2020年08月16日
戦争を知っている温泉たち (下)
戦時下の温泉地とは、どのような状況だったのでしょうか?
昭和52(1977)年に四万温泉協会(中之条町) が発行した 『四万温泉史』 の中に 「戦時下の四万」 という項目がありますので、引用し、紹介します。
<昭和十七(1942)年八月四日、東条首相が沢田村(現・中之条町) 奥反下(おくたんげ) の炭焼く部落を訪問した。上沢渡製炭現場まで、車をおりて約二キロの山路をのぼり組合の長老飯塚金十郎さんを先頭に十八人を激励した。その夜は四万温泉積善館の山荘にとまった。>
とあります。
その時の様子は、関怒涛著 『風雪三十年』(西毛新聞) の中にも、こう記されています。
<(前略) 知事はかけつける。それ出迎え、歓迎準備など大騒ぎである中に自動車でのりつける。(中略) 首相は軍服、随行の人たちと、前橋から駈けつけた報道陣の人たちも上衣を脱ぐわけにはいかない。ぐっしょり汗にまみれてる。>
とユーモラスに伝えています。
この時、首相は、このように激励の訓示を述べています。
「わが国は今、のるかそるかの大戦争を戦っている。このとき人里離れた山奥で、人知れず苦労をつづけ、不平もぜいたくも言わず努力していることに対し、まことに感謝のほかない。諸君の奮斗に対し、政府も国民も感謝している。(後略)」
では、なぜ東条首相は、群馬の山奥まで、来られたのでしょうか?
その理由については、同じ中之条町の沢渡温泉組合が平成20(2008)年に発行した 『沢渡温泉史』 に詳しく書かれています。
●戦時下の沢渡 「東条英機首相の来村」 より
<開戦の当初十二月八日、ハワイ真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を奇襲して勝利をおさめてその後、マレー沖海戦でもアメリカ海軍に打撃を与えた。日本は南太平洋に戦場を拡大して行った。日本の生産力は、年次を重ねる毎に低下し、軍需品の生産に重点を置いた政府は、戦いを進めながら増産に力を入れている。>
<戦いのため、軍需産業の原料である金属類が不足してきたため、国民に対して金属類の供出を求め、寺の釣鐘までその対象となった。吾妻郡六合(くに)村(現・中之条町) の群馬鉄山の鉄鉱石を川崎重工まで運搬することになった。そのため早急に鉄道が敷設されたのが吾妻線である。製鉄のために木炭が必要であり、昭和十七年八月東条英機首相が、反下の製炭現場を増産激励に来村している。>
このとき、県道では沢田小学校の生徒たちが校門前に整列して迎えたといいます。
そして首相は現地で激励の後、天皇陛下万歳を村人たちと共に三唱しました。
その後、戦争の激化とともに、食糧不足と戦災による被害から子供たちを守るため、都市の児童を地方に疎開される動きが活発化します。
両温泉史によれば、四万温泉は滝野川区(旧東京府東京市35区の1つ、現在の北区南部) の滝野川第五小学校、沢渡温泉は田端新町国民学校(現・東京都北区) の児童を疎開先として受け入れました。
終戦から75年の夏、少しだけ温泉地の戦時下のようすを紐解いてみました。
みなさんは、どう感じられたでしょうか?
Posted by 小暮 淳 at 11:33│Comments(0)
│温泉雑話