2012年01月31日
情熱はお好きでしょ?
ずいぶんと昔の話です。
20代の頃ですから、20年以上も前のこと。
飲み屋のカウンターで、地元の芸術家や編集関係の人たちと飲んでいました。
突然、ママが 「人生で一番大切なものって、なんだと思う?」 と、哲学的な質問を客らにふってきたのです。
まあ、みなさん酔っ払いですし、真面目に答えようともしませんでした。
「金だろ」「感性かな」 などなど、その場の勢いで返していました。
「小暮クンは、何?」
と、ママは最後に、ひと回り以上年下の僕にも問い詰めます。
そのとき、店の中では、僕が一番年下だったのです。
「おお、聞いてみたいね。若い小暮クンの一番大切なものをさ!」
とカウンターの奥から、人生の先輩たちのヤジが飛んできます。
「そうよ、言っちゃいなさいよ。 『彼女です』、とか(笑)」
僕は、そのころ凄くトガッテいたんですね。
大人たちが大嫌いでした。
ピュアだったんだと思います。
「えっ? オレの大切なものですか?」
「そーよ、言っちゃいなさいよ」
「そーだ、早く言っちゃえよ!」
と、なんだか場の雰囲気は、僕の返事待ちの状態になっていました。
で、言ったんですよ。たったひと言・・・
「情熱ですよ」
・・・・・・・・
…………
いきなり店内から会話が消えてしまいました。
シ~~~ン
しばらくすると、目を赤くしたママが、
「なんだか分からないけどさ、感動しちゃった」
と言うと、他の客も、
「ああ、言われてみれば、その通りだよ」
と、しみじみとグラスを口に運びながら言うのでした。
あれから30年近く経った今も、実は僕の “一番大切なもの” は、変わっていません。
いえいえ、何も知らないで言っていた20代の頃よりも、今のほうが心の底から、そう言えます。
生きるということは、情熱そのものだし、
仕事だって、情熱を持てない仕事ほど苦痛なものはありません。
ジョン・レノンの言葉でしたっけね。
「この世で一番不幸な人は、自分の仕事を好きになれない人だ」
とは。
だから僕は、情熱のない人とは、仕事をしません。
技術や才能は、二の次です。
まず、その人に “熱い心” が、あるか、ないかが、仕事を組む条件です。
たとえば、僕が企画を出します。
「いいですねぇ、それ、ぜひやりましょう!」
とりあえず、みんな、そう言います。
でも、違いは、その後です。
情熱のある人は、知恵をしぼって、必ずその企画を通してきます。
たとえ1回では通らなかったとしても、
「小暮さん、知恵をかしてください。どうしても、その企画やりたいんですよ」
と決してあきらめません。
ところが、情熱のない人は、たった1回の壁であきらめてしまいます。
「上司がバカですから」 とか、「うちの社長はワンマンですから」 とか、
他人のせいにしてしまうんですね。
でも、どうでしょうか?
バカな上司もワンマンな社長も、“情熱” を感じたなら、動かされるはずです。
だって、本気で仕事をしている人たちは、みんな情熱が大好きなのですから!
若い頃に、酔った勢いで言った言葉ですが、
今では、すっかり僕の原動力になっています。
みなさんも、情熱はお好きでしょ?
2012年01月30日
ふたたび 「下仁田ねぎ」 を追って
「下仁田ねぎのナゾ」(1月20日の当ブログ参照) は、深まるばかりです。
『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』(群馬県発行) には、上毛かるたの絵札に下仁田ねぎが描かれていない理由として、以下のように記載されています。
<「上毛かるた」が作られた当時は、店で見かけることもできなかったので、絵札にはイメージした形で描かれています>
本当でしょうか?
いくら当時、市場に出回っていなかったといえ、作画を担当した画家は、実物を見ずして本当に “イメージだけ” で描いたのでしょうか?
仮に、初版(昭和22年)の絵札は、そうだったとしましょう。
しかし、昭和43年に絵札は、画家の要望により、全札が描きかえられています。
「ね」 の絵札も新しくなりましたが、依然として描かれているネギは、下仁田ねぎではありません。
この間(21年間) に、「絵札が違う!」 との声は上がらなかったのでしょうか?
前回までの取材で、上毛かるた競技会委員や下仁田町の生産農家、下仁田町役場の人たちからの声を拾ってきました。
中には、「知らなかった」「初めて聞いた」 という人もいましたが、下仁田町の人たちは、ほとんどが 「カルタの札の絵が違うことは知っていた」 と言います。
では、なぜ、その声は届かなかったのでしょうか?
初版当時は、GHQ(連合国軍総司令部) の支配下という時代で、厳しい検閲を受けたといいます。
なにか、下仁田ねぎの形状に問題があったのでしょうか?
または、特定の団体や組織から、下仁田ねぎの絵を公表することに対して、多大なる圧力がかけられたのでしょうか?
謎は謎を呼び、そのナゾは深まるばかりです。
きっと、これには下仁田ねぎの歴史が関係しているはずだ!
これはライターの勘であります。
徹底的に、調べるしかありません。
今日、僕は、ふたたび下仁田町へ行ってきました。
訪ねたのは、『下仁田ネギ -ネギの来歴を追って-』 の著者である里見哲夫先生です。
ご自宅にお邪魔して、膨大な資料と共にお話を聞いてきました。
まず、ネギは 「葉ネギ」 と 「根深ネギ」 に大別されること。
白根はあまり伸びず葉のやわらかな葉ネギは西日本で多く栽培され、白根が長くなる根深ネギは東日本に多いこと。
そして、下仁田ねぎは、根深系ネギの一変種であることがわかりました。
下仁田ねぎに関する最も古い文書は、江戸時代の文化2(1805)年に、江戸幕府城内から地元名主へ送られた「葱200本至急送れ」という手紙です。
その後、天保3~4(1832~1833)年の「高崎藩御書留」 には、高崎藩の殿様が諸国大名へ年末年始の贈答品として送ったことが書かれています。
明治16(1883)年の小学教科書「群馬県地誌略巻之上」にも、「下仁田町ノ葱ハ最モ著名ナルモノニシテ」 の記述があります。
以上のように、一般に流通されていなかったとはいえ、当然、「上毛かるた」 が作られた昭和20年代、そして絵札が改定された昭和40年代には、すでに下仁田町および近隣では、名産として認知されていたことが分かります。
では、なぜ、下仁田ねぎは、カルタには描かれなかったのでしょうか?
里見先生は僕に、1つ手がかりをくださいました。
それは、「下仁田葱発祥の地」 があること。
そして、その碑が立っている場所は、現在の下仁田ねぎの生産拠点である馬山地区ではないこと。
そこへ行けば、何かが分かるかもしれない・・・
僕は、その足で、先生に教えていただいた下仁田町内のS地区を訪ねました。
そこは、下仁田町でも長野県境に近い、山間の集落でした。
山肌に石垣が積まれた段々畑が連なる山村です。
で、あったんですよ!
こんな山の中に!
「下仁田葱発祥の地」 の立て札がーーーーぁ ! ! ! !
さっそく僕は、看板の立つ畑の地主を探して訪ねました。
すると、そこの主人が見せてくれましたよ。
先祖代々、作り続けている “下仁田ねぎ” というヤツを!
怖気立つとは、このことです。
全身に鳥肌が走りました。
そのネギは、長ネギでも、僕らが知っているずんぐりとした下仁田ネギでもなかったのです!
いよいよ、真実にたどり着いたようです。
2012年01月28日
雑誌の同窓会
イタッ、イタタター……
朝方、何度もベッドの中から出ようとしたのですが、ダメです。
腰と背中、肩が痛くて、起き上がれません。
うん? 昨日は何があったんだっけ?
