2022年05月08日
生原稿のゆくえ
《日本語の入力アルファベットでし》
ある日の新聞、投稿欄で目に留まった川柳です。
その通り!
よく言ってくれました。
常々、気になっていたことなのに、気にしないふりをしていた数十年。
ハッキリと、言葉に出して言ってくれる人がいたのですね。
ありがとうございます。
僕が、この業界で仕事を始めた35年前は、当然、記者が書く原稿は、すべて手書きでした。
“原稿用紙” であります。
その原稿用紙のマス目に文字を埋める作業にあこがれて、僕は雑誌の記者になりました。
手書き原稿の魅力は、追記の跡が残ることです。
推こう、校正を重ねると、用紙は添削で真っ赤になりました。
それでも追加や削除した表現は残っていますから、「やっぱり前の方が良かった」 と思った時に、元に戻すことができます。
それが、今は、どうでしょうか?
パソコンの画面上での執筆は、削除や挿入が便利になった分、跡が残りません。
「あっ、消しちゃった!」 「前の方が良かったけど、なんて書いたんだっけ?」
そんなアクシデントは茶飯です。
閑話休題
前述の川柳です。
みなさんはパソコンの入力は、ローマ字派ですか? 仮名派ですか?
たぶん、圧倒的にローマ字派の人が多いはずです。
でも僕は違います。
仮名派というよりは、“ひらがな入力” しかできません!
そのココロは、日本語の文章をつむいでいるからです。
ちょうど30年前、僕は雑誌社を辞めて、フリーランスのライターになりました。
まだ、その頃は原稿用紙に記事を書いて、ファツクスで送っていました。
ある日のこと、新しい仕事の依頼が来ました。
ただし、条件付きでした。
「原稿用紙での入稿不可」
時代は少しずつ変わり始めていました。
それまでは原稿用紙で入稿した場合、オペレーターが文章をワープロに打ち直していました。
その手間を省き、直接、ライターにデータ入稿させる制作方法に変わり始めていたのです。
「フロッピーでのデータ入稿のみ可」
と言われてしまいました。
思案のしどころでした。
時代に逆らって、頑固に原稿用紙一本で勝負をするのか?
でも、はたして自分に、そんな才能があるのか?
悩んだ末、時流に乗ることにしました。
独立記念に設備投資として、最新のワープロを購入することにしました。
なんと! 当時は20万円もしました。
まず最初に始めたのが、“指の練習” です。
過去に雑誌に掲載された自分のエッセイを、ひと夏かけて、すべて打ち込みました。
もちろん、仮名打ちです。
(のちに 『上毛カルテ』 と題して出版されました)
日本語で文章を書くのですから、平仮名で打ち込むのが当然のことでした。
川柳が指摘するように、アルファベットで打つなんてことは考えてもみませんでした。
あれから30年。
このブログも仮名で書いています。
今となれば、仮名打ちで覚えて良かったと思っています。
だって、アルファベットより断然、速いですよ!
たとえば、「小暮」 と打ってみてください。
アルファベットだと 「KOGURE」 と6文字入力ですが、仮名なら 「こぐれ」 と3文字です。
(濁点があるので4打ではありますが)
それでも、やっぱり手書き原稿の魅力には敵いません。
名入りの原稿用紙に、万年筆で執筆……
文豪を気取って、さらさらと手を動かしている姿に憧れます。
今の作家は、かわいそうですね。
没後、記念館ができても、手書きの生原稿が無いのですから。
いったい、何を展示するのでしょうか?
初版本と愛用したパソコンでしょうか?
