温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2020年11月30日

主催者が語る 「相間川の温泉暖議」


 桐生市民のみなさん、こんにちは!
 温泉ライターの小暮です。
 今日はエリア限定で、お知らせがあります。


 12月18日(金)~19(土) の2日間にわたり相間川温泉 (高崎市倉渕町) で開催される 「相間川の温泉暖議 (サミット)」。
 おかげさまで、告知以来、たくさんの問い合わせ、申し込みがありました。
 すでに 「定員の半数以上の応募があった」 との連絡を受けています。
 引き続き、参加者を募集していますので、ご興味のある方は、お問い合わせください。
 ※(詳しくは、当ブログの2020年11月15日 「温泉暖議(サミット) 開催します!」 を参照)

 ●問合・申込/相間川温泉 「ふれあい館」 TEL.027-378-3834


 ということで、このたび、主催者であります相間川温泉 「ふれあい館」 の副支配、秋山博さんが 「エフエムきりゅう」 (77.7MHz) に生出演し、サミット開催の主旨や当日の内容について詳しくお話しされることになりました。

 番組名は 「You've got Kiryu!」
 パーソナリティーは、太刀川ひろみさん。
 彼女は、たびたび、僕の講演にも足を運んでくださっている温泉大好き人間であります。

 放送日は今週、12月2日(水) 17:00~
 17:15頃~の 「温泉は楽しく♪」 のコーナーです。


 温泉暖議(サミット) への桐生市民の参加も、お待ちしています。
     


Posted by 小暮 淳 at 09:45Comments(0)テレビ・ラジオ

2020年11月29日

温泉考座 (49) 「温泉に行く」


 みなさんは 「温泉」 という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?

 「温泉に入る」 と言えば、温泉水に入ることですし、「温泉に行く」 と言えば、温泉地や温泉施設へ行くことを意味します。
 関西では、銭湯などの公衆浴場のことを 「温泉」 と呼ぶ人もいます。
 日本語の 「温泉」 は、いくつかの違った意味合いで用いられる言葉であることが分かります。

 温泉法では、<地中から湧出する温水、鉱水および水蒸気、その他のガス (炭化水素を主成分とする天然ガスを除く) のうち、「温度が25度以上あるもの」 または25度未満でも 「定められた物質が規定量以上含まれているもの」 を温泉> と認めています。
 ですから “冷たい温泉” も存在するわけです。

 しかし、温泉法には、さらに温度による分類があります。
 <25度未満を 「冷鉱泉」、25度以上34度未満を 「低温泉」、34度以上42度未満を 「温泉」、42度以上を 「高温泉」 > と呼び分けています。
 これによれば、やはり温泉は “温かい泉” ということになります。
 なんとも、ややこしい法律です。


 私は年間約100軒の温泉宿を訪ね、湯に入り、ご主人や女将さんから話を聞く取材活動を続けています。
 もちろん、これが仕事ですから回数を自慢するつもりはありません。
 温泉好きの中には、私以上に行っている人もいることでしょう。

 先日、こんなことを私に言った人がいました。
 「私も温泉が大好きでしてね。週に2~3回は行ってますよ」
 一瞬、驚きましたが、話を聞いてみると、近所の日帰り温泉施設に通っているとのことでした。

 確かに、街中にある入浴施設でも温泉水を利用していますから、「温泉」 には違いありません。
 でも、そこには温泉地が長い間、大切に守り継いできた歴史や文化はありません。

 やはり、「温泉に行く」 ということは、温泉水に入ることだけでなく、温泉地の持つ “温泉情緒” や “自然環境” の中に身を置くことだと思うのです。


 <2014年5月14日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:29Comments(0)温泉考座

2020年11月28日

やっぱ 「豚すき」 でしょう!


 昨日の毎日新聞群馬版に、こんな見出しを付けた記事が載っていました。

 <「すき焼き応援県」 に懐疑的>


 群馬県は2014年、牛肉やネギ、しらたきなどの食材が群馬で、すべて揃うとして 「すき焼き応援県」 を宣言し、「いいにく」 の語呂合わせで11月29日を 「ぐんま・すき焼きの日」 と定めています。

 6年前、このニュースを知った時、生粋の “上州っ子” の僕としては、かなり違和感を覚えました。
 だって、食材なんて、どこの県でも揃うし、何より群馬県民は日常、すき焼きなんて食べませんもの。
 たまに食べたとしても、肉は牛ではなく、豚です!

 と、県の強引なこじつけ名産づくりに、異を唱えていたのであります。


 で、昨日の新聞記事です。
 この 「すき焼き応援県」 に違和感を感じ、インターネット上で 「食文化の伝え方として正しいと思えない」 と懐疑的な意見を公開したグルメジャーナリストの東龍さんのコメントを取り上げています。
 彼が、「すき焼き応援県」 を応援できない理由は、次の4つです。

 ・歴史がない
 ・県民が食べていない
 ・食材はあっても料理とは関係がない
 ・すき焼き店が多くない

 よくぞ、言ってくれました!


 そもそも、県民が日常に食べていない料理なのですから、違和感満載です。
 しかも、すき焼きに欠かせない牛肉とネギの全国47都道府県庁所在地と政令都市5市の世帯を対象にした支出金額は、全国最下位と48位なのです。
 ※(総務省2017~19年調べ)

 しかもしかも、県民意識アンケートの調査結果では、すき焼きを食べる頻度は、「半年に1回程度」 が29.5%、「1年に1回程度」 が24%、「1年以上食べていない」 は19%という、愛着のなさが浮き彫りとなっています。
 ※(群馬県2019年調べ)

 きっと、この記事を読んで、スッキリとした県民は多かったのではないでしょうかね。


 一方、こうした指摘に対して県は、なんと言っているのかといえば……
 以下、記事から抜粋します。

 <県産食材の結晶として、すき焼きがある。話題喚起の側面もあり、食文化として高めていくこととは、狙いがそもそも違う>

 とのことですが、
 だったら牛肉ではなく、
 断然 「豚すき」 でしょう!
   


