2021年04月07日
大きいことはいいことか?
世の中には、あまたと犯罪がありますが、僕には、どんなに魔が差しても絶対に犯さない自信のある犯罪があります。
「露出狂」 です。
露出狂とは、露出症を発症する性犯罪者のこと。
広辞苑によれば、【露出症】 にいて、こう記されています。
<自己の性器を他者に見せることによって性的快感を感ずる性的倒錯の一種。また、意識的・無意識的に他者から見られたり称賛されたりしたい傾向をもいう。>
ほらね、やっぱり、(男性ならば) 自分のイチモツに自信を持っている人が発症しやすい犯罪なんですよ。
少なくとも僕みたいに、コンプレックスを抱いている人は、間違っても、泥酔しても、絶対に見せませんって!
突然、なんでこんな話をしたのかというと、たまたま暇を持て余して読んでいた本に、興味深い描写が描かれていたからなんです。
漫画家のさくらももこさんのベストセラーエッセイ 『もものかんづめ』(集英社) に、ももこさんが露出狂と遭遇するシーンがあります。
<それにしても、あの露出狂の下部はとても印象に残った。両手で抱えて重そうに揺すっていたのを見た瞬間、大きめの焼イモかと思ったほどである。>
ほらね、凄いでしょう!
“両手で抱えて重そうに揺すっていた” のですよ。
また、ももこさんの比喩も素晴らしい!
“大きめの焼イモ” と、アート的な表現をされてます。
ありありと光景が浮かびます。
で、僕は30年以上も昔に、女友だちから聞いた露出狂の話を思い出しました。
ド近眼の彼女は、たまたま、その日、コンタクトレンズをせずに電車に乗ってしまったそうです。
車内は空いているのに、なぜか、彼女の席の前に、コート姿の男が立ったといいます。
しばらくすると、彼女は視界の中に、チラチラと赤い物体が揺れているのに気づきました。
「さて、なんだろう? タラコのようだけど、それにしては大きいなぁ~」
と不思議に思った瞬間、反射的に彼女の右手は、その大きなタラコをつかんでいたといいます。
「あんた! そんなモノ、触るんじゃないよ!」
と隣の席の婦人が大声を上げて、彼女の手を叩いてくれたおかげで、男は逃げ去り、事なきを得たとのことであります。
彼女いわく、「よく考えてみればさ、あんな大きなタラコを電車の中で袋にも入れずに、ぶら下げている人なんて、いないよね(笑)」。
ほーらね、ここでもキーワードは “大きい” なんですよ。
昭和の犯罪史に、こんな逸話が語り継がれています。
連続婦女暴行殺人鬼のOは、獄中で、常に看守に対して、下半身を露出していたといいます。
そして、その大きさは、ビール瓶にも匹敵するほどの超ビッグサイズだったといいます。
やっぱ、自信が犯罪を引き起こすんですね。
あー、良かった!
だって僕は、絶対に露出狂にならない自信がありますもの……(淋)
※珍しく下ネタを書いてしまいました。スミマセン m(__)m
2021年04月06日
「神社かみしばい」 4月口演
毎月、伊勢崎神社 (群馬県) で開催されている 「神社かみしば」。
伊勢崎市出身の壽ちんどん宣伝社 (茨城県土浦市) 座長、石原之壽(いしはらのことぶき)さんが、コロナ禍でも子どもたちに笑顔を届けようと、口演を続けています。
実は彼、僕の高校時代の同級生なのです。
きっかけは昨年の夏。
僕の著書 『民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん) を題材にした講演会を彼が聴講してくれました。
その後、意気投合し、オリジナルの紙芝居を制作することになりました。
そして誕生したのが、彼の地元、伊勢崎市を舞台とした 『いせさき宮子の浦島太郎』 です。
「落としたナタを取りに川に入った男が、竜宮城にたどり着いてしまう」 という話なのですが、誰も予期しないアッと驚く結末が待っています。
この話には、カメやタイやヒラメは出てきません。
玉手箱は出てきますが、煙は出ません。
みなさんが知っている浦島太郎の話と、どこが違うのか?
