2022年05月29日
ぐんま湯けむり浪漫 (8) 鹿沢温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
鹿沢温泉 (嬬恋村)
吹雪をしのぐ間に作られた替え歌
♪ 雪よ岩よ われらが宿り 俺たちゃ町には 住めないからに ♪
誰もが知っている昭和のヒット曲 『雪山賛歌』 だが、この歌が群馬の鹿沢(かざわ)温泉で誕生したことは、あまり知られていない。
作詞は、後に第1回南極越冬隊長を務めた登山家で、京都大学理学部教授だった西堀栄三郎氏。
大正15(1926)年1月、京大在学中に山岳部の仲間たちと鹿沢温泉でスキー合宿を行った。
悪天候が続き、吹雪をしのぐために宿で待つ間、退屈まぎれに 「山岳部の歌」 を作ろうということになった。
歌は、アメリカ民謡 『いとしのクレメンタイン』 の替え歌として作詞されたという。
戦後になり、京大山岳部がこの歌を寮歌に加え歌っていたのが急速に広まり、一般にも愛唱されるようになったが、作者は不詳だった。
のちに京大教授の桑原武夫氏が作詞の経緯を知り、著作権を登録し、この印税を同山岳部の活動の資金源とした。
昭和46(1971)年、鹿沢温泉の一軒宿 「紅葉館(こうようかん)」 の脇に、西堀氏の直筆による碑が設置された。
自然流下による ありのままの湯
温泉の歴史は古く、白雉元(650)年と伝わる。
村人が峰から光明が差しているので行ってみると、熱湯が湧き出しており、薬師如来が現れたという伝説が残っている。
また猟師が湯につかっている傷ついたシカを目撃して以来、傷に効果があるという話が伝わり、いつしか 「鹿沢」 の字が当てられるようになったという説もある。
宿の創業は明治2(1869)年。
往時は十数軒の旅館があり、にぎわっていたが、大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまった。
多くの旅館が再建をあきらめ、数軒は約4キロ下りた場所に新鹿沢温泉を開いた。
湯元の 「紅葉館」 だけが、この地に残り、大切な源泉を守り続けている。
このため鹿沢温泉は、地元では 「旧鹿沢温泉」 とも呼ばれている。
「湯に手を加えるなというのが、先祖からの教えです。湯の鮮度を考えると、浴槽もこれ以上大きくできません」
と4代目湯守(ゆもり)の小林康章さん。
1時間で浴槽内の全ての湯が入れ替わるように、湧出量に見合った大きさを守っているという。
露天風呂もなく、浴室にはカランやシャワーもない。
昔ながらの湯治場の姿を守っている。
自噴する源泉は宿より高い場所にあり、地形の高低差だけを利用して、自然流下により浴槽へと湯を引き入れている。
その距離、わずか10メートル。
源泉の温度は約47度。
湯口に届くまでに2~3度下がるというが、それでも浴槽には常に熱めの湯が満たされ、惜しみなくかけ流されている。
平成25(2013)年6月、老朽化のため本館が建て替えられた。
「浴室と浴槽は、ご先祖さまの言いつけどおり、そのまま残しました」
と長男の昭貴(てるたか)さん。
5代目の湯守を継いだ。
<2018年2・3月号>
Posted by 小暮 淳 at 12:01│Comments(0)
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