宏さんと出会った。
 平成3(1991)年の結婚を機に退職し、明宏さんの実家の猿ヶ京ホテルに入った。
 「ここは私のふるさとと自然環境が似ている。ただ一つ違うところは、温泉があることです」


 実は、湖底には猿ヶ京ホテルのルーツが眠っている。

 相俣(あいまた)ダムの建設で昭和33(1958)年、湯島、笹の湯という2つの温泉地が湖底に水没した。
 そこには4軒の老舗の湯宿があり、「旧四軒」と呼ばれた。
 高台に移転し、猿ヶ京温泉をつくった。
 猿ヶ京ホテルの前身は、旧四軒のうちの1軒、桑原館である。


 「猿ヶ京」 という地名にも、いわれがある。

 戦国武将、上杉謙信がこの地に泊まり、不思議な夢を見た。
 宴席で膳に向かうと、箸が片方しかなく、ごちそうを食べようとすると歯が8本抜け落ちた。
 家臣に告げると、「関八州 (関東一円) を片っぱし (片箸) から手に入れる夢なり」 との答え。
 謙信は喜び、「今年は庚申(かのえさる)、今日もまた庚申の日。我も申年生まれ。これより関東出陣の前祝いとして、ここを 『申ケ今日』 と名付ける」 と言ったためと伝わる。


 山あいの旧新治村 (みなかみ町) には、多くの民話が残る。
 主人の明宏さんの母で大女将の靖子さんは、お年寄りらが語り継ぐ民話に注目し、長年、その採集と記録に努めて来た。
 語り部として毎晩、宿泊客に民話を語る。
 温泉街にある 「三国路与謝野晶子紀行文学館」 「猿ヶ京関所資料館」 などの館長でもある。

 「大女将は、何でもできる人。だから分からないことがあると何でも聞いています。旅館の仕事場では厳しいですが、プライベートでは可愛い女性です」

 靖子さんは、ホテルの名物料理 「豆腐懐石」 も考案した。
 館内の豆腐工場で、職人が毎日作っている。
 「ヘルシーな料理をおいしく食べていただき、宿泊客に健康になって帰ってほしいとの願いを込めているんです」
 と、美奈子さんは言う。


 露天風呂からも、赤谷湖を一望できる。
 かつて若山牧水らの文人墨客が去来した道も、この美しい湖の底だ。
 移転した 「旧四軒」 は、現在は2軒となった。


 <2012年5月23日付>
  


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2021年08月15日

湯守の女房 (25) 「ふるさとを持たない都会の人たちが、また戻りたくなる宿づくりを心がけています」


 たんげ温泉 「美郷館」 中之条町


 四万温泉 (中之条町) へ向かう四万川沿いを走る国道353号から離れ、支流に沿った県道を行く。
 沢渡温泉の手前からエメラルド色した清流、反下(たんげ)川をさかのぼること約5キロ。
 やがて、うっ蒼とした国有林の中に、入り母屋造りの一軒宿 「美郷館(みさとかん)」 が見えてくる。

 「宿のまわりには昔ながらの自然が残されています。みなさん、この環境を気に入られて来られます」
 と、出迎えてくれた女将の高山純子さん。
 玉村町生まれで平成11(1999)年に主人の弘武さんと出会った。
 9ヶ月間の交際で結婚し、旅館に入った。


 地元で林業会社を経営している弘武さんの父の光男さんが、山村の活性化のため、昭和の時代から人知れず湧いていた温泉を引いて同3(1991)年に旅館を建てた。
 経営は人に任せていたが、同12(2000)年の改築を機に、次男の弘武さんが板前修業から戻って宿を継ぐことになった。

 「だから、どうしても私との結婚も急ぐ必要があったんですよ。『ただ笑っているだけでいいから』 『旅館は楽しいよ』 なんてうまいことを言われて、山の中までついて来ちゃいました」
 と笑う。