おぼろげな頭で、思考回路をめぐらします。
あ、そーだ。飲み会だ。それも若い連中と・・・
でも二日酔いはしていない。
頭はハッキリしている。
でも、体がいうことをききません。
と、いうことで、僕がベッドから抜け出せたのは、今日の昼のことでした。
おかげさまで、充分に睡眠をとったため、さわやかな1日の始まりとなりました。
(でも、午後からですが……)
昨晩は、昔、僕が編集人をやっていた雑誌の同窓会でした。
2001年の創刊から3年間だけたずさわった 「D」 という生活情報誌です。
スタッフのことを考えると、まだまだ続けていたかったのですが、生来の短気野郎ですから、上の者のやり方が 「気に入らない!」 と思えば、サッサと辞めます。
それでも、その後も元スタッフとは交流があり、こうやって昨晩も僕を飲み会に呼んでくれました。
呼んでくれたのは、創刊当時のスタッフ4人です。
E嬢が幹事となり、O君、S君、M君を集めてくれました。
今でも彼らは、僕のことを 「編集長」 と呼んでくれます。
辞めてから8年も経つというのにね。
あの頃、20代と30代前半だった彼らも、30代と40代です。
E嬢は、結婚して1児の母に。
O君とS君も父親になっていました。
一番、心配していたのはM君です。
僕が雑誌を去った後、彼は当時のスタッフと結婚。
しばらくして退社。別の会社に営業マンとして就職しましたが、昨年、風の便りにまた、その会社も辞めてしまったと聞いていました。
会場に僕が着くと、M君が一番乗りしています。
「おいおい、一番乗りとは、まだ就職してないな?」
「ええ、毎日が日曜日ですから。ヒマしています」
と、元気な様子。
良かったぁ~。
仕事がなくても元気が一番!
おまけに、失業中に奥さんが妊娠したとの朗報まで届けてくれました。
それも、双子!
これは、めでたい!
M君の奥さんも、元僕のスタッフですから、よろこびも、ひとしおです。
「カンパ~イ!」
当然、話は僕が在籍していた3年間のエピソードです。
そして、極めつけは、僕の辞任が決まってから出かけた “卒業旅行” で盛り上がりました。
(卒業したのは僕だけなんですけどね)
取材という名目で、O君とM君と連れ立って、新潟県柏崎市へ1泊2日の旅行へ行ってきました。
柏崎市には、僕の知人がいたということもあり、その人に宿の手配から周辺の観光案内をしてもらいました。
「編集長、あの晩のホテルでのバカ話を覚えていますか?」
とO君。
「えっ、何話したっけ?」 と僕。
「水芸ですよ、水芸!」
すかさずM君が、つっこんできた。
「水芸?・・・」
しばし間が空いた後、3人同時の爆笑の嵐、嵐、嵐!!!
「えっ、水芸って何ですか?」
とは、話を聞いていたE嬢です。
そりぁあ、無理です。
女子には口が裂けても、話せませんって!
男っていうのば、本当にバカな動物ですね。
高校生の修学旅行じゃないんだからさ、O君もM君もそんな話を覚えているんじゃないよ!
「いゃ~、あの時、僕はつくづく編集長は、ド変態だと思いましたよ」
と言ったO君の言葉に、またまた大爆笑してしまったのでした。
で、今朝の腰、背中、肩の痛みの原因が分かりましたよ。
その後、カラオケに行って騒いで踊ったとかではないんです。
ただ、単に、笑い過ぎです。
笑って、笑って、腹がよじれるほど笑い転げたら、腰も背中も肩も、みーんな筋肉痛になってしまったようです。
でも、みんな、ありがとうなッ!
編集長やってて、良かったと思うよ。
いや、こうやって、今でも僕のことを忘れずに呼び出してくれるなんて、本当、編集長冥利に尽きるというものだ。
また、みんなと雑誌が作れるといいけどね。
どーかな、それは無理かなぁ・・・
でも、君らは、僕の愛すべきスタッフであることには違いありません。
また、呼んでくれ。
そして、バカ笑いしようじゃないか!
2012年01月27日
自然湧出の温泉が消える?!
今年も群馬県温泉協会から、協会誌が届きました。
毎年、この時期に新年号が届きます。
それは、このところ3年連続、僕が秋に温泉本を出版しているからです。
出版にあたり、(社)群馬県温泉協会の協力をいただいているため、毎年、新年号に僕の本の紹介を載せていただいています。
今回は、昨年の9月に出版した 『あなたにも教えたい 四万温泉』 が、写真入りで大きく紹介されていました。
事務局長の酒井幸子先生、いつもありがとうございます。
新年号のページをめくると、最初に群馬県温泉協会長の岡村興太郎氏の 「新年のあいさつ」 が掲載されています。
このあいさつ文の中で、氏は “地熱開発” について触れています。
<いよいよ地熱開発が開始されます>
と書き出し、
<日本人は神代の昔から温泉に親しみ、温泉は、人々の心を癒し、明日への活力を生み、温泉があることによって、観光地では、休養、保養、療養に利用され、長い間、地域経済の発展に寄与、貢献してまいりました>
と続け、群馬県が観光立県として出発し始めた矢先のこと・・・
“東日本大震災と原子力発電所の事故” が日本を襲いました。
そこに浮上してきたのが 「地熱開発」 です。
<新規の温泉開発も、掘削技術の進歩とともに、現在では、地下2,000mにも及ぶ高深度掘削が行われ、それとともに、他の影響も加わり、まず自然湧出の温泉は、温度、湧出量、含有成分等の減少を経て、自然湧出が止まり、あるいは枯渇化に向かう傾向が多い>
と、現在の温泉のあり方に対して、警鐘を鳴らしています。
さらに氏は、ショッキングな事実を明かしています。
<一度地熱発電が開始されると、一定量の蒸気確保の為に、2~5年に一本の割で還元井戸を掘削し続けることが解っています>
際限のない、無秩序な開発にならないように、充分な検討が必要だと、危惧しています。
最後に氏は、明治25年に発刊された群馬県の温泉分析書 『上野鉱泉誌』 を例に挙げ、この中に記載されている74ヶ所の温泉地のうち、現存する温泉はわずか30ヶ所となっていることを指摘しています。
これについて、
<昭和30年代以降の温泉掘削技術の進歩?で、昔ながらの自然湧出の温泉が一つ消え二つ消えてしまったと言えます>
と憂いています。
「進歩」 に 「?」 が付いているのが、なんとも意味深です。
この120年の間に、群馬県内から44ヶ所もの自然湧出の温泉が消えたことになります。
ちなみに、現存する30ヶ所の温泉地は、下記のとおりです。
赤城山湯ノ澤鉱泉(赤城温泉) 、老上鉱泉(老神温泉)、川場鉱泉(川場温泉)、谷川鉱泉(谷川温泉)、湯原鉱泉および穴原鉱泉(水上温泉)、湯檜曾鉱泉(湯桧曽温泉)、寶川鉱泉(宝川温泉)、湯島鉱泉および生井林鉱泉(猿ヶ京温泉)、法師鉱泉(法師温泉)、湯川原鉱泉(湯宿温泉)、ヌル湯(大塚温泉)、川中鉱泉(川中温泉)、松ノ湯鉱泉(松の湯温泉)、河原湯鉱泉(川原湯温泉)、鳩之湯鉱泉(鳩の湯温泉)、澤渡鉱泉(沢渡温泉)、四萬鉱泉(四万温泉)、花敷鉱泉(花敷温泉)、應徳之鉱泉(応徳温泉)、草津温泉、萬坐鉱泉(万座温泉)、鹿澤鉱泉(鹿沢温泉)、入之湯鉱泉(霧積温泉)、亀澤鉱泉(亀沢温泉)、磯部鉱泉(磯部温泉)、盬之入鉱泉(坂口温泉)、濱平鉱泉(浜平温泉)、猪田日向鉱泉(猪ノ田温泉)、八盬鉱泉および浄法寺鉱泉(八塩温泉)、伊香保鉱泉(伊香保温泉)
2012年01月26日
梨木温泉 「梨木館」
拙著 『ぐんまの源泉一軒宿』 の取材で、泊めていただいたのが2009年の春ですから、かれこれ3年ぶりに梨木温泉の一軒宿 「梨木館」 を訪ねてきました。
梨木館といえば、まず、あの濃厚な黄褐色の「薬師の湯」源泉であります。
今日も、3年前と変わらず、鮮やかなカーキ色をしていましたよ。
昔は 「にごった湯は汚い」 と嫌われた時代もあったそうですが、今は 「この、にごり湯がいいのよ」 と若い女性が来るようになったとのことです。
「最近は、若い人のほうが、温泉に詳しくて、うるさいですよ」
とは、5代目女将の深澤正子さんであります。
梨木館といえば、やっぱり、この女将でしょう!
