2020年06月30日
トリビア再開
コロナ禍の影響は、依然、続いています。
講座、セミナーの類は、まだ再開のメドすら立っていません。
そんな中、ちらほらですが、3密を避けた取材のみ始まっています。
そして、3密といえば、最も条件を満たしているのが “会議” ではないでしょうか!?
リモートで行っている企業も多いようですが、職種によっては、直接、顔を合わせて、資料など配りながらではないと、進捗しない会議もあります。
テレビ番組の制作なども、そんな部類です。
僕は2015年4月から群馬テレビで放送がスタートした 『ぐんま!トリビア図鑑』 という謎学バラエティー番組の、スーパーバイザーを務めています。
3ヶ月に1回、企画構成会議が開かれ、末席に参加しています。
しかし、このコロナ禍で、4月に予定されていた会議が延期となっていました。
おかげさまで、この番組は、視聴者からもスポンサーからも評判が良く、今年3月で200回を迎えました。
今年の4月からは、放送6年目に突入した人気の長寿番組となっています。
現在のところコロナの影響を受けることもなく、順調にオンエアは続いています。
しかし、このままでは、秋以降の企画が未決定のままです。
ということで、昨日、急きょ、緊急会議が行われました。
広い会議室に集まったのは、プロデューサー、ディレクター、放送作家、制作スタッフら11人。
僕と、もう1人のスーパーバイザーも同席しました。
もちろん3密を避け、ソーシャルディスタンスを保ちながら、全員マスクを着用。
会議室のドアは開け放たれ、換気をしながら行われました。
たっぷり2時間半の会議は、かなり充実したものでした。
歴史あり、自然あり、伝説あり、人物あり、食文化あり……
200回を過ぎても、ネタが枯渇することはありません。
「それって、ネタとしては面白いけど、絵(映像) がないね」
「その人(歴史上の人物) はさ、群馬の出身だけど活躍したのは県外で、記念碑とかも県外にあるんだよね」
「それ、群馬発祥の食い物じゃないでしょ。もう少し、ひねったほうがいいよ」
などなど、忌憚のない意見が丁々発止と飛び交い、いつも通りの白熱した会議となりました。
僕も最後に総評を述べながら、持参した2点のネタを披露してきました。
さて、どんなトリビアが決まったのでしょうか?
今後とも 『ぐんま!トリビア図鑑』 を、よろしくお願いいたします。
●放送局 群馬テレビ (地デジ3ch)
●放送日 火曜日 21:00~21:15 (毎月最終火曜日を除く)
●再放送 土曜日 10:30~10:45 月曜日 12:30~12:45
2020年06月29日
温泉考座 (3) 「日帰り施設の危機」
「平成」 になって以降、平野部や都市部に急増した日帰り温泉施設の源泉が、涸渇し始めているようです。
自然湧出の温泉なら降った雨が地中で温められ、地表に噴出するという循環を繰り返しており、涸れることはありません。
では、なぜ日帰り温泉の源泉は涸渇するのでしょうか?
これは温泉法の温泉の定義と無関係ではありません。
温泉法では、湧出口の温度が25度以上あるか、特定成分を規定量以上含むものは、すべて 「温泉」 と認められます。
つまり、特定の成分が含まれていなくても、温度が25度以上あれば、温泉と認められるわけです。
仮に地表の平均温度を15度とします。
地下は100メートル掘るごとに、地熱で水温が約3度上昇しますから、1,000メートル以上掘れば40度以上の地下水をくみ上げることができます。
これを 「地温上昇率」 といいます。
地下には大昔に地層に閉じ込められた 「化石海水」 もあります。
これらの非火山性温泉は、ほとんど循環しないため、湯量に限りがあります。
その湯量の限界が、約20年とも30年ともいわれています。
町おこしのため、市町村に一律に1億円を配る竹下内閣の 「ふるさと創生資金」 がきっかけとなって、全国で温泉掘削が行われたのですから、そろそろ涸渇を迎える施設が出てきても、おかしくない話です。
日帰り温泉施設の危機は、温泉の涸渇だけとは限りません。
温泉をくみ上げるパイプにスケールが付着し、地中で目詰まりを起こしてしまうこともあります。
「スケール」 とは、温泉の成分が酸化し、不溶性の析出物となって堆積したものです。
昨年、群馬県内の日帰り温泉施設で、同様のトラブルが起きました。
約1,000万円を投じて除去工事を行いましたが、湯量は戻りませんでした。
さらに深い所に堆積物があることが分かりましたが、それを除去しても湯量が回復する確証がないとして、工事続行を断念したと報じられています。
何千メートルと地下を掘削して、温泉を涸渇させてしまう人間。
そんな人間の愚行に、温泉の神様が怒り出さなければ、良いのですが……。
<2013年4月17日付>
2020年06月28日
一番搾りの季節
先週の日曜日は、「父の日」 でした。
昨年の2月に実父を亡くしている僕にとっては、昨年と変わらぬ普通の日曜日でした。
週明けの午前中のことでした。
珍しく出張へ出かけることになり、朝からあわただしく支度をしていました。
突然、階下から声がしました。
「おとうさん、いるの?」
長男の声です。
「いるけど、なんだ? 今日は休みなのか?」
と、返事をしなから仕事部屋のドアを開けた途端、息子の驚く声が!
