2021年04月22日
温泉考座 (84) 最終回 「入って残そう群馬の温泉」
「なぜ温泉ライターになったのですか?」
と、よく聞かれます。
「県外の温泉は取材しないのですか?」
とも。
どちらも答えに窮してしまいます。
なぜなら温泉ライターになろうと思ったこともなく、群馬の温泉にこだわっているわけでもありません。
ただ、群馬の温泉に魅了されたことは確かです。
私は長年、県内のタウン誌や情報誌、フリーペーパーの編集に携わってきました。
紅葉や雪見のシーズンになると、決まって温泉の特集を組みます。
ところが掲載される温泉地は同じところばかり。
広告収入を優先しますから、大きな温泉地の有名旅館やホテルが顔を揃えます。
全国誌ならいざしらず、地元誌がこれでは編集人としてのプライドが許しません。
「いったい群馬に温泉は、いくつあるのだろう?」
そう思って調べのが始まりでした。
現在、群馬県には大小100余りの温泉地 (宿泊施設のある温泉) があります。
その一つ一つに源泉が湧き、その源泉を守っている人たちがいます。
「設備や料理の宣伝ではなく、代々湯を守り継いでいる人たちを紹介したい」
そんな思いから私は県内の温泉地を訪ね、宿の主人や女将から話を聞いて回るようになりました。
とりわけ魅せられたのが、たった一軒で源泉と温泉地名を守り続けている “源泉一軒宿” の存在です。
戦後、日本の温泉地は、どこも急速に変化していきました。
高度経済成長の波に乗り、団体客が観光バスでなだれ込み、湯量に見合わない大浴場と露天風呂を造り、宴会客中心の大型旅館やホテルが増え続けました。
しかし、大きな温泉地が集客に奔走している間も、一軒宿の温泉は変わることなく、かたくなに湯を守り続けていたのです。
ところが、そんな昔ながらの小さな温泉地は、観光地化による営利競争の中で取り残されてしまいました。
経営不振、後継者不在などの理由で、年々姿を消しているのが現状です。
「一軒でも多くの温泉宿を残したい」
そんな思いが、私を温泉ライターという手段 (仕事) へ導いたのだと思います。
“入って残そう群馬の温泉”
を合言葉に、これからも取材活動を続けて行くつもりです。
長い間、ご愛読いただいた読者のみなさんに、心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
<2015年3月25日付>
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年 (2020年2月) を記念した特別企画として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を紹介いたしました。
2021年04月18日
温泉考座 (83) 「自分に合う湯探し」
<脚気(かっけ)川場に瘡(かさ)老神>
<川古の土産は一つ杖を捨て>
これは昔から言い伝えられてきた温泉の効能を表すキャッチコピーのようなものです。
川場温泉 (川場村) の湯は脚気に、老神温泉 (沼田市) の湯は瘡 (皮膚病) に効果があり、川古温泉 (みなかみ町) の湯につかれば杖を忘れて帰るほど元気になる、という意味です。
中には、こんなユニークなものもあります。
<親の説教と亀沢の湯は後からじんわり効いてくる>
亀沢温泉 (高崎市) は昔からシミやソバカス、ニキビに効くといわれた西上州の薬湯で、近年は 「美人の湯」 として知られています。
医学が発達した現代では、病気になったからといって、真っ先に温泉へ行く人はいないかもしれません。
でも、病後や疲労の回復、リハビリなどの目的で温泉に通い続ける人は今でも少なくありません。
やはり、そこには温泉の持つ治癒力があるからだと思います。
医学的に治療効果がある温泉のことを 「療養泉」 といい、含まれる主な化学成分によって10種類の泉質に分類されています。
もっともポピュラーなのが日本で一番多い 「単純温泉」 です。
突出した含有成分がないため、体にも肌にもやさしく、湯あたりも少ないのが特徴です。
乳幼児から高齢者まで安心して入浴できることから、別名 「家族の湯」 と呼ばれています。
塩分を多く含む 「塩化物泉」 は、皮膚に付く塩分が汗の蒸発を防ぐことで体が芯から温まる保温効果があり、「熱の湯」 とも言われます。
湯冷めしにくく、発汗作用があります。
「硫黄泉」 には美肌効果、「酸性泉」 には殺菌効果があります。
「含鉄泉」 は飲用すると鉄分の補給になるため、鉄欠乏症の貧血に効果があるとされます。
また泡の出る 「二酸化炭素泉」 は毛細血管を広げて血圧を下げる効果があるため、「心臓の湯」 と言われています。
群馬県内には10種類の療養泉のうち、8つの泉質の温泉が湧いています。
湯めぐりを楽しみながら、自分の体に合った温泉を探してみてください。
<2015年3月18日付>
2021年04月15日
温泉考座 (82) 「群馬にうまいものあり」
いったい、いつからでしょうか?
