2020年08月15日
戦争を知っている温泉たち (上)
♪ 戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
(ジローズ 『戦争を知らない子供たち』 より)
今日は、「終戦記念日」 です。
戦後、75年が過ぎました。
ということは75歳未満の人は、みんな “戦争を知らない子供たち” であります。
もちろん、僕も……
新聞やテレビでは、“戦争を知らない子供たち” へ向けて、記憶が風化せぬよう特集記事や特別番組が組まれています。
そこで、ふと僕は思いました。
当時、戦時下の温泉地は、どのような状況だったのだろうか?
温泉を愛する者として、取材の中から拾った資料をもとに、少し紹介したいと思います。
昭和58(1983)年3月に発行された水上温泉 (みなかみ町) 旅館協同組合創立50周年記念誌 『みなかみ』 に、「戦時中の水上」 という項目があり、座談会の中で、前水上町長で元観光協会長の国峰勝治氏 (奥利根館社長) が語っている文章を引用いたします。
<昭和十六年の大東亜戦争の開戦間際までは、旅館業は物資がひっ迫してもどうにかやっていたんです。むしろ当時とすれば都会が非常に食糧事情が悪いために、田舎へ来れば白いご飯が食べられるというわけですね。なにしろこの地は越後に近いから、そんな事情もよく分かるんですよ。>
温泉地は田舎の中でも、さらに山深い里。
空襲の心配もなく、さほど変化はなかったようです。
逆に、戦争が功を奏した出来事もあったと、国峰氏は言います。
<私共としては、営業はそれほどやりにくくなかった。ただ酒も配給、何もかも配給になってしまって、その点に関しては困難なこともあったようですが、結構営業はできたようです。それと、これは私の父からの話なんですが、戦争になって逆に気が楽になったことは、旅館同士の建築競争ができなくなったことだそうです。全部統制になったから各旅館の建築が一斉に停止になってしまい、そのために建築競争もなく、従って旅館同士の過当競争がなくなったわけです。>
ただし、困ったこととして、供出 (民間の物資や食料などを政府に売り渡すこと) という名目で、旅館の布団や室内電話機を強制的に出すように言われたとも、語っています。
そして開戦から2年後の昭和18年夏頃からは、学童疎開の受け入れが始まります。
<育ち盛りの子供達だから、やはり食糧集めに苦労しましたね。配給ではとても足りないので、授業を教える先生と買い出し専門の先生に分かれてやっていましたね。毎日だから大変で、時々交代してしていました。>
<それと、薪(まき)がないので、天気の日には川原へくり出して生徒に流木を一本ずつ拾わせる、百人いれば百本集まるからなかなか集まりがよかったです。>
水上へは板橋 (東京都) の小学校の児童が来ていたようです。
記念誌には、各旅館の受け入れ人数なども、事細かに記されています。
学童疎開について、羽根田冨士雄氏 (菊富士ホテル社長) も、こんなエピソードを述べています。
<食料は毎日大豆入りのご飯と味噌汁、それに野菜が少しで、栄養失調にもなりかねない食事でした。ある日、渋川に葱(ねぎ)があるというので一〇〇人くらいつれて先生と一緒に渋川まで汽車で出て、さらに三、四〇分歩いて農家に行き、各生徒に葱を背負わせて帰ったこともあります。途中、敷島 (渋川市) で空襲にあいましてね、二時間も立ち往生しましたよ。>
<水上は温泉だから、疎開児童は毎日風呂に入るのですが洗濯するものがなく、それで虱(しらみ)がわいて、シャツをみるとまるで胡麻(ごま)をふりかけたほど虱がたかっていた生徒もおりました。まったく気の毒な話です。>
明日は、四万温泉 (中之条町) の戦時下のようすを紹介いたします。
Posted by 小暮 淳 at 12:17│Comments(0)
│温泉雑話