「うっわ! どーしたの?」
「どうしたって、何が?」
「ヒゲだよ、ヒゲ! すごいことになってるね」
「ああ、これか……。ヒゲの長さは、コロナ自粛の長さに比例するんだよ」
とかなんとか、屁理屈をつけて、言葉を返しました。
「で、今日は何だ?」
長男は5年前に結婚をして、市内のアパートに家族と暮らしています。
一昨年には第一子も生まれ、仕事も順調のようであります。
「過ぎちゃったけど、父の日だから」
「それで、来てくれたのか?」
「それと、引っ越したからさ、今度、遊びに来てよ」
反面教師というヤツなんですかね。
息子は父親と違って、真面目で堅実な人生を選びました。
20代にして、早くも家を建てたといいます。
「ああ、そのうちな……」
息子には申し訳ないのですが、 この手の事象については、僕はあまり興味がありません。
そんなことより、<.何か新築祝いを贈らんとかな…> などと、出費のことばかり考えていたのであります。
「S (孫) も会いたがっているからさ」
と言われれば、行かないわけにはいきませんが、正直、気が進みません。
別に、孫に会いたくないわけではなく、そういうことをする自分が自分らしくないと思ってしまっているのかもしれません。
息子が帰った後、階下へ降りて、こっそりと冷蔵庫をのぞくと、缶ビールが何本も入っていました。
それも、「一番搾り」。
いつからか毎年、息子は父の日に、「一番搾り」 を買って来るようになりました。
なんでだろう?
子どもの頃から、お中元やお歳暮に贈られて来るビールを見ていたからでしょうか?
でも、それならば、モルツでもドライでもヱビスでも、いいわけです。
もしかして……
息子は、このブログのプロフィール写真を見たのでしょうか?
出張から帰った晩に、しみじみと 「一番搾り」 をいただきました。
ほろ苦い、人生の味がしました。
大した父親じゃないんだけどな……
2020年06月27日
温泉考座 (2) 「日本一のおんせん県」
香川の 「うどん県」 に続いて、観光PRのフレーズとして大分が 「おんせん県」 を名乗り出ました。
それもキャッチコピーは、“日本一のおんせん県” です。
当然ですが、以前から 「温泉県」 として宣伝をしてきた群馬をはじめ、有名温泉地を抱えている県は黙っていません。
「なんで大分が日本一なんだ?」
ということです。
これに対して大分の言い分は、別府や由布院などの有名温泉を抱え、源泉数と湧出量が日本一だからとのこと。
確かに、源泉数は約4,500本とダントツ1位 (群馬は約460本) ですし、湧出量も毎分約29万リットルと桁違いです (群馬は約6万4,000リットル)。
しかし、これが自然湧出の温泉となると、草津温泉が毎分約3万4,000リットルと日本一を誇っています。
有名温泉で比べるならば、群馬県は草津のほかにも伊香保や水上、四万、万座といった名だたる温泉地がいくつもあります。
では温泉地の数では、どうでしょうか?
1位は北海道(約250カ所)、2位は長野県(約200カ所)、3位は新潟県(約150カ所)、群馬県は約100カ所で8位です。
大分県はベスト10にも入っていません。
やはりこれでは、他の温泉県が黙っていないはずです。
日本一といえば、群馬県には草津温泉の自然湧出量のほかにも、標高1,800メートルに湧く万座温泉は、通年車で行ける温泉地としては日本最高地にあります。
総面積約470畳分の巨大露天風呂が源泉かけ流しの宝川温泉、全国でも1%未満という浴槽の足元から源泉が湧く法師温泉。
他にも温泉まんじゅう発祥の地といわれる伊香保温泉や、温泉記号の発祥の地の磯部温泉。
国民保養温泉地の第1号に指定された四万温泉など、枚挙にいとまがありません。
結局、数字で計れないのが温泉の魅力です。
だからナンバーワンである必要もありません。
群馬の温泉は、他では決して味わえないオンリーワンの存在であればいいのです。
<2013年4月10日付>
2020年06月27日
温泉考座 (1) 「序章~温泉地を覚えてほしい」
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾として、2013年4月~2015年3月まで朝日新聞群馬版に連載された 『小暮淳の温泉考座』(全84話) を不定期にて、ご紹介いたします。
(一部、加筆訂正をしています)
「群馬の温泉をいくつ言えますか?」
と訊くと、大概の人は5つと言えません。
草津、伊香保、水上、四万……
他県民ならいざ知らず、群馬県民であっても10以上言える人は稀です。
私は群馬生まれの群馬育ち。
長年、県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパーの編集人をやってきました。
群馬で雑誌を作るからには、どうしても避けて通れないテーマがあります。
それは、温泉です。
秋の紅葉や冬の雪見のシーズンになると、各誌は決まって “絶景の露天風呂” を集めた特集を組みます。
ところが毎年、掲載される温泉は、どこも似たり寄ったりの構成。
これは、「どういうことだろう」 と、手あかにまみれた情報に、うんざりしていました。
全国誌が県内の有名温泉地しか取り上げないのは仕方がないにしても、地元誌がこれでは、編集人の沽券(こけん) にかかわります。
そこで改めて調べてみると、県内には、私がそれまで行ったことも聞いたこともない温泉地が90カ所以上も存在したのです。
それも、実に全体の約8割が10軒の宿に満たない小さな温泉地。
さらに、その約8割(全体の半分以上) が、たった1軒の宿で温泉地の看板と源泉を守っている “源泉一軒宿” だったのです。
「だったら一度、県内すべての温泉地を回ってみよう」
と思ったのが、温泉ライターになるきっかけです。
2000年頃のことでした。
いつも、どうしたら県民や他県の人たちに群馬の温泉地名を覚えてもらえるだろうか? と考えています。
若き日にシンガー・ソングライターになる夢を抱いていた私は、今も編集仲間らとバンドを組んで県内で音楽活動を続けています。
これを利用しない手はないと、2008年に温泉地名27カ所を盛り込んだ群馬の温泉応援ソング 『GO!GO!温泉パラダイス 湯の国群馬県篇』 を作詞作曲しました。
そして各地のイベントで歌い、CDを制作してラジオやテレビでも放送していただきました。
今年1月 にグリーンドーム前橋で開催された 「国内観光活性化フォーラム」 では、群馬のマスコットキャラクターの 「ぐんまちゃん」 と、ご当地アイドルの 「AKG」(現・あかぎ団) が、『GO!GO!温泉パラダイス』 に合わせて踊ってくれました。
自称、群馬の温泉大使です。
群馬を愛する温泉ライターとして、今後も活動していきたいと思っています。
<2013年4月3日付>
2020年06月26日
