2011年09月07日
またしても カラー掲載!
「小暮さん、明日の掲載もカラーでいけそうですよ!」
昨日、素っ頓狂な声を上げながら、朝日新聞の担当者から電話がありました。
連載中のエッセー 『湯守の女房』 のことです。
どうして担当者は、こんなにも興奮しているのかというと、前回に引き続き、またもやカラー掲載というのは、異例中の異例なのだとか。
群馬版がカラーページになるのは、ひと月に1回か2回あるかのこと。
それが、1つの連載が続けざまに当たるのは、かなり稀なのだそうです。
「これで連載の知名度が、ますます上がりますよ」
と、上機嫌の様子でした。
で、一夜明けて、今朝の朝日新聞32面。
白根温泉 「加羅倉館(からくらかん)」 の女将さんが、本館と別館の間に架かる橋の欄干に、いい顔して寄りかかっているでは、あーりませんか!
その下の写真では、これまた毎度のことではありますが、オッサン(僕です)が気持ち良さそうに、ドップリと湯舟に浸かっています。
5段ぶち抜きのワイドな紙面は、こりぁー目立ちますなぁ~!
さっそく今日の午前、実家へ顔を出したら、隣の家の奥さんが、
「あ~ら、今日の新聞読んだわよ~」
と、ブロック塀越しに声をかけてくださいました。
ありがとうございます。
まだ、ご覧になっていない方、今すぐコンビニへ!
朝日新聞の販売に、ご協力くださいまし。
2011年09月06日
島人たちの唄⑫ 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」(中)
2004年11月、某日未明。
僕らを乗せた大型バスが、高崎を出発した。
僕らとは、僕とY館長さんが入会している「K会」のメンバー20人である。
さしずめ、13回目の渡島になる僕が、添乗員である。
車中では、島の資料を配って、しっかり勉強会も行った。
上信越自動車道から長野自動車道、中央自動車道へ。
愛知県へ入ってからは名古屋高速に乗り、知多半島道路で終点を目指す。
途中、休憩と昼食をとったので、知多半島の最南端、師崎港に着いたのは、高崎を出てから8時間後のことだった。
ここから篠島までは、高速船でわずか15分の距離。
指呼の間に見える篠島の姿を前に、みんな、はしゃいでいる。
でも、僕だって同じだ。
何度訪ねても、海を渡るこの瞬間が、いつもワクワクする。
知った島人たちの顔が、いくつもよぎるのである。
「小暮さん、どうも」
高速船を降りると、篠島観光協会長でホテル「あつ美や」のご主人、荒木延一さんが出迎えてくれた。
『島人たちの唄』 の展示会では、後援もしていただき、僕らが大変お世話になった人である。
奥さんと一緒に、送迎車を2台用意してくれていた。
でも、みんな、目が好奇心に満ち満ちていて、なかなか車には乗り込まない。
「だったら歩きましょう! 宿まで案内しますよ」
僕のひと言で、ほとんどの人が荷物だけ預けて歩き出した。
ぞろぞろと歩く一行の前を、バイクが行きかう。
センターラインのない道は、右車線も左車線もない。
真ん中を堂々と、2人乗り、3人乗りの小型バイクが通り過ぎるたびに、一行は喚声を上げる。
「本当だ、小暮さんの言ったとおりだ!」
「さっき、4人乗りの家族を見た!」
驚くのも無理はない。
起伏が多く、幅の狭い島の道は、4輪車はほとんど通れない。
だから島民の足は、もっぱらバイク。
誰ひとりヘルメットをかぶっている者なんていない。
ナンバープレートが付いてないバイクや軽トラだって、平気で走っている。
島民のほとんどが無免許だ。
僕らも初めて島に来たときは、我が目を疑った。
ここは日本?
東南アジアの街角にいる錯覚に陥った。
まるでここだけが治外法権のような、島だけの不文律に夢中にならずにはいられなかったのだ。
宿に着いた僕らは、荷物を置くと、すぐに外へ飛び出した。
島一周の探検に行くことになったのだ。
一行の平均年齢は、お世辞にも若いとは言いがたい。
でも、歩くと言い張るのだから、案内をしないわけにもいくまい。
僕だって、島一周は過去に1度しか果たしていない。
2時間はかかるぞ、音を上げるなよ!