Posted by 小暮 淳 at 11:32Comments(0)つれづれ

2020年11月27日

秋眠 暁を覚えず


 これは 「なぞなぞ」 です。

 0 → 4 → 2 → 3 → 0

 この推移する数字に付く助数詞は、何でしょうか?


 答えは、「本」 です。
 これは、人間の一生の歩行状態を表しています。
 生まれてしばらくは歩けません。
 やがて、ハイハイをします。
 そして人生の大半は、2本足で歩きます。
 晩年、杖の世話になる人もいます。
 やがて動けなくなり、また赤ん坊のように寝た状態になります。

 ちょっと、ブラックな 「なぞなぞ」 でしたかね。


 さて、なんで、そんな話から始めたのかといえば、最近の僕は、自分でも自分の日常の変化に戸惑っているからです。
 「3」 を飛び越えて、いきなり 「0」 に近づいているのではないか……

 と、心配になるくらい、よく眠ります。
 そもそも以前から8時間睡眠を心がけている健康志向の持ち主ではあるのですが、近ごろは、それでも眠りが足りません。
 毎日平均9~10時間は眠らないと起きられません。
 さらに、昼食後には仮眠をとる始末です。

 「眠り姫」 ならぬ、「眠り爺」 であります。


 このことを同居する次女に話したら、
 「そのうち、そのまま起きてこないんじゃないの」
 と一笑に付されてしまいました。

 でも、この言葉、思えば僕が、ずーっとオヤジに死ぬまで言い続けていた言葉なんですね。
 「じいさん、『寝る子は育つ』 っていうけど、『寝る爺は旅立つ』 ぞ!」
 って。
 そうなんです、亡くなる前のオヤジは、食事とトイレに起きる以外は、ずーーーーーーっと眠り続けていたんです。

 そして言葉通り、そのまま眠るようにあの世へ旅立って逝きました。


 僕の場合、まだまだお迎えは来ないと思いますが、一抹の不安はあります。
 もし、このまま起きなかったらどうしょう……と。

 ま、原因は分かっているんですけどね。
 たぶん、暇なだけだと思います。
 予定がある日は、何時でも起きられるのですから。


 秋眠 暁を覚えず
    


Posted by 小暮 淳 at 11:14Comments(0)つれづれ

2020年11月26日

温泉考座 (48) 「復活した伝説の湯」


 私は子どもの頃から、冬になると乾燥肌に悩まされていました。
 風呂から上がり、布団に入ると、体中がかゆくて、なかなか寝つけません。

 大人になってから仕事で温泉をめぐるようになり、皮膚病に効くといわれる温泉にいくつも入りましたが、なかなか自分の肌に合う温泉には出合えずにいました。


 藤岡市下日野は、四方を深い森に囲まれた山の中。
 標高はさほど高くないのですが、県道からはずれて山道に差しかかった途端、ひんやりと空気が変わります。
 渓流の音だけが山あいに響く川のほとりに、猪ノ田 (いのだ) 温泉の一軒宿 「久惠屋 (ひさえや) 旅館」 が、たたずんでいます。

 猪ノ田の湯は明治時代のはじめから 「皮膚病に効く」 という評判が高く、西上州で最も古い湯治場として、にぎわっていました。
 当時は源泉の湧き口に野天の湯舟があるだけでしたが、大正時代になって旅館が建てられ、戦前までは大いに繁盛していたといいます。

 しかし、戦後になり経営が悪化し、昭和40年代には廃業してしまいます。
 惜しむ声はあっても、源泉は長い間、森の中で眠ったままでした。

 その源泉が復活したのは昭和58(1983)年のこと。
 藤岡市内で牛乳販売業を営んでいた前主人の深澤宣恵さん (故人) が、周囲の反対を押し切って旅館を開業しました。
 「歴史と効能のある温泉を復活させ、貴重な地下資源をもう一度、世に出したかった」
 といい、復活した伝説の湯に、再び全国から湯治客が訪れています。

 源泉は、メタほう酸と硫化水素を含むアルカリ性の冷鉱泉。
 独特の腐卵臭がするため、地元では 「たまご湯」 と呼ばれていました。
 殺菌、浄化、漂白の作用があり、皮膚科や小児科の医者が患者のために源泉を取り寄せたこともありました。
 宿では、源泉を詰めたペットボトルの販売もしています。

 人によって効能に違いがあることはもちろんですが、私は毎年冬になると就寝前に、この源泉を肌に塗っています。
 おかげで今年の冬も快適に過ごすことができました。


 <2014年4月23日付>
   


Posted by 小暮 淳 at 11:07Comments(0)温泉考座

2020年11月25日

ようこそ殺人現場へ


 これだからライターという仕事は、やめられません。

 読者の皆さんは、覚えていますでしょうか?
 以前、このブログで、非業の死を遂げた一介の村医者が、死後、民衆により神格化され、現在でも祀られたいるという話を?
 僕は、その医師が殺害された現場までの足取りを追いました。
 そして、ついに、その場所を突き止めたのです。

 というのが、前回の報告でした。
 ※(2020年9月29日 「殺害現場はココだ!」 参照)


 その後、僕は、この話を高崎市内に無料配布されているフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に執筆しました。
 掲載されたのは、先週の金曜日です。

 「小暮さん、今、お時間大丈夫ですか?」
 昨晩、突然、編集長から電話がありました。
 「反響がありました! さっき、読者と名乗る男性が、わざわざ社を訪ねて来たんです」
 と、かなり興奮気味であります。

 電話やメールを寄こす読者は多々いますが、直接、訪ねて来る読者というのは珍しい。
 「で、なんだって?」
 「それがですね、殺人現場へ行ってきたと言うんですよ!」
 「えっ、墓ではなく、殺人現場へ?」
 「墓参りもしたらしいのですが、現場にも」
 「現場っていったって……」


 編集長と僕が驚いていたのは、殺された医師の殺害現場を特定できたということです。
 記事には、確かに 「事件現場」 とキャプションが付いた写真が掲載されています。
 しかし、写っているのは路面のアップだけです。