いゃあ~、今日も今日とて良くお似合いの着物姿で、相変わらずの話好きで、最後にお会いしたのは3年前だというのに、なんだか頻繁に会っているような親しみを感じました。
現在は、6代目の息子さん夫妻に 「経営の一切は任せている」 とのことですが、それでも常連客の中には女将さんファンが多いようで、こうやって現役で女将業を元気にこなしているのであります。
梨木館の創業は、明治12年。
昭和初期の写真が、ロビーに展示されていますが、これがスゴイ!
木造3階建ての建物が、7棟も写っています。
一晩に、千人を超す客で、廊下まで埋まったこともあったそうですよ。
湯治宿として繁栄を極めていたんですね。
しかし、昭和40年に火災で旅館は全焼。
その後は、5代目主人の亮一さんが、現在の梨木館をつくり上げました。
その亮一さんが昭和54年に、「山の中の一軒家へ、温泉以外に客を呼べるものを」 と考えたのが、名物の “キジ料理” です。
ええ、ええ、僕も前回泊まったときに、いただきましたよ。
刺し身、唐揚げ、しやぶしゃぶ、つみれ鍋・・・
山里のごちそうに、その晩も、ついつい飲み過ぎてしまったことを覚えてします。
残念ながら、今日は日帰り取材だったので、キジ料理は食べられませんでした……
と! 書きたいところですが~!
なななんと、女将さんからおみやげに 「きじ釜飯」 なるものをいただいてしまいました。
この釜飯、かなりのスグレモノです。
陶器の釜に、お米とだし汁を入れて、電子レンジでチン!とするだけで、アツアツ炊き立ての名物 「きじ釜飯」 が簡単に食べられるんですよ。
考えたのは、6代目若主人の幸司さんであります。
先ほど、さっそくいただきました!
「ああ、またキジ料理が食べたい」 と思わせる、宣伝効果バツグンのおみやげですね。
幸司さんは、実にアイデアマンであります。
梨木館は、歴史があるだけではなく、常に進化している旅館なのです。
2012年01月25日
感想と質問をお待ちしています
昨晩のFMラジオ 『群馬は温泉パラダイス』 は、聴いていただけましたか?
今年最初の放送であり、ちょうど第10回目の節目でもありました。
金井一世キャスターとお会いするのは、2ヵ月ぶり。
先月は彼女が体調不良のため欠席で、急きょ、橋爪アナウンサーと放送しました。
「あけましておめでとうございます」
と、かなり遅めの新年のあいさつからスタートしました。
昨日のテーマは、「仕上げ湯と合わせ湯」。
草津の仕上げ湯、なおし湯、あがり湯、ながし湯・・・
と呼ばれる温泉地の話をしました。
四万温泉も仕上げ湯の1つです。
話題が、四万温泉に触れると、
「今、野口キャスターが四万温泉へ湯治に行っているんですよ」
と一世ちゃん。
野口キャスターとは、「トワイライト群馬」金曜日担当の野口沙織キャスターです。
“湯治” という言葉を使うなんて、一世ちゃんにも1年間のお勉強の成果が出ているというものです。
なんでも1人で2泊3日、連泊するそうです。
「小暮さんの四万温泉の本を持って行きましたよ」
とは、ウレシ~じゃあ~りませんか!
野口キャスターは、四万温泉のどのお宿に泊まっているのでしょうかね。
次回、お会いしたら四万話で盛り上がろうかと思います。
さて、番組の最後でもお話しましたが、『群馬は温泉パラダイス』 が来月の放送で最終回となります。
最終回は、「ぐんまの湯力(ゆぢから)」 と題して、総集編をお送りします。
ついては番組では、1年間放送してきた 『群馬は温泉パラダイス』 への意見や感想、または温泉についてや僕への質問を受け付けております。
次回、2月21日の放送にて、お便りを読ませていただき、質問等にお答えしたいと思います。
たくさんのお便りをお待ちしています!
●ご意見、ご感想、ご質問は、ハガキまたはファックス、メールにて受け付けています。
<ハガキ>
〒371-8555 (住所は不要)
NHK前橋放送局 「群馬は温泉パラダイス」 宛
<ファックス>
027-253-6795
<メール>
ホームページよりお送りください。
http://www.nhk.or.jp/maebashi/
2012年01月24日
名前を変えた温泉
昨日、塩川温泉が小野上温泉に改名した話をしましたが、他にも県内には、いくつも名前を変えた温泉地があります。
思いつくだけ挙げてみますと・・・
湯原温泉は、昭和3年の上越線水上駅完成と同6年の全面開通以降、水上温泉になりました。
うのせ温泉は、昭和の高度成長期にスキーブームに乗って、大穴温泉と名乗っていた時期があります。
戦前は、鵜の瀬の湯、高平の湯、ぬる湯とも呼ばれていたといいます。
湯島温泉と笹の湯温泉は、昭和30年代に赤谷湖の湖底に沈み、4軒の旅館が代替地へ移り、現在の猿ヶ京温泉となりました。
人造湖により消えた温泉は他にもありますが、代替地へ移転できた温泉地は、まだ良いほうなのかもしれませんね。
新聞報道によれば、新源泉を代替地まで引き湯して、来年には 「新川原湯温泉」 が誕生するようです。
長い目で見守りたいと思います。
赤城温泉と亀沢温泉(旧倉渕村) は、ともに同じ温泉地名だったって知ってますか?
どちらも昔は 「湯の沢温泉」 でした。
そして、改名の理由が、ともに同じというのも奇遇です。
“全国にある温泉名だから”
「赤城」 は、知名度の高い名前にしたとのこと。
「亀沢」 は、川の名前とのことでした。
でも、「湯の沢」 という温泉が全国に多いのも当然のことですよね。
そもそも温泉は、地層が露出している川のそばに湧きますから、昔の人は 「湯の沢」 とか 「湯の川」 と名付けたわけです。
もし、改名しなかったら同名温泉地が県内に2つ存在したことになりますね。
そう考えると、改名することが、良いのか、悪いのか、なんとも言えませんな。
昨日の話にもどせば、源泉名に忠実に温泉地名を名乗るとなれば、A温泉とB温泉は両方ともB温泉となり、C温泉とD温泉も両方D温泉となってしまうわけですからね。
現在のままのほうが、お客のためにも良いのではないかと思います。
ちなみに、源泉名「○○温泉」の○○は、基本的に地名となっていますが、次に続く「□□の湯」 の□□は、届け出た所有者が自由に名付けられるとのことです。
村や町、組合での共有泉の場合は、「1号泉」「2号泉」 といった表記が一般的ですが、これが個人所有の自家源泉となるとさまざまです。
大概は、旅館の屋号が付いていたりします。
たとえば、古川温泉の浜屋旅館であれば、「古川温泉 浜屋の湯」 となります。
でも、所有者の “自由” なわけですから、なかにはユニークな源泉名もあるわけです。
それは、“人名” です。
やはり、自分の名前を後世に残したいという願望が、湯守にもあるんでしょうな。
湯檜曽温泉の林屋旅館には、「林屋の湯」という源泉のほかに、「音松の湯」という源泉があります。
訊けば、音松さんは2代目主人の名前でした。
と思えば、つま恋温泉の山田屋温泉旅館の源泉は 「貴乃湯」 ですが、こちらは3代目主人の名前が貴さんでした。
2代目が掘った源泉ですから、跡継ぎの息子さんの名前を付けたことになります。
名前だけでは、ありませんよ。
なかには、名字を付けた人もいます。
赤城高原温泉、山屋蒼月の源泉名は、「手の湯」 と 「島の湯」 です。
もう、お分かりですね。
ご主人の名字が、手島さんなのです。
いやぁ~、源泉名って、面白いですね。
ぜひみなさんも、今度、温泉地や旅館へ行ったら、源泉名をチェックしてみてください。
面白い名前の源泉名があったら、教えてくださいね。
お待ちしていまーす!