一介のライターが心配することではないでしょうが、とても気になるのであります。
2022年05月07日
ぐんま湯けむり浪漫 (4) 川場温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
川場温泉 (川場村)
「脚気川場」 といわれるゆえん
川場温泉の開湯は定かではないが、こんな発見伝説がある。
昔、川場の村は水不足に苦しんでいた。
ある日のこと、老婆が洗い物をしていると、一人の坊さんが訪ねて来て、言った。
「水を一杯、くださるまいか」
しかし、飲み水は遠い沢から汲んで来なければならない。
それでも老婆は、困っている坊さんを放っておけず、わざわざ沢まで行って、水を汲んで来てあげた。
「ばあさん、このあたりは水が不自由なのか?」
「はい、水もさることながら、もし、お湯が湧いたらどんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」
「なるほど」
と、うまそうに水を飲み終えた坊さんは、やがて持っていた杖の先で大地を突いた。
すると不思議なことに、そこから湯煙が上がり、こんこんと湯が湧き出したという。
この坊さんが弘法大師 (空海) だと知った村人たちは、湧き出る湯に 「弘法の湯」 と名付け、尊像を安置した弘法大師堂を祀った。
これが昔から 「脚気川場」 といわれるゆえんである。
龍の彫刻が美しい湯前薬師堂
武尊(ほたか)神社は、享保3(1718)年に薬師如来を祀る川場温泉の湯前薬師堂として建てられた。
屋根は銅板ぶき入り母屋造りで、三間四面造りの勾欄(こうらん)=(反り曲がった欄干) を四面に回した堂造り。
千鳥破風(ちどりはふ)=(屋根の斜面に取り付けた三角形の装飾板) の正面に、向拝(ごはい)=(張り出したひさし) は唐破風(からはふ)=(曲線上の装飾板) 付きという変わった構造の建築様式である。
社殿の内外部に施された木彫は見ごたえがあり、特に向拝の紅梁(こうりょう)=(反り返った化粧梁) に絡みつくように掘られた龍の彫刻は、精緻かつ華麗で、息をのむほどに美しい。
建築装飾という枠を超えて、彫刻そのものとしての価値が高く評価されている芸術品である。
宝暦5(1755)年に修復が行われ、享和4(1804)年に現在の本殿が完成した。
源泉は今でも神社のすぐ脇に湧いている。
その湯は無色透明で、ほのかに硫黄 (硫化水素) の匂いがする。
脚気患者が少なくなった現代では、神経痛やリウマチ、腰痛、関節の痛みに効き目があるといわれている。
<2017年9月号>
2022年05月06日
もう一つの悠々自適
僕は車で出かけると時々、ぷらりと立ち寄る先があります。
そこは個人のお宅なのですが、たった一人で仕事をしている先輩の工房です。
その人は僕よりは2、3歳年上で、かれこれ40年近い付き合いになります。
物静かな性格で、常に平常心で、声を荒げることもなく、坦々と仕事をこなす、“ザ・職人” といったタイプの人です。
僕は今までに、何度その人に人生を救っていただいたことか……
苦しい時、迷った時、僕の体は自然と彼の工房へ向かいます。
でも、最近は、ただ単に、ぷらりと立ち寄ることが多くなりました。
工房の前の道を通り、彼のトラックがあるのを確認すると、僕はウインカーを左に出します。
「ジュンちゃんが来ると、すぐに車の音で分かるよ」
「オンボロで、すみません」
いつも、そんな風に迎えられ、冬ならばストーブの上のやかんの中で缶コーヒーを温めてくれます。
話は、決まって取り留めのない貧乏話です。
お互い組織に馴染めず、一匹狼で生きて来た代償として、“貧乏神” にとりつかれた人生を、まるで自慢するように面白おかしく話すのです。
すると、スーッと肩の力が抜け、「これでいいんだ」 「間違っていないんだ」 と、毎度、生きる勇気をもらいます。
今週、ぷらりと寄った時のこと。
同級生はみんな定年退職して、退職金と年金を手に入れ、悠々自適の生活をしていることへの愚痴話で盛り上がりました。
「俺たちには、定年なんて無いものな」
「仕事辞めたら、即、死んじゃうし。死ぬまで働き続けるしかないもの」
「ああ、うらやましい~! 金に困らない悠々自適の生活!」
そう、いつものように僕が貧乏を卑下した時でした。
ところが、いつもなら同意する先輩が、ポツリと、こんなことを言ったのです。
「考えようによっちゃ、俺たちみたいなのが悠々自適って言うのかもしれないよ」
「えっ、この俺たちがですか?」
「うん、金は無いけど、ストレスも無い。誰に左右されることもなく、自分のペースで好き勝手に生きているんだから、これこそが悠々自適っていうやつかもよ」
ガーーーーーン!!