 実は発行前、この殺害現場の写真の掲載については、論議されました。
 「引き (全景) の写真を載せると場所が特定され、近隣住民に迷惑がかかるかもしれない」
 として、写真をトリミング (画像処理) してから掲載しました。

 今、改めて掲載写真を見ても、どこにでもある道路にしか見えません。
 「この写真で、よく特定ができたね?」
 「それがですね、一部、情報が写り込んでいたんですよ!」

 それは、車でした。

 写真の奥にポツンと小さく、赤い車が写っています。
 もちろん、ナンバープレートの判読なんてできません。
 「えっ、この車で場所が分かっちゃったの?」
 「ええ、特長のある車両ですからね」


 マニアックな読者って、いるものですね。
 そこまで深読みしていただけるなんて、ライター冥利に尽きるかもしれません。

 「で、その読者、それを言うためだけに編集室に来たの?」
 「いえ、ほかの人にも教えてあげたいからと、掲載紙をもらいに来たんですよ」


 読者様は神様であります。
 ただただ、頭が下がります。

 「で、小暮さん! その読者がね、謎めいたことを言って帰ったんですよ」
 「謎めいたこと?」
 「ええ、死んだ医師の墓が、もう一つ、別の場所にあると!」
 「そこは、どこ!?」

 そのあと、編集長から告げられた言葉に、全身鳥肌が立ちました。
 その場所は、殺された医師が、開業医になる以前に住んでいた地名だったのです。


 謎学の旅は、つづく。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:17Comments(0)執筆余談

2020年11月24日

無表情の時代


 「うるさいな! 今、やっているところだよ!」

 老婆がバッグから財布を取り出しながら突然、大声を上げました。
 叫んだ相手は、レジ脇にある機械です。
 依然、機械は言葉をくり返しています。

 <オ金ヲ入レテ下サイ>


 コロナ禍の影響でしょうか、今年になってレジでの支払いを精算機で行うスーパーマーケットが増えています。
 「3密」 を避けた無接触の精算は、理にかなっているし、とても便利です。
 しかし一方で、機械特有の弱点が浮き彫りになっています。

 それは、やさしさや思いやりの欠如です。


 もし店員が対応していたら老婆は、大声を上げることはなかったと思います。
 「ごめんなさいね。もたもたしちゃって」
 「いえ、ゆっくりどうぞ」
 と、難なくレジを済ませたはずです。

 店員には、状況を判断して、臨機応変に対応する力があるからです。
 しかし、機械は一方通行です。
 容赦なく、入金の催促をしてきます。

 <オ金ヲ入レテ下サイ>

 老婆がキレる気持ちも分かります。


 最近はスーパーマーケットだけではありません。
 ファーストフード店やコンビニエンスストアでも順次、精算機の導入が進んでいます。

 先日、某コンビニに寄った時のことです。
 同じコンビニの他の店では精算機での支払いだったので、レジ周りをキョロキョロとしてしまいました。

 「あれ、ここは機械じゃないの?」
 「ええ、うちは、まだなんです」
 「このまま入れなくて、いいんじゃないの?」
 「こっちのほうが、いいですか? はい、○○円のお返しです」
 「僕はね。こうやってお姉さんと話ができるし(笑)」
 「私も本当は、お客様とコミュニケーションがとれるので、このままのほうが、いいんですけどね」

 なーんていう会話を楽しんできました。
 でも次に、あのコンビニに行ったときは、僕の相手をしてくれるのは無表情の機械なんでしょうね。

 昭和の時代には考えられなかったことです。
  


Posted by 小暮 淳 at 10:35Comments(0)つれづれ

2020年11月23日

温泉考座 (47) 「ありがたい温泉」


 「今の人たちは、温泉を勝手に使っているよね。でも本来温泉は、人間が使わせていただいている、ありがたいものなんだよ」
 こう言った秘湯の宿の主人がいました。

 竹下内閣の政策として、昭和63(1988)年から町おこしのために全国の市町村に配られた 「ふるさと創生資金」。
 1億円の使い道は、それぞれでしたが、温泉のない多くの自治体が温泉を掘削し、入浴施設を造りました。
 ボーリング技術が飛躍的に進歩し、地質学者が 「出ない」 と明言していた平野部でも、温泉を掘り当てることが可能になったからです。

 「我々の商売敵は、日帰り温泉施設です」
 と言い切る温泉宿の主人もいます。
 確かに平日の日帰り温泉施設をのぞいてみると、お年寄りたちがカラオケをしたり、飲食品を持ち込んだりして、朝から晩までくつろいでいる姿を見かけます。
 その光景は、まさに街中に現れた “現代の湯治場” のようです。


 嬬恋村にある県最西端の温泉地、鹿沢温泉 「紅葉館」 の創業は明治2(1869)年。
 往時は10軒以上の旅館がありましたが、大正7(1918)年に大火が襲い、全戸が焼失してしまいました。
 数軒が約4キロ下りた場所に引き湯をして新鹿沢温泉を開き、湯元の紅葉館だけが源泉を守り続けています。

 平成25(2013)年6月、老朽化のため本館が建て替えられましたが、湯治場風情が残る昔ながらの内風呂が男女一つずつあるだけ。
 豊富な湯量からすれば、もっと大きな浴槽や露天風呂があってもよさそうですが、
 「大切な湯の鮮度を考えれば、これ以上浴槽を大きくすることはできません。先祖からも湯と浴槽に手を加えるなと、代々言い継がれていますから」
 と5代目主人の小林昭貴さんは話します。

 源泉の湧出地と浴槽の距離は、わずか数メートル。
 加水も加温もしません。
 湯は熱めで、最初は強烈な存在感をもってグイグイと体を締めつけてきますが、やがてスーッとしみ入るように馴染んでくるのが分かります。

 人間が使わせていただいていることを実感できる “ありがたい” 温泉です。


 <2014年4月16日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 11:19Comments(0)温泉考座

2020年11月22日

消えるソウルフード


 群馬県民のソウルフードといえば、「焼きまんじゅう」 や 「おっきりこみ」 など名の知れたメジャーな食べ物もありますが、前橋市民のソウルフードとなると、かなりレア物となります。