2012年01月23日
2つある温泉の名前
僕は昨年の暮れから、みなかみ町(旧水上町・旧月夜野町・旧新治村) に入り込んで、取材活動を続けています。
1年半かけて、すべての温泉とすべての宿をめぐる企画なのですが、取材途中にして、ある不都合が浮上してきました。
それは、温泉地名の表記です。
皆さんは、温泉地名と温泉名があるのをご存知ですか?
温泉地名は、温泉地の名前です。
温泉名は、源泉に付けられた名前です。
大概、この2つは同一名なのですが、まれに異なる温泉地があります。
今回、僕が出合った案件は2ヶ所。
① A温泉地の源泉名はB温泉となっている。
② C温泉地の源泉名はD温泉となっている。
A温泉地の場合は、B温泉地より源泉を引き湯しています。
C温泉地は、自家源泉を所有してますが、その源泉名がD温泉となっています。
ところが、D温泉という名の温泉地が他に存在するのです!
なに? ややこしくて良くわからないって?
はい、これは、とてもややこしい問題なのです。
ちょっと整理してみましょうね。
A温泉は、かつて源泉を所有していた旅館があったのですが、現在は源泉を持たない旅館が、近くのB温泉から温泉を引いている状態です。もし温泉地名を源泉名に統一するならば、A温泉はB温泉と表記しなければなりません。
やっかいなのは、C温泉の場合も同様です。
長年、C温泉と名乗っているのですが、なぜか源泉名は他の場所にある温泉地名と同名なのですから。
A温泉もC温泉も、源泉名に忠実な表記にすると、どちらも他の温泉地と同じ温泉地名になってしまうという不都合が生じてしまうのです。
できれば、なんとか回避したいものです。
実は、温泉地名と源泉名が異なる温泉というのは、決して珍しくはありません。
有名な例では、JR吾妻線沿いの小野上温泉(現・渋川市) などが挙げられます。
かつては、塩川温泉と呼ばれていました。
確かに、僕も温泉分析書にて、源泉名も塩川温泉であることを確認しています。
昭和53年に 「小野上村温泉センター」 ができると、連日満員の大盛況となりました。
人々は、「小野上村温泉センター」 を略して 「小野上温泉」 と呼ぶようになったのです。
当時はまだ日帰り温泉施設が珍しかったため、村外からも客が押しかけてきました。
その人気のほどは、平成5年にJR吾妻線に小野上温泉駅が開設されたことでも分かります。
本来なら、温泉地名の 「塩川温泉駅」 とするべきなのに・・・
ついに人気に押され、平成18年の渋川市との合併を機に、源泉名と温泉地名を正式に 「小野上温泉」 と統一しました。
以上のような例もありますので、必ずしも温泉地名と源泉名が合致している必要はないのです。
が!
やっぱり、まぎらわしいですよね。
今後、取り組んでいかなくてはならない課題の1つであります。
2012年01月22日
今年最初の温泉ラジオ
昨年の4月から毎月お送りしているNHK-FMラジオの温泉番組 『群馬は温泉パラダイス』。
早いもので今月で、第10回目の放送を迎えます。
2012年、最初のテーマは 「仕上げ湯と合わせ湯」 であります。
合わせ湯とは、泉質の異なる2つ以上の温泉に入ること。
すなわち、1温泉地に滞在する “湯治” =「連泊」 に対して、“合わせ湯” は 「転泊」 を意味します。
群馬で最も有名な合わせ湯は、草津の 「仕上げ湯」 でしょうかね。
温泉地によっては 「なおし湯」「あがり湯」「ながし湯」 などと呼ばれています。
強力な殺菌力のある草津の湯は、昔から皮膚病に特効があり、たくさんの湯治客が訪れています。
ところが酸性度が高いために、浴客はよく皮膚のただれをおこしました。
そのため、草津の帰り道に、弱アルカリ性のやさしい温泉に立ち寄り、ただれを治し、肌を整えたといいます。
今でも、吾妻線沿いに “美人の湯” と呼ばれる温泉が多いのは、そのためです。
「一浴玉の肌」 といわれる沢渡温泉や 「四万の病を癒やす」 といわれる四万温泉などが、草津の仕上げ湯、なおし湯と呼ばれた 「合わせ湯」 の温泉です。
番組では、その他の合わせ湯温泉を紹介しつつ、「連泊」 と 「転泊」 の関係、 群馬の湯治文化についてお話します。
放送は、夕方の忙しい時間帯ですが、おヒマな方は聴いてくださいませ!
群馬は温泉パラダイス
第10回 「仕上げ湯と合わせ湯」
●放送局 NHK-FM前橋 81.6MHz(群馬県南部)
※他のエリアは周波数が異なります。
●番組名 トワイライト群馬
「群馬は温泉パラダイス」
●日 時 1月24日(火) 午後6時~6時30分
●出 演 金井一世 (キャスター)
小暮 淳 (フリーライター)
2012年01月21日
50代への挑戦 ~我が良き友よ~
<久保繁は中学時代の一年間だけクラスを共にしたことのある同級生である。卒業後は別々の人生をたどり、音信もまったく途切れていた。今から三年前、偶然居酒屋で再会した。実に二十三年ぶりの再会であったが、その日以来、何かにつけて公私を共にする付き合いが始まった。
(中略)
打ち合わせと言っては飲み明かし、杯を重ねながら次回の仕事の構想を練り、いかに仕事と遊びの融合部分の最大公約数を広げるかの算段を繰り返していた。
ベトナム行きは、そんな酒の席で二人の共通項として自然発生的に湧出した。過去にネパール・タイ・シンガポールと回った経験のある久保と、中国・インドを旅した私の次なるアジアは、寸分の狂いなく 「ベトナム」 で一致した。>
【『ヨー! サイゴン』(でくの房・刊) より】
上記は、1999年10月に出版した、僕のベトナム旅行記から抜粋したものです。
当時、デザイナーで画家でもあった久保氏との珍道中をまとめた著書です。
2人は、花の41歳!
