温泉ライター、小暮淳の公式ブログです。雑誌や新聞では書けなかったこぼれ話や講演会、セミナーなどのイベント情報および日常をつれづれなるままに公表しています。
プロフィール
小暮 淳
小暮 淳
こぐれ じゅん



1958年、群馬県前橋市生まれ。

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。

温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

群馬県温泉アドバイザー「フォローアップ研修会」講師(平成19年度)。

長野県温泉協会「研修会」講師(平成20年度)

NHK文化センター前橋教室「野外温泉講座」講師(平成21年度~現在)
NHK-FM前橋放送局「群馬は温泉パラダイス」パーソナリティー(平成23年度)

前橋カルチャーセンター「小暮淳と行く 湯けむり散歩」講師(平成22、24年度)

群馬テレビ「ニュースジャスト6」コメンテーター(平成24年度~27年)
群馬テレビ「ぐんまトリビア図鑑」スーパーバイザー(平成27年度~現在)

NPO法人「湯治乃邑(くに)」代表理事
群馬のブログポータルサイト「グンブロ」顧問
みなかみ温泉大使
中之条町観光大使
老神温泉大使
伊香保温泉大使
四万温泉大使
ぐんまの地酒大使
群馬県立歴史博物館「友の会」運営委員



著書に『ぐんまの源泉一軒宿』 『群馬の小さな温泉』 『あなたにも教えたい 四万温泉』 『みなかみ18湯〔上〕』 『みなかみ18湯〔下〕』 『新ぐんまの源泉一軒宿』 『尾瀬の里湯~老神片品11温泉』 『西上州の薬湯』『金銀名湯 伊香保温泉』 『ぐんまの里山 てくてく歩き』 『上毛カルテ』(以上、上毛新聞社)、『ぐんま謎学の旅~民話と伝説の舞台』(ちいきしんぶん)、『ヨー!サイゴン』(でくの房)、絵本『誕生日の夜』(よろずかわら版)などがある。

2020年08月15日

戦争を知っている温泉たち (上)


 ♪ 戦争が終わって 僕らは生まれた
   戦争を知らずに 僕らは育った
   おとなになって 歩きはじめる
   平和の歌を くちずさみながら
   僕らの名前を 覚えてほしい
   戦争を知らない 子供たちさ
    (ジローズ 『戦争を知らない子供たち』 より)


 今日は、「終戦記念日」 です。
 戦後、75年が過ぎました。
 ということは75歳未満の人は、みんな “戦争を知らない子供たち” であります。
 もちろん、僕も……

 新聞やテレビでは、“戦争を知らない子供たち” へ向けて、記憶が風化せぬよう特集記事や特別番組が組まれています。
 そこで、ふと僕は思いました。
 当時、戦時下の温泉地は、どのような状況だったのだろうか?

 温泉を愛する者として、取材の中から拾った資料をもとに、少し紹介したいと思います。


 昭和58(1983)年3月に発行された水上温泉 (みなかみ町) 旅館協同組合創立50周年記念誌 『みなかみ』 に、「戦時中の水上」 という項目があり、座談会の中で、前水上町長で元観光協会長の国峰勝治氏 (奥利根館社長) が語っている文章を引用いたします。

 <昭和十六年の大東亜戦争の開戦間際までは、旅館業は物資がひっ迫してもどうにかやっていたんです。むしろ当時とすれば都会が非常に食糧事情が悪いために、田舎へ来れば白いご飯が食べられるというわけですね。なにしろこの地は越後に近いから、そんな事情もよく分かるんですよ。>

 温泉地は田舎の中でも、さらに山深い里。
 空襲の心配もなく、さほど変化はなかったようです。
 逆に、戦争が功を奏した出来事もあったと、国峰氏は言います。

 <私共としては、営業はそれほどやりにくくなかった。ただ酒も配給、何もかも配給になってしまって、その点に関しては困難なこともあったようですが、結構営業はできたようです。それと、これは私の父からの話なんですが、戦争になって逆に気が楽になったことは、旅館同士の建築競争ができなくなったことだそうです。全部統制になったから各旅館の建築が一斉に停止になってしまい、そのために建築競争もなく、従って旅館同士の過当競争がなくなったわけです。>

 ただし、困ったこととして、供出 (民間の物資や食料などを政府に売り渡すこと) という名目で、旅館の布団や室内電話機を強制的に出すように言われたとも、語っています。
 そして開戦から2年後の昭和18年夏頃からは、学童疎開の受け入れが始まります。

 <育ち盛りの子供達だから、やはり食糧集めに苦労しましたね。配給ではとても足りないので、授業を教える先生と買い出し専門の先生に分かれてやっていましたね。毎日だから大変で、時々交代してしていました。>
 <それと、薪(まき)がないので、天気の日には川原へくり出して生徒に流木を一本ずつ拾わせる、百人いれば百本集まるからなかなか集まりがよかったです。>

 水上へは板橋 (東京都) の小学校の児童が来ていたようです。
 記念誌には、各旅館の受け入れ人数なども、事細かに記されています。


 学童疎開について、羽根田冨士雄氏 (菊富士ホテル社長) も、こんなエピソードを述べています。

 <食料は毎日大豆入りのご飯と味噌汁、それに野菜が少しで、栄養失調にもなりかねない食事でした。ある日、渋川に葱(ねぎ)があるというので一〇〇人くらいつれて先生と一緒に渋川まで汽車で出て、さらに三、四〇分歩いて農家に行き、各生徒に葱を背負わせて帰ったこともあります。途中、敷島 (渋川市) で空襲にあいましてね、二時間も立ち往生しましたよ。>
 <水上は温泉だから、疎開児童は毎日風呂に入るのですが洗濯するものがなく、それで虱(しらみ)がわいて、シャツをみるとまるで胡麻(ごま)をふりかけたほど虱がたかっていた生徒もおりました。まったく気の毒な話です。>


 明日は、四万温泉 (中之条町) の戦時下のようすを紹介いたします。
 

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Posted by 小暮 淳 at 12:17│Comments(0)温泉雑話
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