 たびたび、このブログにも登場する 「あくざわの焼きそば」。
 昭和40~50年代に街中で遊んだ前橋っ子たちにとっては、究極のソウルフードでした。
 一時、姿を消してしまいましたが、僕同様の往年のファンだった現主人が、数年前に味を引き継ぎ 「あくざわ亭」 として復活させたことは、全国ネットのテレビニュースにもなりました。
 ※(当ブログの2020年5月23日 「やきそば日和」 ほか参照)


 「はぎのかりんとう」
 「元黒飴」
 「兵六のだんご」
 なども、子どもの頃のおやつとしていただいた前橋のソウルフードでした。

 数ある前橋のソウルフードの中で、誰もが認める “キング・オブ・前橋銘菓” といえば、やっぱり、これです!
 「片原饅頭」

 そう、県内第1号デパートの前三百貨店の向かいにあった老舗和菓子屋の 「志満(しま)屋本店」 が製造販売していた “おまんじゅう” であります。
 創業は天保3年 (1832) 、しかし後継者不在のため平成8年(1996) に160余年の長い歴史を閉じました。


 片原饅頭とは?

 見た目は、一般にいう酒まんじゅうです。
 中は甘さを抑えたこしあん、まわりの皮はフワフワで、前三百貨店の買い物帰りに立ち寄り、バラで買って、その場で、できたてを食べるのが楽しみでした。

 でも難点は、無添加のため、すぐに硬くなってしまうこと。
 (当時はビニールによる個別包装がされていませんでした)
 だから、いただきものとして箱詰めでもらうと、数日後には皮がカチカチになって、ひび割れてしまいます。
 まだ電子レンジなど無い時代です。
 そんなときは蒸し器で吹かし直すのですが、1個だけ食べたいときは、よく電気炊飯器の炊きあがったご飯の上に乗せて蒸したものでした。

 当然、食べる時には、まんじゅうの底は、ご飯粒だらけです。
 底に貼られている 「へぎ」 と呼ばれる薄い木の板を上手にはがしながら、一粒一粒ご飯粒を食べるのも楽しみだったことを覚えています。


 平成14年(2012)、「あくざわのやきそば」 同様、郷土の名物を復活させたいと根強いファンにより味が復元され、「片原饅頭 前ばし万十屋」 として市内で販売が再開されました。
 僕も何度か食べましたが、味は当時のままでした。
 それもそのはずで、店主は志満屋で働いていた職人を探し出し、5年がかりで指導を仰ぎ、開店に漕ぎつけたといいます。

 でも……

 先週、惜しまれながらも閉店してしまいました。
 理由は、またしても後継者不在です。
 残念でなりません。


 “前橋の味” 片原饅頭

 どなたか、また、このソウルフードを復活させてください!
   


Posted by 小暮 淳 at 11:31Comments(0)つれづれ

2020年11月21日

ナオちゃんが死んだ


 「もう、そんな時期なのか……」

 日に日に届く喪中ハガキに、師走の足音を感じます。
 去年の今頃は、僕も両親の訃報を伝える喪中ハガキの宛名書きをしていたことを思い出します。

 「そろそろ年賀状の用意をしなくては……」
 年内で喪が明けるわけですから、2年ぶりの年賀状です。


 郵便受けから取り出したハガキを手にして、仕事場へ。
 <母○○が○月○日に九十三歳で永眠致しました>
 <父××が×月×日に八十八歳で永眠致しました>

 僕の知り合いの親ですから、みんな高齢です。
 僕の両親も94歳と91歳でしたから、なんのためらいもなく目を通しました。


 <本年七月に夫Nが六十一歳にて永眠致しました>

 えっ……
 その喪中ハガキを手にした途端、全身が硬直してしまいました。
 「ナオちゃんだ!」
 差出人は、ナオちゃんの奥さんです。


 僕とナオちゃんは、幼稚園からの幼なじみです。
 小学校、中学校と一緒に通いました。
 家も近く、母親同士が仲良かったこともあり、よく一緒に写真を撮りました。

 そのナオちゃんが……


 別の高校へ進学したため、10代の後半からしばらくは疎遠になっていましたが、20代の半ばに僕らはバッタリ再会をしました。
 互いに都落ちをして、群馬に帰って来ていたのです。
 しかも2人とも定職についていないフリーター同士。
 また昔のように、つるんで遊び出しました。

 ♪ ぼ、ぼ、ぼくらは 秘境探偵団 ♪

 なんて大声で歌いながら、ナオちゃんの車で県内の滝や洞窟など深山幽谷の秘境をめぐる探検を楽しんでいました。
 でも、やがてナオちゃんは就職し、結婚を機に、遠くへ行ってしまいました。
 僕も家族ができ、仕事が忙しくなり、ナオちゃんとの思い出は、いつしか青春の1ページに……

 それでも去年までは毎年、年賀状のやり取りだけはあり、互いの近況報告だけはしていました。
 最後に会ったのは……
 確か5年程前の同窓会です。

 「よう、ナオちゃん!」
 「おお、ジュンちゃん!」
 広い会場内で互いを見つけ出し、元気に歳を重ねている姿を確認しあいました。

 なのに、なぜ……


 享年61歳は、若すぎます。
 病気を患っていたのでしょうか?
 同窓会の時の笑顔からは、まったく想像できません。


 ナオちゃん、さみしいよ。
 また会いたかったよ。
 だって僕らは同志じゃないか!

 ♪ ぼ、ぼ、ぼくらは 秘境探偵団 ♪


 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 合掌 
  


Posted by 小暮 淳 at 11:48Comments(0)つれづれ

2020年11月20日

温泉考座 (46) 「熱くなれりゃ、湯宿の湯じゃねえ」


 かつて三国街道の宿場町だった湯宿(ゆじゅく)温泉 (みなかみ町) には、たくさんの宿屋が軒を連ね、旅人や湯治客でにぎわっていたといいます。
 戦前までは20軒ほどあった旅館も、現在は5軒が湯を守りながら商いをつづける小さな温泉地です。

 湯宿温泉は昔から湯量が豊富な温泉として知られ、5本ある源泉は高温のため加温されることもなく、どの旅館でもかけ流しのスタイルを守っています。
 また石畳のつづく温泉街には、「竹の湯」 「松の湯」 「窪湯」 「小滝の湯」 の4つの外湯 (共同湯) があります。

 なぜ小さな温泉地に、こんなにも外湯があるのでしょうか?

