2018年03月07日
詩人の亡霊
東宮七男という詩人を、ご存知ですか?
東宮七男 (とうみや・かずお) 1897~1988 詩人。
勢多郡宮城村(前橋市) に生まれる。1915(大正4)年、群馬県師範学校(群馬大学) に入学し、翌年、萩原朔太郎の 「詩と音楽の会」 に参加。1920年同校を卒業し教職に就く。萩原恭次郎と縁戚関係にあり、その影響を受けて詩誌 『PETAN・PETAN』 を梅津錦一と刊行した。
<中略>
戦後、引き揚げて県同胞援護会に勤務し、一方で萩原朔太郎詩碑建設運動を興し、群馬ペンクラブの結成に取り組んだ。戦後の詩活動は豊田勇ら同世代詩人と 『ポエム』 『形成』 『果実』 を刊行し詩をはじめ詩論を発表した。詩集に 『魚鷹(みさご)』(1954) 『遍羅(べら)』(1972) 『空の花』(1987) があり、また郷土の詩人関係の評論に 『詩人萩原朔太郎』 『高橋元吉の人間』 ほかがある。
<中略>
戦後の県内文学運動進展に大きく貢献した詩人であり、その功績に対して詩碑が建設された。1978年11月に彫刻家高田博厚の設計により前橋市広瀬川河畔に建てられ、碑面には作品 「花なればこそ」 が刻まれている。
(「群馬新百科事典」より)
実は、東宮七男は僕の大叔父なのであります。
オヤジのオヤジ(祖父) の弟です。
大叔父は、甥っ子の中でも特別、僕のオヤジを可愛がっていました。
たぶん、同じアウトローのにおいがしたのだと思います。
オヤジも、そんな大叔父を尊敬して、したっていました。
だからオヤジは、僕やアニキにも、小さい頃から大叔父の話をしていました。
生涯、借家暮らしで貧乏だったこと。
それでも4人の子どもを立派に育てたこと。
何よりも、歴史に名を残した生き方を、いつも自慢していました。
ですから物心ついた頃から大叔父の存在は、僕にとっても “あこがれ” だったのです。
最後に大叔父に会ったのは、たぶん、アニキの結婚披露宴だったと思います。
僕は高校生で、余興でギターを弾いて、オリジナルソングを歌いました。
「いいよ、いいね。好きなことを思いっきりやりなさいね」
そう、声をかけてもらった記憶があります。
その言葉は、その後の人生の指針になりました。
そして今でも大叔父は、亡霊となって僕の前に現れ、心を突き動かしています。
亡霊……?
いえいえ、そんなおどろおどろしいものではありませんね。
いうなれば、守護神です。
「おじさん、間違ってないよね? これで、いいんだよね?」
心が折れそうになったとき、決まって僕は自転車を走らせます。
広瀬川河畔へ
上毛電鉄、中央前橋駅前に、大叔父の詩碑があります。
ただ、じっと詩を読み、在りし日の詩人に思いを寄せます。
すると、不思議、不思議。
それまでのモヤモヤが、ウソのように晴れて行くのです。
こうやって何十年と僕は、亡霊に助けられています。
Posted by 小暮 淳 at 14:59│Comments(0)
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