ランチ&呑み会
「編集長、ランチしませんか?」
O君は、約20年前に僕が編集人をしていた雑誌の元スタッフです。
いまだに、僕のことを 「編集長」 と呼びます。
そして時々、こんな、お誘いメールをくれます。
「俺はもう、編集長じゃないよ」
そう言ったことがありましたが、
「いいんですよ、編集長は編集長なんですから」
そう言って、受け流されてしまいました。
すると今週は、同じ元スタッフのSさんから電話がありました。
「編集長、お久しぶりです! 今度、呑み会しませんか?」
と、キャビキャビとした弾む声は、20年前と少しも変わりません。
でも思えば、彼女も40代のはず。
あの頃は、まだ20代前半のギャルでした。
その後、結婚もして、今は2児の母親です。
「だから、俺はもう、編集長なんかじゃないよ」
と言っても、やはり、
「編集長というのは、ニックネームだと思ってください」
とかなんとか言われてしまい、またしても呼称の訂正はできませんでした。
でもね、うれしいんですよ。
僕が編集室を去った理由が理由でしたからね。
上司との反りが合わず、ケンカをして、突然、辞めてしまったわけですから……
言い方を変えれば、僕はスタッフを “捨てた” わけです。
なのに編集室を去った後も僕を憎むことなく、何十年も交流を続けてくれているのですから、ただただ編集長冥利に尽きる光栄だと感謝しています。
だって、こうやって忘れずに声をかけてくれるなんて、まるで同窓会に呼ばれる恩師のような気分じゃありませんか!
ランチも呑み会も僕にとっては、懐かしい教え子たちに会える同窓会なんです。
それにしても時代は変わりました。
男子からランチ、女子から呑み会のお誘いですからね。
でも、いいんです。
あの頃の仲間に会えば、血気盛んに情熱を振りかざしていた若き日の自分に会えるような気がするのです。
2020年06月25日
プラス5,000円の宿
「さっそく、○○温泉に行ってきました」
「おすすめの旅館を教えてください」
友人知人から、そんな電話やメールが増えています。
現在、群馬県では、新型コロナウイルス感染拡大の影響で苦境にある県内観光事業者への支援策として、旅館やホテルの宿泊費を補助する 「愛郷ぐんまプロジェクト 泊まって!応援キャンペーン」 を開催しています。
このキャンペーンは、登録された県内の宿泊施設を利用した県民に、1泊5,000円を補助するというものです。
宿泊費が6,000円以上の場合に適用され、県が4,000円、施設が1,000円を負担してくれます。
3連泊まで利用ができ、回数制限はありません。
ただし、宿泊対象期間は7月31日までで、それ以前に先着30万人に達した場合も終了します。
だもの、温泉好きの県民には、願ったり叶ったり、もって来いの企画とあり、かなり盛況のようであります。
各温泉地も、このチャンスを逃すまいと、コロナ不況を一気に取り戻すべく、さらにお得な企画を打ち出しています。
その一部ですが、僕が 「観光大使」 「温泉大使」 を務める町と温泉地を紹介します。
●みなかみ町では、ラフティングやカヌーなどのアウトドアを特別料金で体験できる 「ググっとぐんま、応援キャンペーン」 を7月末まで開催中。
●中之条町では、県のキャンペーンで町内に宿泊した人を対象に、町内施設の割引を受けられる 「周遊チケット」(通常価格500円) を無料配布。
●四万温泉では、飲食店など32ヶ所で特典が受けられる 「よってんべえパスポート」(同100円) を、県のキャンペーを利用した宿泊者に無料で贈呈。
●老神温泉では、県のキャンペーンを利用して宿泊した人に 「オリジナル手ぬぐい」 を贈呈。
いかがですか?
ますます、温泉に行きたくなったのでは、ありませんか!?
で、僕からみなさんへ、提案があります。
“5,000円補助” の使い方であります。
いつも泊まっている料金より5,000円安く泊まるのではなく、いつもより5,000円高い宿(部屋) が、いつも料金で泊まれると、発想の転換をしていただきていのです。
県からの補助が出るといっても、宿泊施設に支払われるのは4,000円です。
1,000円は、宿が負担しています。
なので、“応援” するのであれば、少しでも “ふんぱつ” してあげてください。
もしくは、連泊または複数の温泉宿をはしご(転泊) していただけると、うれしいです。
泊まって残そう!群馬の温泉
大使からのお願いでした。
2020年06月24日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十二 【完】
『文豪たちが来遊した “山の中の温泉場” 』
<太宰君は人に恥をかかせないように気をくばる人であった。いつか伊馬君の案内で太宰治と一緒に四万温泉に行き、宿の裏で私は熊笹の竹の子がたくさん生えているのを見て、それを採り集めた。そのころ私は根曲竹と熊笹の竹の子の区別を知らなかったので、太宰君に 「この竹の子は、津軽で食べている竹の子だね」 と云って採集を手伝ってもらった。太宰君は大儀そうに手伝ってくれた。>
(井伏鱒二 『太宰君のこと』 より)
昭和15(1940)年4月、作家の井伏鱒二は太宰治ら数名と、四万温泉(中之条町) に来遊した。
このとき泊まった宿が、「四萬館」 だった。
このあと井伏鱒二は、竹の子を家に持ち帰り、料理して食べてしまったという。
師弟関係にある2人ならではのエピソードである。
今でも文豪たちが投宿した部屋が、裏山の中腹に残されている。
京都から移築された400年前(安土桃山時代) の建物は、現在、木工芸品の工房になっている。
井伏鱒二らが宿泊した戦前は、四萬館の特別客室として四万川の対岸にあったが、昭和30年代になって2階部分だけが現在の場所に移築された。
柱や梁、縁側部分は当時のままで、在りし日の文豪たちの面影を探して、全国から文学ファンが訪れている。
太宰治は、四万来遊の翌年に小説 『風の便り』 を発表した。
30代後半の作家が執筆に行き詰まり、敬愛する大先輩の作家に相談した手紙のやり取りを著したもの。
主人公は上野駅から 「しぶかわ」 まで汽車で向かい、「山の中の温泉場」 にたどり着く。
四万川の嘉満ケ淵を思わせる 「釜が淵」 など、四万温泉を彷彿させる地名が出てくる。
この主人公が太宰治自身であり、先輩作家は井伏鱒二、温泉宿が四萬館ではないかと言われている。
<2014年2月>
長い間、「一湯良談」 をご愛読いただき、ありがとうございました。
近日、ブログ開設10周年を記念した特別企画の第3弾をお届けします。
ご期待ください。
2020年06月23日
谷川温泉 「別邸 仙寿庵」
コロナ自粛解除後、初の温泉は、谷川温泉(みなかみ町) でした。
しかも仕事ではなく、プライベートでもありません。
それは何かと問われたら?