 それは温泉が地元住民の共有の財産だからです。
 今でも風呂のない家が多く、「共同湯維持会」 に参加する約120戸は、それぞれ外湯のカギを持っていて、いつでも入浴できるようになっています。
 地元民以外の人もカギが開いていれば、誰でも自由に利用することができますが、各湯に 「善意の箱」 が置かれており、維持管理費として100円以上の謝恩金が必要です。

 「窪湯」 の手前に、黒塀と古木に囲まれた湯宿温泉最古の旅館 「湯本館」 があります。
 開湯は約1200年前と伝わっています。
 同館に残る古文書には、初代沼田城主の真田信之が関ケ原の合戦の後、戦の疲れを癒やすために訪れたことが記されています。

 「たぶん、私は21代目だと思います」
 と現主人の岡田作太夫さん。
 あまりにも歴史が古すぎて、
 「正確なことは分からない」
 と言います。

 裏庭に湧く源泉の温度は約62度。
 湧き出した湯を敷地内の高低差を利用して、冷ましながら浴槽へ流し入れていますが、それでも約45度とかなり熱めです。
 私は毎回、水道のホースを抱えながら入っていますが、地元の人たちは、
 「熱くなけりゃ、湯宿の湯じゃねえ」
 と言って、さっさと湯に入っていきます。

 情けない話ですが、私は湯本館の湯に限らず、外湯にしても、水で薄めずに肩まで沈めたためしがありません。


 <2014年4月9日付>

 ※宿泊者に外湯のカギを貸し出している旅館もあります。
  


Posted by 小暮 淳 at 11:29Comments(0)温泉考座

2020年11月19日

浦島太郎と国定忠治


 毎週火曜日の午後9時から放送されている群馬テレビの謎学バラエティー番組 『ぐんま!トリビア図鑑』。
 放送開始から6年目を迎え、今週の放送で226回を数えます。
 これもひとえにスポンサー様、視聴者様のおかげです。
 心よりお礼を申し上げます。

 僕は、この番組のスーパーバイザー (ご意見番) をしています。


 昨日は3ヶ月に1度開かれる番組の企画・構成会議でした。
 僕も末席にて、今後のテーマの選考に口をはさませていただきました。

 同席したのは11名。
 内訳はプロデューサー1人、ディレクター6人、放送作家2人、スーパーバイザー2人です。

 滞りなく2時間半の会議を終え、来年4月までの番組テーマと放送内容が決まりました。


 さて、スーパーバイザーの仕事とは?

 ご意見番ではありますが、時には番組にもレポーターや解説者として出演します。
 僕の番組内での肩書は 「ミステリーハンター」、またの名を 「トリビア博士」 といいます。
 先月の放送では、古刹に伝わる七不思議を追って、最後は伝説の滝に打たれるという荒業にも挑戦してきました。

 でも、それだけではありません。
 当然、ネタの提供だっていたします。
 ということで、今回は持ちネタを2つ提供してきました。

 ① 群馬産 「浦島太郎」 の紙芝居
 拙著 『民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん) に登場する伊勢崎市発祥の浦島太郎伝説です。
 この話を地元出身のチンドン屋さんが紙芝居にして、興行してくださることになりました。
 ※(当ブログの2020年3月23日 「紙芝居がやって来た!」、2020年9月27日 「宮子の浦島太郎」 参照)

 ② 国定忠治 「末期の酒」 の落語
 江戸後期の侠客、国定忠治が処刑される間際に所望した 「牡丹」 という酒の醸造元を探すドキュメント。
 同時に、この話に感銘を受けた前橋市在住の落語家が創作落語として上演してくださることになりました。
 ※(当ブログの2019年8月4日 「前橋の死神とHの仲間たち」、2020年10月3日 「忠治が呑んだ酒」 参照)

 どちらも来年春の上演予定です。
 今からワクワクが止まりません。

 乞う、ご期待!
  


Posted by 小暮 淳 at 09:37Comments(0)テレビ・ラジオ

2020年11月18日

寒い冬こそ温泉へ 「旅なかのじょう 如月キャンペーン」


 中之条町観光大使からのお知らせです。

 群馬県中之条町では、新型コロナウイルス感染拡大の影響による観光需要の回復に向け、中之条町民および群馬県民を対象に宿泊料金の割引を支援し、商品券および農産物割引券を付与することで観光需要の喚起、中之条地域の観光振興を図る 「旅なかのじょう 如月キャンペーン」 を実施することになりました。
 四万・沢渡・尻焼・花敷・応徳・たんげ温泉などの登録宿泊施設にて利用できます。


 「如月キャンペーン」 とは?

 群馬県民限定!
 1人1泊あたり宿泊費用が総額6,000円分お得になります。
 しかも、連泊制限なし!
 ●4,000円分割引またはキャッシュバック
 ●中之条町内で使える商品券1,000円分付与
 ●農産物引換券1,000円分付与
 ※割引は登録を受けた宿泊施設にて、商品券も登録を受けた店舗にて利用可能です。


 「旅なかのじょう 如月(2月限定)キャンペーン」 
 2021年2月1日(月)~28日(日) 宿泊分

 <利用の流れ>
 ①登録宿泊施設であることを確認 (特設サイトにて確認ください)
 ②お好きな方法で宿泊予約 (旅行会社、予約サイト、施設へ直接予約など)
 ③宿泊当日にフロントでキャンペーン利用を伝える (群馬県民であることを確認できる身分証明書を提示)
 ④申込書を受け取り必要事項を記入してフロントに提出
 ⑤精算時に総額6,000円分の特典を受ける