若くもないのに、夢だけを食べて生きているバクような2人でした。
「オレは、一生、文を書いて生きていく!」
「オレは、一生、絵を描いて生きていく!」
いやはや、40代のオッサンとは思えぬくらい熱い熱い2人でした。
今日は雨の中、そんな畏友の個展会場に顔を出してきました。
「ありがとう。元気?」
白髪まじりのロン毛姿が今じゃトレードマークの彼が、僕に気づいた。
「ああ、相変わらず貧乏だけどな。なんとか、やっている」
と、僕。
「貧乏は、こっちも同じだよ。でもジュンは、だいぶ御活躍じゃない? 少しはいいんじゃないの?」
「な、もんか! 昔も今も変わらずさ」
それから僕らは茶を飲みながら、長い長い話をした。
それは、近況報告でもあり、40代からの夢のつづきでもあった。
「あの頃さ、お互い 『50代は勝負に出る』って言ってなかったっけ?」
と僕が言えば、
「それが、このザマだよ」
と彼は、会場を見回した。
「そうだな、オレも、このザマだ」
そういって、2人で笑ってしまった。
どんなザマでもいい。
でも僕らは、あの頃の延長線上にはいるんだ。
確かに、僕らが期待していた10年後の未来には、まだほど遠いかもしれない。
でも、ブレてはいないぞ!
会場でもらった、彼のプロフィールに目を通すと、
“1999年より絵画の発表を始める”
と書かれていました。
1999年といえば、僕らがベトナムへ行った年であります。
帰国後、僕と彼は、何かに取り付かれたように夢中になって、文と絵を書(描)きました。
そして、その年の10月。
僕らは、絵画とエッセイによる 「二人展」 を開催したのです。
その時に発表した著書が 『ヨー!サイゴン』 であり、彼の画家としての人生がスタートしたのです。
僕は自分の著書の中で、当時の彼の絵のことを、こんな風に書いています。
<久保の描くアジアは、常に優しい風に吹かれている。喧騒はリズムであり、雑踏はメロディーとして、まるで避暑地の陽炎のようにキャンバスの中で揺れている。これが彼の中のアジアなら、一緒に私も見てみたいと思ったのだ。ライターとしてではなく、彼の絵の一ファンとして。>
その後、彼はアジアからヨーロッパへと被写体を変えて、現在でも群馬と東京で個展を開催しています。
今回は、南仏を中心に描いた水彩画とミクストメディアを展示・販売しています。
『 久保 繁 展 』
●会 期 2012年1月21日(土) ~ 29日(日)
10:30~19:00 (24日火曜休廊)
●会 場 画廊 「すいらん 」
群馬県前橋市文京町1-47-1
TEL.027-223-6311
2012年01月20日
下仁田ねぎのナゾ
僕は、仕事の内容によって、肩書きを使い分けています。
温泉の記事を書いたり、温泉関係で取材を受けたり、講演や講座を依頼されたときは 「温泉ライター」 と名乗ります。
ただし、自分から名乗るのはそこまでであって、勝手に先方が都合の良い肩書きを付けてしまうこともあります。
「温泉評論家」「温泉研究家」「温泉作家」「温泉ルポライター」「温泉ジャーナリスト」 など、書きたい放題です。
でも、そもそも肩書きなんて、自分で付けるものでなく、仕事相手が決めるものだと思っていますから、いつもおまかせしています(自分で肩書きを付けると、「自称」 になりかねませんから)。
ただ、温泉以外の取材や執筆のときは、「フリーライター」 と名乗ります。
とても幅が広くて、便利な肩書きなので、ふだんは、ほとんど 「フリーライター」 を使っています。
ですから僕の名刺は、ただ 「writer」 とだけ印刷されているんですよ。
これなら、「温泉ライター」 でも 「フリーライター」 でも、TPOに合わせて自由に名乗れますからね。
で、今日は雪の中、フリーライターとしての取材に、西毛地区(群馬県西部) を飛び回ってきました。
読者の皆さんは、覚えていますか?
以前、僕が群馬名産 「下仁田ねぎ」 のことをブログに書いたことを・・・。
(12月18日の 『寝ずに今夜は下ネタねえさん』 参照)
このとき、ブログに、さる方がコメントをくださいました。
「上毛かるたの札に描かれているネギの絵は、下仁田ねぎではない」 と!
確かに、そーなのですよ。
あんなにも特徴的な形をした下仁田ねぎなのに、スラ~ッとした長ネギが描かれているんですね。
なぜ?
どーして?
もしかして、これって、“謎学の旅” の始まり?
と、いうことで、僕の頭の中は、昨年の暮れから 「下仁田ねぎ」 で、いっぱいになってしまったんです。
ネット検索はもちろんのこと、図書館に通い文献の収集、下仁田生産農家へのインタビュー、上毛かるた競技会へのコメントとり・・・
とにかく、なんで、上毛かるたの 「ね」 の札 『ねぎとこんにゃく下仁田名産』 には、下仁田ねぎが描かれていないのだーーーーっ!!!
責任者、出て来ーーーい!
と、日々、東奔西走して、地道に取材活動を続けていたのであります。
そして、今日。
いよいよ、掲載が決まった某誌の編集長と連れ立って、本丸へと乗り込みました。
1人は、ベストセラー 『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』 の企画・編集にたずさわった某学芸員を直撃!
もう1人は、下仁田役場の農林建設課の某職員を奇襲!
ついに核心に触れる真実をつかんでまいりましたよ。
なぜ、「上毛かるた」 に下仁田ねぎは描かれなかったのか?
そして、本当の下仁田ねぎ発祥の地は、どこなのか?
掲載日が決定しましたら、ご報告します。
謎学の旅は、つづく・・・
2012年01月19日
「湯守の女房」 連載1周年
1年なんて、アッという間ですね。
昨年の2月9日から連載が始まった朝日新聞群馬版の 『湯守の女房』 が、昨日で第20回を迎えました。
記念すべき第20回を飾ったのは上牧温泉 「辰巳館」 の美人女将、深津香代子さんでした。
今年最初の掲載でもありますので、新年にふさわしい “群馬の温泉の顔” だったのではないでしょうか。
この 『湯守の女房』 は、隔週で連載をしています。
隔週ということは、2週間に1回。
月に2回、もしくは3回の掲載となります。
一昨年の暮れに、朝日新聞社より執筆依頼の話があったとき、引き受けるか迷いました。
だって、隔週ですよ!
しかも、机の上だけで書けるコラムではありません。
必ず取材がともなう、ドキュメント記事です。
「隔週は、ちょっとキツイな・・・」
というのが、正直な気持ちだったのです。
担当者には、「月刊では無理ですか?」 と相談しました。
すると、「新聞の場合、連載は毎日か毎週、せめて隔週でないと」 とキッパリ言われてしまったのです。
それでもまだ返事をしないでいたら、
「やりましょうよ! 小暮さんの負担は最小限にして、僕が毎回、自宅まで送り迎えしますから!」
とラブコールを受けてしまい、その熱意に応えなければ人間じゃないような気になってしまい、お受けしました。
実際、連載がスタートすると、やっぱり隔週は大変です。
取材が終わって、原稿を書いて新聞社へ送って、校正のやり取りをしていると、もう次の取材です。
その間に、取材先の旅館とのアポ取りを行います。
それでも言葉どおり、毎回毎回、担当の I さんが朝早く我が家まで迎えにきてくれて、高速道路を飛ばして温泉まで連れてってくれますから、楽をさせていただいております。
冬場は、社用の四駆で迎えに来てくれますから、雪山も安心です。
思えば、ライター冥利に尽きる仕事環境なのであります。
I さん、いつもいつもありがとうございます。
昨年は大きな震災の影響もあり、連載が途切れた期間がありましたが、それでも20回という大台を迎えることができました。
これも、ひとえに読者の方々のおかげであります。
この場をお借りして、お礼申し上げます。
いつも 『湯守の女房』 を読んでくださり、ありがとうございます。
次回の連載で丸1周年を迎えることになりましたが、これを記念して朝日新聞では、“『湯守の女房』番外編” と題して、新シリーズを不定期にて連載することになりました。
ということで、次回掲載日2月1日(水) は、『湯守の女房』 は1回お休みとなり、代わりに新シリーズ 『おやじの湯』 を掲載します。
これは、湯にこだわりを持つ頑固な湯守おやじを紹介するシリーズで、男同士、僕と宿の主人が一緒に温泉に入って、湯談義をするという画期的な連載なのであります。
ぜひ、ご期待ください。
『湯守の女房』 も、引き続きご愛読くださるようお願い申し上げます。
2012年01月18日
猿ヶ京温泉 「宮野旅館」
いい温泉旅館の条件とは?