まさにドリフターズのコントです。
頭の上に洗面器が落ちてきました。
考えてみたこともありませんでした。
だって、この僕の人生が “悠々自適” だなんて!
ついでに、目からウロコも落ちました。
【悠悠自適】
<俗世を離れ、自分の欲するままに心静かに生活すること。「悠悠」 は、ゆっくりと落ち着いているさま。「自適」 は、何物にも束縛されず、心のままに楽しむさま。>
(岩波書店 「四字熟語辞典」 より)
確かに、辞書によれば、精神的な豊かさの状態であり、経済的な豊かさには触れていません。
つい僕らは、「悠々自適」 と聞くと、定年後の何不自由なく暮らしている生活をイメージしてしまいますが、そうじゃないんですね。
心の問題だったのです。
先輩、ありがとうございます。
これで迷うことなく僕も、悠々自適に生きていけます!
2022年05月05日
エイ舞う形の群馬県
「つる舞う形の群馬県」
と言えば、群馬県民なら誰でも知っている郷土玩具 『上毛かるた』 の 「つ」 の札。
そして、『上毛かるた』 の札の中でも最も有名な札ではないかと思います。
確か競技会では、同点の場合は、この札を取ったチームの方が勝者となるルールでした。
それほどの肝になる札であります。
ので、群馬県民は、幼少の頃から何の疑いを抱かずに育ってしまいました。
そう、群馬県は 「鶴の形をしているんだ」 と……
ところが他県民に言わせると、
「どこが鶴やねん!」 (なぜか関西弁)
と突っ込まれます。
言われてみて、改めて地図で群馬県の形を見てみると……
鶴と言われれば鶴ですが、白鳥と言えば白鳥だし、鴨と言われれば鴨のようにも見えます。
いったい、いつ、誰が、「鶴」 に見立てたんでしょうか?
と思っていたら先日、興味深い新聞記事を見つけました。
《県の形の例え 昔は 「エイ」 》
<本県の形の例えに、魚のエイが持ち出された時期があった。NPO法人 「日本郷土かるた協会」 の山口幸男理事長によると、1883~1914年版の県統計書には 「海鷂魚(かいようぎょ) (エイ)」 に似ているとある。>
(2022年5月2日付 読売新聞群馬版より)
なぜ、海なし県なのに魚類の発想があったのでしょうか?
山口理事長は、こう推測します。
<明治初期の県上層部にはエイが身近な西日本出身者が多かったため>
そう言われて、改めて群馬県の地図を見てみると……
うん、うん、見えます!
それも鶴とは逆向きに泳ぐ、エイの姿に見えます。
いわゆる鶴の首 (東毛地区) が、エイでは尾になるわけです。
では、なぜ、「エイ舞う形の群馬県」 にならなかったのか?
山口理事長は、こう推測します。
<県内の学校は明治初期から 「県は鶴の形」 と教えてきており、山口理事長は、県内出身者が県政の中心を担うようになり 「鶴」 に変わったとみる。>
いや~、「鶴」 で良かった!
そのまま西日本出身者が上層部に居残っていたら、「つ」 の札は別の札になり、「え」 の札の 「縁起だるまの少林山」 は無く、代わりに 「エイ舞う形の群馬県」 になっていたのですからね。
待てよ……
ていうか、エイも鶴も群馬には棲息していませんって!
もっと群馬らしい動物に例えた方が良かったんじゃありません?
同じ鳥でも、県の鳥 「ヤマドリ」 とか?
でも、もはや手遅れです。
僕らの脳には、しっかり “つる舞う形” として、すり込まれていますものね。
悲しい群馬県民の性(さが)であります。
2022年05月04日
目に染みたか! 身に染みたか! 心に染みたか!