しいて言うなら、公務でしょうか!?
でも、「みなかみ温泉大使」 としてではありません。
無理やり、こじつけるならば、自称 “群馬の温泉大使” としての布教活動です。
世の中には殊勝な人たちがいるもので、こんな僕から夜通し温泉話が聞きたいと、わざわざ東京から3人の若者(男2、女1) が、群馬のみなかみ町くんだりまで来てくださったのであります。
しかも、「温泉夜話」 の会場に指定してきたのが、なななんと! 「別邸 仙寿庵」 だったのです。
仙寿庵といえば、群馬を代表する高級温泉旅館であります。
もちろん僕は、取材で何度か伺ったことはありますが、すべて日帰りです。
宿泊の時は、いつも本館の 「旅館たにがわ」 にお世話になっていました。
では、なぜ、若者たちが、そんな高級旅館を指定して来たのでしょうか?
理由を聞けば、納得。
3人が勤める会社の社長さん御用達のお宿なのだそうです。
それにしても、スゴイ!
でも理由はなんにせよ、そうと決まれば、自粛解除を祝って、豪華に優雅に存分に満喫しようじゃありませんか!
ということで、昨日は雨の中、いそいそと谷川温泉に向かいました。
ウェルカムドリンクの生ビールをロビーでいただきつつ、雨に煙る谷川岳を眺めながら、“ご褒美タイム” のスタートです。
ここからの景色のことを、僕は著書 『みなかみ18湯 (下) 』 の中で、こう書いています。
<対峙する山並みと庭園を包み込むように曲線を描く廊下は、あたかも美術館のようだ。天井まで続く漆喰(しっくい) と京土壁。和と洋の美しさが、自然の緑と相まって、なんとも不思議な空間を創り出している。>
約1000坪の建物内に、客室は18部屋のみ。
いわば、“デザイナーズ旅館” と呼ばれるブームの先駆者のような宿です。
設計を担当した建築家の羽深隆雄氏は、1998年に仙寿庵で日本建築仕上学会賞の作品賞を受賞しています。
また2016年には、旅行業界のアカデミー賞とも称されるワールド・ラグジュアリーホテル・アワードで、「Luxury Hideaway Resort」 を受賞しています。
ま、そんな宿ですら、取材するのと実際に泊まるのでは、大違いです。
広~い部屋に通されても、ポツンと一人ぼっちで、やることがありません。
主催者の3人が来るまでは、ひたすら温泉三昧に興じることにしました。
大浴場と露天風呂、そして客室の露天風呂と、温泉ライター冥利に尽きる贅沢な時間を満喫させていただきました。
午後6時過ぎ、おじいさん1人と若者3人が、宴の席に揃いました。
自分で自分のことを “おじいさん” と呼んだのは、だって、3人とも若いんですもの!
(僕の息子や娘より、若いのです)
「お会いできて、大変うれしいです」
「いえいえ、こちらこそ、こんな素敵な宿にお招きいただき、ありがとうございます」
「まずは、乾杯いたしましょう。小暮さんは、日本酒ですか?」
「あ、はい……いや、なんでも」
とかなんとか、世代間ギャップを跳ねのけるべく、一気にのんで、一気に酔って、マシンガンのごとく温泉説法を撃ちまくったのであります。
気が付けば、宿のスタッフから 「お時間です」 の合図。
「では、続きは僕らの部屋で」 との誘いに、「私は、もう歳ですから、このへんで」 と断ればいいものの、「いいですねぇ、行きましょう!」 と最年長の自覚もないまま、深夜のトークバトル会場へ。
結果、話のテーマは温泉から民話、はては妖怪から未確認生物までオーバーヒート!