温泉旅館に泊まると、食べきれないほどの豪華な料理が並ぶようになったのは。
これも戦後の日本が築き上げた “豊かさ” の象徴なのかもしれません。
“質” から “量” への変化は、そのまま “湯治場” だった温泉地が “観光地” に移行した時期と重なります。
また、温泉地へ行く目的も “保養” から “レジャー” に変わりました。
美味しいものをお腹いっぱい食べることは、確かに旅の楽しみの一つです。
でも旅の基本は、あくまでもふだん食べられない、その土地のものを味わうこと。
なのに海から遠い山中の旅館で、刺し身の盛り合わせが出てきたり、カニの食べ放題が人気と聞いたりすると、がっかりしてしまいます。
いくら流通事情が良くなったといえ、それでは旅をしている意味がありません。
やはり海へ行ったら海のものを、山へ行ったら山のものを、美味しくいただきたいものです。
以前、県外のご婦人から、こんなことを言われました。
「温泉が好きだから群馬には時々行くんだけど、必ず旅館でうどんが出るわよね。あれが楽しみなの」 と。
これぞ群馬が他県に誇る粉食文化です。
粉食はうどん以外にも 「おっきりこみ」 や 「すいとん」、「おやき」 など多彩で、土地土地で味も呼び名も異なります。
すいとんも片品村では 「つめっこ」、旧六合村 (中之条町) や嬬恋村では 「とっちゃなげ」 と方言で呼ばれています。
「だんご汁」 「おつけだんご」 などと呼ぶ地域もあり、鍋料理として客人をもてなしています。
温泉地にも、客人をもてなす美味しいものがあります。
上牧温泉 (みなかみ町) では、地域に伝わる川魚や野菜を炭火で焼く 「献残焼(けんさんやき)」。
下仁田温泉 (下仁田町)」 では、昔から祝いの席に出される 「猪鹿雉(いのしかちょう)料理」。
老神温泉 (沼田市) の 「山賊鍋」、梨木温泉 (桐生市) の 「キジ料理」 など、滋味豊かな山や川の幸をふんだんに盛り込んだ郷土料理が旅館の名物となっています。
群馬には海はありませんが、それに代わる美味しい食材が、たくさんあります。
ぜひ、湯めぐりをしながら郷土の味を楽しんでください。
<2015年3月11日付>
2021年04月13日
温泉考座 (81) 「東上州の名薬湯」
「歴史に名高い 新田義貞」
『上毛かるた』 の札で知られる武将ゆかりの温泉といえば、やぶ塚温泉 (太田市) です。
湯の歴史は古く、1300年以上前の天智天皇の時代に発見されたと伝わっています。
元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、傷ついた兵士をこの湯で癒やしたという言い伝えがあることから、「新田義貞の隠し湯」 とも呼ばれています。
やぶ塚温泉には、こんな伝説があります。
昔、八王子山のふもと、藪塚(やぶづか)の地に 「湯の入」 というところがあり、小さな社の下の岩の割れ目から、こんこんと湯が湧き出していました。
ある日、この温泉に1頭の馬が飛び込み、一声高くいななくと、雲を呼び、雨を起こして、天高く舞い昇って行きました。
すると温泉は、たちどころに冷泉に変わってしまいました。
ところが、何年か経ったある日のこと。
村人の夢枕に薬師如来が現れ、
「この冷泉を温めて入浴すれば、百病を治す霊泉になる」
とのお告げがあったため、温めて入浴したところ、身体の痛みはことごとく消え、さまざまな病が治ってしまったといいます。
以来、やぶ塚温泉は冷泉ながら沸かし湯として、多くの人々に親しまれてきました。
温泉街北の小高い丘に神社があり、伝説に登場する薬師如来像が納められています。
神社のふもとから湧き出す源泉は 「巌理水」 といい、何百年もの間、村人たちにより大切に守られてきました。
「昔から 『おできは、やぶ塚へ行けば治る』 と言われています」
そう話すのは、創業180年の老舗旅館 「開祖 今井館」 の9代目主人、今井和夫さん。
「皮膚病に特効があり、草津や伊香保で治らなかった人が、この湯に入ったら治った」
という話もあるそうです。
保湿効果のあるメタけい酸を含むアルカリ性の湯は、うっすらと生成り色をしていて、トロンと肌にまとわりつく独特の浴感があります。
まさに東上州を代表する名薬湯です。
<2015年3月4日付>
2021年04月09日
温泉考座 (80) 「復活した源泉一軒宿」
一度、地図から消えてしまった温泉が、何十年という時を経て復活することは、大変珍しいケースといえます。
そこには良質の湯が湧き続け、その効能が語り継がれ、それを惜しむファンの声が地元の人たちを動かしたとき、伝説が伝説ではなくなります。
平成の世に、かつて 「美人の湯」 と呼ばれていた幻の温泉が、見事によみがえりました。
上越新幹線の上毛高原駅から車で5分ほど。
大峰山の中腹に、日本の原風景のような段々畑と棚田の里が広がっています。
その絶景を見下ろす高台に、三角屋根の一軒宿、真沢(さなざわ)温泉 「真沢の森」 が、ポツンとたたずんでいます。
開湯は定かではありませんが、すでに江戸時代には湯小屋があったといいます。
痔(ぢ)や皮膚病に効く湯治場として、昭和の初期まで、にぎわっていました。
「昔から 『やけどや切り傷は、真沢の湯へ行けば治る』 と言われ、親しまれていたと聞いています」
と支配人 (当時) の武川恵二さん。
武川さんは、この土地で源泉を守り継ぐ5代目の湯守(ゆもり)でもあります。
祖父の代に源泉を手放してしまい、長い間、温泉は閉鎖されていました。
平成10(1998)年のこと。
かつての湯の効能を知る人たちから惜しむ声が高まりました。
当時の旧月夜野町長が 「こんないい湯を、このままにしておくのは、もったいない」 と源泉を買いもどし、休耕田を利用した市民農園を造成するとともに、交流施設として温泉宿を復活させました。
源泉はpH値 (水素イオン濃度) 9.6という強アルカリ性泉です、
ローションのようなトロンと肌にまとわりつく独特の浴感と、保湿効果があるメタけい酸を多く含んでいることが、昔から 「美人の湯」 と呼ばれるゆえんです。