 ■問い合わせ先
  「旅なかのじょう 如月キャンペーン」 事務局 TEL.0279-75-8814
   


Posted by 小暮 淳 at 12:26Comments(2)大使通信

2020年11月17日

死して徳を残す


 昨日の講演終了直後のこと。

 壇上から下りて、関係者にあいさつをしようと会場内を歩いているときでした。
 高齢の男性が、頭を下げながら近寄ってきました。

 「わたくし、先生のお父様に生前、大変お世話になった者です」
 「えっ、オヤジですか?」
 「ええ、小暮さんのご子息の講演があると聞いて、今日、こうやって、やってまいりました」

 歳の頃は、80代後半といったところでしょうか。
 でも背筋は伸びていて、かくしゃくとし、声にも張りがあります。


 話を聞くと、この方も 「日本野鳥の会」 の会員だったといいます。
 僕のオヤジは長年、前橋分会長をしていました。
 「それだけのあいさつのために、わざわざ来てくれたのだろうか?」
 と思いながら思い出話を聞いていると、その方は、おもむろにノートとペンを差し出しました。

 「お父様が生前、『○○霊園に自分の墓を買ってある』 と言っていたのを思い出しましてね。行って来たんですが、なにせ○○霊園は広すぎまして、結局、見つかりませんでした。どのあたりか、教えていただけませんでしょうか?」

 差し出されたノートに、僕は霊園の見取り図を描いて、渡しました。
 「この東屋が目印です。この区画を入った中ほどです。もし分からなかったら管理棟で訊いてみてください」
 「ありがとうございます。私のほかにも小暮さんの墓参りをしたいという人がいるんですよ。この地図を渡して教えてあげます」
 「ありがとうございます。オヤジも喜びますよ」


 『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』
 と言います。
 決してオヤジは名を残すような偉業を成し遂げた人ではありませんでした。
 でも、こうやって死してからも人に愛されているところをみると、だいぶ徳を積んできた人生だったようであります。

 オヤジ、よかったね。
 昔の仲間が、墓参りしてくれるってよ。


 なんだか親孝行をした気分で、帰路に着きました。  
   


Posted by 小暮 淳 at 10:41Comments(0)つれづれ

2020年11月15日

「温泉暖議(サミット)」 開催します!


 せっかく温泉の話をしているんだもの、温泉に入りたいし、できれば湯上りに生ビールも呑みたいし、その勢いで地酒なんて差し合いながら、夜通し温泉談議ができたら最高なんだけどなぁ~……

 そんな夢のようなことを考えていたら、実現してしまいました!


 会場として名乗り出てくださったのは、旧倉渕村 (高崎市) の相間川(あいまがわ)温泉 「ふれあい館」。
 温泉ファンに呼びかけ、熱く温泉について語り合おうという企画です。

 いただいたチラシには、こんなコピーが書かれていました。
 <相間川温泉は歴史も浅くマイナーな温泉ですが、温泉の泉質ときたら名だたる全国的な有名温泉と比べても、決して引けを取らないトップクラスの温泉です。
 今回開催する 「相間川の温泉暖議」 は、小さな集まりのビッグな温泉会合で、温泉経済と温泉文化で地域活力を探るべく開催されます。
 全国の温泉好きよ集まれ! 熱く温泉を語ろう!>


 えっ、相間川温泉ってどこにあるか知らないって?
 そんな方は、拙著 『西上州の薬湯』(上毛新聞社) をご覧ください。
 表紙になっている赤褐色の湯をたたえている濃厚な湯舟を!

 ということで、第1回サミットの講師として、僕が講演をすることになりました。
 もちろん、講演の後には座談会もあり、その後は懇親会もあります。

 コロナ禍のストレスを発散すべく、山深い秘湯の一軒宿で、のんびりゆったり、そして熱く温泉について語り合おうではありませんか!


          温泉を熱く語ろう
       相間川の温泉暖議 (サミット)

 ●日時  2020年12月18日(金) 受付 13:00~15:00
 ●場所  相間川温泉 「ふれあい館」 会議室
 ●会費  7,150円/人 (1泊2食・宿泊代込み/当日持参)
       ※11,000円のところGoToトラベル35%割引が適用されています。
       ※さらに地域共通クーポン券2,000円が付きます。(飲み代に回せます)
 ●定員  20名 (1部屋2~3名) 相部屋となります。
 ●締切  12月11日(金) ※定員になり次第締め切ります。
 ●問合・申込  相間川温泉 「ふれあい館」 TEL.027-378-3834
            (群馬県高崎市倉渕町水沼27)

 <内容>
 13:00~15:00  受付 (入浴タイム)
 15:00~16:00  講演 「群馬は温泉パラダイス」 講師:温泉ライター 小暮 淳
 16:00~17:30  温泉暖議 (自由討論式意見交換会)
 18:00~20:00  夕食 (懇親会)
 ※翌日、朝食の後、温泉暖義のまとめ会あり
   


Posted by 小暮 淳 at 11:30Comments(0)講演・セミナー

2020年11月13日

温泉考座 (45) 「幻の西長岡温泉」


 やぶ塚温泉 (太田市) は、群馬県最東端の温泉地。
 丘陵と田園に囲まれた平野に湧く、東上州では数少ない温泉の一つです。
 歴史は古く、天智天皇 (626~671) の時代に発見されたと伝わり、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、傷ついた兵士をこの湯で癒やしたという伝承から 「新田義貞の隠れ湯」 とも言われてきました。

 天保2(1831)年創業の老舗旅館 「開祖 今井館」 の9代目主人、今井和夫さんによれば、かつて、この地には 「湯の入」 「滝の入」 と 「西長岡」 の3つの湯が湧いていたといいます。
 「湯の入」 と 「滝の入」 は、やぶ塚温泉の源泉ですが、「西長岡」 の湯だけは丘陵一つ越えた離れた所に湧き、一軒宿があったとのことです。

 旧 「藪塚本町誌」 にも <明治22年にはすでに創業、「長生館」 という宿があった。昭和32年12月に焼失> の記載があります。
 これが温泉ファンの間で “幻の温泉” と言われ、復活を望む声が上がっている西長岡温泉です。