それでも、楽しくて嬉しくて、久しぶりに笑い転げました。
やっぱり、これがリモートではない、“リアル飲み会” の醍醐味なんでしょうね。
少しずつですが、僕の日常が返ってきました。
2020年06月22日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十一
『幸運が舞い込む座敷わらしの宿』
<旅の夫婦が大きな空き家に、一夜の宿を借りてから、そこに男の子が現れるようになったそうです。奥さんが、その男の子と遊んであげると、男の子は 「奥の座敷の床下を掘ってください」 と言ったそうです。言われたとおりに掘ってみると、なんとそこには大判小判の入った金瓶が埋まっていました。その後、夫婦はその家で暮らすようになり、座敷わらしに似た可愛い男の子をもうけ、末永く幸せに暮らしたそうです。>
(猿ヶ京温泉の民話 『座敷わらしの家』 より)
「私は、その夫婦から数えて18代目になります。今でも時々、座敷わらしが現れるんですよ」
と、猿ヶ京温泉(みなかみ町) 「生寿苑」 の主人、生津秀樹さんは、いたずら小僧のような目で笑った。
生津家は代々、この地で養蚕農家を営んでいた。
昭和52(1977)年、先代が桑畑に古民家を移築して、団体客中心の大衆旅館を始めた。
平成10(1998)年に 「猿ヶ京にない旅館にしたい」 と現主人が、庭園を眺める現在の平屋造りの旅館にリニューアルした。
城郭を思わせる巨石が積まれた石垣、時代劇のオープンセットのような大門をくぐり、中庭へ入ると出迎えてくれる母屋。
田舎の民家を訪ねたようで、とても懐かしい気持ちにしてくれる。
大門の前には、伝説の金瓶を祀った石祠があり、拝むと願い事がかなうという。
「座敷わらしは、どの部屋に現れるんですか?」
「どの部屋といわず、いろいろな所で目撃されています。夜中に廊下で遊ぶ姿が多いですかね」
湯床に天然石が敷き詰められた湯舟に身を沈めながら、昼間、主人と交わした言葉を思い出していた。
座敷わらしを見た人は、幸運が舞い込んで来るという。
その晩は寝ずに、男の子が現れるのを待つことにした。
<2014年1月>
2020年06月21日
防犯カメラと太陽
防犯カメラ、ドライブレコーダー、スマホ……
こんなにも世の中の可視化が進んでいるのに、一向に “あおり運転” がなくなりません。
先日の埼玉県でのニュースでは、あおり運転の末に、追い越し車線に停車して、ピストルのようなものを後続車に向けたといいます。
また昨年の東名高速道路でのニュースでは、エアガンのようなものを発射したといいます。
なんだか可視化により、よりエスカレートしているようにも見えます。
人が見ていないから犯罪を犯すのではなく、逆に人に見られていることにより犯罪が狂暴化しているようです。
もはや、「カメラに撮られている」 という可視化の事実は、抑制にはならないのでしょうか?
以前、さる弁護士が、こんな話をしていました。
「戦後、日本人は目に見えないものを信じなくなった」
たとえば、“お天道さま” です。
子どもの頃、親や年寄り、近所の大人たちから、
「人が見ていなくてもね、悪いことをすれば、ちゃんと、お天道さまが見ているんだからね」
そう言われたものです。
ある意味、それは、おまわりさんに見つかるよりも、恐ろしいことに思えました。
子ども心に、「太陽が見張っているんなら、悪いことはできない」 と納得したものです。
そして、不思議と 「太陽が見ていなければ、何をやってもいいんだ」 という、ひねくれた考えを持つ子どももいませんでした。
夜になれば “お月さん” が見ているし、曇りや雨の日には、きっと別の “神さま” が見ているのに違いないと……
では、現代人は本当に、目に見えないものを信じなくなってしまったのでしょうか?
僕は、そんなことはないと思います。
たとえば、歓楽街の横丁や路地裏に書かれている鳥居のマークです。
酔っぱらいの立ちション防止のために、昔の人が考えた知恵です。
「鳥居」 = 「神社」 = 「神様」 ですからね。
当然、そんなところで立ちションなんてしたら、バチが当たります。
そこで提案です。
防犯カメラやドライブレコーダーの先に、鳥居のマーク 「⛩」 を付けたらいかがでしょうか?
それでもピストルやエアガンを向けるヤツには、必ずや天罰が下ります!
2020年06月20日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の二十
『源泉王と呼ばれる湯の達人』
水上温泉郷(みなかみ町)、8湯の1つ。
谷川岳登山口にある谷川温泉 「水上山荘」 の2代目主人、松本英也さんは、温泉ジャーナリストの故・野口悦男さんから、“源泉王” と呼ばれた湯の達人だ。
館内にある男女別の内風呂と露天風呂、貸切風呂は、すべて源泉かけ流し。
もちろん加水や加温は、一切していない。
なのに一年中、沸かしも薄めもしないで、0.1度きざみで温泉の温度を調節しているという。
さて、その秘密は?
初めて同館を訪ねた日に、そんなトンチのようなクイズを出された。
熱交換式の装置を使っているのかと思ったが、それではあまりにも答えがありふれている。
もっと単純明快な方法に違いない。
ふと私は、以前にも同じような話を、ある湯守(ゆもり) としたことを思い出した。
その温泉宿も湯量が豊富な自家源泉を数本所有していた。
すぐさま 「温泉分析書」 をチェックすると、案の定、ここも3本の源泉から給湯している。
総湯量は毎分520リットル。
しかも3本の源泉の温度は、31.8度、45.5度、54.4度と異なる。
答えは明白である。
3本の温度の違う源泉を混合することにより、季節や天候に左右されることなく、適温に調節しているのだろう。
そう、答えを告げると、
「さすがですね。お見事です。300人に1人の正解率ですよ」
と主人に、お褒めの言葉をいただいた。
昭和50年代のこと。
好景気の温泉ブームに乗って旅館を大きくして、浴槽数を増やそうと考えた時期があったという。
「でも、夢枕に温泉の神様が現れて言ったんですよ。『湯は足りるのか?』 ってね。ブームに乗って浴槽の数を増やしたら、温泉を水増しすることになり、結果、お客様をだますことになる。だから、与えられた湯量に合った浴槽を造ることにしました」
主人の選択は、正しかったようだ。
さすが、“源泉王” と呼ばれる湯の達人である。
<2013年12月>
2020年06月19日
解除のゆくえ ~期待と不安~
今日の午前0時に、都道府県をまたぐ移動自粛が全面解除されました。
はたして、これで私たちの日常は、コロナ前に戻れるのでしょうか?