露天風呂からは群馬の名峰、三峰山(みつみねさん)や日本百名山の武尊山(ほたかさん)を一望することができ、夏の夜には眼下の棚田に、無数のホタルが舞う光景を観賞することができます。
<2015年2月25日付>
2021年04月03日
温泉考座 (79) 「残った源泉一軒宿(下)」
1300年以上も昔のこと。
白雉元(650)年、猟師が山中で全身真っ白な鹿に出合い、後を追いかけると突然、姿が消えて、そこから熱湯が湧き出した。
そして湯けむりの中に金色の薬師如来が現れ、「この地に湯を与え、人々の病苦を救い、長寿に効く霊場にしたい」 と告げた──。
これが鹿沢温泉 (嬬恋村) の始まりと伝わります。
ここもまた、取り残された一軒宿の温泉地です。
長野県東御(とうみ)市新張(みはり)から群馬県の地蔵峠を越えて、16キロほどのところにあります。
江戸末期から明治期にかけて置かれた100体の観音像が道の端に延々と並び、鹿沢温泉 「紅葉館」 前の百番観音像で終わります。
この道は 「湯道」 と呼ばれ、観音像は湯治場へ向かう旅人たちの安全祈願と道しるべを兼ねて立てられたものだといいます。
宿の創業は明治2(1869)年。
往時は10軒以上もの旅館があり、大変にぎわっていましたが、大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまいました。
多くの旅館が再建をあきらめ、数軒は4キロほど下りた場所に引き湯をして、新鹿沢温泉を開きました。
しかし湯元の紅葉館だけは、この地に残り、現在まで湯を守り継いでいます。
源泉は、標高1,530メートルの高地に湧く温泉という意味を持つ 「雲井乃湯」。
湧出地が浴室よりも高い所にあるため、動力を使わずに自然流下によって湯を浴槽まで引き入れています。
泉温は約47度。
湯口に届くまでに2~3度下がるものの、かなり熱めの湯が存分に、かけ流されています。
「湯に手を加えるな、風呂の形を変えるな、と先祖から言われています」
と5代目主人の小林昭貴さん。
平成25(2013)年、老朽化のため本館が建て替えられましたが、浴室と浴槽は昔のまま残されています。
その豊富な湯量からすれば、もっと大きな湯舟や露天風呂を造ってもよさそうなものですが、代々続く湯元の宿として、かたくなに先祖からの教えを守り抜いています。
<2015年2月18日付>
2021年04月01日
温泉考座 (78) 「残った源泉一軒宿(中)」
<母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? えゝ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ>
昭和52(1977)年、西条八十の詩の一節を引用した作家、森村誠一のベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積温泉 (安中市) が一躍ブームとなりました。
「当時は、山道が渋滞するほどの混雑だった」 と3代目主人の佐藤敏行さん(故人)。
この霧積温泉の 「金湯館」 も取り残された一軒宿です。
創業は明治17(1884)年。
当時は旅館が5、6軒、別荘が約50棟も立ち並び、信越線が全線開通するまでは避暑地として軽井沢よりも栄えていたといいます。
伊藤博文や勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら政治家や文人も訪れています。
ところが明治43年、未曾有の悲劇が温泉地を襲いました。
この年の大洪水で、山津波が一帯を襲い、金湯館ただ一軒が難を逃れました。
昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電での営業を続けてきました。
電話と電気が通じたのは、昭和56(1981)年のことです。
霧積温泉は、その昔、碓氷(うすい)温泉 「入之湯(いりのゆ)」 と呼ばれていました。
こんな話が伝わっています。
約800年前のこと。
霧積山中で傷を負った猟犬が水たまりに傷口をつけていたので、不思議に思った猟師が手を入れてみると、これが温泉だったといいます。
犬が発見した温泉として 「犬の湯」 と呼ばれていましたが、いつしか 「入りの湯」 と言われるようになり、現在では、霧の多い場所という意味で 「霧積」 と名を改めています。
代々守り継いできた源泉は約40度とぬるく、炭酸を含んでいるため全身に泡の粒が付くのが特徴。
泡の出る湯は骨の髄まで温まるといわれる通り、湯上りは、いつまでたっても体がポカポカと火照っています。
昭和30年代から主人の親族が1キロ下がった場所で旅館を開業していましたが、平成23(2011)年に廃業。
「金湯館」 は、また一軒宿になってしまいました。
<2015年2月11日付>
2021年03月30日
温泉考座 (77) 「残った源泉一軒宿(上)」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年 (2020年2月) を記念した特別企画として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期に紹介しています。
(一部、加筆訂正をしています)
たった1軒で湯を守り、温泉地名を守っている 「源泉一軒宿」。
群馬県内には、かつて数軒の宿があり、湯治客らでにぎわっていた歴史ある温泉地も少なくありません。
1軒、また1軒と姿を消して、取り残されてしまった温泉宿。
もし、この1軒が廃業してしまったら……。
また地図の中から温泉地名が一つ、消えてしまうことになります。
旧六合(くに)村の山あいに、ひっそりたたずむ花敷温泉 (中之条町) も、そんな取り残されてしまった一軒宿です。
<山桜 夕陽に映える花敷て 谷間にけむる湯にぞ入る>