ぜひ、比較しながらご覧ください。
子どもも大人も楽しめる内容になっています。
当日、会場では、昔なつかしい駄菓子やおもちゃ、原作となった著書、イラストなどの販売もいたします。
たくさんの方のお越しをお待ちしています。
「神社かみしば」 4月口演
『いせさき宮子の浦島太郎』
作/小暮淳 (フリーライター)
画/須賀りす (画家・イラストレーター)
演/石原之壽 (壽ちんどん宣伝社・座長)
●日時 2021年4月11日(日) 5月30日(日)
10時、11時、12時、13時 ※悪天候の場合は中止
●会場 伊勢崎神社 境内 (群馬県伊勢崎市本町21-1)
●入場 無料 (投げ銭制)
●問合 壽ちんどん宣伝社 TEL.090-8109-0480
2021年04月05日
カエルの子はイモリかヤモリ
「その後、どう?」
「何が?」
「何がって、仕事だよ」
「ああ……」
「ああ、って?」
「ぼちぼち、かな」
「戻って来てるの?」
「少しはね」
先日、両親の三回忌法要がありまして、久しぶりに息子と顔を合わせました。
これは、その時の親子の会話です。
どっちが、どっちなのか?
はい、質問しているのが息子で、曖昧に答えているのが僕です。
昔から我が家は、そういう親子関係なのであります。
息子は高校、大学、就職と、迷い、つまずくことなく、スムーズに人生の駒を進めて生きています。
すでに結婚もして所帯を持ち、子どもも産まれ、家も建てました。
引きかえ僕は30歳まで無職で、結婚を機に勤めに出たものの、彼が生まれてすぐに会社を辞めてしまい、その後はフリーランスで文筆業を続けながら、家事と育児が副業という世間からは、かなりズレた生き方を続けてきました。
だから3人の子どもたち (特に長男) は、そんな好き勝手に生き、いつも不安定な生活をしている父親を反面教師として、すくすくと育ちました。
「大丈夫なの?」
「何が?」
「仕事が減っちゃって」
「なんとかなるんじゃないの」
「なんとかなるって、まるで他人ごとだな」
「今までだってなんとかなったんだから、これからもなんとかなるの!」
まあ、親子げんかとまではいきませんが、優等生な息子にイラつきを隠せません。
<オレに育てられて、よく、こんな子に育ったな>
と不思議です。
トンビがタカの子を産んだとは言いませんが、カエルの子ではなさそうです。
オオサンショウウオほど立派ではないので、まあ、イモリかヤモリといったところでしょうか……
ただ、無駄のない人生は、車の運転でいえば、遊び部分のないハンドルのようなものです。
親としては、ちょっぴり心配なのであります。
ま、そんなことを言えば、「心配なのは、お父さんのほうだよ」 と、ピシャリと言い返されてしまいそうですが。
コロナ禍は、親子関係も悲喜こもごもであります。
2021年04月03日
温泉考座 (79) 「残った源泉一軒宿(下)」
1300年以上も昔のこと。
白雉元(650)年、猟師が山中で全身真っ白な鹿に出合い、後を追いかけると突然、姿が消えて、そこから熱湯が湧き出した。
そして湯けむりの中に金色の薬師如来が現れ、「この地に湯を与え、人々の病苦を救い、長寿に効く霊場にしたい」 と告げた──。
これが鹿沢温泉 (嬬恋村) の始まりと伝わります。
ここもまた、取り残された一軒宿の温泉地です。
長野県東御(とうみ)市新張(みはり)から群馬県の地蔵峠を越えて、16キロほどのところにあります。
江戸末期から明治期にかけて置かれた100体の観音像が道の端に延々と並び、鹿沢温泉 「紅葉館」 前の百番観音像で終わります。
この道は 「湯道」 と呼ばれ、観音像は湯治場へ向かう旅人たちの安全祈願と道しるべを兼ねて立てられたものだといいます。
宿の創業は明治2(1869)年。
往時は10軒以上もの旅館があり、大変にぎわっていましたが、大正7(1918)年の大火で全戸が焼失してしまいました。
多くの旅館が再建をあきらめ、数軒は4キロほど下りた場所に引き湯をして、新鹿沢温泉を開きました。
しかし湯元の紅葉館だけは、この地に残り、現在まで湯を守り継いでいます。
源泉は、標高1,530メートルの高地に湧く温泉という意味を持つ 「雲井乃湯」。
湧出地が浴室よりも高い所にあるため、動力を使わずに自然流下によって湯を浴槽まで引き入れています。
泉温は約47度。
湯口に届くまでに2~3度下がるものの、かなり熱めの湯が存分に、かけ流されています。
「湯に手を加えるな、風呂の形を変えるな、と先祖から言われています」
と5代目主人の小林昭貴さん。
平成25(2013)年、老朽化のため本館が建て替えられましたが、浴室と浴槽は昔のまま残されています。
その豊富な湯量からすれば、もっと大きな湯舟や露天風呂を造ってもよさそうなものですが、代々続く湯元の宿として、かたくなに先祖からの教えを守り抜いています。
<2015年2月18日付>
2021年04月02日
四字熟語に例えるならば
実は僕、パズル作家なんです。
高崎市内に配布されている 「TAKATAI (タカタイ)」(高崎タイムス) というフリーペーパーに、2000年の2月から毎週金曜日に 「熟語パズル」 を連載しています。
今年で丸21年になります。
なんと、今まで掲載されたパズルの数は、今週号で961題!