驚きの2.6倍!
何のことかって?
昨日、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された創作落語披露会の抽選倍率です。
すでに、このブログでも締め切り日を待たずに応募が定員を超えたことを報告しましたが、その倍率が2.6倍だったということです。
※(当ブログの2022年4月17日 「おかげさまで定員を超えました!」 参照)
定員100名の募集に対して、260名の応募がありました。
よって、160名の方が抽選にもれてしまいました。
これに対して、演者の都家前橋 (みやこや・ぜんきょう) 氏は、「一人でも多くの人に新作落語を聴いてほしい」 と会場側に直談判し、追加披露会が今月15日に行われることになりました。
でも、これまた定員は100名です。
誠に残念ながら、残り60名の方は会場に来れません。
申し訳ありませんが、後日のYouTube配信をお待ちください。
さてさて、では、なぜ、こんなにも注目されたのでしょうか?
現在、県立土屋文明記念文学館では、企画展 『落語と文学』 が開催中です。
会期中、4回の落語会が開催されます。
うち3回は、プロの落語家さんです。
が、一日だけ、アマチュアの落語家の出演が決まっていました。
それも創作落語で新作という条件付き。
その白羽の矢が当たったのが、前橋市在住の噺家、都家前橋氏だったのです。
前橋氏と僕は、すでに昨年 『末期の酒』 という創作落語を発表しています。
そこで今回は、同じく前橋市在住の絵本作家、野村たかあき先生の創作紙芝居 『焼きまんじゅうろう 旅すがた』 を落語にして披露することになりました。
すると!
話題騒然!
“焼きまんじゅうがヒーローに!”
“群馬のニューヒーロー誕生!”
と新聞各紙が書き立てたのであります。
そして迎えた当日、満席の会場には新聞・テレビの取材陣の姿もあり、大盛況に終わりました。
演題は 『焼きまんじゅうろう旅姿~玉村宿の決闘』。
ご存じ、渡世人の焼きまんじゅうろうが、悪党たちをバッタバッタと倒していきます。
必殺技は、「あまから剣法みそだれ返し」。
そして、決めゼリフは、そう、あの名言です。
「目に染みたか! 身に染みたか! 心に染みたか!」
紙芝居なら10分弱の話ですが、前橋氏は40分の大作に仕上げました。
お見事!
ぜひ、YouTubeでの公開を楽しみにお待ちください。
第115回企画展 『落語と文学』
●会期/2022年4月16日(土)~6月12日(日)
●時間/9時30分~17時
●休館/火曜日 (5月9日休館)
●料金/一般410円、大高生200円
●問合/群馬県立土屋文明記念文学館 (高崎市保渡田町2000)
TEL.027-373-7721
2022年05月03日
ぐんま湯けむり浪漫 (3) 野栗沢温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
野栗沢温泉 (上野村)
霊験あらたかな 「子宝の湯」
群馬県最南端の村、上野村。
国道299号から神流川沿いに村道を南下し、さらに支流の野栗沢川を行くと、やがて前方のV字谷の底に一軒の宿が見えてくる。
宿を過ぎて、さらに上流を500メートルほど進むと、分校跡を示す石碑が立っている。
かつて、ここには上野村立東小学校野栗沢分校があり、通称 「すりばち分校」 と呼ばれていた。
昭和23(1948)年から24年間、この分校に代用教員として赴任した山田修先生の奮闘記は、NHKのラジオドラマにもなり、幾多の著書とともに 「すりばち分校」 の名は全国に広まった。
現在、校舎は取り壊されてしまったが、跡地に建てられた集会所には、当時の教室が再現され、教材や資料などが展示されている。
昭和58(1983)年、山田先生の教え子である黒沢武久さん (故人) は、全国から 「すりばち分校」 へやって来る人たちのためにと、山から温泉を引いて旅館 「すりばち荘」 を開業した。