建久3(1192)年、源頼朝が狩りの際に温泉を発見したと伝わります。
その時に詠んだ、この歌から 「花敷」 の名前が付いたといいます。
大正時代には歌人の若山牧水が、草津温泉から沢渡温泉へ向かう途中に立ち寄っています。
<ひと夜寝て わが立ち出づる山かげの いで湯の村に 雪降りにけり>
1泊して歌を残し、暮坂峠を越えて旅立って行きました。
頼朝や牧水が入ったという湯は、今でも白砂川と長笹沢川が合流する河畔に湧いています。
昔から 「草津の上がり湯」 と言われ、草津温泉の酸性の強い湯でできた肌のただれを癒やすため、草津帰りの旅人たちが利用する湯治場として、にぎわっていました。
往時は3軒あった旅館も、現在は 「花敷の湯」 ただ1軒になっています。
創業は昭和39(1964)年。
材木商を営んでいた先代が 「花敷温泉ホテル」 として開業しました。
先代の死後、一時は宿を閉めていましたが、息子さんが後を継いで再開しました。
平成10(1998)年に客室わずか5部屋の小さな秘湯の宿としてリニューアル。
昔ながらの囲炉裏で食事をする里山料理が評判になり、遠方より多くの浴客が訪れています。
特筆すべきは、戦後まもなく崖の上に造られた露天風呂の 「岩の湯」 です。
かつての共同湯だったというだけあり、石垣に囲まれた湯舟は野趣にあふれ、今も湯治場の風情を残しています。
肌にやさしい、サラリとした上品な湯が、惜しみなくかけ流されています。
<2015年2月4日付>
2021年03月27日
温泉考座 (76) 「湯治場の再生に向けて」
きっかけは前橋市内のホテルで開催された拙著の出版記念祝賀会でした。
基調講演で私は、『これでいいのか! おんせん県群馬』 という演題で話をさせていただきました。
群馬県内には約100の温泉地があり、そのうち半分以上が、たった1軒で源泉と温泉地を守っている 「源泉一軒宿」 であること。
そして日帰り温泉施設の普及や温泉地の観光地化で、営利競争の中で取り残された一軒宿が、経営不振や後継者不在などの理由から廃業し、年々姿を消している現状を報告しました。
後日、聴講された事業再生コンサルタントの男性から電話がありました。
「一緒に消えゆく温泉地を守りませんか?」 と。
お会いして、観光地化された温泉施設と一線を画し、けがや病気を癒やす本来の湯治場としての温泉宿を再生させようと意気投合しました。
各方面に呼びかけたところ、介護施設経営者やNPO法人運営者、障害者支援施設運営者ら12人が賛同してくださり、このたびNPO法人 「湯治乃邑(くに)」 を設立しました。
これまでの温泉宿は、安全面などへの配慮から大人数の介護・障害者の利用を断ることがありました。
過去には温泉宿をリハビリ施設として再利用する動きもありましたが、法規制が壁となり、なかなか実現されていません。
最も温泉を必要とし、利用したい人たちが使えない状態です。
だったら 「我々が利用者と温泉宿の間に入り、予約管理をしよう」 と、活動を始めました。
現在、湯治場の再生に向けて、2軒の温泉宿と交渉中です。
食事は基本的には自炊ですが、村おこしの一環として地元のご婦人たちの手作りによる郷土料理などの仕出しも考えています。
介護者の同伴を義務づけます。
同時に地域住民への説明会を開き、近隣のスポーツ施設やキャンプ場などの活用も視野に入れた話し合いを進めています。
産声を上げたばかりの団体です。
みなさんの支援をいただきながら、群馬が真の “おんせん県” であるために 「湯治乃邑」 の実現を目指したいと思います。
<2015年1月18日付>
2021年03月22日
温泉考座 (75) 「子宝の湯」
全国には 「子宝の湯」 と呼ばれる温泉が数多くあります。
その名の通り、子どもが授かると考えられてきた温泉のことで、不妊に悩む夫婦が願掛けに通ったと言われます。
泉質は様々ですが、共通する点は塩分を含んでいること。
殺菌力があり、体がよく温まるため、婦人病に効果があるとされています。
群馬県内では、伊香保温泉 (渋川市) が昔から婦人病や不妊症に効くと言われてきました。
野栗沢温泉 (上野村) は源泉名そのものが 「子宝の湯」、宝川温泉 (みなかみ町) にも 「子宝の湯」 と名付けられた露天風呂があります。
取材で訪れた新鹿沢温泉 (嬬恋村) の 「つちや旅館」 では、こんな話を聞きました。
「昭和の頃のこと。長年、子どものいない夫婦が住み込みで働きに来たことがありましたが、すぐに子どもが授かったことがあり、大変驚きました」
と女将の土屋実千子さん。
以来、誰ともなしに、ここの湯を 「子宝の湯」 と呼ぶようになったといいます。
また、片品温泉 (片品村) にも古くから “子宝信仰” が根づいています。
一番古い源泉 「新井の湯」 を保有する湯元で老舗宿の 「千代田館」 には、薬師堂があり、お堂の中には夫婦和合の御神体が祀られています。
「このあたりは、昔から子だくさんの家が多いんですよ」
と話すのは、片品温泉 「子宝の湯 しおじり」 の女将、池田恵美子さん。
数年前、小さな子どもを連れた40代の夫婦が、菓子折りを持って、礼を言いに訪ねて来たといいます。
「『以前、泊まった時に授かった子が、この子です』 って。やっぱり、うちは子宝の湯だったんですね」
と笑いました。
実際に温泉成分の中には、女性ホルモンに似た物質があり、入浴することにより骨盤の血行が良くなり、妊娠しやすくなる効能があると言われます。
さらに日常生活から離れ、温泉地という自然に恵まれた環境の中に身を置くことによる転地効果やリラックス効果も望めます。
特に女性には、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)の目から離れ、家事から解放されるなどの精神的な要素が強いのかもしれませんね。
<2015年1月21日付>
2021年03月18日
温泉考座 (74) 「ヒートショックに御用心!」
「ヒートショック」 という言葉を、ご存じですか?
