2022年06月15日
ぐんま湯けむり浪漫 (11) 沢渡温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
沢渡温泉 (中之条町)
頼朝が発見したと伝わる名湯
沢渡(さわたり)温泉の歴史は古く、万葉集の中にも地名を詠んだ歌があり、湯は鎌倉時代に発見されたと伝わる。
建久2(1191)年のこと。
同4年に征夷大将軍となり、富士の裾野で大規模な巻き狩りをした源頼朝は、その2年前に浅間山麓で小手調べのイノシシ狩りをした。
その際、酸性度の高い草津温泉につかり、湯ただれをおこした頼朝が、沢渡の湯に入ると、荒れた肌がきれいになったことから 「草津のなおし湯」 と呼ばれるようになったといわれている。
しかし、沢渡が温泉場として知られるようになったのは、江戸時代以降のこと。
草津温泉の繁栄とともに多くの浴客が訪れるようになり、湯治場としてのにぎわいは、昭和になってからも続いた。
ところが昭和10(1935)年の水害による山津波、同20(1945)年の山火事から温泉街が全焼するという災厄に遭い、壊滅的な打撃を受けた。
しばらくは岩の割れ目から湧く温泉を数軒の宿で分湯していたが、湯脈が細って湯量が少なくなったため、同34(1959)年にボーリングを開始。
翌年、高温で豊富な源泉が噴出した。
これにより旅館も10数軒に増え、群馬県医師会による温泉病院も設立された。
湯玉が肌を滑り落ちる
大正11(1922)年10月、歌人の若山牧水は草津温泉から沢渡温泉へ向かう途中で、暮坂峠の素晴らしい景観に感動し、『枯野の旅』 を残した。
また2年後に著した 『みなかみ紀行』 には、このように記している。
<峠を越えて三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館 (ただしくは 正永館) というのの三階に上った。此処は珍しくも双方に窪地を持つような、小高い峠に湯が湧いているのであった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。>
正永館は当時、現在の共同浴場の西隣にあったという。
この時、牧水は沢渡温泉に泊まるか迷った末、昼食を終えると四万温泉へと旅立って行った。
ほかにも十返舎一九 (戯作者) や高野長英 (蘭学者)、平沢旭山 (儒者)、野口常共 (漢学者) ら、多くの文人墨客が訪れている。
「そこの石垣の間から温泉が湧いていてね。子どもの頃、ここでメンコやビー玉で遊んでいて、手が冷たくなると温めたものだよ」
と共同浴場前の駐車場で、沢渡温泉組合長の林伸二さんは述懐する。
「沢渡は2度の大きな災害に遭っているけど、昔も今も変わらないね。湯も人も、やさしいままだよ」
湯は無色透明で、サラサラしている。
湯舟から腕を上げると、コロコロと小さな湯玉が弾かれて、肌を滑り落ちるのがわかる。
「一浴玉の肌」 と呼ばれる、元祖 “美人の湯” である。
約50年前に降った雨が地中深く浸透し、長い間、有効成分を取り込みながら温められ、今、こうして温泉となって湧き出しているのだ。
ほのかに香る温泉臭と、たゆたう白い湯の花に、身も心も癒やされていく。
<2018年6・7月号>
Posted by 小暮 淳 at 12:00│Comments(0)
│湯けむり浪漫