2017年10月13日
思い通りになることが多過ぎて
ニュースを見るたび、聞くたび、読むたびに、怒りが込み上げてきます。
今年6月に東名高速道路で起きた事故(?) のことです。
目の前で両親を亡くした姉妹が、不憫でなりません。
この子たちの未来に、幸多かれと願うばかりです。
今日の新聞によれば、容疑者の男は、この事故の1ヶ月前にも、一般道で同様の妨害行為を3件も起こしているっていうじゃありませんか!(許せん)
そもそも、自動車自体が走る凶器なのに、それを操作する人間が殺人鬼では、防ぎようがありませんって。
刃物を振り回して歩いている、通り魔と同じです。
刃物も自動車も、使いよう。
正しく使えば、こんな便利なものはありません。
でも……
自動車の運転って、本来は特殊技能なんですよね。
それが今では、誰も彼もが乗り回している。
不適正な人間までもが、“技術” のみだけで免許を取得して、路上を走っています。
精神面の適性検査はされずに。
世の中が便利になればなるほど、そのモノを使いこなせない人間も増えます。
この容疑者のような人間は、稀な存在なのかもしれません。
でも、危険な運転をしている人って、けっこういますよね。
便利になると、人間は我がままになるのかもしれません。
なんでもかんでも思い通りになると、ちょっとやそっとのことが許せなくなってしまう。
不便なことは我慢ができても、便利なことには我慢が効かなくなってしまうのかもしれません。
ケータイもスマホもカーナビも、しかりです。
ケータイがない頃は、待ち合わせに遅れても、会えなくても、みんな我慢してました。
スマホがない頃は、一生懸命にパソコンを覚えて、ネット検索していました。
カーナビがない頃は、前日から道路地図とにらめっこをして、行程を予習したものです。
かつて僕は自分の著書の中で、便利な世の中のことを、こんなふうに書いたことがあります。
<“便利” は、とてもいいことだ。便利な町は一見住みよさそうだ。(中略) 不便は、とても面倒臭いものだ。不便は人が手を一生懸命かけてあげないと、なかなか伝わらないものだ。だからコミュニケーションが必要になる。その逆で、便利に慣れてしまうと、人は手を抜くことをいつも考えるようになるだろう。> 『上毛カルテ』(上毛新聞社) 「いつか見ていた風景」 より
思い通りにならないことが多いほうが、人は人にやさしくなれると思うのです。
Posted by 小暮 淳 at 11:48│Comments(0)
│つれづれ