温度差が原因で、血圧が急上昇や急降下をする、とても危険な状態です。
突然死に至る場合もあり、年間の死者が全国で約1万7,000人にのぼるという推計もあります。
冬場、暖かなリビングからトイレ、脱衣室、浴室などに移動すると、血圧が上昇して脳出血や脳梗塞、心筋梗塞を起こす恐れがあります。
急激な血圧の低下は脳貧血も引き起こし、めまいを生じて転倒し、ケガをする原因となります。
最も死亡率が高いのが、全裸になる浴室です。
温泉宿で入浴していると、体を洗わずに脱衣室から直接、浴槽に入る人を見かけます。
マナーとしても失格ですが、それ以上に、ヒートショックを起こす危険をはらんでいます。
浴室に入ったら入浴前に必ず 「かけ湯」 をしてください。
心臓から遠い手や足の末端から湯をかけ、徐々に体を温めます。
下半身は、汚れを流すつもりで丁寧に。
できればシャワーでなく、これから入る浴槽の湯を使ってください。
これには体を温める目的以外に、温泉の泉質に体を慣らす意味もあります。
いよいよ入浴ですが、ここでも注意が必要です。
放流式 (かけ流し) の浴槽の場合、湯が注がれる湯口(ゆぐち)側が熱く、あふれ出る湯尻(ゆじり)側がぬるくなるように設計されているので、湯尻側から入りましょう。
入浴時間は、ほんのり額が汗ばむ程度が目安です。
湯舟から出る時は、急に立ち上がらず、ゆっくりと。
湯上りの水分補給も忘れずに!
一番注意が必要なのは露天風呂で、脱衣室からの直行は厳禁です。
真冬の外気は零下まで下がり、ヒートショックの危険度は最大値と言えます。
それでも入りたい人は、内風呂で十分に体を温めてから屋外に出てください。
冬場の露天風呂は周囲が凍結していることもあります。
足元にも、ご用心!
高齢者、高血圧や糖尿病の患者、肥満気味の人、睡眠時無呼吸症候群など呼吸器官に問題のある人、不整脈のある人は特にヒートショックの影響を受けやすいと言われています。
もちろん、お酒を飲んでからの入浴もご法度です。
<2015年1月14日付>
2021年03月13日
温泉考座 (73) 「守護神は聖徳太子」
温泉地には薬師観音をはじめとして、発見伝説にまつわる歴史上の人物など、さまざまな神様が祀られています。
みなかみ町の赤岩温泉には、一風変わった神様が祀られているのをご存じでしょうか?
国道17号、沼田市から新潟県湯沢町へ抜ける三国街道沿いには、湯宿(ゆじゅく)、猿ヶ京、法師など6つの温泉地が点在します。
これらを総称して 「三国・猿ヶ京温泉郷」 と呼ばれています。
その中で赤岩温泉は、一番小さな温泉です。
かつては温泉地名の由来ともなった赤い大岩がそびえる景勝地だったといいます。
樹齢百年を超えるマツやスギ、ナラの大木が茂る裏山に抱かれるように、一軒宿の 「誠法館」 がたたずんでいます。
旅館の創業は昭和40(1965)年ですが、開湯は大正時代にさかのぼります。
板割(いたわり)職人をしていた現主人の祖父が、裏山で木を切り出す仕事をした帰り道のこと。
足を滑らし、転んで手を突いた水たまりが温かいことを不思議に思い、「ここは絶対に温泉が出る!」 と手掘りで掘り出しました。
80メートルほど掘りましたが、20度にも満たない冷たい水しか出ませんでした。
戦後になり、動力によるボーリングが可能になると、材木屋を営んで稼いだ私財を注ぎ込んで、再度、掘削に挑戦しました。
深さ400メートル、今度は約30度、毎分約20リットルの温泉が湧き出しました。
「これもすべて神の導きだ」
と大喜びし、木工職人の守護神である聖徳太子像を建てました。
裏山の中腹には、源泉の湧出地を見守るように高さ3メートルもある立派な石像が立っています。
今でも、ここに聖徳太子像があることを聞きつけた職人たちが、参拝に訪れるといいます。
「祖父は旅館の完成を見ずに他界してしまいましたが、自分が掘り当てた温泉に毎日入っていました。さぞかし、うれしかったんでしょうね」
案内してくれた現主人の富沢房一さんが、像を見上げて言いました。
源泉名は 「太子の湯」。
ミョウバンを含むアルカリ性のやわらかい湯は、昔からリウマチや神経痛、多汗症に効くといわれ、長期滞在する湯治客に親しまれてきました。
※「誠法館」は現在、休業しています。
<2015年1月7日付>
2021年03月08日
温泉考座 (72) 「露天風呂がない宿」
取材で訪ねた温泉旅館の脱衣所で、貼り紙を見つけました。
<いま現在の湯量では、露天風呂を造ることによって天然温泉本来の効能と素晴らしさを実感いただけない恐れがあるため、露天風呂はありません>
この一文を読んだだけで、この旅館には良い湯守(ゆもり)がいると確信しました。
案の定、シンプルで小さな浴槽でしたが、上質の湯が注がれ、惜しみなくザーザーと、かけ流されていました。
いったい、いつからでしょうか?
誰もが温泉施設に露天風呂の存在を求めるようになってしまったのは?
そもそも温泉は、自然に地中から湧き出して来るものです。
大昔は 「露天」 しかなかったことでしょう。
だからといって現在の温泉宿の露天風呂が、源泉の湧出地にできた自然の状態とは限りません。
ほとんどが客のニーズに合わせて、昭和60年代以降に造られた人工の露天風呂です。
高度経済成長期の社員旅行や団体旅行ブームの時代に、全国の温泉旅館は、こぞってプールのような “大浴場” を造りました。
そのため湯量は足りなくなり、大量の水道水を加えた循環式風呂が誕生しました。
時代が変わり、次に温泉地を襲った衝撃が、空前の “露天風呂ブーム” でした。
「露天風呂がないことを告げると、それだけでガチャンと電話を切られてしまいました」
と旅館の主人。
「それでも来てくれる常連客はいます。お湯の良さが本当に分かる人たちです」
と、湯守としての自信をのぞかせます。
私も 「内風呂派」 ですが、だからといって露天風呂の存在を否定はしません。
湯量が豊富で、自然環境に恵まれた宿では、創業時から露天風呂があるところも数多くあります。
ところが、ブームに乗って平成以降に造られた露天風呂には、子供だましの粗末なものが少なくありません。
無理やり裏庭や駐車場をつぶして造った “なんちゃって露天風呂” を見るにつけ、「そこまでしなくても」 と残念に思うのは、私だけでしょうか?