1に 「湯」、2に 「人」 ・・・
3、4がなくて、5に 「歴史」 でしょうかね。
僕の場合。
ま、湯が良くて、宿の人が良ければ、及第点(合格) であります。
100点満点の80点以上の評価となります。
プラス、歴史と文化が加われば申し分ありません。
料理?
料理は、まずくなければOKです。
ただし、海なし県の場合、海のモノが出ると減点対象になります。
(食材の一部なら目をつむりますが、刺身はアウト!)
で、昨日訪ねた猿ヶ京温泉の 「宮野旅館」 は、久々に及第点以上の素晴らしい宿でした。
何が素晴らしいかって、加水なし、加温なしの源泉かけ流し風呂も絶品でしたが、何よりも女将さんの人柄ですよ。
いや~、久しぶりに腹から笑いました!
女将の林江美子さんは、20年以上の旅館勤めを経て、平成5年に自宅を改築して旅館を始めました。
「宮野」 というのは名字ではなく、この地区の字名とのことです。
何がすごいかって、一切の看板がありません。
国道にも、温泉街に入ってからも、あぜ道に入り込んでからも、なーんにも案内板がないんですよ。
「初めてのお客さんは、みんな迷路に迷い込んで迷子になっちゃうんさね。ウワッハハハ~!」
と豪快に、笑い飛ばします。
広告を出したこともなし。
一切の宣伝をせずに、口コミだけで19年間、旅館業を営んできた。
「なんで看板を出さないんですか?」 と僕が問えば、
「何にも考えてないからさ。ウワッハハハ」
「それで、大丈夫なんですか?」と聞けば、
「なんでも適当、適当が一番だよ。ウワッハハハ」
と、笑い声でけむに巻かれてしまう。
部屋数は、たったの5部屋。
息子さんと2人だけでやっているから、これで精一杯だと言う。
「借金がキライだからね。このままでいいの。自分の身の丈にあった旅館なのよ。ウワッハハハ」
僕が訪ねたときも、前橋から来たという湯治客が数人、連泊していました。
「このたくあん、美味しいですね」 と、出された漬け物を食べ出したら、手が止まらなくなってしまいました。
ふだんは漬け物をあまり食べない僕ですが、魔法にかかったように、次から次へと口の中にたくあんが入って行きます。
「そーかい、そんなにウマイかい? だったらあげるから持ってぎなよ」
と、漬け込んだ樽から出して、おすそ分けしてくれました。
大根も女将さんが畑で作っています。
もちろん、漬けたのも女将さんです。
華美な宿ではないけれど、あったかい宿であります。
湯のぬくもりと、人のぬくもりが、いっぱい詰まった温泉宿なんですね。
「秘湯は人なり」
という言葉があります。
ここは猿ヶ京温泉でも、温泉街から1軒だけポツンと離れた山のドン詰まり・・・。
温泉宿って、訪ねてみないと、分からないものですね。
女将さん、また来るね!
2012年01月16日
ダイヤモンドかプラチナか
先日、伯父に最後のお別れをしに、本家へ行ったときのことです。
(当ブログ 『100点満点の死』 参照)
茶の間に、賞状が飾ってあるのを見つけました。
「祝、結婚70周年記念」 と書かれていました。
前橋市から表彰された賞状のようです。
「な、な、じゅう、ね~ん!」
と、僕が大声を上げて驚いたものですから、伯母がやって来て言いました。
「そうよ、夫婦揃って賞状を受け取りに行けたのは、私たちだけだったんだから」
と、嬉しそうに自慢するのでした。
でも、伯母は87歳ですよ。
えええ~! 伯母さん、17歳でお嫁にきたのー!
ところで、結婚70周年って、何婚式って言うんだ?
えーと、金婚式は50年だし、確か、その上はダイヤモンド婚式だけど、60年だったよな・・・
「伯母さん、結婚70周年って、何婚式っていうの?」
「知らないよ。昔の人は、人間がそんなに生きるとは思ってなかったんでしょう」
と、一笑に付されてしまいました。
で、調べてみました。
ありましたよ、ダイヤモンド婚式の上が!
プラチナ婚式です。
でも、75周年ですよ。
あれ? 65年と70年は祝わないのですか?
なんでも結婚記念日を祝う習慣は、西洋のものらしく、イギリス式とアメリカ式があるようです。
イギリス式は、60年がダイヤモンド婚式で、75年がプラチナ婚式。
アメリカ式では、60年がなくて、いきなり75年がダイヤモンド婚式です。
どちらも、どーして中間を飛ばしてしまうのでしょうか?
ちなみに、15周年までは毎年あるんですね。
1周年は、紙婚式。2周年は、藁または綿婚式。3周年は、革婚式。
以後、花、木、鉄、銅、青銅、陶器、アルミ、鋼鉄、絹または麻、レース、象牙、水晶と続きます。
最初は、廉価で、やわらくて日常的なものですが、徐々に高価で硬い貴重品になっていきます。
20周年は、磁器婚式。25周年は、銀婚式。
以後5年ごとに、真珠、珊瑚、ルビー、サファイア、金、エメラルド、そしてダイヤモンドとなります。
ま、人生50年と言われた頃には、金婚式を迎える夫婦だって稀だったんでしょうな。
我が家は昨年 、やっと銀婚式を迎えたばかりであります。
いやはや、70年とは素晴らしい!
「お前100まで、わしゃ99まで・・・」
どこまで生きられるか分かりませんが、目指せ!プラチナ婚式!
あと、50年後のことであります。
こりゃ~、無理だわ!