「この水を飲んでみろ! 絶対に二日酔いしないから」
と、最初に泊まった晩に主人に勧められて飲んだ温泉は、かなり塩辛い高濃度の塩化物泉。
地元では 「子宝の湯」 と呼ばれ、子どもが授からない女性に飲ませると、たちまち妊娠したと伝わる “魔法の水” だった。
全国からやって来る湯治客
上野村には、昔から夏になると青い鳥が飛来していた。
遠く東南アジアの限られた地域に分布する、緑色の羽を持つ 「アオバト」 である。
海水を飲むことで知られ、日本では北海道~四国、伊豆七島などで繁殖し、積雪のない温暖地で冬を越す。
ここ上野村には5~10月の半年間、約3千羽がやって来る。
野栗沢の人たちは、山奥の巨石の間から湧き出る泉の水を飲みに、青い鳥がやって来ることを知っていた。
産後の肥立ちが悪い婦人に、この鳥の肉を食べさせると、見る見るうちに回復したという。
また、泉の水を飲みながら農作業をすると、疲れを知らずに仕事がはかどるということで、大変珍重されてきた。
旅館の開業以来、温泉の数々の効能が知れ渡り、全国から湯治客が訪れるようになった。
水を持ち帰った人たちからは、痛風やアトピーなどの皮膚炎が治ったとの感謝を伝えるお礼の手紙やファックスが多く寄せられている。
「本当に不思議な水なんだよ。ウルシのかぶれやハチ刺されなんて、この水を塗るだけで治っちまうんだから」
と、主人は得意気に話す。
この源泉で地粉を練り、主人が手で打つ 「すりばちうどん」 は、上野村特産の 「イノブタ鍋」 とともに宿の名物料理である。
<2017年8月号>
2022年05月02日
BOSAN ~令和の今を伝えに~
令和元年5月1日 午前3時43分
オフクロが逝去した日時です。
まるでバッテリーが切れるように、眠ったままの静かな旅立ちでした。
享年、91年と11ヶ月。
92歳の誕生日の目前でしたが、しっかりと新しい時代の夜明けを見てからの旅立ちでした。
「老衰って、本当にあるんだ」
と感心した瞬間でもありました。
昨日は、そんなオフクロの3回目の命日でした。
午後、雨の降りしきる中、赤城山中腹の霊園へと車を走らせました。
広い駐車場に、車は数台。
彼岸ならば店を出している花屋もありません。
雨に煙る霊園には、人影はありません。
ところが、墓石の前まで来て、ビックリ!
花がいっぱいです。
4つある花立ては、すべて満杯。
「はて、誰がこんなにも?」
たぶん、アニキは朝一番で来ていることでしょう。
でも、あとは……娘か、息子か?
それにしては、メール一本ありません。
いつもなら 「おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ってきたよ」 と連絡を寄こすのに……
無理やり隙間に花をねじ込み、手を合わせました。
「オフクロ、久しぶり! オヤジと仲良くやってるかい?」
オヤジは同じ年の2月に鬼籍に入りました。
あの時、「いくら仲がいいからって、すぐにオヤジを追いかけるなよ」 とオフクロに言うと、「オリンピックを見てから逝くって、お父さんには話してあるから」 っていたのにね。
新しい元号が発表された時は、「お父さんと迎えたかったな」 とポツリ。
大正生まれのオヤジに、4つ目の時代を生きさせてあげたかったようです。
「オフクロ、令和っていう時代は、幕開け早々、大変な時代になっているんだよ」
コロナが依然、収束しないこと。
ロシアとウクライナの戦争が始まったこと。
新しいところでは、知床半島沖で観光船が沈没して、たくさんの死者と行方不明者が出ていることなどを話して聞かせました。
「えっ、何? オレの今かい?」
今年に入り、紀伊國屋書店で著書フェアが開催されたこと。
次女が大学を卒業して、今春から家を出て、一人暮らしを始めたことを伝えました。