 それまで会社員だった純子さんにとって、旅館業はずぶの素人。
 経験豊かな仲居さんたちに教わりながら、見よう見まねでやってきた。

 3人の子どもも、子守りをしながら旅館に泊まり込んで育てた。
 当時を知るお客さんから 「あの時の赤ちゃんは、大きくなったでしょうね」 と声をかけられることも。


 何度訪ねても、ロビーの造りには息をのむ。
 ふた抱えもありそうな大黒柱や梁(はり)、垂木(たるき)が圧倒的な存在感をもって出迎えてくれるのだ。
 ケヤキに惚れ込んだ父がえりすぐった木を、木挽(こび)き職人が3年かけて手でひいた。
 その材木を宮大工がクギを使わずに組んでいる。
 改めて木目の美しさに見入ってしまった。


 「こちらがお金をいただいているのに、お客さまの方から 『ありがとう』 って言っていただいた時、ああ、このやり方で間違っていなかったんだと、うれしくなりますね。地方にふるさとを持たない都会の人たちが、また戻りたくなる宿づくりを心がけています」

 そのかいあって、宿泊客の8割はリピーターだという。
 オープン以来、日帰り入浴客を受け入れていないのも、宿泊客を大切にしするからだ。

 草津温泉、四万温泉という大温泉地の近くにありながら、自分だけのやすらぎの場を求めて小さな秘湯を訪ねる浴客の気持ちがよく分かる。


 <2012年5月9日付>
  


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2021年08月10日

湯守の女房 (24) 「歴史ある温泉と旅館を守っていかなくてはならない」


 八塩温泉 「神水館」 藤岡市


 神水館(しんすいかん)本館は、昭和6(1931)年の創業時に建てられた。
 同28年に地元産の太い木材をふんだんに使って別館を併設し、全体を桃山風建築の趣(おもむき)にした。

 本館の玄関を入ると、長い廊下沿いのガラス窓一面に、神流川(かんながわ)が悠々と横たわって見えた。
 両岸の岩盤が断崖をつくる。
 一帯は昔から変わらず四季折々の表情を見せ、宿を包み込む。
 「映し絵の宿」 と呼ばれるゆえんだ。

 すぐ川向かいは埼玉県。
 約7キロ上流には国の名勝・天然記念物の三波石峡(さんばせききょう)がある。


 「ここからの景色が気に入られて、毎月のように通われて来るお客さまもいます」
 と4代目女将の貫井美砂子さん。
 旅館の4姉妹の次女に生まれ、昭和37(1962)年に主人の秀彦さんと結婚し、女将になった。

 「私にとって旅館は家庭の延長。生まれ育った場所ですから、何も特別なことではありません」


 神流川の支流沿いに古くから8つの塩泉が湧き、「塩の湯八ツ所」 と呼ばれたため八塩(やしお)の名が付いたという。
 塩分濃度の高い鉱泉だったので、戦時中、食塩を精製したこともあった。
 なるほど、入浴すると皮膚に塩分が付き、保温効果がある。

 内風呂には、源泉を加熱した温浴用と、源泉そのままの冷浴用の2つの浴槽がある。
 交互に入浴すると、神経痛、筋肉痛などの効能を高めるとされている。
 ただし、源泉の温度は約15度と冷たく、入浴には覚悟がいる。


 若女将の恵理香さんは神流町生まれ。
 税理士事務所に勤めていて旅館に出入りし、長男の昭彦さんと知り合った。
 13年前に結婚し、主に経理を担当している。

 「私は接客が苦手なので、感情が顔に出てしまうことがあるんです。どんな時でもテキパキとこなす女将のようには、なかなかできません。日々勉強をしています」

 結婚が決まった時、「本当なの?」 って、親戚や近所の人たちに言われたという。
 「歴史ある温泉と旅館を守っていかなくてはならない。ああ、すごいところへ行くんだと、実感しました」
 そう若女将が言うと、女将がすかさず、
 「力まず自然でいいのよ。あなたにはあなたの良いところが、いっぱいあるんだから」
 と声をかけた。

 「うちは女将が顔なんです。まだまだ私の出る幕はありません」
 と、今度は若女将が言葉を継いだ。


 この風光明媚な景色は将来も変わらないだろう。
 やがて女将になった恵理香さんが、若女将と同じやりとりをしているのかも知れない。
 そう想像し、愉快な気分になった。