2012年01月15日
『誕生日の夜』 (最終回)
どれくらい待ったのでしょうか。
お父さんには、とても長い時間に思えました。
ガラス窓越しに、駅のホームが見えます。
電車が着くと、たくさんの人が降りてきて、家路を急ぐようにお店の前を足早に通り過ぎていきます。
時計を見るたびに、しおりちゃんの顔が浮かんできます。
泣いていないだろうか、ケーキをよろこんでくれるだろうか。
お父さんは、だんだん心配になってきました。
「お待たせしました」
あわてて振り向くと、店長さんがショーケースの後ろに立っていました。
「これで、よろしいですか?」
小さいけれど、イチゴののった、まるいケーキを持っています。
「ありがとうございます」
そう言うと、お父さんはペコリと頭をさげました。
店長さんはカウンターのなかで、手を動かしながら、お父さんに言いました。
「お子さんの誕生日ですか?」
「えっ、ええ……」
お父さんは、少し驚きました。
「おいくつになられるんですか?」
「えっ……、よっつ、いえ、四才です」
お父さんは、少しあわてています。
「じぁあ、ロウソクを四本入れておきますね」
お父さんは作業をつづける店長さんの背中に向かって、ペコリと頭を下げました。
しばらくして、また店長さんが、お父さんに聞きました。
「男の子さんですか? 女の子さんですか?」
お父さんが 「女の子です」 と言うと、
「それじぁ、リボンはピンクがいいかなぁ……」
と、ひとり言のように言いながら、クルリと振り返り、お父さんにメモ用紙とボールペンを差しだしました。
お父さんは、それを受け取りながら、いったいなんのことだろうと、戸惑ってしまいました。
「あのー、これは……」
おそるおそる聞いてみました。
すると、
「お名前、入れておきますよ。それに書いてください」
と、店長さんは言いました。
メガネの奥の小さな目が、やさしくお父さんに笑いかけていました。
お父さんは、ふるえる手でメモ用紙に “しおり” と書きました。
でも、その文字は、見る見るうちに涙でゆがんでしまいました。
店長さんにお金をわたし、ケーキの箱を受け取ると、お父さんは何度も何度もおじぎをしました。
ありがとうの言葉を言おうとするのですが、そのたびにノドに言葉がつまって言えません。
「きっと娘さん、よろこびますよ」
店長さんが、そう言ったとき、やっと、
「はい……」
とだけ声がでました。
「ありがとうございました。また、お越しくださいませ」
白い帽子を深々とさげた店長さんの言葉に見送られて、お父さんは外へ出ました。
ピーンとはった冬の空には、数えきれないほどの星たちが輝いていました。
お父さんの吐く息も、白く長い尾をひいています。
「さあ、遅くなってしまったけど、しおりを迎えに行こう」
小走りに駆けだそうとして、お父さんはあわてて足を止めました。
だって、手には大切なプレゼントを持っているからです。
しおりちゃんと今朝、約束したイチゴののった、まるいデコレーションケーキです。
お父さんは、ケーキの箱を両手で抱え込むように、しっかりと持ちかえました。
ふり返ると、ちょうど店長さんが、お店のシャッターを降ろしているところでした。
お父さんに気づいた店長さんが、おじぎをしました。
お父さんも、今度は 「ありがとうございます」 と、
声を出して頭をさげながら、お礼を言いました。
< 『誕生日の夜』 完 >
2012年01月14日
山田べにこさんと対談
今日は午後より、パリッシュ出版本社(高崎市) にて、OL温泉愛好家の山田べにこさんと対談をしてきました。
取材を受けたのは、『おとな日和』 という雑誌の特集です。
それも4ページといいますから、ちょっぴり緊張をしました。
だって、そもそも僕はライターですからね。
取材をするのは慣れていますが、取材を受けるのはヘンな感じがします。
ま、対談というのは初めてではありませんが、過去の相手は男性でした。
でも、今回は女性です!
それも、若い!
しかも、美人!
となれば、そりぁ~、テンションも血圧も上がってしまいます。
で、対談がすぐに始まるのか思えば、
「お2人の写真を撮りますので、並んでいただけますか?」
と、僕は桶(おけ)、べにこさんは手拭いを持たされました。
ポーズまでとらされて、
「もっと、くっついてくださーい。いいですね、いいですね」
と、またもやカメラマンのトークにのせられてしまいました。
とにかく、僕とべにこさんの距離が近い!
肩はくっつくわ、もう少しで頬と頬だって……
と、かなりきわどいショットが連発です。
あれ?
これって、温泉の対談ですよね?
まさか 「恋人たちのラブラブ混浴風呂」 なーんてタイトルの特集じゃないですよね?
そんな、こんなで、スタートから僕の目じりと鼻の下はダ~ラリと下がりっぱなしで、編集者の人からは、
「小暮さん、キャラが変わってますよ」
と、突っ込まれる始末であります。
対談は、たっぷり2時間。
群馬の温泉の魅力について、深く熱く語り合ってきました。
さすが、べにこさんです。
いい温泉を知っていらっしゃる。
でも、全体の流れとしては、僕とべにこさんの推薦する “いい温泉” は、ほぼ一致してしていましたね。
ただ、一般読者には、ちょっとマニアックだったかな?
ま、それだけ核心に触れた、いい湯談義ができたということです。
「お疲れさまでした」
と取材が終了したあと、べにこさんから
「記念に一緒の写真をを撮ってもらえますか?」
と言われて、またしてもデレデレ~と顔の筋肉がゆるんでしまいました。
「はい、チーズ」
パシャ!
お恥ずかしい。
若い娘さんと頬と頬を寄せ合って、ピースサインを年甲斐もなく出してしまいましたとさ。
でも、あー、楽しかった。
べにこさん、ありがとうございました。
そして、パリッシュ出版のスタッフのみなさん、カメラマンさん、大変ご苦労さまでした。
掲載を楽しみにしています。
※対談の様子は、3月上旬発行の 『おとな日和』(パリッシュ出版) に掲載されます。
2012年01月13日
100点満点の死
伯父が死んだ。
享年、94歳。
大往生でした。
でも、伯父の素晴らしかったところは、長生きをしたことではありません。
その “死にざま” こそが、家族やまわりの人たちの心を熱くさせたのであります。
その知らせは、正月に舞い込んできました。
「大胡 (現・前橋市、旧・勢多郡大胡町。小暮家の本家がある) の伯父さんの容体が良くないようだから、連れてっておくれ」
と、オフクロからの電話でした。
伯父は7年前にガンを宣告されていましたが、高齢ということと、本人の希望により、手術や入院を一切拒否して、自宅にて療養していました。
ガン細胞も、老人に巣作ると栄養が足りないのか、ほとんど成長せず、転移もなく、趣味の囲碁や将棋を楽しみながら、伯父らしい穏やかな余生を送ってきました。
昨年の11月に、容体が急変。
通常の生活が困難になりました。
それでも伯父は、延命措置を拒否。
それに家族も同意し、入院せずに、自宅にて医者の往診を受けていました。
12月30日(金)
毎週金曜日の恒例、囲碁仲間が訪ねて来ると、ベッドから起きて、嬉しそう囲碁を打ったといいます。
そして・・・
それを最後に、一切の飲食を口にしなくなりました。
1月5日(木)
僕がオヤジとオフクロを連れて、本家を訪ねると、すでに数人の親戚が集まっていました。
「もう1週間も、何も食べていないんですよ。水だけなんです。ジュースも吐き出してしまうんです」
と伯父を看病している、いとこの嫁さんが近況を話してくれました。
「会ってやってくださいね」
寝室へ行くと、やせ細った伯父が寝ていました。
でも、目は見開いて、手をあげています。
「兄貴、弟のヒロシだよ。分かるかい?」
と、7歳年下のオヤジが、その手を取り、話しかけます。
「アァ……、ア ・ リ ・ ガ ・ ト」
かぼそい声ですが、はっきり聞こえました。
オフクロが 「お義兄さん・・・」 と呼びかけ、
僕が、「伯父さん、ジュンです」 と話しかけました。
そのたびに、
「ア ・ リ ・ ガ ・ ト」
と応えるのでした。
あれから6日後、一昨日の未明に、伯父は旅立ちました。
いとこによれば、家族全員が見守るなか、
最後の呼吸を大きくすると、そのまま眠るように息を引き取ったといいます。
見事な、死にざまであります。
老いることは、人間誰しにも訪れることです。
そして、やがて訪れる死も、決して避けて通れません。
しかし、その定めにあらがうことなく、天寿をまっとうできる人は、少ないのではないでしょうか。
伯父は、12月31日に旅立ちの準備に入ったことになります。
なぜ、その日を選んだのでしょうか?
それは、正月に家族や親戚、友人、知人が年賀のあいさつにやってくるからに、ほかなりません。
生きているうちに、世話になった人たち全員に、自分の “声” でお礼が言いたかったのでしょう。
ア ・ リ ・ ガ ・ ト
真面目で、律儀だった伯父らしい、素晴らしい最期のあいさつでした。
誰もができる死に方ではありませんが、
「死ぬときは、こうやって死ぬんだよ」 と、
手本を教えてくれたような気がします。
伯父さん、53年間、大変お世話になりました。
ありがとうございます。
安らかにお眠りください。
あなたの甥より
2012年01月12日
霧積温泉 「金湯館」④
「水車が凍結しました」
との連絡を受け、今日は少し早起きをして、霧積温泉まで、ひとっ走りしてきました。
といっても、僕の車はノーマルタイヤですから、ひとっ走りしたのは、4駆でスタッドレスタイヤをはいた朝日新聞社の社用車であります。
今日の関東地方は、今年一番の冷え込みだったとか。
標高1,180メートルの霧積温泉は、マイナス10℃以下に冷え込む極寒の地であります。
僕らが着いた頃は、もう日が差していましたが、それでも旅館の寒暖計はマイナス4℃。
「今日なんて、風がないぶん、暖かいほうだよ」
とは、出迎えてくれた女将の佐藤みどりさん。
まずは、新年のあいさつをして、昨年のお礼を言いました。
昨年は、7月に温泉講座で、10月は新聞の取材で2回もお世話になっています。
長年僕は霧積温泉に通っていますが、実は極寒のこの時季に訪ねるのは初めてなのです。
新聞のニュースなどで、金湯館のシンボルである水車が凍結すると、それはそれは美しい “氷の芸術” を創りあげることは知っていましたから、いつか見てみたいと思っていたのです。
ついに、今日、その時がやって来ました!