なんだか、不思議なんです。
オフクロが生きていた頃よりも僕のマザコンは、ひどくなっているような気がします。
「こんなとき、オフクロならば、こう言ってくれるのに」
なんて、ついつい現実逃避をしている自分がいます。
生前、オフクロは僕が挫折するたびに、こう言ってくれました。
「お前の生き方は、間違ってないよ。また徳を積んだね」
依然、“徳” の意味が分からない僕ですが、オフクロが喜んでくれるのなら、この生き方を続けようと思います。
「オフクロ、行ってみるよ。今度来るのは、お盆かな。じゃあ、また」
雨足は来た時よりも強くなっていました。
相変わらず、霊園には人っ子一人いません。
僕は水桶を返して、駐車場への石段を上りました。
2022年05月01日
白い糸の伝説
《人は生まれながら 赤い糸で結ばれている
そして いつかは その糸をたどって めぐり会う
しかし その糸は 細くて 弱い》
(NSP 「赤い糸の伝説」 より)
“赤い糸” といえば、それは、運命的な恋の相手との出会いのこと。
その相手とは、小指と小指が見えない糸で結ばれているそうです。
なーんて、若い頃は、理想の相手を夢見ていたものです。
でもね、そんなロマンチックなものじゃ、ありませんって!(笑)
たとえ結ばれていたとしても、引っ張れば切れちゃうし、グチャグチャに絡まるし、気が付いたら色が変わっていたりしますからね。
“あばたもえくぼ” で、本当は黒い糸が赤く見えていただけなのかもしれません。
閑話休題
実は先日、呑み屋のカウンターで常連客らと、ひょんなことから 「白い糸」 の話になりました。
話の発端は、こんな感じです。
「夜泣き、疳(かん)の虫、宇津救命丸」
「なに、それ?」
と比較的若い客。
「昔の薬のコマーシャルだよ」
すると年配の客が、
「あったね、子どもに飲ませる薬」
「夜泣きは分かるけど、疳の虫って何?」
「疳の虫、知らないの?」
「いや、聞いたことはあるけど、見たことはありません」
すると、
「見たことあるよ」 「俺も見た」 「私もある」
そして、誰かが、
「昔、出して遊んだよな?」
と言えば、
「遊んだ!」 「やった!」 「出した!」
と、大いに盛り上がりました。
疳の虫とは、いわゆる赤ちゃんの 「ぐずり」 のこと。
昔は原因が分からなかったので、赤ちゃんや小さな子の体の中には、疳の虫がいると信じられていたのです。
だから、どこの町にも、ちょっと、うさん臭い 「まじない師」 がいて、「虫切り」 「虫封じ」 「疳封じ」 なんていう儀式が行われていました。
その時に用いられたのが、“塩” でした。
「手に塩をすり込んでな」
「そうそう、するとニョロニョロって」
「ええ~、何が出て来るの?」
「糸だよ、白い糸」
「そう、それが疳の虫の正体なんだよ」
でも、あれって、何だったのでしょうか?
白い糸の正体って?
ということで、この歳になっても僕の体の中に疳の虫がいるのか、実験してみることにしました。
やり方なら覚えています。
①まず石けんで、よく手を洗う。
➁両手に適量の塩を塗り、よく揉む。
➂きれいに塩を洗い流し、タオルで水分を拭きとる。
④親指を中に入れて、両手を強く握る。
⑤そのまま約3分待つ。
⑥両手をゆっくりと広げる。
すると不思議や不思議、両手の指の先からニョロニョロと白くて細い糸のような物が、揺れているではありませんか!
長いものでは1~2cmほどありました。
というのは、子どもの頃の話です。
今回、同じようにやってみましたが、僕の手の指先からは、何も現れませんでした。
大人になって、疳の虫もどこかへ行ってしまったようです。
ぜひ、みなさんも挑戦してみてください。
もしかすると、まだ疳の虫が棲んでいるかもしれませんよ?
え、疳の虫じゃなくて、そりゃ、「癇癪(かんしゃく)の虫」 だって!?
お後が、よろしいようで……