思えば、温泉ライター歴よりパズル作家歴のほうが長いんですね。
なんでパズル作家になったのか?
あまりにも昔過ぎて、詳しい理由は忘れてしまいましたが、“ライター” ということで当時の担当編集者から話があったのだと思います。
まあ、ライターなんていう職業は、“使い捨て” ですからね。
仕事と聞けば、なんにでも飛び付くわけです。
温泉ライターになったのも、元は同じ理由です。
連載のきっかけとして、“温泉” というテーマに出合ったにすぎません。
だから、日の目を見ずに、はかなくも消えていったテーマなんて、掃いて捨てるほどあったのです。
その中で、残ったテーマたちに支えられて、今日まで “ライター” という職業を細々ながら続けてきました。
そんなことを考えていたら突然、波瀾万丈の人生が四字熟語となって、次から次へと飛び出してきました。
10代 疑心暗鬼
20代 天衣無縫
30代 切磋琢磨
40代 暗中模索
50代 無我夢中
さて、迎えた60代は?
“悠々自適” とは縁遠い人生ですが、せめて “自由闊達” に動き回りたいものです。
2021年04月01日
温泉考座 (78) 「残った源泉一軒宿(中)」
<母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? えゝ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ>
昭和52(1977)年、西条八十の詩の一節を引用した作家、森村誠一のベストセラー小説 『人間の証明』 が映画化され、舞台となった霧積温泉 (安中市) が一躍ブームとなりました。
「当時は、山道が渋滞するほどの混雑だった」 と3代目主人の佐藤敏行さん(故人)。
この霧積温泉の 「金湯館」 も取り残された一軒宿です。
創業は明治17(1884)年。
当時は旅館が5、6軒、別荘が約50棟も立ち並び、信越線が全線開通するまでは避暑地として軽井沢よりも栄えていたといいます。
伊藤博文や勝海舟、幸田露伴、与謝野晶子ら政治家や文人も訪れています。
ところが明治43年、未曾有の悲劇が温泉地を襲いました。
この年の大洪水で、山津波が一帯を襲い、金湯館ただ一軒が難を逃れました。
昭和初期まではランプだけの生活が続き、その後も水車やディーゼルエンジンによる自家発電での営業を続けてきました。
電話と電気が通じたのは、昭和56(1981)年のことです。
霧積温泉は、その昔、碓氷(うすい)温泉 「入之湯(いりのゆ)」 と呼ばれていました。
こんな話が伝わっています。
約800年前のこと。
霧積山中で傷を負った猟犬が水たまりに傷口をつけていたので、不思議に思った猟師が手を入れてみると、これが温泉だったといいます。
犬が発見した温泉として 「犬の湯」 と呼ばれていましたが、いつしか 「入りの湯」 と言われるようになり、現在では、霧の多い場所という意味で 「霧積」 と名を改めています。
代々守り継いできた源泉は約40度とぬるく、炭酸を含んでいるため全身に泡の粒が付くのが特徴。
泡の出る湯は骨の髄まで温まるといわれる通り、湯上りは、いつまでたっても体がポカポカと火照っています。
昭和30年代から主人の親族が1キロ下がった場所で旅館を開業していましたが、平成23(2011)年に廃業。
「金湯館」 は、また一軒宿になってしまいました。
<2015年2月11日付>