そのぶん、湯量に見合った内風呂を大切にし、先人から受け継いだ貴重な源泉を守り継いでほしいものです。
<2014年12月10日付>
2021年03月04日
温泉考座 (71) 「半地下構造の浴場」
大正11年(1922)年10月、歌人の若山牧水は、老神温泉 (沼田市) から金精峠を越えて日光へ向かう途中で、白根温泉 (片品村) に投宿しています。
この晩のことを著書 『みなかみ紀行』 (大正13年) の中で、こう記しています。
<湧き溢れた湯槽(ゆぶね)には壁の破れから射す月の光が落ちていた。湯から出て、真赤な炭火の山盛りになった囲炉裏端に坐りながら、何はともあれ、酒を注文した。>
ところが宿に酒はなく、牧水は12歳と8歳の宿の子ども (兄妹) を遠くの店まで買いに走らせます。
その後、天候は一変して雨となり、ずぶ濡れになった兄妹が大きな酒ビンを持って帰ってきます。
生涯、旅と酒をこよなく愛した牧水ならではの、なんとも我がままなエピソードであります。
当時、数軒あったという宿屋は、今はもうありません。
昭和5年(1930)年創業の 「加羅倉館(からくらかん)」 ただ一軒が、湯を守り継いでいます。
不思議な言葉の響きを持つ宿名ですが、栃木県境にある日光白根山の加羅倉尾根に由来するとのこと。
渓流と国道をはさんで建つ別館には、昭和27(1952)年に皇太子時代の天皇陛下が御来遊した際に泊まられた部屋が、今もそのまま残されています。
別館の並びに半分地下に埋まった一風変わった建物があります。
これが浴場です。
管理人によれば、半地下構造になっているのは 「かつて宿のオーナーが所有していた競走馬の温泉治療場に使っていた頃の名残」 とのことですが、理由は、それだけではありません。
浴槽は約8畳分もあり、熱めの湯が惜しみなく、かけ流されています。
しかし源泉が注ぎ込む湯口は、天窓の下に突き出た筒から勢いよく落下する打たせ湯のようなものしかありません。
そして、その位置は、ちょうど源泉が湧出するあたり。
自噴する源泉を一切の動力を使わずに、高低差だけを利用して浴槽に流し入れているのでした。
毎分約600リットル、約60度という湯量豊富で高温の温泉が湧く宿だから可能な、自然の理にかなった浴場です。
<2014年11月26日付>
2021年02月24日
温泉考座 (70) 「江戸より伝わる洗眼処」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年 (2020年2月) を記念した特別企画として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、紹介しています。
(一部、加筆訂正をしています)
霧島温泉 (鹿児島県)、姥子温泉 (神奈川県)、浅間温泉 (長野県)、貝掛温泉 (新潟県) など、全国には眼病に効くといわれる温泉があります。
泉質は、それぞれ異なりますが、殺菌作用のあるホウ酸やミョウバンが含まれている場合が多いようです。
群馬県内では浅間隠(あさまかくし)温泉郷の温川(ぬるがわ)温泉 (東吾妻町) が、昔から 「目の湯」 といわれ湯治場として親しまれてきました。
湯の歴史は古く、江戸中期、安永 (1772~1781) の頃に発見されたと伝わります。
ある時、村人が家路を急ごうと近道をした草むらで、偶然に湯だまりにカエルの群れを見つけたのが最初といわれています。
囲炉裏や炊事の煙に悩まされていた村の女たちが、この湯で丹念に目を洗ったところ、たちまち治り、村から村へとその効能が伝わり、「目の湯」 と呼ばれるようになったといいます。
明治23(1890)年、浅間隠山の大洪水によって一瞬にして埋没してしまいましたが、73年後の昭和38(1963)年に再掘され、幻の薬湯がよみがえりました。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉。
1㎏中のメタホウ酸の含有量が78.4㎎と多いのが特徴です。
ホウ酸は目薬の成分としても知られ、結膜炎やトラホームなど感染症が多かった時代は、洗眼薬としても治療に用いられていました。
宿から露天風呂へ向かう温川沿いに、源泉を引いた 「洗眼処」 があります。
医学が進み、抗生物質などの治療薬が普及した現代でも、洗眼のために湯をペットボトルにくんで持ち帰る客が後を絶ちません。
湯は、ややぬるめで、しばらく浸かっていると、体中に小さな泡の粒が付き出します。
昔から “病を教える湯” といわれ、体の悪い所には泡が付かないといいます。
また泡の出る温泉は、骨の髄まで温まるといわれ、湯冷めをしない温泉としても珍重されてきました。
※現在、一軒宿は廃業し、露天風呂も閉鎖されています。
<2014年11月19日付>
2021年02月18日
温泉考座 (69) 「美人の湯めぐり」
以前、「日本三美人湯」 と呼ばれる温泉があることを書きました。
※(2020年8月6日、温泉考座16 「4つある三美人湯」 参照)
龍神温泉 (和歌山県)、湯の川温泉 (島根県)、そして群馬県の川中温泉 (東吾妻町) です。
3つの温泉の泉質は異なりますが、共通する美肌作用の条件は、弱アルカリ性でナトリウムイオン、カルシウムイオンを含んでいること。