<つづく>
2011年09月05日
島人たちの唄⑪ 「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」(上)
「ぼくと、ぼくらと篠島の夕日」 は、月刊ぷらざ 2005年2月号に特集記事として掲載されたエッセーに、加筆・訂正したものです。
「いいね、感動した。今度、この島に連れてってよ」
声をかけてきたのは、某博物館の館長、Yさんだった。
昨年の5月、前橋市内で開催したフォト&エッセイ展 『島人たちの唄』 の会場でのことだった。
僕らは2年前から愛知県の三河湾に浮かぶ篠島という離島に通っていた。
僕らとは、僕と友人のカメラマンのO君である。
2人にとって篠島との出会いは、衝撃的だった。
「えっ、この島が、あの島だったのか!」
たまたま愛知県の知人に連れられて行った島だったが、そこは僕らにとっては、まさに聖地だったのだ。
1979年、夏。
この島に2万人を超える若者が全国から押し寄せた。
7月26日、吉田拓郎の 「篠島アイランドコンサート」 である。
翌27日まで、夜通しで歌った曲は全58曲。
朝日が昇るまで叫びつづけたラストの 「人間なんて」 は、ファンの間では、いまだ伝説として語り継がれている。
そのライブ会場となった跡地に立ったとき、熱狂的な拓郎ファンの僕らは、同時に熱いものが体中を駆けめぐるのを感じた。
“あれから4半世紀・・・追ってみたい。夢のつづきを、島の人たちの記憶を”
それから僕は、何かに取りつかれたように、島通いを始めた。
群馬から約500㎞離れた愛知県、車で高速道路を飛ばして約6時間。
僕らは、2年間で12回、島に渡った。
「島が沈んじゃへんかと思ったがね」
「お父さんの肩車で聴いたよ」
「道といわず浜といわず、若者が寝ころんでいた」
「もう一度、拓郎さん来ないかね。よろしく言ってよ」
最初は、そんな当時を述懐する島民の話を聞けるのが嬉しくて通っていたが、いつしか僕らは、スーパーもコンビにも信号機もない “モノのない島の豊かな暮らし” に魅せられていった。
その間、ネットのウェブマガジンで、2人のフォト&エッセイの連載が始まった。
展示会も前橋市につづき、宇都宮市、そして地元愛知県安城市のギャラリーでも開催することができた。
そのたびに、会場にお祝いの花束を贈ってくださったY館長さん。
僕らは、館長さんの 「島に連れてってよ」 の約束を果たすべく、“篠島バスツアー” を企画した。
<つづく>
2011年09月04日
ペーペーのぺー
「小暮君、最近、頑張っているじゃない!」
「小暮君の新聞記事、読んでるよ」
「小暮君は、温泉の教室もやってるんだって?」
この歳になると、だんだん僕のことを “君” 付けで呼ぶ人も少なくなってきます。
でも、この会のメンバーだけは、いつお会いしても 「小暮君!」 と先生のように気持ち良く呼んでくださるのです。
会の名は、「ぐんまカルタ制作実行委員会」。
2008年10月に発売した 『新・ぐんまカルタ』 の制作メンバー8人です。
平均年齢66.6歳、もちろん僕が最年少であります。
で、昨晩、久しぶりにこのメンバーが、前橋市内の居酒屋に集まりました。
震災の影響で延び延びとなっていた平成22年度の決算報告を兼ねた懇親会です。
でも、みなさん、ご高齢でありますから、大変なんですよ。
午後7時からの開会だというのに、6時には僕のケータイが鳴るんですから!
「小暮君、何やってるの! 早く来なさいよ。もう、みんな集まっているよ」
まあ、60歳代後半から70歳代前半の方々ばかりですから、午後7時の集合時間なんて待ちきれないわけです。
だから、あわてて駆けつけた僕の第一声は、
「だったら次からは集合時間を6時にしてくださいよ。ちゃんと、その時間に来ますから」
すると、
「いいの、いいの、気にしなくて。6時にすると、みんな5時に来ちゃうからさ」
そういって、先輩たちは入れ歯をカタカタ鳴らしながら大笑いするのでした。
みなさん戦中、戦前生まれですから、震災の話から原発事故の話になり、結局最後はいつものように戦争体験談へ……。
昨晩は、前橋空襲の時は、どこにいたか? で盛り上がっていましたね。
でも、これが聞いていて、とっても楽しいんですよ。
みなさん、とにかく良くしゃべって、良く飲んで、実にパワフルなんです。
「いやぁ~、 小暮君が、うらやましいね。これから、ますますモテるぞぉー!」
と、画家のK先生。
「そんなことありませんよ。金もないし、ヒマもないんですから」
と、僕。すると
「いやいや、これから金も女も、イヤというほど向こうからやってくるぞ! だって俺がそーだったからな! グァッハハハ~!」
と豪快に笑うのであります。
しばらくすると、
「さっ、次の店に行くぞっ! 今日は3軒行くからなっ」
の号令とともに、スクッと一斉に立ち上がったのであります。
恐るべし、戦中・戦前派世代!