はなはだ個人的ではありますが、僕の日常で検証してみたいと思います。
僕の職業はライターです。
ですから主な仕事は、「取材」 と 「執筆」 です。
が、過去に温泉や民話に関する本の出版や介護の経験があることなどから、年間で10~20回ほど、「講話」 の依頼が入ります。
ということで、現在の事業内容は、この三本立てとなっています。
で、コロナ禍において一番、自粛の影響を受けたのが、「講話」 であります。
当然ですが、密集・密閉・密接の “3密” をすべて兼ね備えている仕事だからです。
4月の段階で、年内に予定されていたすべての講演と講座は、中止または延期となりました。
次に影響を受けたのが、「取材」 です。
外出の自粛、人との接触を避けるなどの理由から、既存の連載をはじめ春からの新規連載も含め、すべてがストップしてしまいました。
当然ですが、取材がなくなれば執筆もなくなるのですが、幸いにも僕は、何本かコラムやエッセイの連載がありました。
細々とですが、ステイホーム期間中は、これらの原稿書きをしていました。
おかげさまで、たっぷり時間があるため、先の先の原稿まで書き上げてしまいました。
今週、僕が講師を務めるカルチャーセンターの担当者から電話がありました。
「屋内講座の9割は再開しましたが、先生の講座の場合はバスを利用するので、もうしばらく開講までは時間がかかりそうです」
とのことでした。
僕の講座は、バスを貸し切って、県内外の温泉地をめぐる野外講座なのです。
「早くて8月からですが、もう少し延びるかもしれません。今月の会議で決定しますので、ご連絡します」
そんな中、某公民館より、
「8月の講演は予定通り開催したいと思います」
との連絡をいただきました。
ただし、
「かなり条件を変更させていただきました」
とのことでした。
応募人数を半分にする。
対象年齢を高齢者から一般に引き下げる。
ソーシャルディスタンスを保ち、聴講者の間隔を2メートル以上離す。
消毒と換気を徹底する。
そして、当然ですが、聴講者、講師ともにマスクを着用とのことでした。
それでも、うれしいんです!
少なくとも、僕にとっては、コロナ以前の日常が、戻りつつあるのですから。
徐々にですが、温泉地にも人が来るようになることでしょうね。
でも、やはり、日常が戻れば戻るほど、期待半面、不安も募ります。
どうか、みなさん、解除されたからといって、一気に羽目を外さないでくださいね。
少しずつ、少しずつ、ゆっくりと日常を取り戻そうじゃありませんか!
2020年06月18日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十九
『祖父との約束を守り継いだ湯』
高崎市吉井町、牛伏山のふもと。
明治時代には、すでに自然に湧き出ている鉱泉があったという。
「皮膚病や胃腸病に効く水として、長い間、地域で大切に守られてきた源泉です。『誰かが温泉宿をやれよ』 と地元の人たちから声が上がり、料理人だった祖父が昭和46(1971)年に宿を始めました」
と3代目主人の桑子済(とおる)さん。
「お前が高校を卒業するまでは頑張るから、後は頼む」
と話していた祖父は、済さんが高校2年の時に80歳で他界した。
祖父の亡き後は、祖母が一人で商っていたものの高齢のために、平成18(2006)年からは休業したままだった。
「父もいったんは宿に入りましたが、すぐに勤めに出てしまったため、祖父の遺言である私が継ぐしかありませんでした」
と、高校卒業後は県内の結婚式場や温泉旅館で働きながら、宿の再開準備をしてきた。
「知り合った時から主人は、『いつかは宿を開けたい』 と話していました。『やるなら最初から本気でやりましょう。もしダメだったら、その時は2人で勤めに出ればいい』 って、だいぶ私が背中を押しちゃいました」
と笑う女将の真澄さん。
高崎市の飲食店でアルバイトをしていいる時に済さんと出会い、20歳で結婚した。
結婚後3年間は、真澄さんの実家に身を寄せながら、2人で再開に向けて施設の設計や資金繰りなどを話し合ってきた。
昨年6月、本館の新築と宿泊棟の改築をし、6年ぶりに湯端温泉 「湯端の湯」 の営業を再開した。
本館の1階には内風呂と日帰り入浴客用の休憩室を兼ねたカフェスペース、夏にホタルが観賞できるウッドデッキのテラスを設置した。
ネットによる口コミで噂が広がり、すぐにかつての常連客や温泉ファンが全国からやって来たという。
リニューアルオープンから4ヶ月後の今年10月、祖母は90歳で天寿をまっとうした。
誰よりも宿の再開を喜んだ人だった。
きっと遠い空から祖父と一緒に、孫夫婦の奮闘ぶりを見守っていることだろう。
<2013年11月>
2020年06月17日
戒厳令の夜明け
久しぶりに、呑んできました。
ウソです!
もとい、正確に表記します。
外で呑んだことを、久しぶりにブログに書きます。
緊急事態宣言が発令されてからというもの、不要不急の外出が厳しくなり、“のん兵衛” には肩身の狭い世の中になりました。
発令解除後、世の中は徐々に元の状態に戻りつつありますが、やれ 「3密」 だの、やれ 「ソーシャルディスタンス」 だの、依然、“のん兵衛” には、不自由な世の中であります。
のん兵衛のみなさんは、どんな自粛生活を送っていましたか?