 自然主義の小説家、田山花袋は温泉好きとしても知られ、全国の温泉をめぐり多くの紀行文を残しています。
 大正時代に発表した 『温泉めぐり』 という著書の中で、こう記しています。

 <その西長岡の温泉に初めて私の出かけて行ったのは、そのあくる年の二月のまだ寒い頃であった。(中略) 位置としては藪塚よりも深く丘陵の中にかくれたようになっていて、一歩一歩入って行く心持が好かった。(中略) 此処もやはり旅舎は一軒しかない。>

 花袋は胃腸に効くこの温泉を大変気に入り、<いろいろな人に紹介した> とも言っています。
 また、西長岡温泉を舞台にした小説 『野の道』 を書きました。

 「私が小学生の頃でした。山の向こうが真っ赤に染まり、とても怖かったことを覚えています」
 と今井さんは、当時を述懐します。

 もし、あの火災がなかったら……。
 群馬の最東端温泉地は、やぶ塚温泉ではなかったかもしれませんね。


 <2014年4月2日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 13:54Comments(0)温泉考座

2020年11月12日

はあ、おっぺしたん?


 昔から僕は、「自分に甘い」 と言われます。
 でも、だからといって他人に厳しいわけではありません。
 自分に甘いだけです。

 その理由の一つに、“ごほうび癖” があります。
 頑張った自分に、すぐに、ごほうびを上げてしまう癖です。

 たとえば、仕事。
 「何日も缶詰めになって、頑張って長い原稿を書いたな。アンタはエライ! よし、ごほうびをやろう!」
 ということになるわけです。

 これだけ聞くと、それくらい、いいんじゃないの? と思われそうですが、僕の場合、その頻度が多いことが家族からは非難を浴びるようであります。
 「その程度のことなら、みんな日常でやっていることです」
 と、とがめられてしまいますが、僕にしてみれば、そのごほうび欲しさに頑張っているのです。
 だから誰にナント言われようと、ごほうびは必ず上げるのです。


 ということで、県外まで往復3時間もかけて、それも2回、合計4時間にわたる講演をしてきたのですから、当然このことは、“ごほうび” の対象となるわけであります。

 そして、そのごほうびとは、相も変わらず一つ覚えの、ご存じ酒処 「H」 であります。

 「お疲れさん。頑張ったよね」
 とママに言ってほしくて、しかもママを独り占めしたくて、開店と同時に飛び込むのが常です。
 でも、このコロナ禍であっても、Hファンは健在です。
 5時を過ぎると、一人、また一人と常連たちが顔を出しはじめます。
 ママとのラブラブデートも、はい、それま~で~よ ♪


 7時を過ぎた頃、それまでは、それぞれに呑んでいたのですが、誰かが言った一言に、カウンター席の全員が共鳴してしまいました。
 「えっ、それって上州弁なの~!?」

 それからは、あれも、これもと、子どもの頃に使っていた上州弁がオンパレード。
 「なから」(かなり)、「まっさか」(とっても) は、初級編です。
 「あいひょう」(すれ違い)、「あんけらこんけら」(のろま)、「おこんじょ」(いじわる) あたりになると、地域性や個人差があり、「使っていた」 「知らない」 に分かれました。

 たった一つ、全員一致で、「言った!」 「言った!」 と大爆笑になった方言がありました。
 それは、「おっぺす」。
 「おっぺす」 とは、SEXのこと。
 これに、(もう) という意味の 「はあ」 を付けると、思春期の子供たちが得意になって使っていた常套句ができあがります。

 「はあ、おっぺしたん?」


 もう、その言葉がおかしくて、おかしくて、全員で腹を抱えて笑いました。
 それも、みんな 「おっぺす」 とは無縁の60歳以上の男女ばかりです。

 「いつ、おっぺしたん?」
 「はあ、忘れたいのぉ」
 「最後に、おっぺしたのは、いつだったかいのぉ」


 呑んで、笑って、最高のごほうびをいただきました。
   


Posted by 小暮 淳 at 11:50Comments(3)酔眼日記

2020年11月11日

小山、ふたたび。


 <塩原は有名な温泉郷である。>
    田山花袋・著 『温泉めぐり』 より


 ♪ おやま あれま 小山ゆうえんち~ ♪

 昨日、3週間ぶりに、また小山駅に降り立ち、秋晴れの空のもと駅前通りを颯爽と歩いたのであります。
 もちろん、口ずさむ歌は、いまは無き 「小山ゆうえんち」 のテーマソングであります。


 小山市中央公民館で開催された市民講座 「ほっこり温泉講座」。
 その第2回目、後編の講師を務めてきました。
 前編2時間、後編2時間、計4時間にわたる温泉三昧のガチ講座であります。

 前回は、温泉法の説明や温泉地の成り立ち、日帰り温泉と古湯との違いなど、「神様のいる湯」 と題して温泉の基礎知識について、お話ししました。
 そして今回は、少しレベルを上げて、 「かしこい湯選び」 と題して応用編をたっぷり2時間お話ししました。


 それにしても栃木県の人は、温泉大好きな人が多いですね。
 しかも、お隣ということもあり、群馬の温泉地をよく知っています。

 四大温泉地のみならず、法師や宝川、尻焼、鹿沢などの温泉地名を挙げても、「行ったことあります」 の声が多く聞かれました。
 ということは、いよいよ来年は、上級編の開催でしょうか?


 ところで、冒頭の田山花袋の著書からの一文、なんのことだか分かりますか?
 これは、栃木県の 「塩原十一湯」 が、“温泉郷” という言葉の発祥地だという証左です。

 文豪・田山花袋は、大正7(1918)年に 『温泉めぐり』 という紀行随筆集を発表しています。
 その中に 「塩原」 の項目があり、この言葉から始まっています。
 それ以前に “温泉郷” という言葉はなかったため、田山花袋が日本で最初に使った人物とされています。

 落語でいえば、「まくら」 でしょうか。
 そんな栃木ネタから今回の講座をはじめさせていただきました。

 では、小山市民のみなさん、また会いましょう!
   