とりわけ川中温泉はカルシウムイオンが多く、湯上りはベビーパウダーを塗ったようなスベスベ感があると評判です。
これとは別に 「三大美人温泉」 といわれる泉質の湯があります。
古い角質をやわらかくする炭酸水素塩泉、高い保湿効果を持つ硫酸塩泉、紫外線から肌を守る作用のある硫黄泉です。
また水素イオン濃度 (pH) の高いアルカリ性単純温泉は、トロンとしたローションのような浴感があることから 「美人の湯」 と呼ばれ、女性に人気の温泉です。
ちなみにpH6以上7.5未満を中性泉、それ未満を酸性泉。
7.5以上8.5未満を弱アルカリ性泉、それ以上をアルカリ性泉といいます。
群馬県北部、利根川上流に位置するみなかみ町には、なぜか、このアルカリ性泉単純温泉が多く点在しています。
上の原(うえのはら)温泉はpH9.1という強アルカリ性で、湯上りの肌がツルツル、スベスベになることから 「美肌の湯」 とも 「ツルスベの湯」 とも呼ばれています。
向山(むこうやま)温泉はpH9.2、保湿効果があり、肌にうるおいを与えることから 「若返りの湯」。
真沢(さなざわ)温泉は驚異のpH9.6を誇り、化粧品の成分として使用されているメタけい酸を多く含んでいるため、地元では 「美人の湯」 の愛称で親しまれています。
また 「三大美人温泉」 の1つ、硫酸塩泉が湧く上牧(かみもく)温泉も昔から 「化粧の湯」 と呼ばれてきました。
みなかみ町に限らず、県内には 「仕上げ湯」 や 「なおし湯」 といわれてきた、肌にやさしい、やわらかい泉質の温泉がたくさんあります。
寒さが増し、ますます温泉が恋しくなる季節です。
美肌効果を求めて、“美人の湯めぐり” を楽しんでみてはいかがですか。
<2014年11月12日付>
2021年02月13日
温泉考座 (68) 「医王仏が見守る薬湯」
何百年と歴史のある古い温泉には、必ず 「お薬師さま」 が祀られています。
観音山丘陵の山里に約300年前から湧き続けている坂口温泉 (高崎市) も、そんな西上州を代表する薬湯の一つ。
重曹を含む弱アルカリ性の食塩泉は、特に皮膚病に効くといわれ、今もなお、遠方より多くの湯治客が訪れています。
一軒宿の 「小三荘(こさんそう)」 は、昭和25(1950)年創業。
しかし、戦前から湯屋があり、4代目主人、山崎孝さんの伯父が立ち寄り湯として営業していました。
東京で暮らしていた山崎さん一家は、空襲で焼け出され、父親の実家がある旧吉井町にもどり、戦後になって湯守(ゆもり)の仕事を継ぎました。
「終戦直後の娯楽のない時代のこと。私はまだ小さかったのですが、来る日も来る日も入浴客でにぎわっていたことを覚えています。あせもやオムツかぶれを治しに、赤ちゃんを抱えた女性が多くやって来ていました」
古くは 「たまご湯」、明治時代は 「塩ノ入鉱泉」 と呼ばれていました。
塩気があり、玉子の白身のようにトロンと肌にまとわりつくことから、そう名付けられたようです。
その浴感は、まるでローションを体に塗っているようなツルツル感があり、かすかに硫黄の香りもします。
浴室から見える裏庭に、いくつもの小さな石仏が並んでいます。
その数、30体あまり。
これは開湯以来 「薬師の湯」 として、人々の病を癒やしてきた祈願と感謝の名残だといいます。
地元では親しみを込めて 「お薬師さま」 と呼ばれていますが、別名 「医王仏」 とも言われる祈願仏です。
現代のように医学が発達していなかった時代のこと。
先人たちにとって 「薬師の湯」 は、願いをかなえてくれる、よりどころだったに違いありません。
病気やケガを治してもらったお礼に奉納された小さな石仏群は、代々の湯守たちによって、大切に守られてきました。
石仏群の中には、真新しいものが何体か見られます。
平成の世になっても奉納する人がいるようです。
※(「小三荘」 は2015年に閉館しました)
<2014年11月5日付>
2021年02月08日
温泉考座 (67) 「にごり湯いろいろ」
成分の濃い 「にごり湯」 は、それ自体が全国でも約10%しかなく希少ですが、色や匂い、味、肌触りなど五感で楽しめるところが人気の秘密のようです。
温泉をにごらせる成分は様々で、代表的なものに硫黄分、鉄分、モール質があります。
温泉に含まれる主な硫黄分、硫化水素イオンと遊離硫化水素のうち、遊離硫化水素が乳白色に色づくといわれています。
湧出時は無色透明で、空気に触れて酸化すると硫黄の微粒子ができ、にごり出します。
群馬県内では草津温泉 (草津町) や万座温泉 (嬬恋村) が有名ですが、みなかみ町の高原千葉村温泉も乳白色ににごる硫黄泉としてマニアに知られています。
ただ、草津や万座の湯が酸性なのに対し、高原千葉村の湯はアルカリ性で、硫化水素イオンを含むため、季節や天候、光の加減によっては緑色に見えることもあります。
鉄分を含む温泉は濃度が低いと緑色、高いと黄土色や茶褐色、さらに高濃度になると赤褐色になります。
県内では伊香保温泉 (渋川市) や赤城温泉 (前橋市)、梨木温泉 (桐生市) などが代表的ですが、私の記憶の限りでは相間川温泉 (高崎市) の湯が一番濃いレンガ色でした。
また相間川の湯は高濃度の塩分を含むため、湯舟で体が不安定に浮き上がり、難儀をするほどでした。