 <2012年4月25日付>
  


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2021年08月05日

湯守の女房 (23) 「湯がにごると、天気が崩れます」


 坂口温泉 「小三荘」 高崎市


 群馬県の山間部の温泉は泉温が高いが、平野部は温度が低い冷鉱泉が目立つ。
 ボイラーのない昔から、人々が温めてまで入浴した冷鉱泉には 「薬湯」 が少なくない。

 その一つ、坂口温泉は約300年前から湧き続けている薬湯だ。
 弱アルカリ性の食塩泉は、皮膚病に効くといわれる。
 昭和25(1950)年創業の 「小三荘(こさんそう)」 は、日帰り入浴客にも人気の湯治場だった。


 厨房を預かる女将の山崎照代さんは、いつもニコニコしている。
 甘楽町生まれで、同39年に4代目主人の孝さんと結婚し、宿に入った。
 今も宿泊客の多い日を除き、主人と長女の家族3人で切り盛りしている。

 「農閑期になると近在の農家の人たちで、いっぱいになりました。重曹を含んでいるので、『おまんじゅうを作るのに源泉を分けてほしい』 と言う人も来ました」
 と振り返る。


 お湯が自慢だ。
 「とっても不思議な湯なんです。にごる日もあれば、透明の日もある。湯がにごると、天気が崩れます」
 と教えてくれた。
 以前、雨の日に訪ねたことがあったが、確かに白濁していた。
 今回の取材の日は、快晴。
 予想通り、浴槽の湯は無色透明だった。

 はっきりしない天気だと、薄黄色の時もあれば、淡緑色の時もあった。
 ただ、トロンと肌にまとわりつく濃厚な浴感は、いつも変わらない。
 これが昔から 「たまご湯」 と呼ばれるゆえんである。


 浴槽の窓の戸外に、小さな石仏群が見える。
 地元では 「お薬師さま」 と呼ばれ、「医王仏」 との別名もある。
 頼るべき医薬のなかった時代、先人たちが病を治してもらったお礼に奉納した石仏たち。
 盗難や風化によって30体余りになってしまったという。
 平成の世になっても奉納する人がいるらしく、真新しい石仏も何体か見られる。

 「今の人は、ゆとりがないのでしょうね。かつてのように連泊する人が少なくなり、日帰り入浴客も風呂につかって、すぐに帰ってしまう人が多くなりました」
 と、ちょっと寂しそうな顔を見せた。


 温泉の入り方が変わったというが、それでもここの湯に惚れ込んでやって来る人が、今でもたくさんいる。

 浴室で常連客の男性と一緒になった。
 「子どもの頃から、よく親に連れて来られたよ。あせもなんか1、2回入れば治った。ここの湯に入ると、よその温泉は物足りなく感じるね」
 と話した。

 「旅館の仕事は長くて、大変だけど、お客さまが喜んでくだされば苦労とは思いません」
 そう言って、照代さんは笑った。


 <2012年3月28日付>

 ※「小三荘」 は現在、休業しています。
  


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2021年08月02日

湯守の女房 (22) 「お湯に惚れ込んで、毎月来られるお客さまがいます」


 やぶ塚温泉 「開祖 今井館」 (太田市)


 群馬の温泉地は北毛や西毛に多い。
 やぶ塚温泉は、東毛の数少ない温泉地である。

 天智天皇の時代に開湯されたと伝わり、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に攻め入った時、傷ついた兵士をこの湯で癒やしたことから 「新田義貞の隠し湯」 とも呼ばれる。


 今井館の創業は定かではない。
 今井館に残る天保2(1831)年の古文書に 「薬湯」 という鉱泉宿を営んでいた初代主人、弥右衛門の名前がある。
 江戸時代後期には、すでに温泉宿を営業していたらしい。
 現主人の今井和夫さんで9代目だ。