Posted by 小暮 淳 at 10:59Comments(0)講座・教室

2020年11月09日

温泉考座 (44) 「なぜ温泉まんじゅうは茶色い?」


 温泉地のみやげの定番といえば、「温泉まんじゅう」。
 日本全国どこの温泉地へ行っても、必ずと言っていいほど売っていますが、ほとんどの場合、あんこが茶色い皮に包まれています。

 なぜ皮が茶色いか知っていますか?
 それは伊香保温泉 (渋川市) が、温泉まんじゅう発祥の地だからです。

 開湯から約1,400年の歴史がある伊香保温泉には、色の異なる2つの源泉が湧いています。
 鉄分の多い茶褐色の湯は 「黄金(こがね)の湯」 と呼ばれ、夏目漱石や芥川龍之介、島崎藤村ら、多くの文人墨客に愛されてきました。
 泉質は血圧降下や動脈硬化の予防に効果が高いといわれる硫酸塩温泉で、昔から婦人病に良く効くため 「子宝の湯」 としても親しまれています。

 もう1つの源泉は 「白銀(しろがね)の湯」。
 こちらは平成になってから発見された、保湿効果のあるメタけい酸を含有する無色透明の温泉です。

 この 「黄金の湯」 と同じ色のまんじゅうを最初に作ったのが、明治43(1910)年創業の老舗菓子店 「勝月堂」 でした。
 昭和初期に皇室への献上品に選ばれたことがきっかけで全国に知られるようになり、 多くの温泉地で同じような茶色の温泉まんじゅうが誕生したといわれています。
 ちなみに伊香保温泉では、湯の色を表現していることから 「湯の花まんじゅう」 と呼ばれています。

 現在、伊香保温泉には 「湯の花まんじゅう」 を売る店が約10軒ありますが、石段街で営業を続けている 「勝月堂」 では、今でも昔と変わらぬ製法で、まんじゅうを手作りしています。
 そのため大きさは不ぞろいですが、黒糖を使い表現した皮の色は、まさに 「黄金の湯」 そのもの。
 弾力のある柔らかな茶色い皮に、甘さひかえめのこしあんが包まれた上品な味わいは、伊香保温泉を訪れる観光客や温泉ファンに愛されています。

 このほかにも、温泉記号発祥の地といわれる磯部温泉 (安中市) や国民保養温泉地の第1号に指定された四万温泉 (中之条町) など、群馬県内には全国に誇れる温泉逸話がたくさんあります。


 <2014年3月26日付>
  


Posted by 小暮 淳 at 09:59Comments(0)温泉考座

2020年11月07日

コロナを予知した二人


 依然、コロナは収束する様子もなく、猛威をふるっています。
 その影響は経済面だけではなく、人々の精神までむしばみ始めています。

 たとえば、冠婚葬祭。

 結婚披露宴はもとより、授賞式などの数々のイベントは、延期もしくは中止に追い込まれています。
 では慶弔の弔は、どうでしょうか?
 新聞の 「おくやみ欄」 を見ても、家族葬がほとんどで、しかも <行われた> という過去形の表記が多いことに気づきます。

 そういえば僕自身、今年は一度も告別式に会葬していません。
 新聞記事で知るだけで、お別れが言えなかった人の多いことが……


 それでも他人ならば、あきらめもつきます。
 でも、もし、それが実の親だったら?

 このコロナ禍で、「看取れない」 人たちが増えているといいます。
 親の最期に立ち会えないだけでなく、介護施設などにいた場合は、面会もままなりません。
 それは、子としたら悔やんでも悔やみきれません。
 誰かに当たりたくても、相手がコロナでは、あきらめるしかありませんものね。


 そう思うと、つくづく僕は、昨年旅立った両親に感謝の念を抱くのです。

 2月、オヤジは10年間の認知症のすえ、94歳で逝きました。
 5月、オフクロは5年間の寝たきり生活のすえ、91歳で逝きました。
 丸10年間にわたる長いダブル介護生活でしたが、それでも僕ら兄弟は 「やれるだけのことはやった」 と後悔のない、すがすがしい気持ちで二人を見送ったのであります。

 今思えば、二人は、やがて訪れる新型コロナウイルス感染という地球規模の危機を予知していたのかもしれません。


 オフクロは若い頃から病弱で、“病気のデパート” とまでいわれた人生でした。
 一方、オヤジは生涯、“病気しらず” の健康優良爺です。
 死ぬまで、病院には世話になりませんでした。

 そんな格差がある二人なのに、オヤジの口癖は 「俺より先に死ぬな」 でした。
 大正生まれの頑固親父ですからね。
 「女は男を看取るものだ」 という古い考えの持ち主だったのです。

 だからオフクロは、頑張りましたよ。
 大病をするたび、「自信ないよ。お父さんを見送れないかもしれない」 と、いつも弱音を吐いていました。
 そのオフクロが、寝たきりの体になっても生き続け、ついにオヤジを看取ったのです。
 ※(さすがにドクターストップがかかってしまい、オヤジの葬儀には参列できませんでしたけど)


 「かあちゃん、元号が変わるんだよ。知ってるかい?」
 「ああ、令和だよね」
 それが最後の会話となってしまいましたが、令和元年5月1日を2時間だけ生きてから旅立ちました。

 たぶん、無理をして生きていたんでしょうね。
 オヤジを見送って、ホッとして、気力が失せてしまったのかもしれません。
 でもね、オヤジを見送った後も 「どうせならオリンピックを見てから逝くよ」 なんて言っていたんですよ。

 なのに、急に逝ってしまいました。

 もしかしたらオフクロは、オリンピックが中止になることを知っていたのかもしれません。
 ひと足先に、あの世に行ったオヤジから 「なにをグズグズしている。来年まで生きてもオリンピックはないぞ!」 と告げられたのかも……


 もし、オフクロが今年まで生きていて、オリンピックの中止を知って、あわててオヤジのもとへ逝ったとしたら、僕たち家族は、死に目に遭えなかったことでしょうね。
 きっと二人は、コロナが蔓延することを知っていたのだと思います。
   


Posted by 小暮 淳 at 12:11Comments(0)つれづれ