もう、「美しい!」 のひと言であります。
直径3メートルほどの水車が、氷の衣装をまとって倍くらいに膨れ上がり、日の光に照らされて、キラキラキラ~リとダイヤモンドのような輝きを見せているのです。
それも、水車だけではありません。
水車まで水を運ぶ水路までもが、全面凍結しています。
その空中水路からは、不死鳥の羽のように大きな “つらら” がカーテンのようにズラ~リと一列に並んでいます。
「人間には、作れんなぁ~」
と、これが僕の感想です。
水と空気と光が作った、自然のアートなんですね。
いやぁ~、I 記者の撮影に付き合っていたら、体の芯まで冷えてしまいましたよ。
と、なれば、温泉に入るしかありません。
僕の大好物の 「金湯館 入之湯」源泉であります。
いい温泉は、何度入っても飽きないのです。
この肌ざわりは、他では、なかなか味わえませんぞ!
泡、泡、泡だらけになる、この浴感は、県内でも1、2を競う付着量であります。
もちろん今回も、名物 「サンゴの産卵」 を何度もやってしまいましたよ。
(陰毛に付いた泡の粒を手で払いのけると、まるでサンゴが産卵しているように見えるのです)
なんでも、若い男性客が浴室から飛び出してきて、言ったそうです。
「浴槽に入ったら、全身が泡だらけになっちゃったんですけど、あの温泉は大丈夫なんですか?」
と・・・。
「初めての人は驚くかもね。ウワッハハハ」
と3代目主人の佐藤敏行さんは、今年82歳になられるとは思えぬほど豪快に笑うのであります。
源泉の温度は39度とぬるめですが、湯上がりはポッカポッカと体がほてり、心の芯まで温かくなって、山を下りました。
※凍結の写真は、明日の朝日新聞にカラーにて掲載されます。僕はモデルとして写っています。
2012年01月11日
『誕生日の夜』 ⑥
線路沿いにあるそのお店は、ケーキ屋さんというよりは、パンもアイスも、お団子も、なんでも売っているお菓子のコンビニエンスストアのような店でした。
お店の前には、まだオープンの花輪が飾ってあります。
お父さんがお店に着いたときは、ちょうど若い女の店員さんが、入り口のシャッターをしめようとしているところでした。
「あの……、もう、おしまいですか?」
お父さんが声をかけると、店員さんはちょっと迷惑そうな顔をして、
「えっ、……どうぞ」
と、ぶっきらぼうに言いました。
店内に入って、ショーケースを見まわすと、ほとんどのケーキが売り切れていました。
まるいデコレーションケーキが二つ、売れ残ったように置かれているだけです。
でも、どちらも二千円以上だったので、お父さんはがっかりしました。
店員さんを見ると、早くお店をしめて帰りたいようで、しきりに時計ばかり気にしています。
「あのー、ケーキはここにあるだけですよねー。
あの……、これより小さいケーキって、ありませんよね……」
お父さんが、おどおどしながら店員さんにたずねると、
「はい」
と、ひと言、不機嫌な声がかえってきました。
お父さんが仕方なく、お店を出ようとしたときです。
「おーい、店しめたら、終わりにしていいぞ!」
お店の奥のほうから声がして、コックさんがかぶる白い帽子を頭にのせた人が現れました。
お父さんと同じ年くらいのメガネをかけた男の人です。
その男の人は、店内にお父さんがいることに気づくと、一瞬、驚いたようでしたが、すぐに笑顔をつくって、「いらっしゃいませ」と、ていねいにあいさつをしました。
「店長ー、こちらのお客さんが、これより小さいケーキはないのかってー」
店員さんがそう言うと、店長さんは小さな声で、「きみは、もう帰っていいよ」 と言いました。
そして、カウンターの奥から出てくると、お父さんに言いました。
「どのくらいのサイズを、ご希望でしょうか?」
「あ、あの、二人だけで食べるものですから、本当に小さくていいんです」
お父さんが言うと、店長さんは少し考えるような顔をしながら、お店の奥へ入って行きました。
しばらくすると店長さんは、ニコニコしながら出てきて、お父さんに言いました。
「少しお時間がかかってもよろしければ、これから作りますけど、お急ぎですか?」
「えっ、はぁ……。いえ、あの……」
お父さんは保育園で待っているしおりちゃんのことも気になりますが、今は時間よりもケーキの値段のほうが気が気ではありません。
「あの……、おいくらですか?」
「千三百円になりますが、よろしいですか?」
「は、はい。それください。それを!」
うれしさのあまり、お父さんは大きな声をあげていました。
<つづく>
2012年01月10日
四万温泉 「積善館」③
新年最初の取材へ行ってきました。
四万温泉の老舗旅館 「積善館」 であります。
ま、積善館とは、もう20年来の付き合いですし、本や雑誌の取材、温泉講座でも、たびたび訪れているので、今さら聞くこともないのですが、これが、どーしても積善館を新春一発目に取材しなくてはならなかったのですよ。
それは、19代目主人の黒澤大二郎さんと温泉に入るためです!
なんのことを言っているのだか、さっぱり分からないって?
では、ご説明しましょう。
実は、来月より朝日新聞紙上にて、新しい連載が始まるのです。
それも、かつて、どの新聞でも雑誌でも試みたことのない、新企画なのです。
そのコンセプトは?
“湯守と一緒に温泉に入る” であります。
どーです?
みなさんは、そんな記事を見たことありますか?
要は、筆者(僕です) と湯守(旅館の主人) が、仲良く温泉に入りながら対談するという、前代未聞の新シリーズであります。
現在、朝日新聞では 『湯守の女房』 という、女将さんに話を聞くシリーズの連載をしていますが、女将さんは女性ですから、なかなか裸にはなってもらえません。
でも、ご主人なら、男同士ですから “裸の付き合い” ができるというものです。
で、新連載の第1回目の出演は、古い友人である大ちゃん(僕は黒澤さんのことを、こう呼びます) にお願いしたのです。
もちろん、二つ返事にて、快諾していただきましたよ。
撮影場所は、ご存知 「元禄の湯」 であります。
昭和5年建築。
国の有形登録文化財、群馬県近代遺産に指定されている “悠久の名湯” であります。
大正ロマネスク様式を用いた半円アーチ型の窓とシンメトリーに並んだ5つの湯舟が美しい湯殿・・・
そこに、むさくるしいオヤジが2人!
いやぁ~、絵になりますこと!
カメラマンも 「いいですねぇ」 を連発しながら、海水パンツ姿にて、床に寝そべって渾身のショットを狙います。
大ちゃんとは、旧知の仲。
積善館の歴史や湯への思いなどを語りながら、それはそれは楽しい時間を過ごすことができました。
新シリーズは、2月の第1水曜日より不定期にて連載されます。
これは、乞う、ご期待ですぞ!
※早くも今日の取材風景が、積善館HPの 「積善館だより」 にアップされています。