 女将の道予さんは太田市の生まれで、専門学校のとき、大学生だった和夫さんと出会い昭和46(1971)に結婚。
 当時は木造3階建ての本館と別館が並び、100人以上が泊まれる湯治場としてにぎわっていた。

 「お湯に惚れ込んで、毎月来られるお客さまがいます。また、初めて来られた県内のお客さまは 『こんな近くに、こんないい温泉があった』 と驚かれます」

 昔から 「おできは、やぶ塚へ行けば治る」 と言われた。
 皮膚病に効き目があり、湯治客らは草津や伊香保で治らなかった “できもの” を、ここの湯で治したという。
 「薬湯」 と呼ばれてきたゆえんだ。


 言い伝えでは、八王子山とよばれる丘陵地のふもとに湯権現という小さな社があり、下の岩の割れ目から、こんこんと湯が湧いていた。
 ある日、温泉に1頭の馬が飛び込み、高くいななくと、雲を呼び、雨を起こして、天高く舞い昇って行った。
 すると温泉は、たちどころに冷泉に変わったという。

 その冷泉は、今も宿の裏にある温泉神社の石段下に湧く。
 源泉名を 「巌理水(げんりすい)」 といい、村人たちが守り続けてきた。

 泉質は、美肌効果のあるメタけい酸を含むアルカリ性の炭酸泉。
 温度が低いため加温しているが、手ですくうとズッシリと重く、トロリとしたぬめりがある。

 「よその温泉へ行くと違いが分かります。ここの湯は、まろやかで、よく温まり、肌がツルツルになると宿泊客に喜んでもらっています」


 源泉を加水して薄めることになるからと露天風呂は増設せず、内風呂を大切にしている。
 滞在する宿泊客にゆっくりと温泉に入ってほしいから日帰り入浴客もとらない。
 そんな湯へのこだわりが、ファンに支持されている。

 「温泉は天与の恵み。ご先祖様に感謝し、代々受け継がれてきた大切な温泉を守り続けていきたいと思います」
 と湯守の女房の気概をのぞかす。


 <2012年3月7日付>
   


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2021年07月30日

湯守の女房 (21) 「『この、にごり湯がいい』 とやって来られます」


 このカテゴリーでは、ブログ開設11周年企画として、2011年2月~2013年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『湯守の女房』(全39話) を不定期に掲載しています。
 湯守(ゆもり)とは源泉を守る温泉宿の主人のこと。その湯守を支える女将たちの素顔を紹介します。
 ※肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。



 梨木温泉 「梨木館」 (桐生市)


 「ここは今も、私が来た頃と、まったく変わりません。周囲に民家や街灯すらない、本当に何もない山の中です」
 と、5代目女将の深澤正子さんは話す。

 梨木(なしぎ)温泉は、赤城山の一峰、長七郎山のふところにある。
 平安時代、坂上田村麻呂が赤城神社造営のおりに発見したと伝わる。
 渡良瀬川の支流、深沢川の奥深い谷間に一軒宿が建つ。


 正子さんは旧勢多郡東村 (現・みどり市) の生まれ。
 材木商の長女として育った。
 主人の亮一さんとは知人の紹介で出会い、昭和45(1970)年に結婚。
 同時に旅館に入った。
 亮一さんは平成18(2006)年、先代の死去にともない、当主が代々名乗る 「直十郎(なおじゅうろう)」 を襲名した。

 「結婚をするなら商売をしている人と決めていました。人と接して話をするのが大好きでしたから、学生時代も親戚の食堂でアルバイトをしていました」


 宿の創業は明治15(1882)年。
 それ以前は野天の湯屋があり、地元の人たちが入りに来る程度だった。
 大正時代になり旧国鉄足尾線 (現・わたらせ渓谷鐵道) が開通すると、湯治場としてにぎわった。

 しかし戦後、台風による水害で旅館に通じる県道が流され、昭和40(1965)年には火災で旅館が全焼。
 それでも東上州では数少ない温泉が湧いているため宿が再建された。