3つ目のモール質は県内では見かけない温泉です。
他のにごり湯は湧出後に色づきますが、モール質の温泉は地層の中の腐植質が温泉水に混ざった状態で湧出します。
ですから湯口から注がれる時、すでに色が付いています。
ほうじ茶色、紅茶色、コーヒー色、真っ黒と色は様々です。
モール質ではありませんが、県内には黒く湯がにごる温泉があります。
応徳温泉 (中之条町) や奥嬬恋温泉 (嬬恋村) の湯は、煤(すす)のような湯の花が沈殿します。
この湯の花が入浴すると舞い上がり、湯が墨のように黒くにごることがあります。
モール質などの例外を除き、湧き立ての新鮮な温泉は無色透明です。
にごり湯とは、湯が空気に触れて酸化したために起こる劣化現象です。
新鮮なのが一番ですが、湯の色や匂いを楽しむのも温泉の魅力といえます。
<2014年10月29日付>
2021年02月03日
温泉考座 (66) 「災い封じる天狗面」
沢渡温泉 (中之条町) は、建久2(1191)年に開湯したとされ、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、浅間山麓でイノシシ狩りをした際に発見したという言い伝えがあります。
「一浴玉の肌」 と呼ばれるアルカリ性のやさしい湯が、酸性度の強い草津のゆただれを癒やす 「なおし湯」 として、明治時代までは草津帰りの浴客でにぎわっていました。
しかし、昭和10(1935)年に水害による山津波が襲い、同20年には山火事から温泉街が全焼するという度重なる災厄に見舞われ、壊滅的な打撃を受けました。
「昔から地元には守り神として天狗の面が祀られていたのですが、子どもがいたずらをして天狗の鼻を折ってしまったらしいんです。だから2度も災いが起きたのではないかと、父は裏山に天狗堂を建てて、また平穏に暮らせるようにと願いを込めて、新たな天狗面を奉納しました」。
そう言って、老舗旅館 「龍鳴館」 の3代目女将、隅谷映子さんが、お堂へと案内してくれました。
隅谷さんの父、都筑重雄さん (故人) は、海軍の航空母艦の乗組員でした。
終戦後は町工場に勤めていたそうですが、ある日、「お天狗様」 と呼ばれる地元の占い師から、「北北西の沢渡へ行け」 と告げられ、昭和24(1949)年に親戚が営んでいた龍鳴館の2代目を継いだといいます。
前身は 「正永(しょうえい)館」 といい、大正時代に歌人の若山牧水が立ち寄っています。
山道を登ること約5分。
温泉街を見下ろす高台に、小さなお堂が建っていました。
昭和56(1981)年に建立して以来、毎年、大火があった4月16日に僧侶を招いて、お天狗様の祭りを行っています。
「温泉と天狗堂を守ることが、私が父から受け継いだ湯守(ゆもり)の仕事です」。
女将は、お堂の中から木彫りの面を取り出しました。
ところが、その天狗の鼻は、途中から白く変色していました。
不思議なことに、いつからか古い面の折れた鼻と同じ所から、色が変わってしまったとのことです。
<2014年10月22日付>
2021年01月30日
温泉考座 (65) 「“塩” の字が付く温泉」
八塩(やしお)温泉 (藤岡市)、塩ノ沢温泉 (上野村) など、群馬県内には 「塩」 の字が付く温泉地名が、いくつかあります。
また、現在の温泉地名には塩の字が付いていなくても、かつて小野上温泉 (渋川市) は塩川鉱泉、坂口温泉 (高崎市) は塩ノ入鉱泉、磯部温泉 (安中市) は塩ノ窪鉱泉と呼ばれていました。
これらの温泉に共通していることは、文字通り塩分を多く含んだ塩辛い温泉であることです。
塩分を含んでいる温泉は、殺菌力があり、昔から切り傷や皮膚病に効果があるといわれています。
また皮膚に付着した塩分が毛穴をふさぎ、入浴後も汗の蒸発を防いでくれるため、湯冷めしにくいのが特徴です。
保温効果があることから別名 「熱の湯」 とも呼ばれています。
なかでも八塩温泉は、物資不足の戦時中に源泉から食塩を精製していたほどの高濃度の塩化物泉です。
天然記念物の三波石(さんばせき) を産出することで知られる神流(かんな)川の支流、南沢の渓谷沿いには古くから八つの塩泉が湧いていたことから 「塩の湯口八ツ所」 と呼ばれ、これが八塩の地名の由来だといわれています。
現在は5つの源泉が川沿いに湧き、3軒の温泉宿があります。
どの宿も浴室には三波石がふんだんに使われていて、野趣あふれる豪快な入浴が楽しめます。
明治18(1885)年創業の老舗旅館 「八塩館」 に残る古文書には、<本泉は食塩、亜爾加里(あるかり)性ラジウム炭酸泉なり。固形薬分の多きこと全國無比の鑛泉なり> と記されています。
温泉の成分がチェコのカルルスバード温泉に似ているといわれ、昔から調査研究がされてきた名湯です。
源泉は約14~15度の冷鉱泉。
200万年以上前の新生代第三紀に地中に閉じ込められた海水が、現在も自噴しているといわれています。
塩分が濃いため最初はピリピリ、チクチクと肌を刺すような刺激がありますが、やがて全身がカーッと熱くほてり出すのが分かります。
旅館によっては加温していない源泉風呂があり、温浴と冷浴を交互に繰り返す昔ながらの入浴法を体験することができます。
<2014年10月15日付>