2022年05月25日
ぐんま湯けむり浪漫 (7) 川原湯温泉
このカテゴリーでは、2017年5月~2020年4月まで 「グラフぐんま」 (企画/群馬県 編集・発行/上毛新聞社) に連載された 『温泉ライター小暮淳のぐんま湯けむり浪漫』(全27話) を不定期にて掲載しています。
※名称、肩書等は連載当時のまま。一部、加筆訂正をしています。
川原湯温泉 (長野原町)
頼朝が見つけた草津のあがり湯
毎年1月20日の午前5時。
極寒の中、紅白に分かれたふんどし姿の若衆が湯を掛け合う奇祭 「湯かけ祭り」。
湯の神に感謝するこのユニークな行事には、こんないわれがある。
昔、温泉が出なくなってしまい、村人たちは困り果てていた。
ある日、村人の一人が温泉のにおいをかぐと、卵をゆでたにおいがしたため、ニワトリを生贄(いけにえ)にして祈願したところ、温泉が湧いたという。
湯が再び出てきたので、村人たちは 「お湯が湧いた。お湯が湧いた」 と言って喜んでいたが、やがて 「お祝いだ、お祝いだ」 と言い合い、みんなで湯を掛け合うようになった。
開湯は古く、800年以上前。
建久4(1193)年年4月17日、源頼朝が浅間山に狩りに来た帰り際に、この地を通り、発見したと伝わる。
その時、頼朝は草津の強い酸性の湯で肌にただれを起こしていたが、川原湯の優して湯につかり、完治したことから 「草津のあがり湯」 と呼ばれるようになった。
江戸時代には旅館もでき、湯治場として栄えた。
食料品などを携帯して、長期滞在する客が多かったという。
松尾芭蕉や若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、土屋文明など文人らが訪れ、近くには画家や作家の別荘も多く、文化の薫り高い温泉街となった。
湖を見渡す新天地に未来を託して
昭和27(1952)年、のどかな温泉街に突然、八ッ場(やんば)ダム建設の計画が持ち上がった。
いったんは中止となったが、同40(1965)年に国は計画を再開。
ダムの高さ131メートル、供給水量は毎秒16トン (当時発表)。
洪水を調節し、首都圏の生活・工業用水をまかなうというもので、全国的に見ても大型のダム計画だった。
水没予定地区は5地区合計で340世帯にのぼり、うち川原湯地区は約3分の2を占めていた。
計画から60余年。
八ッ場ダム完成まで、あと2年となった。
紆余曲折の長い闘争と翻弄の日々が終わろうとしている。
旧温泉街を見下ろす山腹の代替地には、鉄道の駅舎ができ、橋が渡り、道路が通った。
共同浴場の 「王湯」 をはじめ、すでに5軒の温泉宿が移転している。
まだまだ温泉街と呼ぶには殺風景だが、一歩また一歩と湯の町風情を取り戻しつつある。
「湯かけ祭り」 も、3年前から新天地に会場を移して開催されている。
「以前の温泉街に比べると、ここは標高600メートルの高台です。風をさえぎる物がなく吹きさらしなので、気温はマイナス10度以下になります。ふんどしが凍りつく寒さです」
と笑う、川原湯温泉協会長の樋田省三さん。
“旧七軒” と呼ばれる老舗旅館の5代目でもある。
「次世代を担う若い後継者が、帰って来ています。私たちは過去を引きずっていますが、彼らには未来しかない。新しい川原湯温泉に期待しています」
3年もすると、旧七軒がそろうという。
昔から神経痛やリウマチに効用があるといわれてきた奥上州の名湯である。
浴衣姿の湯治客が通りを行きかう、かつてのにぎわいを取り戻してほしい。
<2018年1月号>
※八ッ場ダムは令和2(2020)年4月1日より運用を開始しました。ダム湖は 「八ッ場あがつま湖」 と命名されました。
Posted by 小暮 淳 at 10:23│Comments(2)
│湯けむり浪漫
この記事へのコメント
昔、いつだったか、温もりの宿 高田屋さんという宿に泊まり、砂風呂(蒸し風呂)と貸切風呂の記憶だけあります。まだ、全然泉質など気にしていなかった頃です。数年後に、廃業してしまいました。
Posted by みわっち at 2022年05月31日 13:48
みわっちさんへ
高田屋さんのご主人は、同じ中学の後輩でした。
廃業後、バッタリ、取材先で会ったことがありました。
違う職業に就いてましたが、元気そうでした。
また再建したいようなことも言っていたような……
代替地での再会を待ってま~す!
高田屋さんのご主人は、同じ中学の後輩でした。
廃業後、バッタリ、取材先で会ったことがありました。
違う職業に就いてましたが、元気そうでした。
また再建したいようなことも言っていたような……
代替地での再会を待ってま~す!
Posted by 小暮 淳
at 2022年05月31日 18:19
