2021年11月09日
湯守の女房 (37) 「この “家” には思い出がいっぱいで、気がついたら離れられなくなっていたんです」
うのせ温泉 「旅館 みやま」 みなかみ町
うのせ温泉は、水上温泉のすぐ上流にある。
みなかみ町内の18温泉地の一つだ。
戦前は 「鵜の瀬の湯」 と呼ばれていた。
かつて、カワウが飛来していたからとの説もあるが、バス停の表記は 「宇野瀬」 だ。
温度の低い温泉が湧いたため、地元では 「ぬる湯」 とも言われ、古くから湯治客が訪れていた。
戦後、スキーブームになると近くの大穴スキー場にあやかり 「大穴温泉」 と名乗ったことも。
「旅館みやま」 の館内を見渡すと、黒光りする太い梁(はり)や柱、時を刻んだ調度品が、歴史の証人のように、じっとたたずんでいた。
女将の松本勝江さんは、
「昔から掃除だけは、徹底してやっているんです。古くてボロでも、きれいにしてあれば、お客さんは喜んでくれますから。毎日毎日、『ありがとう』 って感謝を込めて磨いているので、愛着も湧く。この “家” には思い出がいっぱいで、気がついたら離れられなくなっていたんですよ」
と笑顔で話す。
建物のルーツは、沼田城下の庄屋さんのお屋敷である。
大正期には 「鳴滝」 という旅館にしていたらしい。
歌人の若山牧水は、大正11(1922)年の上州への旅を著書の 『みなかみ紀行』 にまとめている。
その中の10月21日の項で、牧水が朝、四万温泉を出発し、夜は沼田の 「鳴滝」 という宿屋に泊まったと記している。
沼田の 「鳴滝」 は、その後、廃業したが、昭和初期に元水上町長の高橋三郎氏が建物を購入して、みなかみ町大穴に移築し、旅館 「鳴滝」 として営業を再開した。
女将は、生まれも育ちも、みなかみ町大穴。
「父と高橋さんが知り合いだったこともあり、子どもの頃から、よく 『鳴滝』 に遊びに行きました」
と話す。
朝、旅館で温泉に入ってから登校したこともあったという。
定時制高校に進学し、昼は 「鳴滝」 で働き、夜、勉強した。
卒業したら東京で美容師になろうと思っていた。
しかし、親に反対されたため、そのまま旅館に勤めた。
昭和41(1966)年、経営主体が農協になり、農協の研修施設 「みやま荘」 となった。
同57(1982)年に現オーナーに替わって、また旅館に戻り、松本さんは女将になった。
高校時代から勤めて50余年。
経営者は3回替わったが、松本さんが旅館を離れることはなっかった。
「この “家” に執着があるんでしょうね。だって、物心がついた時から見てきたし、自宅よりも家族よりも長い時間、ここにいるんですから」
そう言って、目を細めた。
<2013年2月13日付>
Posted by 小暮 淳 at 12:42│Comments(0)
│湯守の女房