2021年09月30日
湯守の女房 (32) 「女将とは、着物の半襟のようなもの」
伊香保温泉 「和心の宿 オーモリ (大森)」 渋川市
「いろはかるた」 の上毛かるたは、その一番目の札で 『伊香保温泉 日本の名湯』 とうたう。
箱詰めした時に 「ら」 とともに一番上に出る赤札だ。
敗戦で荒廃した日本が元気を取り戻す活力を群馬から発信しようと、昭和22(1947)年につくられた。
「日本の名湯」 との表現にも、日本立て直しへの思いが込められている。
「うちは主人で3代目になります」
と言う女将の大森典子さんは、渋川市街地の生まれ。
主人の隆博さんとは、親同士が知り合いだったこともあり、子どものころから家族ぐるみの付き合いをしていた。
「主人のことは 『お兄ちゃん』 と呼んで、いつも慕っていましたから、旅館の女将になることへの不安はありませんでした」
大正8(1919)年、隆博さんの祖父、繁さん (故人) が 「大森旅館」 として開業した。
それ以前は、駕籠(かご)と馬により伊香保の往来交通を担い、馬の預かり所も営んでいた。
ところが、明治43(1910)年に開通した渋川と伊香保を結ぶ 「伊香保電気軌道」 の登場で、職業替えを余儀なくされた。
昭和62(1987)年に22歳で結婚。
ところが、結婚式の6日後に先代女将のとし子さんが突然、59歳で他界してしまった。
「これから色々なことを教えていただこうと思っていましたから、まさに青天の霹靂(へきれき)。天から地に落とされた気分でした」
と当時を述懐する。
「緊張のあまり気丈に振る舞うしかなく、鎧(よろい)を身に着けているような毎日を送っていた」
という。
女将業がつらくて、旅館を飛び出したこともあった。
人生の転機は、3年後に訪れた。
長男の出産を機に、同じ境遇で子育ての悩みを持つ伊香保温泉の若女将たちとの交流が始まった。
旅館組合婦人部が母体となってできた 「お香女(かめ)会」 の一員として、石段でのお茶入れサービスや女将が夜の石段街を案内する 「提灯ウォーク」 などのイベントやPR活動をしてきた。
結婚した時、ある人から 「女将とは、着物の半襟のようなもの」 と言われた。
無いと着物として成立しないが、出過ぎると下品になる、という意味だという。
「旅館に入って25年が経った今、まさにその通りだと思えるようになりました。そしてこれからも、そうありたいと思っています」
今日も満面の笑みをたたえながら、日本の名湯を訪れる人たちを出迎えている。
<2012年10月3日付>
Posted by 小暮 淳 at 11:49│Comments(2)
│湯守の女房
この記事へのコメント
<2021年10月3日付> ???
Posted by T課長 at 2021年10月01日 11:10
T課長さんへ
ありがとうございます!
よく、気づかれましたね。
さっそく訂正しました。
ありがとうございます!
よく、気づかれましたね。
さっそく訂正しました。
Posted by 小暮 淳 at 2021年10月01日 11:19