もっぱら僕は、「一人呑み」 でしたが、ちまたでは 「リモート呑み」 なんていう可笑しな飲み会を開いている人たちもいたようで、あの手この手で、酒を切らさない生活を維持していたようでですね。
あっ、また、ちょっぴりウソをつきました。
“もっぱら一人呑み” といいましたが、時々、「闇酒」 を呑みに、こっそりと夜の街へ出かけました。
もう、時効だからいいですよね。
正直に、お話しします。
悪い仲間から “闇メール” が送られて来るのです。
「待ってました!」 と、出動要請がかかります。
抜き足、差し足、忍び足……
憲兵に見つからぬよう、非国民と呼ばれぬよう、そーっと、そーっと、夜の街へ出かけます。
「山」
「川」
「よし、入れ」
そんな合言葉はありませんが、平日の真昼間に集まり、美酒に酔うのであります。
闇の味は、蜜の味。
同じ 「みつ」 でも、こちらの蜜は大歓迎です。
そんな我慢(?) の戒厳令の期間を無事に乗り越えて、少しずつですが、僕らのん兵衛にも、以前のような日常が戻ってきました。
もう、後ろ指はさされません。
(もちろん、3密を避けて、ソーシャルディスタンスを保ちながらです)
「あっ、ジュンさん!」
「お久しぶりです」
「また、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「では、カンパイ!」
以前ほどのにぎわいは、まだないにしても、陽気な常連たちが、いつもの店に顔を出し始めました。
「やっぱり酒はさ、こうやって相手の顔を直接見ながら呑まなくちゃね」
「そーだよ、リモートだか、なんだか知らないけどよ、あんなのダメだよ。ノミニュケーションが、とれませんって」
いいぞ、いいぞ、だんだんメートルが上がって来たぞ!(死語かも)
良き酒、良き店、良き仲間が、帰ってきました。
戒厳令の夜明けじゃーーーっ!!!
2020年06月16日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十八
このカテゴリーでは、ブログ開設10周年を記念した特別企画として、2012年4月~2014年2月まで高崎市のフリーペーパー 「ちいきしんぶん」(ライフケア群栄) に連載された 『小暮淳の一湯良談』(全22話) を不定期にて紹介しています。
温泉地(一湯) にまつわるエピソード(良談) をお楽しみください。
『ご先祖さまの言いつけを守って』
「今の人たちは、温泉を勝手に使っているよね。でも本来温泉は、人間が使わせていただいている、ありがたいものなんだよ」
そう言ったのは、群馬県最西端の一軒宿、鹿沢(かざわ)温泉(嬬恋村) 「紅葉館(こうようかん)」 の4代目主人、小林康章さんだった。
長野県東御(とうみ)市新張(みばり) から群馬県境の地蔵峠を越えて約16キロ、道の端に100体の観音像が安置されている。
昔、この道は 「湯道」 と呼ばれ、湯治場へ向かう旅人たちの安全祈願と道しるべを兼ねて、江戸末期に立てられたものだという。
そして百番目の観音像が、紅葉館の前に立っている。
宿の創業は明治2(1869)年。
往時は10軒以上の旅館があり、にぎわっていたが、大正7(1918)年に温泉街を大火が襲い、全戸が焼失してしまった。
多くの旅館は再建をあきらめ、数軒が約4キロ下りた場所に引き湯をして新鹿沢温泉を開き、湯元の紅葉館だけが、この地に残って源泉を守り続けている。
湯治場風情が残る同館の浴室は、昔ながらの木枠の内風呂が男女1つずつあるだけ。
源泉は宿より高い場所にあり、階下の浴槽へ自然流下で引き入れている。
湯元であり、豊富な湧出量からすれば、もっと大きな浴槽や露天風呂があっても、よさそうなもの。
しかし、小林さんは、
「大切な湯の鮮度を考えれば、これ以上、浴槽を大きくすることはできません。先祖からも湯に手を加えるなと、代々言い継がれていますから」
と言う。
その湯は、やや熱めで、強烈な存在感をもって力強く、グイグイと体を締めつけてくる。
が、やがてスーッと、しみいるように馴染んでくるのが分かる。
今年6月、老朽化のため本館が建て替えられたというので、1年ぶりに同館を訪ねてみた。
「ご先祖さまの言いつけを守り、湯も風呂も、そのままの形で残しました」
と5代目を継いだ昭貴さんが、誇らしげに出迎えてくれた。
<2013年10月>
2020年06月15日
幻の銘酒に魅せられて
ワクワクが止まりません。
寝ても覚めても、そのことばかり考えています。
またしても持病の “謎学症候群” が発症したようであります。
心はネットの検索と図書館をさまよい、体は3密を避けて県内を東奔西走しています。
それでも、なかなか真実に、たどり着けないところが 「謎学」 の面白さなのであります。
さて、その正体は?
“酒” であります。
酒といっても、ただの酒ではありません。
今から150年前に製造を終えてしまった幻の酒であります。
いったい、どんな酒だったのか?
どんな味がしたのか?
甘口なのか、辛口なのか?
思いは、募るばかりです。
1週間の調査の末、なんとか酒蔵跡と酒造りに使用されたという井戸に、たどり着きました。
それと、ほんの少しですが、当時の文献も手に入れました。
その中に、こんな一文を見つけました。
文政6年(1823) 、戯作者、十返舎一九が江戸から草津への旅の道中に書かれたものです。
< (前略) 此所に〇〇酒と云う名産のあるを吹筒に移し入れ行に (後略) >
『上州草津温泉往来』 より
〇〇というのは、銘柄名です。
また場所の判明を避けるため、あえて前後の文章を略させていただきました。
150年という時空を超えて、もし、現代によみがえさせることができたなら……
「ぐんまの地酒大使」 として、残りの人生を賭ける価値があるのではないかと……
夢は大きく、ふくらみ続けています。
2020年06月14日
蘇民将来の木札
唐突に、古い友人から、こんなメールが届きました。
<淳ちゃんには、蘇民祭で洗礼をたまわっているから、「蘇民袋」 のご利益がありますね。>
一見、何のことかと思いましたが、メールをじっくりと読むと、コロナ禍のさなか、“第三のアマビエ” と称される疫病退散の神 「蘇民将来」 のことを告げる内容でした。
蘇民祭とは、岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りです。
毎年、極寒の1月に、ふんどし姿の男たちが、夜を徹して 「蘇民袋」 と呼ばれる木っ端の入った布の袋を奪い合います。
そして、袋を手にした男がいる村には、その年1年間の五穀豊穣と無病息災が約束されます。
昔、僕は旅行雑誌のライターをしていた頃があり、全国の奇祭をめぐっていました。
その中に、岩手県水沢市(現・奥州市) の 「黒石寺蘇民祭」 という祭りを取材したことがありました。
友人は、その時の僕の話を覚えていてくれたようです。
では、なぜ、この蘇民祭とコロナ禍の疫病退散が関係あるのでしょうか?