 鉄分を大量に含む黄褐色のにごり湯。
 成分が濃いために、析出物が堆積して浴槽の縁が変形してしまうほどだ。

 「『にごり湯は汚い』 と嫌われた時代があり、よっぽど湯をろ過して使おうと考えたこともありましたが、今となれば守り通して良かったと思っています。最近は、お客さまのほうが 『この、にごり湯がいい』 とやって来られます」


 名物は同54(1979)年に主人が考案した 「キジ料理」。
 刺し身、しゃぶしゃぶ、唐揚げ、つみれ鍋など、直営の養殖園で飼育されたキジを使った珍しい料理が、夕げの食卓に並ぶ。

 露天風呂付きの客室やビールサーバー、コーヒーメーカーの設置など、新たな温泉宿を演出するのは、長男で6代目の幸司さん。
 ホテル専門学校卒業後、石川県七尾市の和倉温泉の老舗旅館 「加賀屋」 で2年間、旅館経営の実務を学んだ。


 「従業員に恵まれ、子どもに恵まれ、女将業を続けていられるのも温泉があればこそ。他には何もない所ですが、そのぶん日常から離れて、ゆっくり過ごせる所なんです」

 そう言って女将は、赤城山の雪が風花となって舞う戸外を眺めた。


 <2012年2月22日付>
  


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2021年07月23日

湯守の女房 (20) 「炭火は人の心を癒やす力があります」


 上牧温泉 「辰巳館」 (みなかみ町)


 山あいの利根川沿いに建つ 「辰巳館(たつみかん)」 は、上牧(かみもく)温泉で最も古い老舗旅館だ。
 近くに水上温泉郷という大観光地をひかえながらも、ここは俗化されずに今も静かな湯治場風情を保っている。

 大正13(1924)年、田んぼに稲が枯れる場所があり、不思議に思った初代が原因を探ろうと掘ったところ、温泉が湧き出たという。
 当初は無料で村人に温泉を開放していたが、昭和2(1927)年に旅館を開業した。


 4代目女将の深津香代子さんは辰年生まれ。
 伊勢崎市生まれで、東京の大学生時代に群馬出身者の集まりで知り合った主人の卓也さんと24歳で結婚した。
 総合商社に就職した卓也さんと2年間、東京で暮らした。
 いずれ旅館に入ることは覚悟していたという。

 「旅館に入って20年になりますが、今でも宴会時のあいさつは、緊張して声がふるえてしまいます。最初は着物を自分では着れなかったものですから、一からすべて大女将に教わりながら今日まで何とかやってきました」


 10年ほど前、卓也さんと香代子さんは、辰巳館が目指す “三温(さんおん)” という言葉をつくった。
 <体を癒やす温泉の温もり>
 <心が和む人との温もり>
 <旬を食す炭火の温もり>

 炭火の温もりとは、宿の名物 「献残焼(けんさんやき)」 のこと。
 川魚や地鶏、旬の野菜などを炭火で焼きながら食べる上越地方の郷土料理で、その昔、高貴な人に献上した物のおすそ分けを焼いて食べたことから名が付いた。
 昭和40年代に先代が今の料理にアレンジした。

 「炭火は人の心を癒やす力がありますね。みなさん、ふるさとに帰ったようだと言ってくださいます」


 炭火で食に満たされ、心が和み、温泉が体を温めてくれる。
 泉質は、ナトリウムとカルシウムを含む硫酸塩・塩化物温泉。
 昔から 「化粧の湯」 と呼ばれている名湯である。

 “裸の大将” で知られる山下清画伯も、上牧の湯を愛した一人だ。
 昭和30年代に幾度となく訪れて、何点もの絵を描いている。
 なかでも 『大峰沼と谷川岳』 は、原画をもとに大浴場のタイル壁画になった。

 署名部分は清自身がタイルを貼った。
 絵の右端に、後ろ姿の清本人も描かれている。
 やさしい化粧の湯に抱かれながら、裸の大将を探すのも癒しのひと時である。


 「一度は行ってみたいという高級旅館ではなく、何度も普段着で行ける宿でありたい」
 女将の言葉が、いつもでも心に残っていた。


 <2012年1月18日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 12:20Comments(0)湯守の女房