僕なんか、この会では、ペーペーのぺーですからね。
すべて、従うしかありません。
※『新・ぐんまカルタ』 についての詳細は、当ブログ内 「3分の1は敵」 を参照ください。
2011年09月02日
クーポンコラム第3弾
近ごろ、近所のご婦人や公民館のおばさんなど、普段は馴染みのない人たちから声をかけられることが多くなりました。
「温泉の話、読みましたよ」
「いい男が、裸で写っていたね」
「あなたの記事読んだわよ。ほら、なんて言ったっけね。ほらほら、こんなくらいのサイズの雑誌よ。えーと……」
みなさん、クーポンマガジンのことを言っているようです。
実は、上毛新聞TRサービスさんが発行する「クーポンマガジン でりじぇい!」に、今年の1月からコラムを連載しているのです。
この冊子は、上毛新聞を購読しているご家庭に無料で配布されているもので、通常の月は情報誌の「でりじぇい!」が届けられていますが、年に数回、クーポンマガジンが配られています。
で、この冊子に 『小暮淳のマル得トーク』 というコーナーをいただき、温泉のコラムを執筆しています。
1月号は、「温泉は群馬のブランド」
5月号は、「いい温泉には、いい湯守がいる」
そして、現在発行している9月号では、「かけ流し温泉の入浴マナー」 と題して、掲載されています。
以前にもブログに書きましたが、このクーポンマガジンにコラムを寄稿している筆者たちが、そうそうたる方々なんですよ。
ソムリエの田崎真也さん、経済アナリストの森永卓郎さん、ヘアメークアーティストの藤原美智子さん……
そして僕ですから!(かなり執筆者のレベルに違いがありますが)
恐縮してしまいます。
上毛新聞を購読している方で、まだお読みになっていない人は、ぜひ、上毛新聞取扱販売店に催促および問い合わせてみてください。
お得なクーポン券が、たくさん付いていますよ。
2011年09月01日
沢渡温泉 「龍鳴館」②
またしても雨です。
なぜか、龍鳴館(りゅうめいかん) を訪ねる日は、雨が降るのです。
いや、正しくは、龍鳴館ではなく、“天狗堂” をお参りする日は……です。
今日は、このドシャ降りの雨の中、沢渡(さわたり)温泉へ行ってきました。
「龍鳴館」へ最後に行ったのは、昨年の4月。本の取材で、泊まりました。
でも、3代目女将の隅谷映子さんとは、昨年11月の出版記念パーティーでお会いしていますから、約9ヶ月ぶりの再会であります。
それ以前にも、龍鳴館を訪ねていますが、そのときは晴れていました。
そして前回の取材でも、到着した前日は晴れ。
なのに、天狗堂を訪ねた翌日は、朝から雨だったのです。
天狗堂とは、女将の両親(先代)が、2度の大きな災害に見舞われた沢渡温泉に、2度と災いのないようにと、温泉街を見下ろす裏山に建立したお堂です。
お堂の中には、摩訶不思議な天狗のお面が奉納されています。
※(天狗伝説についての詳しくは、当ブログの2010年4月23日付「沢渡温泉 龍鳴館」をお読みください)
今日も、前橋を発つときは篠突くような雨でしたが、沢渡温泉に着いたら、ピタリと止んでいたのです。
取材を終えて、また天狗堂の話になりました。
僕と女将が、不思議なお天狗様のお面の話をしていると、カメラマンのワタちゃんが 「ぜひ、見てみたい」 と言い出したのです。
女将も 「いいですよ。雨も止んだようですし、行ってみましょうか。ちょっと待っててくださいね。お堂のカギを持ってきますから」と言って、奥へ入って行ったとたん、外へ出ると、またポツポツと雨が降り出しました。
3人は傘をさして、共同浴場の脇を抜けて、裏山の坂道を登り出しました。
ますます、雨あしは激しくなっていきます。
お堂に着いた時には、山肌を滝のように雨水が流れ出していました。
「早めに、撮影を済ませましょう」
女将が、お堂のカギを開けて、天狗のお面を取り出します。
何度見ても、不思議なお面です。
※(天狗面については、同ブログ参照)
不思議なのは、面だけではありません。
裏山から下りて、旅館の玄関にたどり着いたときには、またピタリと雨が止んでいたのでした。
雨と汗でビッショリ濡れた体は、もちろん、そのまま「一浴玉の肌」といわれる極上の湯の中へ!
キーンと染み入る、コクのある浴感がたまりません。
3年前、「私の余生は湯守(ゆもり)です」と言って、定年退職後に実家へもどり、3代目の女将を継いで守り続けている湯であります。
「お湯とお天狗様を守るのが、私の仕事です」
そう言った女将の言葉が、今も心に響いています。