実は、この祭り、今から1,000年以上も昔に原因不明の難病が流行したことから、「蘇民将来」 の説話に基づいて始まった祭りなのです。
そみんしょうらい……とは?
八坂神社の御祭神、スサノオノミコトが伊勢の地を旅したとき、一夜の宿を請うスサノオノミコトを貧しくも心豊かな男 「蘇民将来」 が、こころよく迎え入れ、粟で作った食事で厚くもてなしました。
その晩、スサノオノミコトは、夢によって悪病が襲って来ることを察知し、蘇民の家の周りに 「蘇民将来子孫也」と言いながら、茅の輪を編んで張りめぐらせました。
一夜明けると、村中どこの家も疫病に倒れたにもかかわらず、蘇民の家だけは無事に難を逃れました。
※諸説あります。
この説話から、疫病流行の際には、 「蘇民将来子孫也」 と記した木札を貼った家や所持する者は、疫病より免れるといわれています。
蘇民将来子孫也
みなさんも、木札に書いて護身されたら、いかがでしょうか?
2020年06月12日
めぐみさんとタウン誌
北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさんの父、滋さん(87) が亡くなられました。
めぐみさんが新潟市内で行方不明になったのは、昭和52(1977)年11月。
北朝鮮による拉致の疑いが浮上したのは、それから20年後の平成9(1997) のことです。
横田滋さん、早紀江さん夫妻は40年以上も最愛の娘を探し続けていましたが、ついに滋さんは再会を果たせずに旅立ってしまいました。
このエピソードは、まだ、めぐみさんが北朝鮮の拉致による行方不明だとは、国民の誰もが知らなかった頃の出来事です。
横田夫妻は、昭和63(1988)年から平成3(1991)年の3年間、滋さんの勤務地である前橋市に暮らしていました。
当時、僕は地元タウン誌の記者として、カメラを首から下げて、県内を東奔西走しながら、取材を続ける毎日を送っていました。
<早紀江さんは偶然手にしたタウン誌にめぐみさんにそっくりな写真を見つけた。「ボウリングレディ」 というミス・コンテストの写真特集に、群馬代表の5人が写っていた。>
(2002年10月4日付 上毛新聞 「三山春秋」 より)
このタウン誌は、月刊 「上州っ子」 の1989年2月号であり、記事は、日本ボウリング協会主催によるコンテストの群馬大会のことでした。
毎年1月に前橋市内のボウリング場を会場に開催され、写真選考を通過した30人が集まり、私服の第1次審査と水着の第2次審査を行い、選出された上位5人が東京で開催される全国大会へ出場していました。
そして、この時、写真を撮り、記事を書いたのが僕でした。
< 「この人、めぐみに似ていない?」 と滋さんに雑誌を見せた。「似ていると言えば、似てるなあ」 と滋さんはその時うなずいたという。本大会が東京で開催することを記事で知った早紀江さんは、会場のホテルに駆け付けた。>
結果、本人ではなかったことが分かります。
でも、この時、早紀江さんは、こんなふうにコメントしています。
< 「本当によく似ているけど、やはりめぐみではないと、すぐに分かりました」。それでも 「とても懐かしい気がして、あの子もあんなふうに大きくなっていればいいと思いました」 >
めぐみさんは異国の地で、父の死を知ることができたのでしょうか?
ただただ、無念でなりません。
いったい、いつになったら帰ってくるのでしょうか?
滋さんのご冥福をお祈りいたします。
2020年06月11日
一湯良談 (いっとうりょうだん) 其の十七
『牧水が泊まった幻の名旅館』
<沼田駅に着いたのは七時半であった。(中略) 電車から降りると直ぐに郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受け取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊るかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出してその旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。宿屋の名は鳴滝といった。>
(『みなかみ紀行』より)
大正11(1922)年10月21日。
歌人の若山牧水は、四万温泉(中之条町) の宿を出て、中之条から電車に乗って、午後、渋川に着いた。
駅前の小料理屋で食事をとった後、ふたたび電車に乗り、沼田まで足を延ばした。
その晩、泊まった宿が 「鳴滝」 である。
その後、鳴滝は廃業したが、昭和20年代に元水上町長が建物を購入し、水上温泉郷の1つ、うのせ温泉(みなかみ町) に移築され、「鳴滝旅館」 として営業を始めた。
昭和40年代には一時、農協の研修施設として使用されたこともあったが、昭和57(1982)年に現在のオーナーが買収し、ふたたび旅館として営業を再開した。
少しずつ増改築を施しながら平成14(2002)年に修繕工事が完了し、「旅館みやま」 としてリニューアルした。
外観はすっかり変わってしまったが、それでも本館のそこかしこに、当時の面影が残っている。
黒光りした太い梁や大黒柱、時を刻んだ屏風絵など、歴史の証人のように昔と変わらぬ姿でたたずんでいる。
高台に建つ露天風呂からは、かつて 「鳴滝」 があった沼田方面が見渡せる。
もし牧水が生きていて、あのとき泊まった町の旅館が、今は温泉宿になっていることを知ったなら……。
温泉好きの牧水のことである。
さぞかし喜んで、訪ねて来たことだろう。
<2013年9月>